漫画皇国

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禅とキャンクラ

 相変わらずキャンディークラッシュサーガ(以下、キャンクラ)をプレイする日々です。最近はテレビCMも活発なキャンクラは、世界的ですもんねという感じの乗るしかないビッグウェーブなので、外人さんとの共通の話題に困ったときに、相手もプレイしていたりすることがたまにあって大変助かる感じです。昨晩も、ある外国人の飴砕き家との会話の中で、このゲームの攻略に必要なのは「運」であるということから、僕が信仰の対象としての神(飴神さま)を擁立し、歌をうたって運気を高めている(ちなみに、効果が感じられたことはないです)という話をして、向こうが困惑する顔を眺めることに成功しました。

 

 さて、ここのところなかなかクリアできないと詰まっていた323面なのですが、この面の手ごわかったところは、面が4×4に4分割されたステージなので、5個揃えたときに発生するカラーボム(同色の飴を一気に消せる)を通常の方法では作ることができない上に、動かせる回数が25回しかないことです。クリア条件は各マスにあるゼリーを消すことなのですが、ひとつのゼリーを消すためにはその上で飴を2回を砕く必要があり、最低4×4×4×2=128個の飴を砕かねばなりません。25で割ると一回動かすごとに5.12個砕く必要がある計算になるので、普通に消していては間に合いませんし、一列を一気に消せるストライプや、周辺を一気に破壊できるラッピングのキャンディを駆使するとともに、たまに落ちてくる「?」キャンディが上手くカラーボムに変化したりする幸運を願ってひたすら続けるしかないという飴地獄でした。

 しばらく、クリアの目が見えることすらないようなチャレンジが続き、これをクリアするにはどれほどの量の運気が必要なのか、そのために自分はどれだけの犠牲を払わなくては??などと考えていたのですが、今日のあるとき、あっさりクリアできてしまいました。理由は分かりません。なんと頼みの綱と考えていたカラーボムの変化すら起きなかったのにクリアできたのでした。やはりキャンクラは、技術や戦略ではどうしようもない局面を理解不能の運によって攻略できてしまうので大変謎なのですが、このときの僕は、ライフがフルになっていたので、ちょっとした隙間時間に一回だけやっておくかと、さほどクリアする気もなくなんとなくプレイしたのが良かったような気がしました。

 もしかすると、クリアしようとする気持ちの大きさが、自分の飴を動かす操作に偏りを生じさせ、一度の操作でできるだけ多くの飴を砕こうとする欲望ばかりを優先させていたことが、むしろ操作の選択肢を狭め、これまでの僕を攻略から遠のかせていた可能性があるのではないかと思いました。

 つまり、ここで新しい法則を発見しました。キャンクラとは我欲を捨てること。キャンクラとはすなわち「無」です。

 

 ここで、座禅についての話を思い出します。宗派によって解釈の差異があるのかもしれませんが、座禅とはその最中には何も考えてはいけないのだそうです。集中するために仏のイメージを持つことや、心の中で念仏を唱えてもいけません。そして、当然もちろん寝てもいけません。座禅の取り組む中で、光が見えたり、仏の姿を見たり、声を聴いたりする人もいるそうです。しかし、禅の教えではそれらは「魔境」と呼ばれます。それらの神秘体験は全て陥ってはいけない状態なのです。特別な神秘体験は自意識を肥大化させてしまいます。それは、向かうべき方向としては逆なのです。悟りに至るには自我を捨てなければいけません。臨済宗の開祖、臨済はこう言ったそうです。「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」。座禅を組む中で出会ったものはそれがたとえ仏でも祖でも、全ては心を惑わす存在でしかないのです。

 

 さて、この考え方が僕の新しく得たキャンクラ攻略法と似ている気がしました。飴を砕くとき、人は自我を捨てなければいけません。無我の境地です。欲による偏りが、人をその面のクリアから遠ざけるのです。人はあまりに多くの欲に囚われているがゆえに、飴を上手く砕けないのです。砕くべき飴に向かうとき、人はあるがままでなければいけません。あるがままに飴を砕いた先にのみ、面のクリアはあるのです。もちろん、戦略を考え、技能を駆使してクリアすることもできるかもしれません。しかし、その方法ではどうしてもクリアできない局面があるのです。つまりその方法はそのときたまたま上手く行っただけであり、真理ではありません。禅で言えば野狐禅です。禅に似ているだけの別の何かでしかないのです。

 あらゆる欲望を有した自我を捨て去ることこそがキャンクラ道であるならば、人はキャンクラを通じて悟りに至れるのかもしれません。釈迦が座禅で悟ったように、現代人はキャンクラで悟るのです。そして、悟りに至ったとき、おそらく全てはあるがままです。あるがままに目の前の飴を砕き、あるがままにその面をクリアする。そこには何の迷いもありません。もはやライフはひとつとして減ることもないでしょう。HBの鉛筆をベキッとへし折るように当たり前に飴を砕き、当たり前に面をクリアするのです。

 

 「飴に逢うては飴を砕き、チョコに逢うてはチョコを砕き、ゼリーに逢うてはゼリーを砕き、ブロックに逢うてはブロックを砕き、ボムに逢うてはボムを砕き、初めて解脱を得ん」

 

 果たして僕は今後悟りに至ることができるのでしょうか?僕はようやく登り始めたばかりだ!この果てしなく遠いキャンクラ坂を!

(ちなみに北宋禅では漸悟といって、段階を踏んで悟りに至るようですが、日本に伝わった南宋禅では頓悟といって、あるとき急に悟るようなので、キャンクラ的には頓悟の方が親和性が高そうなイメージがありますね。)