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「フラジャイル」とアキレスと亀について

 「フラジャイル 病理医 岸京一郎の所見」はアフタヌーンで連載中の病理医の漫画です。今4巻まで出ています。ちなみに、病理医とは直接患者を診察するのではなく、病理診断、つまり患者から採取した細胞・組織の検査や、手術中に摘出された標本を診断したり、亡くなった患者を解剖して死因を調べたりなどをする専門医のことです。

 

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 僕の仕事は医療関係ではなく情報通信技術の分野なのですが、作中で描かれている職業意識の部分において、読んでいて「ああそうだなあ」と共感することが多いです。例えば24時間365日提供しているネットサービスに障害が発生したときなど、限られた時間と制限された人的リソースの中で原因を特定して直す仕事は、救急救命医の仕事に通じるところがあるかもしれません。そして、大量のデータの中から、顧客動向や障害根本原因の分析をしたり、故障の予兆を検知したりする仕事は、病理医の仕事と似ているかもしれません。ただ、似ている部分があるとはいえ実際には全然別の仕事なのですが。

 では、その似ている部分、つまり、僕が共感している部分がどこであるかというと「どのような状況においても『正しい』ことをすることが困難なことである」ということです。僕の経験上、仕事というものは、必ずしも最高の選択を出来ない状態でも、進まざるを得ないものだと思うからです。

 

 現実の仕事は、様々な制約条件の中で、時にある部分では無理をして、時にある部分では妥協をして、思った通りに行かなくとも、とにかく続けて進んでいくということが是とされるのではないでしょうか?要所要所で立ち止まってじっくり考えることのできる余裕は、必ずしも用意されていません。そこで遭遇する問題にも明確な正しさを適用することは難しいことも多いと感じています。どちらが正しいとも言えないトレードオフが存在し、その中で決断するには、丁寧な分析による状況の整理と、なんらかの評価軸に基づく意思決定が必要です。

 問題が誰にも分かりやすいものに整理できて、それらを最善の方法で解決して、そうして全ての問題は見事解決しました、となればとてもとても素晴らしいことです。しかし、そんなに綺麗なものは基本的に物語の中のだけのお話ではないかと思うのです。

 物語は現実である必要はないので、別にそれでいいと思います。それはとても面白いお話ですし、スカっとしますし、そうあるべき理想像なのかもしれません。しかし、現実の仕事で物語のようなことをしようとしても上手く行かないということがよくあります。仕事を進める上で、目に見えて分かりやすい問題、例えば、「倒せば全てが解決するという分かりやすい敵」なんかがいることはまれだと思います。予算や期間や人員の、様々なしがらみの中で、常に最善の手段をとるということも難しいことです。そして、何かがひとつ上手くいったからといってそれで終わるわけではありません。ひとつの仕事が終われば次の仕事、それが終わればまた次の仕事です。それを続けていくことになります。一回一回で完全に燃え尽きるわけにもいかないのです。そんな中で多くの人々が今日も仕事に取り組んでいるのだと思います。

 

 さて、フラジャイルの物語は、内科の新人であった女性、宮崎先生が、その診療の過程で起こった問題の中で岸先生と出会い、それを解決する過程で、自分が医者であるということについて問い直されます。そして、その後、宮崎先生は病理医に転科を希望するのです。高圧的で融通が利かない変人である岸先生のもとで、宮崎先生は病理医の仕事に身を投じることになります。病理医の仕事は裏方と言えますが、直接患者と接する臨床医の仕事は、病理医が行った分析結果を元に行われています。そういった意味では、患者(の細胞など)に直接的に接しているのは、むしろ彼らと解釈できる場合もあります。

 岸先生は、ある意味の理想像だと思います。普通の人がアキレスだとするならば、そのアキレスが追い付こうとしている亀の場所に既にいます。さっきまで亀がいた場所にアキレスが到着する、その時間で、既に亀はさっきよりも少し先に進んでいます。そして、少し先に進んだその亀にさらに追いつくまでの時間に、亀はさらにまた少し先に進んでいるのです。

 そんな亀に少しでも近づこうと思えば、無限の繰り返しが必要になってしまいます。そして、繰り返すたびに支払ったコストに対する見返りの効率は悪くなるでしょう。 雑な経験則ですが0を90にするのと同じ労力が90を99にするためにかかり、99を99.9にするのにはまた同じぐらいの労力がかかります。完璧を求めなければ、労力に対する対価の効率を高く保てますが、そこで効率を優先した場合に、取りこぼされるものがあります。そして、どこまで取りこぼしてもいいのかという部分が人間の判断に任されています。

 医療における検査の技術は日々進歩しています。十分な時間と予算があれば、病気の診断は正解を出せることが昔よりもずっと多いかもしれません。しかし、実際には時間は有限で予算も有限です。設備も有限で従事できる人間も有限です。おかげで、その制約条件の下では正解を出せる率は理想よりもずっと下がってしまうようなのです。

