漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

チュートリアルとしての河合克敏の漫画について

 スポーツ漫画が好きなんですけど、何故だか実際のスポーツ中継は漫画ほどには楽しめません。その差は何なのか?ということと、その差を丁寧に埋めてくれるのが河合克敏の漫画だと思ったという話をします。

 

スポーツ中継が楽しめない理由とは??

 人間は単純化すると、感覚器から情報を得て、それを処理しているだけの存在ですから、「スポーツ漫画は楽しめるのに、実際のスポーツ中継が楽しめない」ということは、その2つにはどのような情報的な差があるのか?ということを考える必要があると思います。
 極端な前提として、最初からずっと読み続けてきたスポーツ漫画と、ルールさえあやふやな初見のスポーツ中継とした場合の差をざっと挙げてみると、

  1. 選手の人となりを知っていること
  2. 試合の状況把握ができていること
  3. 個別のプレイの意味が分かること
  4. プレイ中の選手の感情が分かること
  5. 時間の進行具合が一定でなく可変であること
  6. 試合結果が物語を盛り上げるように作られていること


 などの違いがあると思います。

 こう考えてみると、1-3番は、スポーツを観る上での事前情報や、観賞スキルがあれば埋まると思われる部分、4-6番は漫画という媒体の特性上生まれている部分であることが分かります。

 僕の考えでは、これら6つをなしにスポーツの中継を観ても、得点がある場合は数字の増減、そして、最終的な勝った負けた以上のことが分かりませんから、多分退屈してしまうのだと思います。僕はスポーツの中でもとりわけサッカーをじっと観るのが苦手なのですが、90分の試合の中で2点3点ぐらいしか入らないのが普通ということが関係している気がします。どういうことかと言うと、得点の増減ぐらいしか画面から読み取るスキルがない、ダメダメな僕のサッカー観賞能力では、せいぜい十数分に1回ぐらいしか情報の変化が読み取れないということになるからです。それ以外の間は、何が起こっているか分からない画面をただただ見ているだけです。別で喩えてみると、画面上に知らない言語の意味の分からない文字列が延々流れていて、十数分に一回日本語が出てきて、それが読めるみたいな感じです。それでは面白がるのは難しい。

 

 そこを埋めるために必要なのが1-3番であると思いますし、スポーツ中継を楽しめる人は、それができるのだと思います。まずは出ている選手たちがどのような人で、何を目標にどのように頑張ってきたかを知っているだけで違うと思います。僕には人の区別がつきませんから、誰がボールを持っていようが同じですし、情報量ゼロです。せいぜいユニフォームの色で、どちら側かが分かるぐらいです。また、試合の状況が把握できないことには、今何をすべきで、どのようなプレイが求められているかが分かりません。彼らのプレイにはどのような意味があるのかが読み解けないのです。例えば、選手交代があったとしても、なぜ交代するのかが分からなければ、何をしようとしているのかが分かりませんから情報量ゼロです。そして、個別のプレイのすごさもよく分かりませんから、今のプレイが何なのかがよく分からないという問題もあるわけなのです。野球で言うと、今ピッチャーが投げた球がストレートなのか変化球なのか、どのコースをついたのかというのが中継を観ていてもよく分からなかったりします。それが分からなければ、配球の面白さみたいなものに辿り着くことすら全くできませんから、これまた情報量ゼロです。

 

 一方、漫画の場合は、これらの情報を「解説や、それまで読んできたあらすじ」によって補完してもらえるので、細かい部分まで理解可能なのです。同様の効果は実況中継などを聞くことでもあるのかもしれませんが、ここからはさらに4-6番の漫画的な特性が効いてきます。選手が何を思って、そのプレイをしているかが分かりますから、より正確に何をしたくてどうなったかが分かりますし、時間の進み方が可変なので、ピッチャーがボールを投げてからミットに収まるまでに、解説を読むなんてことも可能になります。さらには、漫画的に盛り上がるように作られているわけですから、毎試合が面白い試合であることが保証されています。

