漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

人間じゃないものに人間を見る話

 「寄生獣」のミギーは「地球は泣きも笑いもしない」などと言ってとても冷静です。その通り、地球は泣きも笑いもしません。涙腺もなければ、表情筋もないからです。「エアマスター」の深道(兄)も人間は大きな大きな地球の上の薄皮一枚の上にいるだけの存在で、人間がいようといまいと、地球は元気だろうなんてことを言います。それも全くもって正しいと思います。人類は地球の体積の大部分を占めるというマントルにまだ到達してさえいません。しかしながら、人間はそんな泣きも笑いもしない地球の、薄皮一枚の上にいて、惑星という巨大な存在からすればゴミ粒以下でしかないような存在であるにもかかわらず、地球をまるで人間であるかのように見てしまったりもします。僕が思うに、人間が人間であるということはそんな部分にあるのではないでしょうか。

 僕が人間に「人間っぽいなあ」と感じる部分は、その想像力です。それは言い換えれば予測能力や分析能力と言えるかもしれません。目の前の物を理解し、その理解をもとに考えることで、次にどうなるかを予測したり、過去どうであったかを分析したりします。その能力はとても尊いです。なぜならば、想像するということは人間の認知を「今現在」だけでなく、「遠い過去や遠い未来」に広げることができるということだからです。その場その場で命を繋ぐということであれば、人間以外の動物もやっていますが、遠い過去を思い、遠い未来のために何かをするということを意志として行動しているのは地球上では人間だけなのではないでしょうか(あるいはネズミやイルカが…)。

 そして、その人間の想像力が一番詳しく働くのが人間に対してだと思います。猿の表情から感情を読み取るのは難しいですが、人間の表情では比較的やりやすいはずです。なぜならば、人間は生活する中で人間の行動を予測してきた過去の蓄積が沢山ありますから、それらを分解して理解するための材料を沢山持ち合わせているからです。だから、ロボットも人の形をしたものが動きを見ていてきっと面白いです。人間の形をしていれば、人間の予測を行うために集めた材料をそのまま使えるからです。

 この前、ハリウッド版のゴジラを観ました。ゴジラはそもそも着ぐるみの中に人が入って撮影していたということもありますから、その体格と動きは、他の動物よりは人間に似ています。なので、同じ怪獣であるにもかかわらず、敵役として登場したムートー(人間には似ていない)よりも、ゴジラの方に親近感をなんとなく自然に感じてしまいました。人間に似ているものは何やら「分かる」ような気がしてしまうのです。

 幽遊白書に雪菜という少女が出てきました。彼女は氷女という妖怪で、彼女の流した涙は氷泪石という宝石に変わります。彼女を捕まえた強欲な人間である垂金権造は、彼女を追い詰め、涙を流させ、氷泪石を収穫します。垂金は残酷であり、読者は怒りを覚るはずです。

 しかし、雪菜をアコヤ貝に置き換えてみましょう。人間はアコヤ貝に無理矢理に真珠を作らせて、それを収穫しています。これらはある種似ていますが、多くの人は真珠の養殖を残酷な行為とは思っていないのではないでしょうか?無論、雪菜とアコヤ貝は異なる存在です。その大きな違いと言えば、人に似ているかどうかです。妖怪は人間ではありませんが、人間に似ています。人格と感情があり、それは人間にも伝わります。一方、アコヤ貝が何を考えているかは分かりません。アコヤ貝は貝なので人間には似ていません。雪菜は妖怪ですが、人間であるかのように扱われます。それはつまりは人間に似た部分が大きいので、人間であるかのように扱っているということです。

 五十嵐大介の「海獣の子供」の中に、イルカやクジラは頭が良いから殺してはいけないという考えについて、そこでいう「頭が良い」というのは人間が定義した頭の良さであり、それはつまり人間に似ているというだけじゃないか?というようなことが書いてありました。「頭が良いから特別である」というのは、「人間に似ているから優れた動物である」という、結局は人間の自己愛の延長ではないかと。

