漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

著者としての自画像を描くのは気を遣う関連

 「サルでも描けるまんが教室」にもありましたが、本の著者として自画像を描くときに、どのように描くべきかというところは難しいなと思います。そこには、自分をどのように見せたいか?という部分が関わってくるので、色んなことを気にしてしまうからです。

 

 僕は小太りの中年男性なので、似せて描くと小太りの中年男性の絵が出来上がり、まあそれはそれでいいのですが、漫画の絵は必ずしも似せる必要はないので、カッコよく描いたり、可愛く描いたり、逆にブサイクに描いたりすることもできます。

 

 ブサイクに描くのはメリットがないようにも見えますが、実物を見たときに、自画像ほどはブサイクではないんですね、と思って貰えるかもしれないという効果があります。つまり、カッコよくや可愛く描いたときには、実物はブサイクなくせに、カッコよくや可愛く描きやがってよ、と叩かれる可能性があるということです。

 そういう反応を意識するなら、受けるダメージを最小化するために自分を極端にブサイクな顔を描いておくという手段があります。

 

 以前、ある女性漫画家さんが「女の漫画家は顔出しなんてすべきではない。美人なら調子乗っていると叩かれるし、ブスならブスブスと言って叩かれる」と言っていました。それはそうだなと思うところがあって、容姿に対するコメントは、容姿を出した時点で誰かにされてしまい、何にせよ嫌な思いをする可能性がゼロではないので、出さない方が得策という考え方があると思います。

 実際、かつて容姿を叩かれたせいか、以後、顔出しをNGにしている作家さんも散見されます。人の容姿については、誰でもコメントが出来てしまうし、コメントをしたがってしまう傾向があると思うので、色々センシティブな話だと思います。

 

 これは容姿を叩かれるというだけの話ではなくて、褒める対象にもなるというのも気になったりします。例えば、ラジオなどに女性の漫画家さんが登場するときに、顔出しをしていないからこそ言葉だけで「こんなに美人な人が描いているんですね」というようなコメントがされているのを複数回聞きました。それは結局はご本人がどう思うかという部分なので、その良し悪しはケースバイケースだと思いますが、ポジティブなコメントならば、本業の内容とは関係ないところで容姿にコメントすることが無条件に許されるということは別にないと思います。

 

 僕がそう思う根拠は、以前友達が、たとえポジティブなコメントであったとしても関係ないところで容姿について言及されるのは嫌だと話していたからです。言う側に悪意はない場合が多いとは思いますが、仕事の内容という土俵に、容姿などの関係ない要素を持ち込まれるということについて、それは関係ないだろと思ってしまう気持ちは分かると思います。

 また、僕が実際に話を聞いたことがあるのは女性だけですが、男性にだって当然同じことは起こり得るでしょう。

 

 そういうこともあり、漫画家の自画像は、自分の顔とはあまり関係のない動物や無機物などに置き換えられることもしばしばです。それはあくまで「作者」ということを意味する記号であって、実物の容姿とは直接的な繋がりを外すことによる自衛手段の要素があると思います。他には、似せて描くよりも漫画の絵にした方が表現力が上がったり描ける速度が上がったりするので、様々なメリットがあると思います。

 なので、そういうことをする人も多いんだなと思いました。

 

 さて、僕の自画像は結局、自分の顔をベースに可愛らしさと不気味さを混ぜたようなものを描きました。なぜならば、自衛の目的でわざわざブサイクにしたとして、それを読者が見ていい気分には特にならないだろうなと思ったからです。ならばかわいらしい方がいいなと思ったのでそっちに寄せました。

 

 可愛い絵の印象から実物の僕を見て、実態は小汚い小太りのメガネのおっさんじゃんと思われたとして、実際そうなので、そうなんですよね…で終わるという部分もあって、いや、今こうやって自分の容姿をあらかじめ悪く書いているのがまた自衛の要素があるように思えますね。こういうことをしなくてもいいと思えた方がいいと思うのですが…。

 

 人が何かを見て何かを思うことは禁止できませんし、それがネットを通じてすぐに伝わってしまったりするのが今の世の中だと思います。そんな世の中で、自分を対外的にどう見せるかというのは一筋縄ではいかないのかなと思っています。誰に何を言われても気にしなければ、それで解決するかもしれませんが、それが思っただけでできりゃ苦労しない話です。

