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加害者の物語としての「るろうに剣心」について

 映画を観たのをきっかけに、アニメの「追憶編」「星霜編」を観て、原作も読み返しているのですが、面白いなあと思ったのは、「るろうに剣心」は加害者の物語なのだということでした。

 多くの物語は被害者の視点で描かれます。なぜなら、その方がきっと都合が良いからです。被害者の物語では、加害者の行為は否定され、被害者の復讐は肯定されます。それがともすれば視点が違うだけで、実は全く同じ行為であったとしてもです。だから、物語の主人公は被害者側になりたがるのではないかと思います。
 しかしながら、被害者の被害に感情移入し過ぎると読んでいても辛いので、主人公は直接的な被害者にはならないことも多いです。つまり主人公がとる立場は「被害者の味方」です。「弱き者の味方」です。自分の喪失はそこそこに、被害者としての大義名分のもとに加害者を罰するという痛快さが得られる枠組みです。これは、昔々の物語の方が顕著に感じており、最近の物語では、もう少しややこしく、主人公がそのような行動をとっても良いという言い訳を用意してくれているように感じています。

 この物語の主人公、緋村剣心は元人斬りです。彼は幕末の動乱の中、維新志士側につき、新時代を作るという大義名分のもとに「人斬り抜刀斎」として、自分たちと敵対する幕府側の人間を沢山殺してきました。しかしながら、その罪を自覚し、明治の新時代になってからは、刃が峰についた奇妙な刀、逆刃刀を持ち、人をボコることはあれど殺すことはなく、自分の目の届く範囲の弱き者を助けながら、贖罪の旅を続けていました。この物語は、緋村剣心が「守られるべき弱き者」であり「物語のヒロイン」である神谷薫と出会うことから始まります。

 再読してとても面白く感じたのは、物語の後半「人誅編」です。なぜならば、ここでは剣心がかつて犯してきた罪と向き合わなければならないからです。天に代わって誅するのではなく、ただ個人の恨みのために行われる「人誅」、その対象は、物語の主人公である剣心なのでした。いかに改心しようと、いかに人を守ろうと、奪われた者は返ってきません。贖罪を続けようと罪は罪なのです。少なくとも奪われた者たちには、そう思い続ける権利があるのではないかと思います。ここでは剣心に姉を奪われた少年、雪代縁を中心とした、剣心に何かを奪われた者たちが集まり、復讐劇が繰り広げられます。
 ここで少し残念であったのは、剣心への復讐を企てたメンバーの多くが、あまり被害者然としていなかったことです。それを口実としてただ戦いたかった者や、逆恨みのようなものも多く、奪われた喪失感を非常に強く持っていたのは雪代縁だけでした。さらには、縁の復讐心にも多くの誤解があります。それは剣の犯した罪ではなく、不幸な事故と解釈できるものでもあったからです。こうなってくると、剣心が加害者であるという立場が若干曖昧になってきてしまうのではないかと思いました。その意味では、縁の姉であり、剣心に「夫となるはずの男性」を奪われた雪代巴の方が、最も剣心に正当に(?)傷つけられ、正当な復讐を行ってもよしとされる立場であったのかもしれません。そして、巴と剣心の間のにあった最初は恨みであったはずの感情の変遷は、少なくとも読者の僕にとって納得のいくものでありました。「怒り」というものは「自己肯定」だと思います。なぜなら負い目があると怒り切れないからです。そして、自己肯定というのは、多くはごまかしだと思います。世の中には完全に自分だけが正しいということはないことが多いからです。なので、相手のことをよく知ることで、怒りきれず、恨みきれなくなってしまうことはあるのではないかと思います。

 自分の信念のために犯してしまった罪を責められたとき、そして、それがもはや取り返しのつかないことであったとき、人はそれにどのように向かい合うことができるのでしょうか?被害者に許してもらうことで解消されるのでしょうか?しかし、であるならば、被害者視点の物語では、加害者が殺されたり不幸に落とし込まれたりすることが多いのは何故でしょうか?加害者であった主人公は、被害者たちに殺されることでしか、彼らを慰撫することはできないのでしょうか?人の死が絡むと取り返しがつきません。なので、その時点でもはや手遅れなのです。漫画であれば生き返らせるという特別な解消法もありますが、そんな禁じ手(と言うにはよく使われますが)を使わなければ消えることはありません。できることと言えば、忘れることぐらいです。

 結局、この物語を通じて縁の喪失感は埋まりません。彼への救いは、かつて目の前で殺されてしまった姉を助けられなかった代わりに、今度は殺されそうになっていた薫を助けることができたことでしょう。そして、巴の日記により本心を理解することで、自分の企てた復讐という行為が正しいやり方ではなかったと知れたことではないかと思います。彼の心の問題は彼自身が解決するしかありません。新時代を切り開くために剣心が犯した罪と同様に、縁が復讐のために犯した数々の罪も、許されないことであるはずです。彼はあの後、かつての剣心と同様に贖罪を行うことになったのかもしれません。その罪が決して許されないことであったとしても。

 世の中は分かりやすい「悪」がいた方が分かりやすくて良いかもしれません。悪を倒すことに何の負い目も感じずに済むからです。しかし、視点を変えれば、その「悪を倒す行為」が、実は「別の悪」であったのかもしれません。それに気づいたとき、人はどうすれば良いのでしょうか。例えば、「NINETY NINE NIGHTS」というゲームでは、プレイヤーが操作するキャラクターが、襲いくるゴブリンを爽快感たっぷりに皆殺しにした後、今度はプレイヤーの操作するキャラクターがゴブリン視点に変わります。白い肌を持つそのゴブリンは、さっきまでプレイヤーが操作していたキャラによって、目の前で家族を殺されてしまいます。

 多くの物語(特に少年誌)では、自分を傷つけた相手をいかに傷つけ返すかや、自分についた傷をいかに解消するかが描かれ、読者はそれを疑似体験することができますが、自分が犯した罪と向き合うということについての物語を通じた疑似体験は希少ではないかと思います。もしかすると、それは求められていない物語なのかもしれませんが、そういうことは生きていく中できっとあるはずです。るろうに剣心は、それに踏み込んだ物語であると感じましたが、とはいえ「星霜編」の終わり方は悲しかったので、あれはアニメオリジナルのパラレルワールドとして整理しておくことにして、とりあえずは漫画の「次世代に繋いだ希望のある終わり方」を頭に置いておこうと思いました。

 映画の「るろうに剣心 伝説の最期編」は明日公開だそうですね。