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大森靖子の「マジックミラー」について

 大晦日なので、今年の自分の音楽の再生回数を眺めていたら、今年一番聞いた曲は大森靖子の「マジックミラー」だということが分かりました。ただし、僕は基本的にCD単位でのリピート再生をしているので、CD1枚あたりの曲数の少ないシングルの方が、1曲あたりのリピート回数が増えてしまいがちという事情はありますが。しかし、それはそれとして、僕はこの曲が好きです。

 

 大森靖子について知ったのは、数年前に何かのネットの配信で弾き語りをしているのをうっかり開いて目にして聞いてしまったときです。そして、その配信をそのまま最後まで見てしまったということがありました。そして、その後すぐにCD屋に行って全部買ったりしたということがありました。そこからずっと聞いています。

 ギター1本で囁くような声から、叫ぶような声まで、きりきりと引き絞るような歌から、甘くやわらかく包み込むような歌まで、強く弱く儚く力強く歌いあげる様子がとても格好良くて、格好良いので、格好良いなあと思っています。ライブも何度かですが行きました。あと、一回握手もしてもらいました。ただ、話しかけるときにものすごくキョドってしまいましたので、恥ずかしいので思い出さないようにしています(人間と直接的に接するが苦手なので)。

 

 歌が好きというとき、「歌詞が好き」とか「メロディが好き」とか「アレンジが好き」とか「声が好き」とかあるんですが、それらの要素のうちどれかひとつでも違えば違う歌だと感じます。

 銀杏BOYZGOING STEADY(以下、ゴイステ)時代の曲を新しく歌ったときも、「若者たち」のゴイステでは「おてんと様 おてんと様」であったところが、銀杏だと「おてんと様 おいなり様」に変わっていたので別の歌という認識です。「銀河鉄道の夜」も、ゴイステ時代のは松任谷由美の「守ってあげたい」に似たメロディの部分がありましたが、それが銀杏バージョンでは変えられていたので別の歌です。イギリスのパンクバンド、SNUFFがカバーしたBLANKEY JET CITYの「SWEET DAYS」も、もちろんそれぞれ別の歌です。そして、大森靖子がアコギ一本で歌う「新宿」も、CDでアレンジされた「新宿」も別の歌です。

 好きな歌は、それら要素の全部を含めて一致したものが好きだと感じます。なので、その中の要素を一個だけ取り出しても、自分が感じている魅力のごく一部だと思うのです。しかし、こう書いておいて、今回は歌詞の話をします。

 

 僕が「歌詞が良い」と思う場合、「すごく理解できると思える言葉が1フレーズある」ということを意味することが多いです。それを感じ取った時点で、完全に「良い」以外の価値判断ができなくなります。

 

 このように1フレーズで理解できる好きな歌詞の具体例でいうと、例えば、神聖かまってちゃんの「知恵ちゃんの聖書」という曲では、

頭良いからね 知恵ちゃんは 考えすぎてしまうんだ

という歌詞がとても好きです。

 このフレーズのみで他人との距離感を上手くとれず、それをなんとかしようとして、考え過ぎてしまい、余計に考え過ぎてしまうような子どもと、そんな子どもに対する優しい目線が感じ取れます。その優しさが良く感じます。

 誰かの悩みについて「考え過ぎだよ」とコメントする光景はよくあるように思いますが、そこにはまるで考え過ぎることがよくないことであるかのようなニュアンスを読み取ってしまいます。このフレーズには、そんな考え過ぎてしまうことを無下に否定しないこと、それが知恵ちゃんという子の良さでもあるということを認めるということが読み取れて、とても良いと思います。そのあとの方にくる「それでもね 知恵ちゃんは 優しい人でいなさいな」というのがまたいいわけです。

 神聖かまってちゃんでは、他にも、「死にたい季節」の

ねぇそうだろう 諦めてると僕らは なぜか少し生きやすくなる

という歌詞がすごく好きです。

 世の中に何も期待せず、諦めて生きるということは、期待するよりも諦めていることの方が自分にとって楽だからやっているという認識が僕にあります。誰かに期待して、その期待が達せられないことよりも、最初から期待しないということ、それは、今まで誰かも期待に応えてもらえなかったということを意味するんじゃないかと思います。それがとてもわかると思ってしまいます。