 僕も自分の対外的な顔をどうするのかは今描いているやつで決まりではなく、今後も色々試行錯誤してみようかなと思ったりしています。

視力と描く絵の絵柄関連

 ゲッサン最新号の「これ描いて死ね」は手島先生の過去回だったのですが、その中に、アシスタントとして背景を描くことにチャレンジする中で、メガネをかけるという描写があります。それによって、世の中をより精細に見れるようになった手島先生は、背景の描き方が変わりました。

 そのように、人が「何を見ているか」が、描く絵に反映されるというのは自分の実感を振り返って「そうだな」と思いました。

 

 これは視力が良い悪いという物理的な話だけではなくて、目で見た何かを脳でどのように認識してるかという話でもあります。何かを見ていても、実は見ていないということはよくあって、例えば僕が何の資料も見ずに描いた背景の絵は、僕が認識しているものしか描かれていないので、すごくシンプルです。

 そこにはおおざっぱな陰影と、目立つ物体しかありません。例えば壁にパイプが走っていても、それがどこからどこに繋がっているかなどの意味はなく、ただパイプがあるだけです(僕がその程度の認識だから)。本棚があっても、何が置かれているかの認識はなく、ただ、本があるんだなという絵があります。

 

 ただし、実物の写真をベースにした絵を描くときには、そこが変わります。僕自身が認識していないディテールが写真には存在し、描きながら、僕が今まで何を見ていなかったかが分かってきます。「絵を描く」ということは、「対象を理解する」ことに通じています。絵を描くことで、自分は今まで色んなものを実はちゃんと見ていなかったことに気づきます。

 

 大きな本屋には無数の本があります。しかし、僕はそのうちのほとんどの本を認識していません。なぜなら、読もうと思っていないからです。僕は興味のある本のコーナーのことしか理解をしておらず、それ以外にどのような本があるのかが分かりません。

 しかし、一旦何かに興味を持ち、再度本屋に行くと、その興味を持ったものに関連する本が本屋にあることに気づきます。そう、本はずっとそこにあったわけです。ただ僕が興味を持っていたから見えていなかっただけです。

 

 人は自分を取り巻く世界の一部しか見ていません。しかし、興味を持った瞬間に今まで見えていなかったそれらが、一気に精細に目の前に立ち上がってきます。

 

 人の描く絵には、その人が頭の中で何をどう見ているかが表れてくるのかもしれません。僕は物事をとてもぼんやりと見ていることに気づきます。それはもしかすると、僕が昔、視力が悪く、しかし、別にメガネをかけずに生活をしていたことと関係あるかもしれません(今は画面の文字を見る必要がある仕事をしていることもあって常にメガネをかけていますが)。

 昔は、別に周囲がよく見えなくても大丈夫でした。そのせいか、人の顔を認識することが上手でなかった時期があります。人のことは、シルエットや声や匂いなどで認識していて、いざ顔をまじまじと見たときに、この人、こんな顔だったっけ?と思ったりすることがあります。その一方で、その人の姿を見なくても、部屋に入ってきた時点で、動きの所作や匂いで誰だかわかったりもしました。

 

 僕は世の中をぼんやりとしか見ていないので、絵もぼんやりとしています。人の服装であったり、どこかの部屋であったり、車であったりをぼんやりとしか見ていないので、それが絵に反映されてしまいます。写真を見ながら描いていても、特に自然物は、ぐしゃっと塗りつぶしてしまうことがあって、そこに何があるのかは分からないが、陰影があることだけは分かるので、陰影だけを描いていたりします。

 

 そういえば、以前、岩波れんじさんと話していて、読切漫画で、教室に机をたくさん描いても面白くなるわけじゃないから…と2つしか描かなかった話をしたらウケました。机を沢山描いて面白くなるなら描きますが、それで面白さが上がらないなら描く必要がないと思ったのは本当の話で、僕の「必要がなければ描かないでもいいじゃないか」という、必要なものしか必要じゃないと思っている僕の性格が読み取れて、可愛いですね。

 

 

