漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画の絵における「線」の話

 線で絵を描くというのは不思議な話です。なぜならば自然の中に線とはめったに存在しないからです。絵を描くということの一側面は、そんな線でないものを線に落とし込むという作業だと思います。例えば自然の風景を目にするときその中で色の境界を認識することで、それは頭の中で線に変換されます。輪郭線もそんな境界のひとつですが、これも人間が実際に目にしている自然の風景の中には存在しないのではないでしょうか?実際、自然の光源を模したはずの3DCGの世界において輪郭線を描こうとすると、そのための特別な処理を入れなければなりません。

 このように線とは不自然なものです。鉛筆で写実的な絵を描こうとするとき、最終的に線はぼかされます。それは線は写実の中には登場しない存在だからです。線は主に人間の頭の中に存在します。それは何かと何かを切り分ける境界線なのです。

 

 日本の学校教育において、一番身近な画材は鉛筆だと思います。鉛筆は線を描くのに適したものです。線が書けると文字が書けます。文字は人間の言葉を記録しておく上で便利なものですから、みんなが使います。その鉛筆で絵も描くことができます。前述のように線で絵を描くということは、人間の高度な認識がなければできないものです。例えば、目の前にある光景をそのまま記録するということは、光の情報をレンズで収集して入力し、画素で認識してそのまま記録する、デジタルな機械が得意とすることですが、機械に線で絵を描かせることは大変難しいはずです。比較的簡単にできるのは、せいぜい、それら写真の色の境界から輪郭を抽出し、それを線として変換して記録するということぐらいです。人間の描く絵のような、抽象性を含有した絵を描かせようとすれば、とても複雑なアルゴリズムや、大量のデータが必要となるのではないでしょうか?

 ではなぜ、人間には線で絵が描けるのでしょう?それはおそらく、人間には歴史があるからだと思います。つまり、誰かが線で描くことに成功したという踏み台の上に、現在の線画はあります。昔は線で描くことが難しかったものも、誰かが上手に描く方法を編み出した結果、それを他の人たちも享受して描けるようになるのです。これは例えばモノマネ芸人の存在に似ています。有名人のモノマネを普通の人はすることが難しいですが、モノマネ芸人が特徴を捉えてモノマネ化したあとでは、普通の人たちもその有名人のモノマネを簡単にすることができるようになります。有名人の特徴から何と何を抜き出し、どのように表現すれば似ているのかという発明をモノマネ芸人がしているように、ある物体をどのように描けばそれらしく見えるのかということを絵描きが続けてきたことが、現在の線画文化の根底にあるように思っています。また同時に、ここにはその物体の線画化力だけでなく、それを見る人との共犯関係も存在します。つまり、ある線を見たときに何を想起すべきかということを、多くのそのように描かれた絵をみることで、教育されているのです。

 例えば、額に描かれた縦線は顔色の悪さ、転じて暗い気持ちになっていることを想起させたり、頬に描かれた斜線は頬のふくらみと同時に赤みを表現しており、恥ずかしさや喜びにより顔を赤くしているという感情を意味します。これらは、そのように線の意味を解釈することを経てこなかった、別の文化圏の人からすれば上手く解釈できない代物かもしれません。

 

 この前の週末に河鍋暁斎展に行ってきたのですが、僕は趣味で明治大正時代の本を乱読していることもあり、そこに度々登場する河鍋暁斎の絵に既に魅了されていたので、沢山の絵の実物を見られてとても素晴らしかったのですが、展示の中には、下絵が残っているものもあり、それが完成した絵のそばに展示されていました。下絵は白黒の線で描かれています。そして、その下絵もまた素晴らしかったのです。動物や人が見事に線に落とし込まれていて、完成した絵よりもラフであり、情報量が少ないがゆえに、より明確に、対象をどのように捉えて線に落とし込んでいるかが明確です。それが面白くて仕方がなかったので、結局会場に数時間居ついてずっと見ていました。

 

 日本の絵の文化の特異なもののひとつは「線」なのではないかと思います。水墨画のように、筆と墨だけで描くもの、そして浮世絵のように版画に落とし込むものなど、線によって描かれる絵の延長線上に、今の豊潤な漫画文化もあるように思います。漫画は多くの漫画家の試行錯誤により、そして、それを読む読者との共犯関係により、現在ではとても豊かな表現が可能になっています。線を使ってどのように絵にすることで、情報を伝えるかという文化が脈々と受け継がれているわけです。近年の漫画家の画力の向上は著しく感じていますが、その背後には、過去の漫画家たちが生み出した数々の表現技法があると思います。それらを踏まえた上で、自分でイチから発明しなくても、線で絵を描けるという状況、そして、それらを良い感じに解釈してくれる読者の存在が、この漫画文化の隆盛の根源なのではないでしょうか?