 コウモリのような超音波を使う動物からすれば、人間は劣等種です。暗闇で障害物を検知することもできないのですから。コウモリが人間よりも優越な存在であった場合、眼鏡用超音波洗浄器を人間よりも優越な存在として考えるかもしれません。なぜなら、それは超音波を発せるという意味でコウモリに似ているからです。

 犬や猫を飼っている人間は、犬や猫を食べるという行為を野蛮と感じるかもしれません。牛や豚には同情しないにもかかわらずです。それはつまり、犬や猫と生活をともにすることで、犬や猫にある種の人間性を見出しているからでしょう。犬や猫は言葉を喋りませんが、エッセイ漫画などを読むと、ト書きで人間の言葉を喋らせているものも沢山あります。寄ってくる犬の絵の横に「遊んで!遊んで!」や「ご飯が食べたい」などと書かれていますが、当然犬は喋りませんから、それは作者が解釈した言葉であり、つまりは作者の言葉です。それを犬に仮託しているだけではないかと思います。実際、犬が遊んでほしいとか、お腹が空いていたと思っていたとしても、そこにはきっと乖離があります。

 ペット相手だけでなく人間相手でも人とはそういうものだと思っていて、他人の心は分からないにもかかわらず、それを勝手に想像して、それがあたかも一つの事実であるかのように捉えることも珍しくはありません。他人の考えていることとは、つまりは自分の想像力です。それは正しいかもしれませんし、正しくないかもしれません。

 いくつかの例を挙げたように、人間はその想像力によって人間に似たものを「名誉人間」として捉えているような気がしています。「人間社会の基本的なルールは、仲間を殺してはいけないこと」だと僕は思っているのですが、それで言うと、それぞれの人が自分の環境や経験から人間以外に見出した名誉人間もまた「殺してはいけない」と思っているように思います。

 例えば、僕の家の靴箱にはボロボロになった靴が一つ、捨てずに置いてあるのですが、それは自分以外の人から見ればただのゴミだと思います。しかし、僕にとってのそれは昔とても大切な人に買ってもらったものなので、もう履けなくなっても捨てる気にならず置いてあります。僕にとってその靴はある種の人間です。人間は殺せませんから、その靴はまだ靴箱にあります。

 多くの漫画は架空の物語ですから、その中の登場人物は実在しません。実在しないのだから、不幸になろうが幸福になろうがどうでもいい話だと思います。冷静な人の冷静な視点で見てみればその通りだと思います。しかし、僕はそんな物語に一喜一憂したりしています。物語の登場人物が、つまりは実在していない人が、作者の意図通りに痛めつけられ、苦難を乗り越え、そして幸福になったりすると、涙を流して喜んだりします。それは空虚で下らなくて無意味かもしれません。でも、彼ら彼女らは僕の中で人間に似た名誉人間ですから、人間と同じように扱っているのです。そして、そのルールを共有していない他の人にとってはそれは空虚で下らなくて無意味でしょう。そして、そういうものだから、別に気になりません。ボロボロの靴を何故捨てないの?と言われたりもしますが、捨てません。価値を見出さないのは気になりません。しかし、もしこちらの価値観に切り込んで来たら戦うしかありません。

 人間の死体は人間に似ています。「寄生獣」の泉新一は、「死んだ犬は、犬の形をした肉だ」と言いましたし、それは事実でしょう。死んだ人間も人間の形をした肉ですが、知り合いの葬式で死体を見ても、それを単なる肉だとは思えません。人間ではなくなったとしても、まだまだ名誉人間だからです。名誉人間は焼かれ骨壺に入れられ、お墓に入ります。そうなると今度はお墓が名誉人間です。僕は人間の魂なんかこれっぽっちも信じていないくせに、墓参りには行っています。彼はまだ僕の中で石の形をした人間だからです。お墓の前で、心の中で、彼に何かを報告したりもします。こう書くと、名誉人間は信仰に似ています。かつては、抗えない自然の脅威や、感謝しきれない自然の恵みに人間を見出していたのかもしれません。

