漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

同じ本を何度も読むことについて

本が溢れる時代

 現代には本が溢れています。お金を出せば当然ですが、古本屋で安くなった少し昔の本に出会えたり、著作権の切れたすごい昔の本も山ほどネットで無料で読めます。最近では、Web連載の漫画が読めたり、プロモーションのために期間限定で本が読み放題になったり、月額定額で本が読み放題のサービスも色々あります。読めるものは無数にあるので、大した労力を払わなくても、毎日新しい本を手にすることができるのが現代です。でも、僕が日々読んでいる本のだいたい三分の一は以前読んだことがある本なのです。僕はよく昔に読んだ本を再読します。といっても、その多くは漫画ですが。家に何千冊の本を置き続けているのが何故かというと(最近は電子書籍のおかげでトータルで万を突破したっぽいですが)、それは頻繁に読み返すからです。読み返さないなら、売ってしまうのが合理的でしょう。読まれない本は場所をとるだけの紙の束でしかありません。では、何故読み返すのかという話を書きます。

 

本とは何か?

 そもそも本が何かというと、僕が考えるに本は「他人」です。つまり、自分ではありませんから、自分の中にはない情報が込められています。本を読むということは間接的に他人に接して、その他人の中にあるものを僕が得るということだという解釈ができます。僕がこれをとても良いと感じるのは、本というものの形態が情報の在り方として、(1)比較的丁寧であるということと、(2)一方通行であるということです。

 (1)の丁寧であるということがどういうことかというと、書いている人が労力が「伝える」ために支払われているということです。一時間で読める本というものは、一時間では書けません。例えば一時間で雑然と話した内容を、それを正確に伝えるために本にしたとき、不要な話はカットされ、分かりにくい言葉は言い換えられ、それらの伝わるための最適化プロセスを経たあとに出版されるということです。おそらく、それを読むために必要な時間は一時間よりも短いでしょう。そして、本を作るのにかかった時間は、一時間よりもずっと多いと思います。書き手の労力が十分に支払われた結果、読み手の時間が節約されるということです。この非対称性が本の良さの一つであり、人間が大量の情報を摂取するための効率の良い方法です。

 そして、(2)の一方通行であるということの良さは、僕個人の社会性の無さが根っこにあるので一般的ではないかもしれませんが、どういうことかというと、僕は他人に観測されるという行為にとても弱いのです。相手にこちらを見られてしまうと、その相手の思うように合わせて行動してしまったり、逆にその相手の思い通りに行動してやるものかと思ってしまったりしまうのです。それらは、つまり、相手によって自分の行動が何かしら制限されているということです。そして、僕はそうなってしまうということをあまり良しとしません。他人に見られているということ、そしてその他人に何かしらの判断をされることによって、自分が本来やりたかったことができず、やりたくもなかったことをしてしまうということになりがちなのが自分の性質で、それが嫌だと思っているのです。もちろん、それによって得られるものが沢山あるということも分かりますし、得られた経験だって多数あります。ですが、可能な限りしたくないと思っているのです。

 その点、本は一方通行ですから、向こうからはこちらが見えません。他人から情報を得ているにも関わらず、その他人に観測されずに済むという覗き見的な安心感があるため、自由に振る舞えるのです。そのため、疲れずにむさぼり続けられるのです。

 本とは、他人に接することで著しく消耗してしまうような社会生活に向かない人間でも、経由することで間接的に他人に接することができるという命綱のようなものなのだと思います。

 

本を何度も読む理由

 さて本題ですが、何故何度も読み返すかを端的にいうと理由は2つあります。1つは同じ本でも読むたびに新しい情報を得られているからです。つまり、再読することで以前読んだときには気づかなかったことに気づけたりするということです。そして、もう1つは、生理的な快感です。つまり、本の中に込められた感情を再生することが単純に気持ちいいからです。僕は本を読んでは泣いたり笑ったりします。

 そもそも、本を一回読んだだけで、そこに込められたものが全て分かるというのはよほど特殊な人の特殊な能力ではないかと思います。例えば、学校の教科書を思い浮かべるとして、それを一回通読すれば、テストで100点とれますか?というと、ほとんどの人は無理ではないでしょうか?つまり、一回読んだぐらいでは分からないのです。もし、分かったと思うとしたら、それは分かったと思い込んでいるだけで、実際は分かっていないというのが普通だと思います。

 

