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「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」について

 なんとなく、一昨日に見始めた、アニメの「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」なんですけど、昨晩見終わってみたら、今朝のニュースで実写化の報を見たので、シンクロニシティ感がありましたので、なんとなく感想というか見ながら思っていたことを書こうと思います。3DSゼノブレイドをプレイしつつ見たりもしていたので、細部読み取り間違いしているかもしれません(免責)。

 

 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」は、受験に失敗して滑り止めで入学した高校にも通わなくなった引きこもりの少年、宿海仁太(通称:じんたん)の元に、幼い頃に事故で亡くなった本間芽衣子(通称:めんま)の幽霊がやってきたことから物語が始まります。かつて幼き頃「超平和バスターズ」というグループを作った仲間たち、安城鳴子(通称:あなる)、松雪集(通称:ゆきあつ)、鶴見知利子(通称:つるこ)、久川鉄道(通称:ぽっぽ)は、めんまの死以降疎遠になり、今ではあまり交流もありません。しかし、めんまを成仏させるため、願いを叶えることにしたじんたんの元に、わだかまりを残しつつも、かつての仲間たちが集結することになるのです。

 

 このアニメ、とても面白かったんですけど、全編通して描かれているのは、「変わることと変わらないこと」という感じだと思いました。

 人間は、特に思春期の少年少女は、短期間に肉体や環境が大きく変わるので、それに合わせて変わっていくものだと思います。人間は基本的に「その人の能力の範囲で周囲の環境に合わせて最適な行動をとるもの」だと僕は思っているのですが、その考え方でいうと、環境が大きく変わるのに人間の内面が変わらないでいると、周囲のとの軋轢が生まれるので、その環境を去る必要が出てきます。

 じんたんは、典型的な内面が変わらないタイプの人間で、その中身は小学生の頃から継続しているように思いました。不登校の状態であったじんたんが学校に行ってみようとしたとき、自分とは異文化の存在である同級生のからかいによってやっぱり家に帰ってしまうというエピソードがあります。それまで接していた幼なじみ達や親とは違う、異物的な環境と接するとき、自分を変えて新しい付き合い方を模索することもできますし、そんな環境から離れて、見知った世界に埋没したままにいるということもできます。じんたんはそういう側の人間であり、有り体にカテゴライズするならばオタク的ということです。

 一方、かつての幼なじみたちは普通にそれなりに環境に合わせて変化しています。眼鏡のオタクっぽい女の子であったあなるは、ギャル風になっており、進学校の優等生であるゆきあつやつるこは、じんたんやあなるの通う底辺校の人たちとは一線を置くことになっています。ぽっぽは高校に行かず、バイトをしては外国を放浪して、一番小さかった体を大きく太く成長させています。

 

 それぞれが新しい環境に表面上順応している間、じんたんは変わらないままで、変わらないがゆえに社会の変化についていけず、引きこもりを続けることになっていました。そんなところに来たのがめんま、この6人の中で最も変わらない存在です。幽霊ではあるものの、見た目は時間の流れに合わせて成長を見せていて、しかし、内面は概ね子供のときと同じような雰囲気をかもしだしていると思いました。変わりたくないがゆえに変わってしまった存在であるじんたんの目だけに、変わらない存在のめんまが映ります。

 ゆきあつやあなるは表面上は変わってしまいましたが、一方、実はかつての内面を色濃く残しています。ゆきあつは子供の頃好きだっためんまを思慕し続け、あなるも同じく子供の頃からじんたんを思慕し続けています。つるこはそこからするともう少し大人になっていて、ゆきあつが好きであり続けるものの、その気持ちとそれなりに折り合いをつけています。ぽっぽは、見た目は大きく変わってしまいましたが、性格はかつてのような子供っぽい状態を残しています。しかし、じつはぽっぽこそが一番の内面の変化を持っているように感じて、それは世界中の色んな場所に、色んな環境に行っても同じでありつづけるということ、それはつまり、それらの環境に合わせて表面上同じであるように内面を柔軟にコントロールしていることかと思われるからです。

 

 幼いころの輝いていた思い出と、少しの諍いのあとにめんまを失ってしまったという心の中の楔は、彼ら6人の中に消えない傷として残っています。過去にとらわれ続けているじんたんの元にめんまがやってきたのは、きっと神に与えられたチャンスでしょう。過去にめんまを傷つけ、そのまま失ってしまったという後悔を取り戻すチャンスです。実際、じんたんはかつては言えなかった、めんまが好きだということを今回は口にすることができます。

 物語の終盤、めんまの成仏のために動きながらも、めんまとずっといたい思ってしまうじんたんとは対照的に、他の5人は自分たちの都合でめんまに早くいなくなってほしいと願います。そして、そのワガママさを互いに吐露したあと、満場一致でめんまと話したいと願うのです。彼らは過去に向き合うことになります。

 

 人は変わります。環境の変化に対して、変わらざるを得ないからです。かつての記憶が輝かしかったとして、その状態には戻れません。その輝かしさは、戻れない、二度と手に入らないからこそ、いっそうに輝いて見えるかもしれません。後悔も同様です。二度とやり直せないからこそ、それは心に強く突き刺さったままになってしまうのではないかと思います。

 この物語は、過去から未来に変化するために、過去に区切りをつけるというもので、区切りをつけられなかったがゆえに過去に囚われてしまっていた人たちが、幽霊という存在によって、再び過去に向き合うチャンスを貰えたというお話だと思いました。これをきっかけとして少年たちと少女たちは、先へ進むことができるようになるのでしょう。

 そして、変わらない存在であった幽霊のめんまも、みんなと一緒にいたいがために成仏すること、つまりは生まれ変わることを選ぶのです。

 

 この物語が誠実であるのは、めんまは既に死んでいて、そして、生き返ったりしないということが揺るがないことだと思いました。幽霊なのに、ご飯を食べ、物を動かしたりするめんまはまるで生きているかのようで、物語を見進めるにつけ、死んでいるということを忘れそうになります。しかし、物語が終盤に近づき、別れの予感を感じてしまうことで、既に死んでしまっているということが、それが揺るがないということが、残酷にもくっきりとしてしまいます。みんなはそれを乗り越えて前に進むしかないのです。

 

 めんまが消える前の少しの間、5人全員にめんまの姿が見えるようになります。その時間、彼らは思い出の中の変わらぬあの頃の時間に戻ることができたのでしょう。しかし、それは限られた時間だけで、奇跡的な一瞬でしかないのだと思います。おそらく、この後の彼らは、その変わらない思い出を抱えたまま、それぞれ別の道を歩むのではないでしょうか。

 

 変わらないことは変わらないがゆえに美しく、過ぎ去った過去は二度と手に入らないからこそ貴重に思えますが、それでも変わりゆく世の中を生きていかなければならず、変わらないままにそれらに囚われてしまうということは、これから長い人生を生きる少年少女にはまだ早いことではないかと思いました。過去は過去で、人は先に進まねばなりませんが、過去は過去でよいものなので、たまに思い出したりするとよいなあという感じです。

 それらは確かにあった、そして大切なことであった、しかし、いつまでもそこにいるわけにはいかず、先に進まなければいけない、というような感じのことを思いました。

 

 そういえば、まだ見ていませんが、劇場版があるらしいですね。さっきVODサービスで検索してみたものの見つかりませんでしたので、また今度そのうち、見ようと思います。