 そういえば、岩波れんじさんは「コーポ・ア・コーポ」というすごい漫画を連載していて、ディテールの鬼のように思います。出てくる人のファッションや背景について、強い実在性を感じるほどに色んなものを事細かに見ていて、それが本当にすごいと思っています。4巻の最後に収録されている登場人物たちのディテールもめちゃくちゃ詳細です。

 岩波れんじさんは色んな意味で目が良いんだなと思います。色んなものを見ていると思うからです。

 

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 さて僕も、興味がある部分はちゃんと描き込んでしまいます。それは例えば、人の表情などです。

 人間の顔に強く興味を持ち始めたのは、二十代後半ぐらいに常にメガネをかけ始めたあたりかなと思っていて、人の顔は少しの動きの中で心の表現がされることもあり、絵で描きながら、それが立ち上がってくるように思えるのが面白くて、描くのも楽しいです。一本の線を引くたびに、僕が描いた絵なので人格なんて本来は存在しないはずなのに、何かを思っているのではないか?というような絵が浮かび上がってきたりします。

 理想をいうなら、漫画を全て人の顔のアップだけで描きたいぐらいですが、それは僕が興味があっても構成としてのバランスは悪いので、そうはなりません。でもそうしたい気持ちには常に抗っています。

 

 僕の興味の比重で言えばどっちかと言うと「絵」ではなく「言葉」の方だったりします。言葉にはこだわりがあるので、自分の描いた漫画を、提出予定のギリギリまで何度も読み返しながら、やすり掛けをするように、細かく言葉を調整したりしています。

 このように、僕自身の特性としては、絵の方は表情を除いて記号的に描いていて、一方で、言葉を本物にできるように磨こうとしているなという認識があります。そこには今まであんまり何かを詳細に見てこなかったという生き様が反映されている気がしていて、そのせいで、自分がよく見ているところと見ていないところが、絵の中にぱっきり二極化して存在しているのだな思うんですよね。

 

 別にこれが未来永劫そうだということもなくて、最近は背景を描くことによって、世の中に存在するもののディテールにも興味が出てきましたし、何も見ずに描く背景にも、それが少しは反映されるようになってきました。

 今の絵にはこれまでの僕が見ていたものが反映されていて、今後変わっていく絵には、そのときに見ているものが反映されるはずです。絵というのは、そのように人のことを理解するための手がかりになるんだなと思うと、それは面白いものだし、人の描く絵をみることで人についての理解が深まるような気がしています。

 

 なので、ネットでは、絵を描く人が人気者になったりしやすいのかなと思ったりもしました。その人について知ることができる大きな手掛かりだと思うからです。

バズった漫画が売れるか売れないか話関連

 SNSで漫画がバズったけど本は別に売れなかったみたいな話をちらほら聞くことがあり、実際、バズるメカニズムと本を買う動機は繋がらないケースも多いと思うので、そういうこともあるだろうなと思う話を書きます。

 

 漫画がSNSでバズるというのは基本的に、多数のユーザが「その漫画を他の人にも見せたい」と思うということだと思います。その場合の見せたい理由には様々な種類があると思います。例えば、笑えるからとか、泣けるからとか、幸せな気分になるなどのポジティブなシェアでなく、そこに描かれている内容にもの申したいというネガティブなシェアや、連想する何かの話をしたいなどの漫画そのものには実は関係ない話題としてのシェアなどもあるということです。

 より細かく言えば、笑えるというシェアの中でも、物語の中で笑える作りになっているのか、一コマだけ切り出して笑えるのか、もしくは作者の意図しない形で嘲笑的に笑われているなどの実はネガティブなシェアなど、様々な種類があるでしょう。

 

 この「バズってシェアされること」と、「購買行動」の繋がりですが、例えば、嘲笑的に笑うような内容の場合、その一瞬で消費されてしまい、その漫画を買おうとは思わないかもしれません。一コマで笑えて終わったときでも、その前後に興味を持たれなければ買われないかもしれません。作中に描かれている内容にもの申したい場合なども同様で、シェアはされるかもしれませんが、その内容そのものには肯定的ではないのなら購買行動には繋がらないことが多いと思います。

 