 

 僕自身も趣味で絵を描きますが、人間を描く際の顔の表現や筋肉の表現、線によるグラデーションの付け方などにはひとつひとつ元ネタがあることを認識しています。鼻の描き方には井上雄彦の影響がありますし、額と鼻の間の皺の描き方には赤名修、頬の肉の描き方には篠房六郎、唇の描き方には松田洋子、口の下の肉の描き方には萩原一至、まつ毛の描き方には荒木飛呂彦、筋肉の描き方には鳥山明寺田克也、手の描き方には板垣恵介、グラデーションの付け方には五十嵐大介などなど枚挙に暇がありませんが、それらを劣化させつつぱくっている感じです。自分が発明したわけではありません。自分が見たものの中で、何をぱくりたいと思ったか、そしてそれらぱくったものの間の繋ぎとなる部分あたりが、自分の絵の個性なのではないかと思っています。自分が好きでぱくりたいと思ったものを繋ぎあわせているので、それらを十分に再現できないというもどかしさはありますが、おかげさまで自分の描く絵はだいぶ好きです。僕の好きなものしか入っていない特製のお子様ランチのようなものだからです。

 

 漫画の内容だけでなく、絵自体がとても好きな漫画家も沢山いるのですが、その中でも僕が線に魅力を感じる漫画家が安田弘之山田参助です(詳しく挙げようと思えば他にも沢山いますが)。この二人の絵は、タッチのあまりないシンプルな描線であるがゆえに、対象をどのように抽象化したいかが明確だと思います。僕にも理想の線というものはあるのですが、それをあまり上手く描けないので、ついつい線を重ねたり太くしたりして、見る自分や他人の頭の中で、「頼む!!この可能性の候補の中から良い感じの線を選んでくれ!!」という感じになってしまうのですが、この二人の絵はシンプルな一本の線で、さらりと正解を見せられているような気持ちになります。それは自分では当面到達できなさそうな領域なので、憧れて見てしまうのでした。

 写真をトレスする絵の場合でも、描き手の取捨選択によって、何を描き何を描かないかが問われますし、描いた人の個性が十分そこに残るものだと思います。しかし、写真を元にしない線で描かれた絵は、より抽象化されているがゆえに、何とでも解釈できますし、線の選び方もより自由ですから、僕はより魅力的に感じることが多いです。写真を元にする情報量の多さと正しさ、抽象的な描線によるその背後の想像の余地の深さは、何を表現したいかによるので、どちらが一面的に正しいとは言えませんが、描き手の表現力の魅力は後者の方により現れるように思います。一方、元になった写真があるであろう背景でも、五十嵐大介の絵にはとても魅力を感じてしまうので、その辺はまだ説明がついていません。

 

 そういえば、パソコン処理によるエフェクトをかけた絵が個人的にあまり好みではないのですが、それはパソコン処理にはロジックはあっても、それが人間の意志による表現力ではないからかもしれません。ここで言うあまり好みでない表現というのは、例えばガウスぼかしなどによるブレの表現や光の表現のようなもので、確かに均一で美しいのですが、それは一定のアルゴリズムで処理された結果でしかなく、人と話しているつもりが機械と話ていることが発覚したというような気持ちになるからだと思います。フォトショップのフィルターは誰が使ってもフォトショップのフィルターでしかないというような意味です。最近は3Dのモデルを使ってキャラを描いたり、背景を3Dで描いたりする漫画家さんもいて、使い方次第では違和感を覚えてしまうものもあるのですが、これは多分、パソコンによる漫画作画というものがまだ技術的に十分ではないためではないかと思います。時代の流れとともに、道具としての表現力が漫画家の力に応える水準になれば、きっと手の作画ではできない新しい領域の表現ができるようになるのではないでしょうか?映画やゲームなんかは先にその水準に到達しているかもしれません。

 

 ごちゃごちゃと書いてきましたが、漫画の絵というものは、長い歴史の集大成だと思っていて、漫画家とそのアシスタントの系譜により色濃く表れるかもしれませんが、そうでなくても、魅力的な線の描き方を発明した人には大量のフォロワーが生まれ、それが次世代には当たり前になることで、次の表現が生まれていくという、拡大再生産の文化だと思います。なので、それを享受できる立場の今はとても素晴らしいなと思うというお話でした。そして、おそらくこれからも道具の変化などを含めた上でより高度に進化していくのだろうと思いました。おわり。