 この「死にたい季節」という歌では、死にたいという気持ちが軽やかに歌われていますが、それは、辛く生きるよりも楽になりたいという気持ちでしょう。僕は特に死にたいとは思っていませんが、とにかく楽にやっていきたいという気持ちが強いので、その辺がすごくよくわかるように思いました。

 

 他に近年大好きなamazarashiだと、「爆弾の作り方」では、

街には危険がいっぱいだから 誰にも会わず自分を守る

のところがとても沁みます。精神的にも物理的にも引きこもりがちな自分にとっては、まさにそのものずばりの状況を指し示しているからです。他人に会わなければ傷つくこともない。それは確かですが、完全に社会から離れて、そうあるということも難しく、そして、そうあることが良いわけでもないということを自虐的に歌っていると感じます。

 この「爆弾の作り方」というのは、世間に居場所がない人々が、誰にも理解できない何かしらの「爆弾」を作るという歌で、それがamazarashiにとっては歌で、これを聞いている人にとっては何であるか?と問いかけられます。僕のパソコンで「爆弾の作り方」とGoogle検索すると、トップにこの歌の歌詞サイトが出てきますが、これは、そんな爆弾の作り方を検索してしまうような人々に向けて歌われた歌なのかなと思っています。

 amazarashiで、他に比較的最近の歌では「ヨクト」の、

誰が一番幸せか 比べだしたらもう末期だ 簡単に人を笑うなら 嘲笑はどうせ順繰りだ

と吐き捨てるように歌うところがとても好きです。この辺はインターネットなどを見ていて僕が思っていることとシンクロする部分があって、他人との比較を繰り返し、その上での冷笑のようなことを繰り返すなら、それは、きっと自分が見ている側だけでなく、少なからず見られる側にもなるということだと思います。

 毎日のように気軽に馬鹿にできる馬鹿を探し、気軽に馬鹿にできる馬鹿を気軽に馬鹿にするということが、ぐるぐると回ってしまうような不毛さについて、そして、自分がその馬鹿の側にもなってしまうのではないかという恐怖について、そこから抜け出したくなるという気持ちについて、そして、それはそうとただ部屋で寝転がっているだけの自分について、歌われることで、自分がいる場所にスポットライトを当てられくっきりさせられたように感じます。

 

 もちろん、大森靖子の歌にも好きな歌詞がたくさんあります。「あまい」には、

誰にもわかってほしくないから 日記にかかない幸せ

という歌詞がありますが、日記を書くということがいつの間にか他人に見せること前提となりがちな現代で、言葉にされてしまうのは、それを他人に理解してもらうための手段であって、それらの言葉を発する動機は、そのように思ってほしいという願望があって、それはもしかすると、自分の本心そのものとは異なり、自分が他人に見せたい自分の虚像かもしれません。

 幸せな感情は、別に他人からの理解がなくとも幸せな感情で、それを「他人に認めてもらわなければ成立しない幸せ」とは区別しておきたいというような感覚があります。自分の中だけに大切にしまいこんでいれば純粋に保てるものを、飾りに使うことで曲げたくないというような。

 類似するような感情は「コーヒータイム」でも歌われています。

友達のことも好きだけど 友達のブログは見ない 公園のベンチの内緒話だけ おばさんになっても信じてる

 ブログに書かれたような余所行きの言葉よりも、あの日公園のベンチで二人っきりで話したことだけを信じるということです。これらの歌詞に見て取れるように、大森靖子の歌詞の中には、素の自分自身と、他人に見られることで形作られる自分というものの対比が描かれていることが多いように思います。それは、僕が長年戦っていることのひとつで、他人にどのように見られるかということに、自分自身の行動がとても制約されてしまうという人間性を抱えていて、それゆえに自由奔放に振舞うことがなかなかできないという性質があります。それらの感覚と日々戦っているがゆえに、このようなことを読みとれる歌詞に反応してしまうのではないでしょうか。

 

 例示すれば他にもたくさんありますが、きりがないので省くとして、とにかく色んな人が作ったものの中に、好きな歌詞がたくさんあります。

 

 さて、これらの好きな歌詞に含まれる好きな言葉の共通点は、聞いたときに「わかる」と僕が思ったということです。そして、そんなに短い言葉だけで分かることなのに、他の誰かがあまり言ってないように思えたということです。これは、自分じゃない人が発した言葉の中に、自分を発見したということだと思います。つまり、他人を見ているようで、自分を見ているということではないでしょうか?

