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自分をキチガイだと思ってきた話

 「キチガイ」という言葉に何を込めるかは人によって違うと思いますが、僕は僕の中のキチガイという言葉が自分に当てはまるとずっと思ってきました。自分が他人に対して、この人はキチガイだなあと思うのと同じくくりに自分もまた入っていると思ってきたのです。

 キチガイキチガイであるために重要な条件は、まともな人たちの中にいるということだと思っています。例えば、無人島にひとりでいる人は、ひとりですから他者と比較がされませんし、もしまともな人に「奇行」と呼ばれるような行動をどれだけとったところで、キチガイとは呼ばれません。もし、その無人島にもうひとりの人間がいたとして、その人もまた同じ奇行をする場合も、キチガイとは呼ばれないでしょう。そんな中にまともな人がやってきたとしたら、そのまともな人が初めて彼らをキチガイと呼ぶかもしれませんが、しかしながら、もしかすると、そのキチガイ達の方もそのまともな人のことをキチガイと呼ぶのかもしれません。僕はキチガイとはそういう相対的なものなんじゃないかと思っています。その人にとって自然と思える行動が、他の大多数の人と異なるという意味合いです。

 さて、前述のように僕は子供の頃から自分をキチガイと思っていて、それは、自分が何かに直面したときの感情的な反応が他の人とは異なるということを認識していたからです。僕が笑ったところで、みんなが全然笑っていなかったり、みんなが普通と思っているようなことで怒ってしまったり、喜ぶべきらしい場所で喜べなかったり、みんなが思いもよらなかったものに喜んだりしていた感じです。子供の頃に、そういう感情を素直に外に出していると、みんなの自分に対する反応がおかしいということは分かります。そうなると色々と不都合ありますから、僕はみんなと同じように反応するように自分の表面的な感情の出し方をシチュエーションに合わせて個別に修正し、それなりにまともに振る舞えるようになってきました(自己認識なので多分きっと今でもどこかおかしいでしょうが)。こういう、世間一般の「まとも」という感覚に合わせて自分の行動を修正するのは誰でも多寡の違いこそあれそれなりにあるものなのではないかと思っています。自分は他人になったことがないので正確なところはよく分かりませんが。
 とにかく、僕はまともに見えるように色々策を講じてきた感じがしますし、もしかしてまともに見えてないんじゃないかという恐怖と戦ってきましたし、今も少なからず怯えて日々びくびくしている感じです。

 こういうのを続けているとどうなるかというと、まともになることに習熟すればするほど、修正すべきことに沢山気づき過ぎて、とても疲れてしまいます。つまり、他人といると極端に疲れてしまうので、一人になりたくなります。結果として、僕は一人で行動することを好みますし、一人で本ばかり読むのが好きな感じになりました。これが不幸かというと、トータルで見ると別に不幸とは思っておらず、なぜならば今の僕は毎日それなりに面白おかしく暮らしているからです。困るのは、こんなにも他人と接することが苦手なのに、仕事などで人間関係の調整を色々しなければいけないときがあることで、普通の人の何倍も消耗する行為を、普通の人の何倍もやるはめになると、本当に疲れてしまいます。なので、その時間以外は大変読書がはかどります。

 「アナと雪の女王」で、氷の魔法の力を制御できなかったエルサが、生まれ育った国を離れLet it Goするシーンを僕が非常に良く感じたのは、あそこに本を読んでいるときの自分と共通するものを感じたからだったんじゃないかと思いました。そうだ、一人になれば、自分はキチガイではなくなるのだ、でも一人にならなければそれを達成できないのだなあと思ってしまいました。エルサにアナがいたように、僕にも自分のキチガイっぷりを許容してくれるお友達が数少なくもいますから、彼ら彼女らを頼りに社会との付き合いをおっかなびっくり続けていけています。