 これらの情報が付与されることによって、僕のような、アイマスクをして耳栓と鼻栓をして、手足を縛られたままでいるような、つまりは、情報を得るためのあらゆる感覚器が奪われているような、スポーツ観賞オンチのような人間でも、スポーツを楽しむことができるということになるのではないかと思いました。

 

河合克敏漫画のチュートリアル

 さて、ようやくタイトルにある河合克敏の漫画の話なのですが、「帯をギュッとね」「モンキーターン」「とめはねっ」という漫画を描いているわけなのですが、それぞれ「柔道」「競艇」「書道」という領域について、読者の1-3の能力を引き上げるような作りになっているように思いました。これらがチュートリアルとなったことによって、僕は「柔道」「競艇」「書道」は割と楽しめるようになったような気がしています(書道はスポーツではないですが堅いこと言いっこなしですよ)。

 

 とりわけこの要素が強いのはモンキーターンだと思いますが、競艇に無知な主人公が、学校に入学して訓練し、選手としてデビューし、様々な壁にぶつかっては勝ったり負けたりしつつ、主人公以外の色んなタイプの選手も出てきて、競艇というものにおける面白さの沢山のパターンが、その裏側の選手のやり取りを含めて描かれています。登場する競艇場は実在のものですし、一部では元ネタのいるキャラもいます。なので、その後にテレビの中継を観ていても、競艇場に覚えがあったり、選手の名前に憶えがあったり、選手同士のかけひきなんかもその理路が分かったりしますから、昔々に船が走っているだけを見て、さっぱり意味が分からなかったときと比べて大変分かるようになったような気がしました。

 この辺の部分のしっかりとした作りは、単行本のオマケにも載っていたように、しっかりと取材をしている力の成せる業なのかなあと思ったりしました。作者が実際に経験のあった前作「帯をギュッとね」の柔道から、なじみのあまりなかった「モンキーターン」の競艇の漫画に移行する過程で、必要であった沢山の取材の結果を、パズルのピースがハマるように綺麗に物語に当てはめているのがすごく、僕は素人なので、それが正しいのかすら判別は不能なのですが、それによって自然に説得されてしまう力がありました。リアルかどうかは僕には分かりませんが、リアリティがあるということです。

 

 この辺のリアリティの構築力は「帯をギュッとね」の時点で既にあり(などと小学生のときに夢中で読んでいただけの僕が書くのはおこがましいですが)、練習量では強豪校に勝てないと、自分たちの力不足を感じた主人公たちが、全国大会の団体戦で勝つために考えた方法が、「重量アップ(筋肉で5kg)」と「裏技(ポイントを取るための見慣れない変則技)」の習得であるというのが、単純な精神論や一発逆転勝利の必殺技などではなく、地味かつ堅実で、当時の僕には新鮮で大変面白く感じました。精神を賭け金として苦労と根性の果てに勝ち取る勝利ではなく、ルールのある試合で勝ち進むためのある種冷めたアプローチであったということが、当時僕が読んでいた他の漫画ではあまり見られないものであったのです。連載当初は「山嵐(?)」や「ヴァンデヴァル投げ」のような変則的な方向性もありましたが、後半に行くにつれて、高校生の競技としての柔道という漫画になっていったような気がします。

 

 整理すると、河合克敏の漫画は、緻密な取材力に基づき漫画的な誇張を最小限に抑えたリアリティのある世界観において、様々なタイプの選手の網羅的な話を違和感なく繋げつつ、そこに一部ありえそうな漫画的な要素(モンキーターンでは「Vモンキー」や「洞口のプロペラ」)をぶっこんで面白くするというような大変完成度の高いものであるということです。あとはそれらを繋ぐためのギャグがまたすごくすごく面白いのですが、それはまた別のお話。

 

「とめはねっ」のスゴさ

 このような要素を書道に適用したのが「とめはねっ」だと思うのですが、この漫画の面白いところは「書道というものは、漫画の紙面にかなり完全に近い形で取り込むことができる」ということです。例えば、音楽であれば音を漫画に取り込むのは不可能ですが、書道では大きさなどを無視すれば可能です。つまり、「おそろしい子…」や「日本人離れしたなんてファンキーなベースなんだ!」みたいな観客の解説によって読者に理想的な演技や音楽なんかを想像させるという手法ではなく、そのままずばりを見ることになり、そして、それがいかにすごいかを語るという漫画になるわけです。