 あるいは、タイミングの問題もあるかもしれません。バズッた瞬間に買えるのであればいいですが、その本がまだ発売前で、やっと買えるようになった頃には、もう皆は別のバズる漫画に夢中かもしれません。そして、一回バズッた漫画は、その次の買って欲しいタイミングでは一回目ほどはバズらないかもしれません。なぜなら一回見たことのある漫画だからです。

 この辺も様々な条件があるので一概には言えませんが、バズるということとその漫画を買いたいと思うこと、そして実際に買うことの間にはそこそこ広い隙間が空いていると思います。

 

 なので、バズッたけど本の売り上げには繋がらなかったなというのは全然ある話で、本の売り上げに繋がるためには単純にバズッた数字を追うだけでは不足しており、どのようなタイミングでどのような理由でバズることができればいいのか?という話かもしれません。

 個人的に思っているのは笑えるということは拡散力が強く、泣けるというのは購買力が強いのではないかと思っていて、笑えながらも泣ける話みたいな合わせ技が強いのではないか?という想像をしています。

 

 自分の話でいうと、そのうち単行本が出るので、それをなんとかして、人に買いたいと思ってもらいたいなと思っています。雑誌で読んでくれている人以外にも読んでもらうには、何らかの方法で雑誌で読んでいない人の目に留まる必要があります。その方法のひとつがSNSでのバズりだとは思っていて、それをどうにか上手く使えるといいのになと思います。

 

 そういう先々のことを去年から考えていて、上記のように定性的な考えはありますが、自分で実際に試してみた定量的なデータもあった方がいいなと思って、この1年ぐらいは色々試していました。

 以下が、事例なので共有しときます。なお、特に大きな実績があるわけではありません。

 

(1)読切掲載告知「恋のニノウチ」の場合(2021年11月)(RT: 1548, fav: 2293)

 

 掲載当時には、コミックビームヤングキングに読切漫画を1本ずつ載せてもらったというタイミングで、僕がその次にジャンプ+に読切を載せてもらうことになっていることを想像している人はほとんどいなかったと思うので、このときは「載る」ということそのものに、SNSのフォロワーに対してのニュースバリューがあるだろうなと思いました。

 なので、その1回しか使えないタイミングは大事に使った方が良いというか、掲載情報を告知した後と、実際に掲載されるタイミングの2回に分けてしまうと、その拡散力が分散してしまうなと思ったので、掲載される日までは告知を自粛してみました。

 これは漫画の内容以前に、まず驚きによってシェアしてもらえるのでは?という考えで、そういう反応を得つつそこそこRTしてもらったので、試みとしては想定通りだったのではないかと思います。

 そういえば、掲載の数日前にジャンプ本誌に予告が載ったので、めざとい人は見つけてくれていたのですが、上記の告知タイミングの考えと矛盾してしまうので無視してしまいました(ごめんなさい)。

 

 漫画の内容も、せっかく多くの人に読んでもらえる場所で公開するのだから、ポジティブにバズらせようと思って描いたところはあります。ポジティブにバズらせようという言葉の意味としては、「読んだ人がポジティブな気持ちになる物語」にするということと「例えば特定の価値観を一方的に断罪することで賛否両論になることを誘導したりしないようにする」の2点です。

 前者は読んだ人に、読んで得したと思って貰いたく、後々に僕の本を買いたいと思って貰える布石になればいいなと思いました(こういうことを書くと好感度が下がるかもしれない!)。また、後者も結構気にしていて、内容への賛否による盛り上がりとなってしまうと、話題になったとしても、そこにアンチや、そのアンチへのアンチの争いが生まれる結果になったりしたら嫌だなという考えがありました。

 なので、ある種の問題を描きながらも、それに明確な敵を規定して倒すような話として描くわけではなく、その苦しみがある中で、人が何かポジティブな行き先を掴む物語として描こうと思ったのは、意図的な部分があります。でも、それが上手く行く確証はなくて、自分の考えているバランスが全然世間と合致していなくて、めちゃくちゃ叩かれたら嫌だなあと公開前まではビビっていました。

 

 PV数としてはジャンプ+のアプリで確認できる数字では49万超、僕の告知ツイートからのリンククリックは7000弱という感じなので、僕の告知から誘導されたのは1.4%程度という感じでした。2%ぐらい行けばいいかなと思っていたので、そういう意味では期待しているほどの宣伝はできなかったかもという感じに思いました。

