漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画原作の映画を見るときに気になること

 「寄生獣」の映画を見てきました。感想としては「面白かったので、後編が楽しみ」という感じです。以上。

 

 で、この映画に限らず、前々から、漫画に限らず原作ものの映画を見るときに思っていることがあります。それは、自分が映画の物語に没入して見れていないことがあるということで、それが嫌だなあと思っているのです。僕は物語を見に来ているので、物語に没入して、ああ面白かったとか思ったりしたいのですが、どうにも自分の中に別の目線がある気がしていて、それは言うなれば、謎のプロデューサー目線のようなものなのです。プロデューサーなんかではないのに。

 例えば、漫画をじっくり忠実に映画化することを考えた場合、2時間程度の映画では、単行本だとだいたい2巻分ぐらいが適当な分量で、3巻だと場合によってはギリギリいける感じと過去の経験から僕は感じています。なので、それ以上の分量になると、どこかを端折らなければいけないのではないかと思っているのです。ギリギリ入るような場合は、頑張って筋をなぞっている感じが出てきてしまい、余裕がないですし、ダイジェストを見せられているような気分になったりする場合もあります。そのため、元の物語を破たんさせないようにしつつ、時間内に納めるには、内容をいじくり回す必要があると思っていて、その辺を見ている最中に考えてしまったりするのです。「ああ、あのシーンはカットされたのか」とか「あのシーンとあのシーンを合体させてこうしたのか」とか「あれとこれを繋げてくるんだなあ」みたいな、なんというかパズルの解き方を見ているような思考が頭の中で繰り広げられ、単純に楽しむことができなくなってしまったりします。僕は楽しみに行っているわけなので、これは邪魔です。

 これの具体例で言うと、映画の「カイジ 人生逆転ゲーム」では、原作で5巻かけて描かれた「限定ジャンケン」が、微妙に要素は残しつつ一瞬であっさりと終わってしまいます。それは映画の山場を次の「鉄骨渡り」に、そして結末をその次の「Eカード」に持ってくるための苦肉の策でしょう。やろうと思えば、限定ジャンケンで一作の映画を作り、二作目で「鉄骨渡り」と「Eカード」にもできたでしょうが、映画を作るということにはお金も時間もかかりますから、結末は物語の大きな節目である「Eカード」のところまで持っていきたいよなあ、などと考えなくてもいいことを考えてしまいました。

 

 もう一つは、同様に省略や入れ替えられた部分に関して、情報の整合性を考えてしまったりするのです。「ここであの説明を入れておかないと、映画で初めて見る人には何のことかよく分からないのではないか?」とか、自分は原作を既読であるために分かっていることを、自分の想像した謎の原作未読者をダシにして、その架空の人に分かるか分からないかなんていう別に考えなくてもいいことを考えてしまいます。困ったことに。

 これも例えば最近の具体例に言うと、映画の「るろうに剣心 伝説の最期編」では、剣心が師匠より与えられる奥義の説明が省かれています。それは通常は右足を前に出す、抜刀術(居合抜き)を、左足を前に出すことでより体重を乗せる「天翔龍閃」という技なのですが、映画の序盤で原作にはある伝授のシーンが省略されており、最後にその技が使われるときも特に注釈がありません。ただ、技を決める瞬間に、左足が一瞬アップになるだけなのです。その結果、自分には分かるけれど、原作未読者には分からないのでは??などと考えてしまったのです。しかし、既読の人にとっては分かるので問題ありませんし、未読の人にとっては本筋には大きく関係する部分ではないので、別にそれをこの映画の中で知ろうが知るまいがどっちでもいいこということなのでしょう。限られた時間の中で、何を説明して何を説明しないのか、全て説明することは可能でしょうが、それではどんどん長くなりますし、テンポも悪くなってしまうかもしれません。だから、省略するという判断なのかなあと、これまた考えなくていいことを考えました。

 

 例を挙げればまだまだ出てきますが、これらのように作り手でもないのに、作り手側っぽい目線で考えてしまうのはなんででしょうか?できれば、そんなことよりも画面や登場人物の心情に集中したりしたいのですが、なぜだかそれらを考えてしまったりします。その理由の一つはおそらく自分の頭の中で情報を整理するために必要な行動なのではないかと思い当たりました。

 映画は原作を未読の人も想定して作られるものと思いますから、映画だけを見て分かるように作らないといけませんし、既読の人が持っている情報というのは、その意味で余分なものとも考えられます。それは場合によっては、原作ではこうだったが、映画では別であるというような、矛盾する情報も含まれるかもしれませんし、原作の情報を持ったままで映画を見てしまうとむしろ分かりにくくなる可能性もあります。次にこんなシーンがくるはずというのを、まだ映画を見ている途中なのに、知ってしまっています。それはある種の予知の力のようなもので、しかしながら、その予知は場合によっては外れてしまうのです。なので、映画をちゃんと見る上では、原作を読んだときに入手した情報を、映画用に書き換えないといけないことがありますし、そのプロセスが上記のような思考となって頭の中に表れてしまうのではないでしょうか。そして、それは個人的には邪魔なので、意識的にできるだけ排除できるように、頭を空っぽにまっさらにして見ようと心掛けていたりするのです。

 

 心がけてはいるものの、今回の寄生獣の映画でも、やっぱり若干色々考えながら見てしまったりもしたので、見ながら、なるほど、よく組み替えてあるなあとか、実写だと嘘くさくなりそうなところを上手にアレンジしてあるなあとか思ってしまったのですが、くそー、もうそれは分かったから、いずれもう一回見るときには、こういうことを考えないで済むように、事前に整理完了した頭で見れるようになるといいのになと思ったりしました。どうせ、後篇が公開する前にはテレビでやるんだろう?などと思ったりしているので、割とすぐにその機会は訪れるのかもしれません。

 

 一方、これはこれで「原作既読者にとっては仕方のないことである」というのを逆手にとった演出というのもあります。例えば、「デスノート the Last name」、映画版の後編の方です。この映画の結末は、漫画原作と異なっているのですが、原作既読の人であれば、漫画と同じだろう「どうせこうなるんだろう?知ってる」となる部分に落とし穴があって、原作を読んでいればこそ、むしろそこに引っかかってしまいます。これは未読の人は新鮮に楽しみ、既読の人は逆手にとられて騙されるという良い演出だなあと僕は思いました。

 

 客観的な目線で、何が正しいやり方かというのは僕にはよく分からないのですが、考えなくてもいいことを考えてしまうというのは、個人的にはとても邪魔で、こういうのを効率よく排除するにはどうすればいいんだろうなと思ったりします。ひとつの方法は、原作の細かい部分をほどよく忘れたときに映画を見るとかだったりするのでしょうか。でも、それも調整が難しいですね。

 漫画原作の映画が沢山作られていて、多分これからも沢山作られるであろう昨今、原作を読んでいるというだけで、上記のような要らぬしがらみにとらわれてしまうというのと、どう付き合っていくべきなのか、まだ模索中です。