 これを読むためには、まずすごい「書」を用意することと、この漫画の中に含まれる「書」がいかにすごいかを、書道の素養のない人に向けても分からせるための解説力が必要となってくるわけです。

 

 実際、作中には過去の大家や、現代の書道家、あるいは読者からの投稿を含めた様々な「書」が登場します。そのすごさを僕が十分に理解できているかは自信がありませんが、中に出てくる三浦清風先生の「褒める力」が素晴らしく、納得できる理由が提示されます。作中には当然良い書ばかりではなく、まだそれほど良くない書もでてくるわけですが、その書の良い部分を具体的に褒め、また、よりよくするためにはどうすれば良いのかが具体的に提示されます。僕のような人間は「なんとなく良い」「なんとなく悪い」ぐらいの判断基準しかありませんから、これらの解説による情報の高精細化によって、見える風景が変わってくるのです。また、自分が専門的な知識を持たない「前衛書」などについては、自分には良し悪しを判断する能力がないとコメントする三浦清風先生の誠実さがたまりません。

 そして、なにより、これらの書の良いところと悪いところが、書き手の性格や状況に結び付けられることで、作中に自然に溶け込むように入ってきているという漫画の構成力がどうやって考えているんだろうと不思議になるぐらいです。漫画が単純に面白いことだけでなく、ぎゃー!これはよくできているなあ!と思ってしまいます。

 

 中でも、先月出た13巻に収録されているある書がとても衝撃的なのですが、それは素人の僕でも一目で分かるぐらいにすごい書でした。ただ、すごいということは分かっていても、それがなぜすごいのかは全然よく分からないのです。作中でもそのすごさについては、あまり具体的には語られませんが、それを見る上での付加情報が与えられ、主人公の縁くんと一緒に体験するということが、単純にそれを見ただけよりもいっそう良い体験となったように思います。あまりに衝撃的だったので、実際に同作者(井上有一)の書を見るために年末に遠出をしてしまいました。

 

 さらに、次の最終巻に収録されるであろう、縁くんがヒロインの望月さんのために書く書がとても感動的なのです。それは、これまでのこの漫画を読んできた過程で育まれてきた思いや、書を見る能力みたいなものが結実したものではないかと思っていて、その話の最後に出てきたそれを見ただけで、なんだか分かりませんが、どっと大量の情報を得てしまったらしく、ショックでだいぶ泣いてしまいました。ここにも、多分、最初に何の情報もなく単純にその書をみただけでは生まれえない感動のようなものがあるのです。その部分をどれだけ補完できるかということが、今後、僕がこの漫画以外でも書を見たときに感動したりしなかったりする際のキモの部分になるのではないかと思いました。

 

 結局、だらだら書いたこの文で何が言いたいかというと、「とめはねっ」を読んでから、書道展みたいなものを覘いたりして、楽しく見たりできるようになったということなのです。

 

まとめ

 目の前にあるものの中から何かを読み取ることはそんなに簡単なことではないように思います。喩えるなら、人は皆、何が書かれているかよく分からない文字列で埋め尽くされた壁の前に立っているようなものではないでしょうか?経験を重ねたり、能力を磨くことによって、その中から段々と読める部分が増えていくのだと思うのです。そして、読めないと退屈ですが、読めるようになると楽しくなります。

 河合克敏の漫画には、その「読めるようになるための補助輪」のような役割があるような気がしていて、事実、おかげさまで、今まで分からなかったものが沢山分かったような気になることに成功しました(本当に分かっているかは不明)。

 なので、何かよく分からないものがあったときには、それが面白くないものであるのではなく、面白くなるためのスキルが自分まだ足りないのではないかと思ったりするということです。そして、僕は河合克敏に、僕がまだ分かっている気がしないあらゆるものの漫画を描いてもらえると便利なのにな!!と思ったりしましたとさ。

 おしまい。