 これらはある種の錯覚です。「人間を認識する」という人間に特異に発達した機能が誤解を招き、人間でないものにある種のパターンとしての人間を見出します。三つの点があれば顔に見えるとかもきっとそういう類のものでしょう。写真の背景に人の顔を見つけ出しては心霊写真と言うこともあります。この誤解があるので、僕は物語を楽しめますから、この間違った能力があって良かったなあと思います。正しくはないんです。間違っていると言われたらそうだと思います。でも、その誤解の部分が人間の文化の多くの部分を実は担っているのではないでしょうか。ポジティブにもネガティブにも。

 人間が人間以外に人間を見出して名誉人間にするのであれば、条件が異なれば、人間は人間なのに人間以外と認定してしまうこともあると思います。なぜならば、前者の理屈では、人間を見出す条件は遺伝子的にホモサピエンスであるということ以外のところにあるからです。人形のように人間の形をしていれば人間を見いだしやすいですが、人間の形をしていなくても人間を見いだすこともあります。同様に、人間の形をしているというだけでは、人間を見いだせないこともあるかもしれません。つまり、人間は別の人間を「人間」ではない、分かりやすく言い換えれば「仲間」ではないと認定することがあるんだと思います。これがあるいは差別と呼ばれるものの一種です。同じ人間ではありませんから、人間を扱うときにはできないような残酷なことも可能になります。人間を見いだせるか見いだせないかの違いは人によって異なると思いますが、何でもいいのだと思います。肌の色であったり、国籍であったり、見た目の美醜であったり、趣味嗜好であったり。

 「銀と金」で神威家の皆殺し事件を企てた犯人はその家で虐げられてきた家族でした。犯人のうちの一人は反撃にあい、息を引き取る際に一言「差別されたんだ」という言葉を残します。彼は自分と他の家族を同じ人間だと思っていましたが、家族は彼らのことを同じ人間とは思っていなかったのです。このエピソードは、その認識の矛盾が起こした悲劇を描いたものであると思いました。

 さて、前述のように、何を人間と思い何を人間と思わないかは、人によって認識が異なると思います。同一の社会集団に属する人間同士であれば、それなりに一致しているかもしれませんが、完全な一致はきっとできません。人間でないものを人間であるかのように扱うのは、共通の認識を持っていない人からみれば滑稽です。しかし、自分が人間と同等であると思っているものを、それは人間ではないから粗末に扱ってよいと考える人には、まるで自分の知り合いが殺されようとしているのと同じように抵抗を感じます。その辺は、そもそもが分かりあえないものだと思います。でも多分、使っている機能は同じなのだと思います。パラメータが異なるだけで。

 僕は特定の宗教の信者ではありませんし、これからも入信はしないと思う一方、こういうことを考えると実は既にそれなりに沢山の信仰を持っていると思います。踏み絵を踏めない切支丹を不思議に思う一方、大切な本を破られたりすると、それが新品で買い直し可能なものだとしても怒ると思います。思い出のある本は既に量産品でなく自分という人間の一部であるからです。セーブデータをいじれば作れるレベル99のデータと、自分が延々と作業を繰り返した結果のレベル99のデータは同じものですが、自分にとっては違います。それもまた、思い出を含んだ自分という人間の一部だからです。こういうことをここしばらく思っていて、自分には理解できなくても他人には大切なものがあって、それを踏み荒らすのはいけないだろうなと思っています。

 さて、実際の世の中に対する話をする上で、架空の物語の例を引用しまくるというおかしなことを沢山してみましたが、これは上に書いたような感じに、それらの物語が自分の中での名誉人間となっていると思っているという意味です。現実と虚構の区別がついていません。それは他人から見れば、滑稽なことかもしれません。そして、そういうものだろうと僕は思います。