 潤沢な予算で十分な検査を受け、診断を下すまでに十分な時間があれば分かるはずの病気も、沢山の患者がひしめく病院で、場合によっては死に瀕した緊急性を要求される場所で、限られたリソースを最大限活用して、診断と治療に臨まなければなりません。そこではおそらく妥協が排除できないでしょう。そして、あの限られた状況では仕方がなかったという諦めに対する合理性も生まれるでしょう。そういったことは現実的な事実なのではないかと思います。しかし、理想ではありません。理想は亀です。現実にいるアキレスは、追いつけるはずのない亀にどこまで追いつこうとするかを問われてしまいます。

 あるべき手続きをとらず、ろくな検査もしないままに診断を下し、六割正解が出せれば合格点だと言う救急救命医に対して、岸先生は「うちは十割出しますよ」と言い切ります。それがとても眩しいと感じます。理想です。僕はこれを言いたいわけです。自分は完璧な仕事をすると、そうして、言い訳をして妥協をして完璧でない仕事をしていることを糾弾してやりたいわけです。僕の中では、六割で上等と言う救命医も、その医師に十割出すと言ってのける岸先生も、どちらかではなく両方自分の立場を重ね合わせてしまいます。両方の理屈が分かるのです。そして岸先生に憧れつつ、そこが容易に到達できるはずではない場所であることも知っています。自分の判断が重大な結果を引き起こしかねないときに、自信をを持って正しい答えを断言することは難しいことです。まして、医療には人の命がかかっています。

 ただ、単純に断言をするだけなら簡単です。勘で言ってしまえばいいですし、外れてしまえば、あの状況では分からなくても仕方がなかったと言い訳をすればいいことです。日常は人を弱くします。仕事の質は慣れれば慣れるほどに、効率化されてしまうものだと思うからです。結果的にやらなくても良かったと分かることが多いような、確度の低い作業や手続きはだんだんとやらなくなってしまうかもしれません。そして、それはコスト効率がよいことです。しかしながら同時に、その効率の悪いことを愚直にやることでしか、助からなかった命もあるかもしれません。

 岸先生をアキレスに対する亀、つまりは到達できない理想像として先ほど表現しましたが、正確には岸先生もまたアキレスなのでしょう。ただ、普通の人よりも何倍も何倍も亀のいるところに近づこうとしているというだけで。そして、そうあるということは、そうあれない人々の目に対して攻撃的であるほどに眩しく映ります。

 

 人間は間違うものです。先入観による思い込みで、冷静な判断ができないことも多いです。だんだんと手を抜いて効率よくやってしまうものです。そして、それらの行動を補強するように、それらをしていい理由を沢山発見してしまうものなのだと思います。

 医療もそうでしょうが、工業生産やシステム運用の現場では、基本的に人間が間違うことは前提として仕組みが作られます。人間という脆弱性は可能な限り排除すべきと考えられるものです。しかし、その仕組みを使うのが人間である以上、そこから人間という脆弱性は排除できません。あらゆるシステムから、こうありたい、こうあるべきだと人間が思い、働くということを完全に抜きにはまだできないのだと思います。少なくとも、機械が完全に人間の役割をとって代われるまでの当面は。

 

 助からない病気もあります。一生不便を抱えてしまう病気もあります。それでも、生きているのです。死ぬまでは生きているのです。フラジャイルでは、医者の立場だけでなく、患者の立場も多く描かれます。手術をして快復して、めでたしめでたしとはいかないことも多いです。それはきっと現実がまたそうであるからです。きれいごとだけではない部分をエンターテイメントとして描いているのです。理想でなかったとして、それでもまだ生きているわけでしょう?人生が残り少なかったとして、一生不便を抱えるとして、それでも、足を止めない人々の姿が描かれているのです。それは希望の話ではないでしょうか。

 

 避けることのできない困難は社会のそこかしこに存在します。その困難を正面から解決することは理想かもしれません。しかし、それができないことも多いのではないしょうか?そして、それができないからといって、人生は続くのです。そこに直面したとき、人間はどういう行動をとるのでしょうか?そこでは、自分で何かを決断し、そして、自分の意志でそれを選ぶ人の姿があるのではないでしょうか?フラジャイルという漫画を読んで自分に響くのはそういう部分ではないかと思いました。

 決して届かない理想という名前の亀、人間はアキレスとしてそれを追うわけですが、決して到達することはありません。その中で、限界まで走り続ける人とどこかで諦めて止まってしまう人がいます。そして、一度は止まってしまった人がまた走り始めるかもしれません。そんなふうに、理想と現実のはざまで振動しているのが人間という感じではないかと思いました。

 僕は人間は面白いなあと思うので、フラジャイルも面白いなあと思います。

 

(そういえば、アキレスと亀の話は、なんとなくイメージが重なるという雑な理由で雑な引用をしましたが、元々このパラドックスのお話が登場した経緯と、今回書いた話は特に関係がないので、喩え話として引っ張るのは不適切だなあと思いました。しかし、直すのも面倒なので、理想を夢見つつもそこに到達できないダメな自分の記録として、ここに記しておきます)

 

 おしまい。