 これに関連した話題では、この前、人と話していて「寄生獣」における寄生獣という言葉が何を指しているかということについて、人によって読み方が異なる場合があるという話になりました。寄生獣という言葉は、当初人間の頭に寄生する寄生生物たちのことを指していると思わせておいて、物語の終盤の広川という男の言葉から、人間こそが地球に巣食う寄生虫、いや寄生獣なのだという形でどんでん返しがされます。そして、この物語の最後に「何かに寄りそい生きた」という言葉とともに、人間だけでなく、寄生生物だけでなく、ありとあらゆる生き物がこの地球上で寄りそって生きる寄生獣なのだというメッセージが「寄りそい生きる」という言葉が繰り返されることで強調されていたと僕は思っていました。しかし、アニメ化などに関連して「寄生獣というのは人間のことなのだから、寄生生物を寄生獣と呼ぶなんて、原作を読んでないのかよ?」みたいな発言をする人がいること確認して、なるほど読み取り方が違うなあと思ったりしたのでした。ただし、僕も最初読んだときは、「寄生獣=人間」とだけ思っていたような気もするので、読み方というものは読み返したときによって変わるものかもと思ったりします。

 

 子供の頃に読んだ漫画を最近に読み返すのは楽しいです。子供の頃は気づいていなかったパロディや、子供の頃は理解しがたかったおっさんキャラの感情などが分かるようになっています。あるいは、言葉でしか知らなかったものをその後に実際に体験し、描写からより多くのものを読み取れるようにもなっているのです。そうして、分かることが増えることで物語全体がまた違った見え方をしたりします。子供のときは子供なりに、大人になったら大人なりに読める本があります。それならば、子供のときに一回読んだからで終えるにはあまりにも勿体ないではないかと思います。

 ただし、読み返すときのモチベーションは、情報を得たいというよりは、あのとき読んで感動したものをまた味わいたいということの方が多いように思えて、定期的に読み返している漫画では「エアマスター」「うしおととら」「ダイの大冒険」「金色のガッシュ」「道士郎でござる」「弱虫ペダル」などなどがありますが、他にもありますが、これらを読むと怒りや悲しみや喜びや笑いの様々な感情が、呼び起されつつ、何度も読み返すことで、より細かい機微が読み取れるようになって、最初に読んだときよりもずっと敏感になってしまい、読みながらすぐ号泣してします。なので、人前では読めない感じになっています。感情に先導され、何度も歩いた道は、細かな凹凸まで記憶していますから、どんどんすいすい歩くことができるようになっています。

 今では、「ジョジョの奇妙な冒険」第4部の岸辺露伴の能力ヘブンスドアーで、最初は漫画を1話全部読まなければ能力にかからなかった康一くんが、その後は1コマ見ただけでその能力にかかってしまったときのように、通読しなくてもその1コマや台詞を思い出しただけで、感極まったりすることができるようになりました。

 「人生において最高の本十冊には十代のうちに出会っている」というような話もありますが、実感から考えるにそれは僕にとっては事実だと思っています。しかし、三十代になった今はどうかというと、最高の本が五十冊ぐらいには増えています。最高の本が高々十冊程度に収まるはずがないだろうと思ってしまいます。そして、これからも色んな本を読んでは読み返すことでどんどん増えていくのだと思われます。そこから考えるに、若い頃に出会った本は、比較的何度も読み返せる環境にあったから最高なのであって、歳をとったら一回しか読まないことが増えるので、相対的に若い頃に出会った本が有利であるというだけなのではないでしょうか?

 漫画の新刊を買ったときに前巻までの話を憶えていないというような話を友人知人から最近ちらほら耳にしますが、確認するとその漫画を単行本で初めて読んだ上に、買ったあと一回しか読んでいないっぽいです。なら憶えていないのも普通でしょうと思います。人生において、その本と付き合ったのは数ヶ月前に十五分とかだけなのですから。

 

 本は何度も読み返すことで、自分の中で大切なものに変化していくのではないかと思います。

 

他の人にも本を何度も読んでいただきたい話

 少し話は変わりますが、僕は前述のように、他人と接するのに苦手意識があります。しかし、それでも年齢を重ねてくると、若い人の面倒をみる立場にもなったりもします。教えるということには、体感と知識の二種類があると思っていますが、知識の方が最も簡潔にまとまっているのが本(論文を含む)なので、僕の教育方針としては、読んだらいい感じの本を渡すということと、完遂するためにはそれらの本の中の情報が必要そうな適切な仕事を割り振るということをします。

 僕はあまり手取り足取り教えるということをしません、他人に教えられただけのことというのは身につかないと思っているからです(自分がそうだったという狭い範囲の知見に基づいています)。僕が考えるに、何かを学ぶときに大切なのは「自分で得る」ことだと思います。本の中に自分で発見する、体感の中で自分で気づく、それらを自分で繋げて血肉にするということは全て自発的な行動の中でしか生まれず、必要な情報をただひたすら洪水として与えて、「教えただろ?」というアリバイ作りをしただけのようなものは、分かった気になっている人を作り出すだけのように思っています。仕事を進める上では、ちゃんと分かっていてもらわないと困りますし、何度も聞かれたら何度も答えますが、やっぱり、それを無限にやり続けるのは辛いので、教えた本を何度も読んで欲しいと思っているのです(僕の社会性の無さが悪いということも自覚しています)。本という存在は、僕が知る限り対人関係が苦手ではないので、何度読んでも嫌がりません。

