漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

形式だけが残る話、あるいは巫女としてのおっさんの話

 人間の他の動物と違う部分は、世代を超えて情報を伝えられる文化を沢山持っているということではないかと思います。「巨人の肩の上に立つ」という言葉がありますが、現代の人々は、昔の人々が発明・発見した何かを踏み台にして生活をしています。その結果、視界が開け、たった一世代では到達できないような光景を人々は見ることができるわけですが、その「古の巨人」たちと、現代人が明瞭にコミュニケーション出来ているかと言えば、そうでないケースも多いと感じています。その、古の巨人たちと明瞭にコミュニケーションとる手段のひとつが学問と呼ばれていて、彼らが何を喋っているのかということを理解して初めて肩の上に安全に乗る権利が得られるのではないかと思いました。
 しかし、世の中にあるものの中で学問化されている領域というのはごく一部でしかありません。もはやコミュニケーションをとることができなくなった巨人たちも沢山いるのです。彼らはこの世の中でいまだ活動をしているものの、人間とお互いにコミュニケーションをとることができぬままに、なんだか分からないまま、共存しているというのが実情ではないでしょうか。この言葉が通じなくなった巨人たちこそが、形式や様式と呼ばれるものではないかと思います。

 その一例として、料理があるんじゃないかと思います。ある種の料理は、生活のための知恵であったはずです。例えば乾物や発酵食品は、食べ物の保存性を良くし、生のままではすぐに腐って食べれなくなってしまうものを長期間において保存しておくための知恵の集積です。なので、その観点から言うと、味というものは副次的なものでしかなかったと捉えることもできます(とはいえあまりにも不味いものは残らなかったと思いますが)。しかしながら、冷蔵冷凍技術や、流通網の発達した昨今では、昔では獲れたその場でしか食べられなかったような生ものも、遠く離れた場所で食べることができるようになりました。また、農業技術の発達も相まって、季節も問わずある程度の食材を手に入れることもできるようにもなりました。そうなってくると、それらの食べ物に関しては、かつて持っていた保存性という「古の巨人」との会話の方法が薄れていき、形式としての味の部分が主に成り代わってしまっているように思います。

 具体的な例を挙げれば、寿司は何故酢飯で握られるかというと、一説によればかつては鮒寿司や、なれずしのように発酵食品であった寿司が、それゆえの米の酸味の部分を、発酵させなくても再現できるように酢を使ったのだと言います。もともと発酵食品であったものの、味を再現するために酢が使われたというのが事実だとすると、まさしく形式だけが残っていると言えるのではないでしょうか。
 また、「もやしもん」でも取り上げられた、キビヤック(アザラシの腹の中に海鳥を詰め込み、地中に埋めて発酵させた食べ物)なんかもその典型例で、アラスカやグリーンランドなどの植物の生育が難しい地域では、貴重なビタミン源であったと言います。それが、食生活の現代化が進んだ結果、必ずしも必要ではなくなったのだと思いますが、いまだ伝統として残っています。

 食生活というものは、人類の歴史の集積であり、そこには様々な知恵が含まれているはずですが、世の中が便利になった結果、多くの人はその意味を忘れ、味のみを形式として残したものに成り代わっているかもしれません。

 これらのような巨人とのコミュニケーションの喪失は漫画表現なんかにも見て取ることができます。例えば鼻を鼻筋を一辺とした三角形に描く技法は、もともと鼻とその陰を表現したものであったと思われますが、形式として左側に描かれた三角形はそれはそれとして描かれた上で、右側にトーンで陰が描かれたりもします。いつの間にか、当該三角形の「陰としての意味」は消失し、形式だけが残ってしまったのでした。漫画的な絵というものも世代を超えて受け継がれてきた技法の集積であり、最初にそれを開発した人が持っていた意図はいつの間にか消失し、形式的な絵が様式美として残ることになります。そして、それらは、その歴史の外部から来た人から見てみればとても奇妙なものに見えてしまうでしょう。それが、程度の差はあれ、ある小集団の持つ伝統のようなものではないかと思いました。
 こういうものは、外部から見ればとても奇妙ですが、その裏には実はそれなりの合理性があり、しかしながら、その合理性はいつの間にか伝達が失われ、形式だけが残っているということです。

 世の中には沢山のルールがありますが、そのルールと向き合う際に、なぜそのルールがあるのかを考えるということは重要であると思います。「古の巨人たち」は役に立つことも多いですが、彼らとコミュニケーション手段を失ってしまったが最後、それを制御する術を失ってしまうかもしれないからです。いつの間にか、ルールを守ること自体が目的化してしまい、その結果、それがそもそも成そうとしていた目的からむしろ乖離してしまうこともあります。誰が決めたかもわからない何のためかもわからないルールをうっかり無視してしまった結果、起こる惨事もあります。であるからこそ、彼ら巨人たちとの会話することができる巫女のような存在が必要とされていて、それはあるいは学問の顔をしていて、それはあるいは長年会社にいるおっさんの顔をしています。長年会社にいる巫女としてのおっさんがいなくなってしまった結果、失われるものも多いです。コミュニケーション不可能な巨人だけが残ったとき、彼らと再びコミュニケーションをとるにはどうすればいいのか、もしくは、その巨人を捨て、新しい巨人を生み出すことをすればいいのか、方法は沢山あると思いますが、何にせよ、人間が一世代だけで出来ることは限られていますから、彼らと上手く付き合っていく方法を考えなければならないと思ったというお話でした。