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趣味と仕事の違い(オレオレ定義)について

 趣味と仕事の境界って何かと考えると、自分にとっては「それをすることによって誰を喜ばそうとしているか」という対象の違いだと思います。

 自分を喜ばすのが「趣味」、他人を喜ばすのが「仕事」です。僕はお金が介在しようがしまいが、他人を喜ばすためにやっていることは仕事と感じています。ただし、それは0か100かで完全に切り分けられるわけではなく、適度なバランスで混じっていることが多いです。友達に頼まれたのでそれは仕事なんだけれども、その中に自己満足の要素も3割ぐらいぶっこんどくみたいなことです。特にお金が介在しない、あるいはしても少額であるときには、他人が喜ぶことを無償でやるわけですから、その人を喜ばすこと自体が自分にとってとても嬉しいということでなければ、なかなか手を動かす気になれません。なので、引き受けるならその中にぶっこむ趣味の割合が増えることが多いような気がしています。


 さて、インターネットで創作の話をするとき、「上手くなってから人に見せようと思うのではなく、辛辣なことを言われたとしても他人に見せていかなければ上達しない」みたいな話が支持されるのをたまに目にします。これはとても正しいことで、他人のモノサシで評価を受けるには、他人のモノサシを意識していかなければ、評価を受ける方向に伸びていかないという当たり前なことだと思います。
 が、気になるのは、そもそも上手くならなければいけないのか?とか、その上手さは他人に認められる種類のものでなくてはいけないのか?という点です。趣味の領域に留まっている以上は、他人の評価なんてどうでもいいことだと思うからです。自分のやりたいことと他人がやってほしいことがある程度一致していれば、それは幸福なことかもしれませんが、そうではなく、例えば真逆である場合、自分の楽しみのためにやっていることのはずが、他人の楽しみのために自分の楽しみを犠牲にすることになっては元も子もありません。

 カレーが好きな人が自分のために美味しいカレーを作っているときに、他人に「僕はパスタが好きだし、みんなもパスタが好きだからお前がパスタを作ってくれると嬉しい」と言われたとして、パスタを作ればみんなの笑顔は見られるかもしれませんが、自分が食べたいカレーをあまり作ることができなくなってしまうということです。

 なので、僕の考えとしては、趣味でやっているのであれば自分のためにやっていればよく、他人に見せるというような、辛辣な言葉を受けて軌道修正したり、褒められてより褒められる方に誘導される可能性のあるようなことは別に必須ではないのではないかと思っています。先の「拙くても見せた方が良い」というのは他人の価値観を入れるということですから、仕事の領域の話だなと思うわけなのです。ただし、多くの場合、趣味でやっているとはいえ、ちょっとそれで他人の注目を集めたいというような色気を出してしまうことはあって、例えば何かしらのコンクールに出してみるなどを想定しているのですが、それは他人の価値観において、自分の価値観を高く評価してもらいたいということですから、自分の価値観よりも他人の価値観を優先すると解釈できますし、僕の考えでは趣味ではなくなってしまっています。なので、それは仕事なので、辛辣な評価を受けたりしても、それはそうだよなあと思いました。

 自分の価値観を大切にしたければ自分の中に引きこもっていればいいですし、他人に認められたければ、他人に価値観において自分の価値観が断罪される可能性も当然だということです。ただし、前述のようにその辺の境界は曖昧なので、ちゃんと自己認識しておこうと思っています。そのとき、自分がやっていることのメインのお客さんは誰なのかということをです。

 ちなみに、「仕事」は他人を喜ばすことなので、喜ばされたい他人からその代わりとしてお金を得たりもできますが、「趣味」は自分を喜ばすことなので、自腹を切らなければいけません。ときに、自分のためだけにやったことが他人も喜ぶこともあるでしょうが、それはたまたまでしかないと思います。

 そういえば、僕はそもそも頼まれてもいないのに他人を評価しようとする行為自体には長年とても疑問を持っていて、当然自分もそれをやることがあるので、やってはいけない!!と思っているわけではないのですが、「他人を評価したい」というのは煩悩だと思うのです。つまり、他人を評価しているのは自分の勝手な利益のためであるということです。

 繰り返しになりますが、自分が他人を測るそのモノサシは自分の価値観に基づいて作られているので、評価するということは、自分の価値観と他人の価値観が一致しているかどうかを比較しているということになります。良し悪しは相対的なものという意味です。その上で、あなたのそれは良くないからもっとこうすべきという評価結果なのだとしたら、それは自分の価値観を優先して他人の価値観を否定しているということに他なりません。人間が平等だとすると、自分の価値観と他人の価値観は等価ですから、それは平等を破壊するとても差別的な行為であると言えます。自分の価値観で世の中が満たされていた方がだいたい得だと思いますから、そうなるように仕向けているだけに思いますし、自分の利益のために他人を褒めたり否定したりしているだけなんじゃないかと僕は認識しています。
 ただし、例えば何かの審査員であったり、クライアントであったりする場合においてはそうではありません。なぜならば、こちらの価値観による評価を求められているからです。つまりは相手にとっての仕事となっているということです。人間は平等ですが、仕事となると力関係がありますから、それはそういうものだと思います。

 

 ちなみに僕が今この文章を書いている行為においての趣味と仕事の割合は、7対3ぐらいのイメージです。こういうことを思ったと整理したいのであれば、心の中だけで思っていればいいですし、文章にまとめるにしてもローカルに置いておけばいいですが、これを公開することで、他人の価値観に干渉したいという色気が3割ぐらいあるからです。そして、その行為には当然、決してこうは思わない人に対する価値観への干渉も含まれますから、もし反発があったとしてもそれは当然だと思います。

 

 最後にまとめると、言いたいのは以下3点、

(1) 「他人を評価したい」というのは、自分に都合よく他人を動かしたいという個人の煩悩でしかないのではないかということ、

(2) 「拙くとも他人に見せなければ上手くならない」という話は、仕事の話であって、趣味の領域ではそうでもないと思うということ、

(3) 上記(1)と(2)の認識がなければ、自分の利益のために他人を評価したがる人に好き勝手言われやすい条件が整ってしまうので個人的に気分が悪いこと。

 

 こういった認識を持つことによって、僕が趣味的にやっていることに対して口を出してくる人に対する防御のための壁ができるので、僕にとって大変都合がよいです。僕に都合がよい考えを持ってくれる人がもし増えると、必然的に僕が生きやすくなるに違いないという大変ロジカルなこととして考えたりしました。

 こちらからは以上です。