 あとは、キチガイも悪いものではないよと思うのは、僕が今している仕事は、キチガイだから貰えてるということがある気がしていて、まともな人であれば至らない結論に、僕が考えるとなる場合が今まであったようで、どうやらそれを面白がられているという良さがあります。なので、おかげさまで比較的割の良い仕事にありついている感じがありますし、色んな幸運の結果、自分の歪みが良い感じにハマれる場所が見つかってよかったなあと思っていますが、もし、そうでなかったと想像したら、おそろしくなってしまいますね。

 こういうキチガイをごまかす人生を送っていると、色々と勘所が分かってくる感じがするのですが、その中で見つけた方針のひとつは、まともな人と密に接さない限りは、自分の異常性を忘れられて楽というのがあります。なので、インターネット活動でも、あまり他人様と密に双方向でコミュニケーションをとるということをやらず、このブログやTwitterのように基本的には一方的に発信して、発信欲を満たして終いという感じになります。Facebookやかつてはmixiのように他人と密にやりとりをしないといけなくなると、疲れてしまうからやめてしまう感じがありますから、片方向のインターネットは居心地が良くて素晴らしいです。


 さて、漫画の話を書くと、阿部共実の漫画ではこの手の問題がよく取り上げられている気がします。ネットで簡単に読めるものであれば、「大好きが虫はタダシくんの」などです。自分の中では筋が通って筋が通った話をしているつもりなのですが、周囲のまともな人からはまともでないということを指摘され、それを修正する作業で頭がいっぱいになってしまい、より奇妙な行動をとってしまうことで、事態が悪化してしまうような感じです。読んでいて大変分かるなあと思ってしまいますが、この分かるなあというのも自分の中で閉じた感覚なので、他とちゃんと一致しているかは分かりません。こういうところをいちいちちゃんと定義から確認しないことで、齟齬があってもなんとなく上手く勘違いして行く感じが世の中と言う気がしていて、もう本当にみんなそれぞれ適当に勘違いしながら、分かりあったと錯覚していけばいいのにと常々思っています。

 最近では都留泰作の「ムシヌユン」の主人公も似た傾向があり、虫博士になりたかった彼の思いは何の矛盾もなく整然と語られる一方、周囲とは決定的にずれていて、そのずれを自覚するものの上手く修正できるわけでもなく、ひきつった顔で歪んだ笑顔を作るのが精いっぱいという感じが、自分が表面を上手く取り繕うのに失敗した時の感じを思い起こさせるので、大変嫌だなあと思いつつ、その嫌な感じが自分の外にもあるということに幾ばくかの安心を感じたりもします。

 

 僕が思うに、完璧に「まとも」な人の数は、きっと完璧に「キチガイ」の人と同程度しかいないんじゃないかと思っていて、大半の人はその辺のズレを周囲に適当に合わしつつ、ごまかして生きているんじゃないかと思います。また、それを自分で自覚している人と、そうでない人もいるでしょうし、その上で修正しようとする人も、それを諦める人もいるでしょう。また、まともとキチガイも準ずる価値観の相違でしかなく、数の趨勢が逆転すれば立場も逆転してしまうかもしれません。

 

 とりあえず、僕は自分が現代の日本の常識的な感覚と比して異常であると自認しているので、あまり大きな集団に属することを好みません。なぜならば、大きな集団に属すると構成員が多いがゆえに確率的に常識が平均化しますから、自分が異常であるということを強く自覚させられる可能性が上がりますし、その中で上手くやっていくためには、考えないといけない余計なことが沢山増えてしまってダルいからです。つまり、どうにもならない自分の特性に合わせて、楽な道を模索しているという話です。

 

 同じく自分が異常と思っている人がこの文章を読んだとしたら、他にも同じような人がいるんだと思って安心してくれるとグッドなのではないかと思いますし、その人の異常性はきっと僕の異常性とはまた異なるものでしょうから、密に接するとまともな人と接する以上に軋轢が生まれる可能性が高いですし、せいぜい点で接する程度に留めて、お互い独立してやっていきましょう。幸あれ。