 

(2)同人誌「おもしろツイート倶楽部」の場合(2022年2月)(RT: 840, fav: 2206)

 

 同人誌が人の目に留まるかどうかは、会場で見つけて貰うのではなく事前のSNSでの宣伝しておくことが重要な時代になっていると思っています。特にコミティアのような二次創作などの手がかりのない即売会では、その要素が強そうなので、事前宣伝の効果を試してみた漫画でもあります。漫画の内容は、商業の方の原稿に時間をとられて、作る時間が全然なかったので、人が何人かでただ喋っているだけの内容を面白く描けたらいいなと思ってそのようにしました。

 この漫画で行った宣伝の試みは、オチの最後の1コマ以外は全部公開するという方法をとったところです。99%以上の内容を公開して、最後の1コマだけ見たい人は、会場まで買いに来てください、というやり方をしました。

 

 結果としては当日11:00-15:00の間に、想定冊数(100冊)に到達しました。Twitterを見て来てくれたと言ってくれる人もいたので、宣伝としては成功したと思います。同人誌はそもそも在庫を抱えないようにするために、大した数を刷っていないのですが、宣伝と結果と本を売ることのアンバランスさというのは感じていて、結局宣伝ツイートを読んでくれた人の中で最後まで読める人の数が歳代100人とかなので、これで本当にいいんだろうか?(Webで買える手段も用意した方がいいのでは?ということは考えたりもします)

 

(3)連載開始告知用の読切宣伝「へレディタリー/極道」の場合(2022年4月)(RT: 4529, fav: 16400)

 

 連載が始まるので、そのパイロット版として書いた読切漫画をネットに貼っていいということになったので貼りました。これは思ったよりもRTして貰えたなという印象なのですが、RT数が思ったより多かった理由はよく分かっていません。最後まで読めるものを提供したのと、漫画が普通に面白かったからかな(自画自賛)という感じです。

 これがそのうち出る単行本の売り上げに繋がってくれればいいのですが、どう繋がってくれるのかは未知数です。ただし、無料で公開するものがさほどRTされないのに、有料で売るものが売れるとも思えないので、ほぼ好意的に読んでもらったという反応とともにfav数が1万以上いったのは、そこそこ面白いと思って貰える人がいるということだと感じたので、多少安心できる要素かもなと思いました。

 

 本当はこういう告知と実際の売り上げの相関を見るデータとかがあればいいのですが、僕はそのデータを持っておらず、まずは1冊目の単行本から個人的に見て行こうかなと思っています(出版社はそういうデータを持ってそうですが、共有して貰えるわけではないので)。

 

(4)同人誌「デスゲーム最速理論」の場合(2022年5月)(RT: 2377, fav: 9367)

 

 一番最近作った同人誌ですが、これは宣伝の調子が良かったです。ただ、色々見誤った感じはありました。このときも時間がなくて、コミティア開催3日前から本腰を入れ始め、前日の夕方まで原稿を作っていたので、本は慌ててコピー本を100冊だけ刷る感じになりました。宣伝も前日夜にギリギリになったものの、思っていた以上にRTされたので、開場後1時間程度で完売してしまいました。その後は売り切れてしまいましたすみませんという話をずっとしていたので、せっかく買いに来てくれていたのに申し訳ないことをしたなと思います。

 この同人誌は、自分が考えるデスゲームのエッセンスの部分だけを短いページで描き切ろうと思って、当初16ページで終わらせようとして、さすがに無理で27ページとかになったと思います。そういう漫画なので、展開の早さや、デスゲームという人目を惹くキャッチーさが上手く噛み合ったのかなと思います。

 

 直近の事例を振り返ると、とりあえず内容を怒られているわけではない状態で数千RTぐらいしてもらえることにはいくつかの成功体験があり、同人誌を100冊ぐらいの本を売るのには手助けになっているような感じがしています。でも、商業誌で数千冊以上の本を売りたいときにも効果があるのかは、まだよく分かりません。

 これから何か月もしないうちに多分初の商業単行本が出るので、そういったときにまたチャレンジしてデータを見てみたいなと思っています。

冨樫義博先生アカウントがあってうれしい(自由律俳句)

