漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

現実を舞台にした漫画はハッピーエンドを迎えにくい話

 「主人公たちの奮闘により、現実にある色々な問題が解決されていく」というような漫画は終わり方が色々と難しいように思います。なぜならば問題自体は、現実に残っているのに、物語の中では解決されてしまうというのは、ある種興ざめしてしまうからです。

 例えば、エネルギー問題があったとして、漫画の中でクリーンで無尽蔵な未知のエネルギー源の採掘により解決した!と言われても、そんな都合の良いものはないよっていうことになりますし、そこまで便利なものがない場合で、これをこうすればエネルギー問題は解決するではないか??という主張を組み上げて解決してみても、では実際にはそれが行われないのは何故?という話になります。そういった解決方法は実は、現実では実現不可能なオーバーテクノロジーを含んだ手段なのかもしれませんし、考慮すべき条件をいくつか無視している物語世界の中であるからこそ成り立つものなのかもしれません。

 漫画のような物語の世界では、仮説を事実として描けるという素晴らしい利点がある一方、事実として描いているものの、結局は仮説でしかないという虚しいものでもあります。であるからこそ、「問題は解決しました!完!!」という結末を迎えるのは、それまでを緻密に組み上げていれば組み上げているほどに、難しくなってしまうのではないでしょうか。

 それでは、そのような漫画はどのような結末を迎えがちかと言えば、その中心となっていた人物の失脚や死亡、あるいはそれに類するような事象により、このまま行けば問題の解決したよりよい世界が来るのではないか?という夢を見せつつ、道半ばで止まるというような終わり方を迎えるものが多いように思いました。

 

具体例 など

(具体例の漫画名をネタバレ配慮して挙げると、その時点でネタバレになってしまうという大変面倒くさい感じなので、まだ読んでいない漫画がここに含まれるのではないかと動物的な勘で察した方は読むのを止めたりするといいと思います)

 

 分かりやすい例で言えば「デスノート」があると思います。この漫画の冒頭には名前を書いただけで人を殺せるノートを手にした主人公が、悪人を次々と私的に裁いていくことで、「法の目をかいくぐった悪も殺される」という状況を作り出し、世の中を良くしようというお題目が掲げられます。では、主人公が勝ち続け、世の悪人を殺しまくった結果、悪人未満や悪人予備軍も萎縮し、「世に犯罪の少ない世の中がやってきました、主人公は新世界の神になったのです!完!!」となるかと言えば、そうはなりませんでした。ここには、「悪人とはいえ人を殺しまくるということが良い結末に繋がる」という物語を肯定的に描くのはいかがなものかという倫理的な側面もあるかもしれませんが、主人公が勝って神になって終わるという結末を想像すると、それにも少なくとも僕には違和感がありました。となると、主人公の死によってこの動きを終結させるという結末しか思い浮かばず、事実そうなったのでした(ちなみに、そうなったからと言って、面白くないと思ったとかいうことはまるでありません)。

 他には「沈黙の艦隊」では、世界政府というような、実現がとても難しい概念に、現実味を持たせるように物語が運び、それを中心とした戦いや議論も大変素晴らしく面白く、ひょっとすると実現してしまうのでは??というような気持ちでどきどきわくわくしながら読み進めた漫画でしたが、主人公の海江田四郎が狙撃され、脳死状態になることで物語は終結してしまいます。

 類似する展開を見せるものに「アクメツ」、日本に実在する政治家などに似た悪いキャラクターを対象として「一人一殺」、相手を殺して自分も死ぬという行為を遂行する、同じ顔をした謎のヒーローであるアクメツが活躍する漫画もあります。が、この漫画もアクメツたちの死によって終結してしまうのでした。

 そして「キーチVS」、この漫画でも、主人公のキーチは、ままならないこの日本という国の、ままならない世の中に宣戦布告し、要人を誘拐して脅迫することで、無理矢理に変えようと試みます。こちらは「沈黙の艦隊」や「アクメツ」と異なり、どう考えても負け戦としか考えられませんが、物語の進行の過程、要人の誘拐や逃走劇、人々の心理は緻密に描かれています。そしてやはり、ボロクズのように殺されることで終結します。主人公は依然として拳を振り上げながらも。

 

なぜそうなるのか?