 僕の経験を思い返すと、教えた本は一回しか読まれないことが多いです。「読み終わった?」と聞くと「読み終わりました」と答えられますし、即座に二度目を読もうとはしないようです。それはそれでいいですし、一回通読したあと、必要に応じて部分部分を読み返しつつ、深めていくというのも良いです(僕も概ねそうします)。ただし、一回通読しただけの人に、「じゃあ、内容を説明して?」と言ってみると、3割も言えれば良い方だと思います。ちなみに僕も何年もそれに関わっていても8割いけるかという感じです。なので、本を手放すことができません。完全に読み切ったと言えるとしたら、同じ本を書けるだけの能力を得たときではないでしょうか。それができなければ、読み終わった、分かったと言うには、やはり足りないのだと思います。分かっていないと自覚していればいいですが、読んだのだから分かっていると勘違いしていると、どこかで蹴つまずく可能性が高いと思います。

 

本の数の追い方関連

 SF千冊を読めば一人前という話がありますが、僕はこれは気が付けば結果的に千冊を読んでいたというのなら分かる話で、千冊を読むということを目的として読んだ場合にはそうではないんじゃないかと思ったりします。数を追うこと、それ自体には僕はあまり価値を感じていません。それが価値を持つのは、数をこなしているということが有利に働く場所でのことではないでしょうか。つまり、読書量を数値で表明することが社会的な行為として通用する集団におけるポジション取りみたいな話だと思ます。僕にとって読書は個人的なことなので、そういうものはどうもしっくりきません。

 その延長線上は、きっと読みもしないで本の内容を語るみたいなことになってしまうのではないでしょうか?数を追うにはそれが効率の良い方法です。誰かが要約した一文を読んで、本を読んだ気になるということです。これはおかしなことだと思ってしまうかもしれませんが、実際はよくあることだと思っていて、ドラキュラやフランケンシュタインの怪物は知っていても、もとの小説をちゃんと読んだ人は少ないと思いますし、ニーチェの著作を語るときに、実際本自体をちゃんと読んだ人も少ないのではないでしょうか?使い勝手の良い一文を引用するだけで、読んだような気になったりします。

 千冊の本を1回ずつ読んだのと、百冊の本を10回ずつ読んだのでは、多分得られるものが違うと思います。そして、もし、一冊を本を1000回読んだら、それがもし本当にできるなら、その人はその本について、作者以上に語れるかもしれません。それはおそらくその作品自体を離れて、読んだ人自身の心にどっぷり浸かる行為に到達しているんじゃないかと思うからです。きっと作者が思ってもいないこと、書いたつもりもないことを読み取るのでしょう。想像するに、そんな人はきっと面白いことを喋るんじゃないかなあと思います。同時に度が過ぎればあまりお近づきになりたくないような気もしますが。

 

まとめ

 散漫に書いていたらなんだかよく分からなくなってしまいましたが、言いたかったのは、一回ちらっと読んだだけでは、それが例えば漫画だとしても、作者が描いたものの全てを読み取ることはなかなかできないんじゃないかと思っていて、何度も読んで、自分の中で咀嚼して、そして出てきた言葉には、自分にとって意味があるような気がしたりするということです。

 本を読んで感想を書いたりすることは、自分の中で読書体験を発酵させているような感覚があって、読んだあとすぐに書くというのは、ブドウを渡されて、即座にワインにしてみろ!と言われているのと似ているんじゃないかと思っていて、それはほとんどの場合無理だと思います。そういうときには、そのブドウを使ったワインではなくて、もとから持っていた既にワインになっているものをあたかも今作ったようなフリをして出していることが多く、つまり、新しい本を読んだのに、以前読んだ別の本と似ている部分を探して、とりあえずそれを出しているに過ぎないんじゃないかと思います。読んだ本の感想は、それから何ヶ月や何年が経って、急ににぽろりと出てきたりするのが僕の感覚です。

 本を読むとき、冊数とかの数字が出て来ると、数字を追ってしまうようなこともあると思うんですが、単純に読んだ冊数を競うみたいなのは、なんかしっくりこないなあと思っていて、数を追うのをやめて、一冊を何度もじっくり読むことの良さみたいなのがあるんじゃないかとか、他のそういう人の話を聞いてみたいとか、そういうことを思いました。

 

 実際、何回読んでもよく分からなかったので、感想を書こうとしても何年も言葉にならなかった漫画に「ナチュン」がありますが、同じ作者の「ムシヌユン」の2巻が今日出たので読んでいて、これがまた強烈に面白いことだけは分かるんですけど、これが何なのかがさっぱり分かりません。何年もかけて、何度も読んで、そのうちいつか言葉になったことを書くのではないかと、しばらく先の未来のことを考えたりしました。