漫画皇国

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着たい服を着るということ

 「放浪息子」は女の子になりたい男の子の物語です。主人公の二鳥修一くんは女の子の格好をするのが好きで、趣味で女装をしていました。そんな二鳥くんを、肯定してくれる千葉さんや、男の子の格好をしたい女の子である高槻さんに支えられ、二鳥くんの女装ライフは始まります。セーラー服を着た二鳥くんと学ランを着た高槻さんのデートは幸福なものです。二人とも性別によって強制されることなく、着たい服を着ていられたのですから。

 

 ある日、二鳥くんは意を決して、セーラー服を着て学校に登校します。そこは、高槻さんや千葉さんのように、それを肯定してくれる人ばかりではない場所でした。むしろ、多くの人が否定的な見解を持つことになります。二鳥くんは深く傷つきます。着たい服を着たかっただけなのに。

 

 漫画を読んでいる間、誰に迷惑をかけているわけでもないのだから「着たい服を着させてやればいいのに」と読者視点では思ってしまいましたが、そうはいかないのが世の中です。

 

 また、この前「ジョゼと虎と魚たち」の話を書いたら、たかなべさんに同じ監督と脚本家コンビの「メゾン・ド・ヒミコ」も面白いと教えて貰えたので早速観たのです。加入している映画のストリーミングサービスと容量無制限のWiMAX様があれば、電波が届く場所ならば、いつでもどこでも気兼ねなしに映画が観られます。便利な時代です。

 

 「メゾン・ド・ヒミコ」はゲイの老人ホームの話でした。そこに住んでいるゲイの人たちにはそれぞれの事情があります。かつて家族を持った人も、ゲイである自分がゲイとして生きるために、それを捨てることになってしまったり、ゲイ同士のカップルでは、養子でも貰わない限り子供が持てないので、彼らの家族はもはやそのホームにいる彼らだけのような感じになってしまっています。そして、それは彼らの選択です。ゲイであるという自分を肯定するためには、ゲイであることを受け入れてくれる場所にいなければなりません。そして、それは、社会全体とは完全には重なるものではないということです。社会と少し重なり、大きくはみ出した場所に、彼らは彼らなりの居場所を築いていました。

 

 映画はとても面白かったのですが、ここでは、その中のワンシーンだけを切り出すことにします。

 

 山崎さんという人がいました。彼は初老で、少し太った体に薄い髪のゲイの男性した。彼がゲイであるということは、言葉や態度に少し表れる以外は外見的な特徴からは分かりません。なぜならば、彼はゲイであるということを示すような記号的な外見の特徴を持たないからです。でも、彼はひっそりと願望を持っていました。女性の格好をしてみたいということです。彼の部屋には誰にも見せないドレスが沢山ありました。

 

 沙織は老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を作ったゲイバーのママである卑弥呼の娘です。そして、ゲイであることをカムアウトするために、父親に捨てられた娘でもあります。彼女は癌で死期の迫った卑弥呼の元に色々な理由からやってくるわけなのですが、そこで働く過程で、ゲイのみんなとの仲を深めていきます。

 

 山崎さんは沙織にだけ、自分の女装願望を打ち明けます。山崎さんの部屋で、二人で行われるファッションショーは、楽しく幸福な光景でした。そんな中、そのままの姿で夜の街に繰り出そうという話になります。でも、山崎さんは悩みます。なぜならそんな自分の姿は嘲笑されてしまうから。それは自分で分かっているから。しかし、山崎さんは、沙織と他のゲイの人たちのエスコート受けて外へ行くことを決心します。女性として扱われ、女性の格好で、夜の街に繰り出し、沙織に付き添われてトイレで化粧を直す。そこで山崎さんはこう漏らすのです。

 

 「憧れだったのよ…トイレでお化粧なおしするの…」

 

 そう、これが山崎さんの夢でした。女性として振る舞うというのが夢でした。でも、それが自分の容姿ではできないことも分かっていたんです。それができるのは、せいぜい他者の目のない自分の部屋だけ。でも、仲間たちがそれを外に広げてくれました。「着たい服を着るということ」、それだけのことがとても難しい。

 

 しかし、その後、山崎さんはその姿をかつての会社の同僚に見つかってしまいます。そして、嘲笑されてしまいます。隠していたゲイであるということ、その姿、自分があるがままにありたいということそのものが嘲笑の対象なのです。仲間たちが作ってくれた、優しい空間は、無神経な一人の男の手によって容易に破壊されてしまいました。沙織はその男に「あやまれ」と迫ります。でも、その男は決して謝りません。彼にとって女の格好をした山崎さんは、自明に嘲笑の対象であるからです。

 

 二鳥くんの女装は女の子に間違えられるほどのものですから、成長して、それが周囲にばれるようになるまでは一見さんには発覚しません。だからこそ、それをやめずに繰り返すことになり、根が深くなります。それを続けられる日々にはおそらくリミットもあります。二鳥くんはそれゆえに傷ついてしまいます。

 

 山崎さんは自分の容姿ゆえに女装をすることを押しとどめることに成功しました。それは願望を叶えられませんが、嘲笑されることもありません。でも、一度そうしてしまったことが彼を深く傷つけることになります。

 

 自分の着たい服を着るということを、周囲に嘲笑されてしまうということは、とても悲しいですけれど、それを社会から完全に無くすということは多分難しくて、だから、そういう特別な場所が世の中には用意されていて、そこには、それを許してくれる人がいるんだろうなと思いました。例えば、コスプレなんかもこういうものなんじゃないかと思います。

 

 さて、昨日は成人の日で、連休中には成人式が各所で行われたわけですが、中には変わった格好をして成人式に出た人たちもいたようです。そういうのがネットを見ていると色々と流れていました。そして、その多くはそれを嘲笑する文脈でした。これは、考えてみれば、着たい服を着ている人が嘲笑されるという意味で、上記のものと同じなんじゃないかと思います。

 

 それについて、「そうだな、これが世の中だな」と思いました。自分を含めてです。

 

 フィクションと現実は違いますが、フィクションは現実を写す鏡だなあと僕は思ったのでした。そして、そのとき、自分は往々にして、フィクションの世界でいた場所と反対側の場所にいたりするものなのだと思います。今回の僕は、たまたま映画を観た直後だったので、それを押しとどめるような気持ちになってしまいましたが、そうでなければその限りではないのだろうと思ったりしたのでした。