 「HUNTER×HUNTER」の続きが読みたいと思い続けていますが、「読みたい」という気持ちと、作者の冨樫義博先生に「早く描け」という気持ちは僕の中であまり繋がっていなくて、「描かなくてもいいけど、いつか描いてくれたらうれしい」と思う感じになっています。

 

 漫画が完結するかどうかなんかも僕はそんなに気にしてはいなくて、ゴンがジンと出会った時点で、当初の目的は果たしたので、一回終わったと思いますし、今はボーナスステージだと思っています。なにより、これまでもう十分以上の面白さを感じたと思っていて、仮に最終回まで描かれなかったとしても、これまで読んできた中で得られたものの大きさの方がよほど重要だなと思います。

 僕自身の価値観として、「どのように終わるか」というような最後まで読まないと得られないというものよりも、「今読んで面白い」とか「ここまで読んで面白かった」というようなことを重要視しているという話です。

 

 なので、随分前から、描いてくれたらうれしいし、描かれなくても仕方がないかなという感じに整理がついているのですが、それはそれとして「続きが描かれるのか、描かれないのか」というところに対しては、やっぱり心が動いてしまいます。描かれるなら読みたいからです。

 いつ描かれるのか?描く気はあるのか?今は作業中なのか?どれぐらいで再開する見込みがあるのか?みたいなところが、全く情報公開されない状態だと、頭の中に常に「どうなんだろう?」という気持ちが存在してしまいます。

 

 なので、今どういう状況なのかぐらいを知れるといいなと思っていたところに、Twitter冨樫義博先生アカウントの開設と毎日のような進捗状況報告が来たので、こんなに自分の需要に合致した出来事が起きることある!?!!??と思って大変助かりました。

 

 今は、先のネームがしばらくあるということ、作画が日々進んでいることが分かることで、それが読めるのが少し先になったとしても、進んでいるんだな、日々更新される進捗の数字が十分になったら読めるんだなと思うことができるので、これまでのように、いつか読めるんだろうか?と前振りのない発表を待っているのと比べると、心の中に占める領域が少なくなって楽になりました。

 

 一方確かに、急に発表されて、そのニュースに興奮が絶頂するみたいなのも、それはそれで体験として良かった気もします。ただ今の歳になると、興奮するのも疲れるし、SNSのトレンドに「連載再開」があることで念のため確認するなどの作業も必要なくなるので、とても楽になって良い状態になりました。

 本当に良かったです。

 

 余談ですが、冨樫先生がSNSでの立ち振る舞いに関しても安心するところがあって、最低限の報告と節目節目の定期的なサービスの画像だけで、人と個別のやりとりをする様子を見せないのでいいなと思います。大量の読者の反応がある中で、個別のコミュニケーションが発生することはあまりよくないと思うからです。なので、個別のリプライには反応を決して返さないスタンスを貫いてくれ!という祈りがあります。

 ジャンプで描いている漫画家さんの大半は、人間的な様子が伺えるアカウントを持たない感じになっているのは正しいと思っていて、自分の一挙手一投足に反応があることを気にしてしまうと身動きがとれなくなるでしょうし、そんなものに影響を受けないでほしいと思ってしまいます。

 あとは、リプライを見ていると海外のファンがたくさんいるのが目に入って、海外のファンがたくさんいることって今まで気にしたことがなかったので面白いなと思いました。

 

 とにかくそう遠からず連載が再開しそうなので楽しみです。よかったよかった。

「花束みたいな恋をした」を観た関連

 映画「花束みたいな恋をした」をしばらく前に観ました。事前に人の感想を聞いていたので、色々と警戒しながら見ましたが面白かったです。ただ、観ていて何を一番感じたかというと「不安」です。

 

 本作は、いわゆるサブカル的な趣味を持つ男女が出会いと別れを描く物語ですが、2人がそのようなサブカル趣味を持つことに対しては、あまり気持ち良くないものを感じました。それは、それらの趣味を持つということが、2人の中にある欠けたものを埋めることを目的とした行為であるように思えたからです。それだけならいいのですが、その埋め合わせの方法として、自分たちと異なる趣味嗜好を持つ人たちを凡俗なるものとして、それに対するアンチとして自分を規定することで、自分はそんなものと違って特別であるということを主張したいように見えて、しんどいなと思いました。