 他にも枚挙に暇がありませんが、主人公の素晴らしい力によって世の中が平和になり、ハッピーエンドになりましたという物語は、それが現実を舞台とし、緻密に作られていればいるほど、難しいように思います。なぜならば、今の世の中にある問題は、水面下で沢山の要素が複雑に絡み合った結果、表面上の事象としてそう見えているだけで、基本的に単純に何かをどう変えれば簡単に解決するというようなものではないからです。詳しく調べようとすればするほどに、その合理性を理解し、変えることが難しいという結論に至ってしまうのではないでしょうか。世の中を変えるプロダクトやサービスを作りたいとか、業界の仕組みを変えたいなどとキラキラした目で入社してくる新入社員が、数年するうちに仕組みを理解してしまい、業界に染まってしまうようなものです。

 漫画では、そこを乗り越えるために、チート行為のようなアイテムが出てきたり、いくつかの考慮すべき前提にあえて目を瞑った解決方法が出てきたり、あるいは、それが変えがたい現実であるということをありありと見せつけるようなことになってしまいがちだと思います。しかし、それは実現不可能なものですから、それによる解決方法による幸福なラストは虚ろであることが、現実を舞台にしているために逆にくっきりしてしまいますし、陳腐と捉えられてしまうかもしれません。

 

良いラストを迎えても大丈夫な方法

 良いラストを迎えるためには、現実に存在する問題にがっぷり四つに組み合わないことが肝要ではないかと思います。つまり方法のひとつは、それらの問題はあくまで味付けとして、物語の主軸を主人公の個人的な話に持っていく方法があります。そうすることで、解決不可能な複雑な問題は置いておき、解決可能な問題だけに取り組むことができます。あるいは、現実を舞台にすることを止めたり、パラレルワールドや、未来を舞台にすることで、現実以外の問題に置き換えてしまえば、解決することが可能になります。

 現実の問題は、百個の連立方程式のようなものだと思います。非常に多くの要素が絡み合うために、沢山の条件が提示されています。しかし当然、全ての式を満たせる変数への入力は解がない場合がほとんどだと思います。では、どうすれば解決可能になるかと言えば、その中からいくつかの式のみをピックアップして解決することや、前提となる式そのものが少なくなるように問題を変えてやらなければなりません。前者が個人の問題に落とし込む方法であり、後者が舞台を現実ではない場所に移す方法です。

 現実の問題はシンプルに記述できないことが多いですが、一方、現実に存在しない問題はシンプルに記述することができます。例えば、魔王によって不幸になった世界は、その一つの式だけ満たしてやればよいですから、魔王を倒せば世界は平和になります。それはとても分かりやすいです。

 であるならば、現実をそのようにシンプルに見立てて、特定の政治家やなにかを魔王とすることも大変分かりやすいです。しかしながら、現実の問題ははおそらく構造の問題であって、個人の問題ではありませんから(僕の中の前提として、社会において単体で世界を揺るがせるほどの力を持った有能な個人は存在しない)、次に同じ場所に座る人が、立場上の当然の合理性に基づいて同じようなことをするだけではないかと思います。世の中の問題は大抵複雑ですし、複雑な問題は簡単には解けないのです。

 

なにが言いたいか

 ジャン・コクトーの言葉に「運命とは地獄の機械である」というものがある、と「からくりサーカス」に書いてありました。原文を読んでいないので、意味はよく分かっていませんが、世の中の不幸を要素に詳細に分解していると、それがある種の合理性によって下支えされているという事実に気づいてしまうことがあり、そういうときにこの言葉を思い出します。沢山の歯車が複雑に絡み合い、あらゆる歯車が、求められた役割を正しく果たすことで生まれている不幸は、あまりにも合理的過ぎて解決することがとても難しいと思いました。つまり、それらの問題に正面に取り組む以上は、基本的に負け戦なのだと思います。それは物語世界でも同様で、都合良くごまかしてしまうか、負けるしかありません。

 現実を舞台にして、現実に存在する問題を扱う漫画を面白く描くのは、そのようにとても難しいことだと僕は思います。それでも、そのような漫画が描かれ続けているのは、そこに生じている不幸に作者が憤っているからではないでしょうか。現実の問題は、多数の負け戦を経験しながらも少しずつ現実で解決するしかないのではないかと思いますが、その裏には、そうでいいはずがないという人の気持ちがあって、それが漫画などの物語の世界にも表出しているのではないかと思ったという話でしたとさ。

 尊い。