漫画皇国

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「寄生獣」の広川について

 どこからかやってきた生物が人間の頭を乗っ取り、「この種を喰い殺せ」という本能のままに人間を喰うというのが「寄生獣」という漫画です。主人公は泉新一、頭を乗っ取られない代わりに右腕をその寄生生物(パラサイト)に乗っ取られ、右腕だけにミギーと名乗るそのパラサイトとの共存生活の中で、人とパラサイトの間の微妙な場所に立つ存在として物語が進行します。

 

 僕がこの漫画を初めて読んだのは小学生のとき、近所の本屋での立ち 読みでした。奇妙な表紙が気になって手をとり、その中のグロテスクな表現や、パラサイトたちの不思議な倫理観、ある事件からパラサイトの細胞の一部をさらに取り込み超人と化す新一の描写など、今まで読んでいた漫画と比べ、これは何か違うぞという印象を持って、夢中になって読みました。寄生獣があったから掲載紙のアフタヌーンも読み始めましたし、色んな漫画に触れるきっかけになったように思います。

 

 さて、この漫画の面白いと感じた部分は、パラサイトたちは言語を操るコミュニケーションが可能な存在でありながら、その行動原理はあくまで本能に従っているということです。「この種を喰い殺せ」というパラサイトの本能を尊重するならば、人間との共存の形は、パラサイトが人間を喰うというものになってしまいます。人間は、人間以外の人間を捕食しようとする生物と、言語によるコミュニケーションをとったことがまだありません。言葉が分かれば理解が可能と思ってしまいますが、そうはならないということが奇妙で不思議で違和感があって、印象が深いのでした。

 

 この関係性は、終盤に戦う最強のパラサイト、後藤との戦いの決着方法に色濃く表れます。新一は後藤を「悪くなんかない」と表現します。なぜならば、それは彼らの本能に従った行動だからです。 魚が泳ぐように、鳥が飛ぶように、パラサイトは人間を喰うのです。腹を減らすなと言われても腹は減ります。彼らがとるあらゆる残虐な行為は、彼ら側に立ってみれば至極当然の行為で、それがたまたま捕食される側の人間からすると、残虐に見えるというだけなのでしょう。例えば、大きな岩が落ちてきて、人が下敷きになって死んでしまったとき、岩をなんて残虐な物質だと表現することはないと思います。岩はコミュニケーションを取れる主体と思われていないからです。では、なぜパラサイトはそうでないかと言えば、言葉を操るパラサイトを、人間は自分たちと同じルールを共有すべき存在と勝手に判断し、勝手にそれを押し付けて残虐だのなんだの言っているだけなのではないかと思いました。

 であるならば、人間は黙って喰われるべきなのでしょうか?そんなことはもちろんありません。だから、人間にとって不都合な存在であるパラサイトは人間によって殺されます。自分たちの身を守るためにパラサイトを殺す、それもまた当然の行為であって、残虐と言っていいのかが難しい行為だと思います。新一も同じです。彼はどんなにみじめな姿になっても生きようとする後藤にとどめを刺します。人間として。しかし、そのとき、彼の目には涙があり、彼の口から出てきた言葉は「ごめんよ」でした。「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ」。

 これは、種が異なるために、正しさもまた異なる同士が分かりあえないということを強く意識しつつも、それでも、相手に幾ばくかの感情移入をしてしまう「人間」だと思いました。捕食者たる彼らとそれに抵抗する我らという明確な線引きをしながらも、その線の上に少し足をかけてしまうということです。この後に、ミギーはそんな風な人間を「ヒマ」と表現します。「心に余裕(ヒマ)のある生物」として、なんと素晴らしいと。

 

  生物のある個体にはルールを共有できる別の個体が存在することが多いです。それは上で挙げたように人間という種のくくりであるかもしれませんし、犬や猫など人間と共同生活をする存在を含めて捉えることもできます。人間の中でも、同じ国や同じ性別、同じ社会的役割など、何かしら同じルールを共有する仲間がいて、また、ルールを共有できない仲間ではない存在がいます。そして、争いはいつも、これらのような異なるルールを持つ集団同士の接触点で発生します。場合によっては、自分たちが共有しているルールは 「善」、自分たちが共有していないルールは「悪」と呼ばれたりもします。

 

 さて、ようやく本題なのですが、この寄生獣という漫画の中で大変特異な存在がいます。それは「広川」です。パラサイトが人間を効率よく安全に捕食するために、市長にまでなった彼の正体は実はパラサイトではなく人間なのでした。彼はこの漫画を象徴するような演説を行います。人間こそがこの地球に巣食う寄生虫、いや寄生獣なのだと。広川は人間でありながら、パラサイトのルールを肯定する存在でした。

 新一は後藤を「悪くなんかない」と表現しました。それは、彼らが彼らの生物としての正しさに基づいて行動していたからです。しかし、広川は違います。そういう意味では彼は「悪い」のかもしれません。彼は人間の側でありながら、パラサイトの立場における正しさを行動原理とした裏切り者なのです。その意味で、広川の立場は、パラサイトの立場と似ているようで決定的に異なります。

 

  寄生獣の物語における沢山のキャラクターたちの立場は、「太極図」に似ているのではないかと思いました。描かれた円の中で、白で表現される「陽」と、黒で表現される「陰」は決して重なりません。陽は人、陰はパラサイト、その間の境界線がミギーと新一です。そして、太極図にはまだ「陽中の陰」と「陰中の陽」という小さな円が あります。人間にしてパラサイトを肯定する「陽中の陰」こそが広川なのかと最初思ったのですが、それは多分違っていて、人間でありながら人間を狩る殺人鬼である浦上がきっとそれにあたるのでしょう。また、「陰中の陽」は高度な知能を持ち人間を理解しようとしたパラサイトである田村玲子なのかもしれません。では、広川のいる場所がどこかと言えば、もしかすると、新一やミギーと同じ、境界線上の存在であったのかもしれません。広川の行動は、実は新一が後藤に流した涙と同じ種類のものであったのではということです。それがもう少し向こう(パラサイト)側であっただけで。

 

 広川の背景については深く語られることはありません。彼がなぜあの行動に駆り立てられたのかを詳しく考える材料もありません。ただ、もしかすると、彼の行動もまた、人間の心にヒマがあるがゆえであったのかもしれないと思ったという話でした。