 自分が思っていることを他人が言ってくれたと思うということです。他人が自分の代弁者として、自分よりずっと上手くそれを言ってくれたということです。そして、それらは自分の勝手な思い込みでしかないのではないかと思います。

 

 「マジックミラー」はそんなことを歌った歌だと思います。

 

サビの部分で高らかに歌い上げられるのは

あたしのゆめは

君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを

掻き集めて大きな鏡を作ること

君が作った美しい世界を

みせてあげる

 という言葉です。「君」と呼ばれた、自分自身を傷つけているような人々が、その人自身が見たい、他人に見出したい姿を、歌手に勝手に投影して見ているということです。そして、それを肯定しているのだと思います。

 歌手は聞いている人との間に位置するマジックミラーの裏側にいます。つまり、歌を聞く人はその歌手自身を見ているわけではなく、歌手の前にあるマジックミラーを通して、自分自身を見ているということなのではないでしょうか。

 

 この曲は、当人が望む望まないに関わらず、多くの人々の代弁者として見られてしまう大森靖子自身が、今後、代弁者としての役割を引き受けるということの決意表明の歌ではないかと感じました。

 次に繰り返されるときには、より明示的です。

あたしの有名は

君の孤独のためにだけ光るよ

君がつくった美しい君に

会いたいの

 

 以前、神聖かまってちゃんの、の子が何かのインタビューで、「現代的な閉塞感のある社会に生きる若者の代弁者と思われていることに対してどう思うか?」というようなことを聞かれて、「俺は誰も代弁していない」というようなことを答えていたことが印象的です。それはおそらく事実なのでしょう。自分自身のことを歌い、それが他人の共感を集めたとして、それは代弁しているというのとは少し違うことだと思います。

 大森靖子の場合も同じことなのではないでしょうか?自分が感じたことを表現しているだけで、誰かのために代わりに表現してあげているということではないということです。

 

 前述のように大森靖子の歌詞は、「他人にどう見られるか?」ということに対することに対して敏感であると思います。「新宿」には、

女の子だけ もらえるポケットティッシュ あたしのおまもり

という歌詞があります。これは他人に女の子として見てもらえたということを保証するアイテムとしてのポケットティッシュのことです。他人に認めてもらえることで、自分自身が「女の子」であると実感できるということです。

 「マジックミラー」には以下のような歌詞があります。

素直な子が好きだって言うから 素直に生きてるだけでしょ

 他人に求められたくて、求められたように生きているということです。また、以下のような歌詞もあります。

モテたいモテたい女子力ピンクと ゆめゆめかわいいピンク色が どうして一緒じゃないのよ

男にモテたいために身に着けているピンクと、自分が好きだから身に着けているピンクは、同じピンクでも違うものだということです。

 他人に求められ、そのように振舞うということ、それは代弁者として求められ、代弁者として振舞うということと同じことです。自分は決して代弁者ではなく、彼ら彼女らが求めるものは、自分自身でなく、彼ら彼女ら自身が見たい姿を、大森靖子に投影しているということだと思います。そして、それらは決して自分自身ではないが、それを引き受けることを心に決めたという決意が、あのサビの部分だと感じました。

 それまで、自分がやりたいことをやって他人に受け入れられるという自分のお話から、他人を受け入れるための存在になりたいと思うお話への転換です。歌いだしから描かれる他人の目線と、自分の認識のギャップを自覚しつつ、そこに不満と恐怖を覚えつつも、それらをはねのけるように力強く歌いだされます。それがとても素晴らしいなあと思います。そして、何回も何回も聞いているのでした。

 

 そういえば、2月に新しいCDが出るらしいので楽しみです。

 


大森靖子「マジックミラー」MusicClip