 

 こういった自分が特別ではないのではないか?という悩み苦しみはそのものは一般的なことで、特段愚かなことだとは思いません。自分は自分にとって特別であるという主観的な期待と、自分は70億人の中の1人でしかないという客観的な認識のギャップの取り扱い方に悩む時期は多くの若者にとってよくあるものだと思うからです。

 しかしながら、その欠落を、他者を程度の低いものだとして下に見ることによって達成しようとする行為には、いい感じの出口があるようには思えません。

 

 なので、この子たちは、この先きっとこういいった自意識の取り扱いによって、手ひどい目にあってしまうんじゃないかな?と思って不安になりました。そして、人がそうせざるを得ないほどに自分の中に確固たるものがない、という不安には共感する部分もありました。

 

 自分に価値があることを確認したいと思い、自分って価値がありますよね?と周囲に確認したがる行為は悲しく感じます。その背後に、そんな行動をとってしまうぐらいにこの人は欠けているものがあるんだなという苦しさが見えてしまうからです。

 人はそれぞれ幸せになった方がいいと思うので、その欠けている部分がどうにかして埋まればいいなと思いますが、一方で、そのやり方では失敗をするだけでは??という疑念が生まれてしまうと心配になります。

 

 そして、この物語の始まりの部分では、そこが出口のない迷路であることを誰も指摘してくれることがありません。だからこの子たちはこの先大丈夫なのか??とめちゃくちゃ不安になるわけですが、その出口の無さ明らかになるのは、2人がモラトリアムの終焉に、ついに社会との接点を持とうとするタイミングです。

 自分たちは社会から求められることがなく、何ら特別ではないという現実を突き付けられることによって幻想は壊されてしまいました。そして、社会に上手く居場所を確保できないことから、自分たちはむしろ劣っているという烙印を押されてしまうような体験をしてしまいます。

 

 こういうことは世の中に全然よくある話だと思います。よくある話を描いたことが映画になるのか?と思いますが、映画になっているなと思いました。菅田将暉有村架純の2人を起用したのは、それが成立している要因のひとつだと思います。剛腕!パワー!!

 

 欠けたものを埋めたいと感じる2人の男女が、結局それを埋めることができたのか?というと、別にそんなことはなかったという話であるように感じました。でも、それで悪いことはないですよね。

 そして、互いに特別なことが起きたと思った恋の時間は、それがいずれ終わってしまうようなものであったとしても、綺麗で価値のあるものとして、そのときその時間は存在していたなと思いました。

 

 ただ、ひとつの音楽をイヤホンを左右分けて聞く演出が象徴するように、ステレオで再生された恋(音楽)が左右で異なって聞こえていたということ、それはそれぞれ不完全であり、別れは当然の結末として描かれたように思いました。

 解決はなく、大きな成長はなく、反省はあり、受容もあり、それで人生は続いていくという物語は、実はある種の希望かもしれません。なぜなら人間の人生は基本的にそういうものだとも思うからです。何かが解決されたり、人間的成長によって乗り越えたりした人にのみ価値ある人生があるという物語であれば、そこから取りこぼされてしまう人がいるかもしれません。

 しかし、この物語はあまりにも凡なことを凡なこととして描いていて、そして、凡であることもまた物語であるという居場所を確保しているようにも思えました。

 

 そういうのがなんかすごい話だったなと思いました。

兼業漫画家活動を始めて1年が過ぎた関連

 出版社からの依頼でお金を貰って漫画を描いたタイミングが漫画家のデビューだとすると、僕の漫画家デビューは2021年の7月12日、コミックビームに掲載された「へレディタリー/極道」の掲載がそれに当たります。なのでもう1年が過ぎてたんだなと思いました。

 

 以下が、この一年の漫画活動まとめです。

 商業媒体に掲載された漫画のページ数は、予定も含めると既にだいたい500ページぐらいになりました。いっぱい描いていますね。働き過ぎなのでは?と心配もされていますが、できそうな話以外はやると言っていないので今のところ大丈夫です。

 単純な量で言えば単行本が2冊ぐらい出てもおかしくないですが、まだ本にまとめるには、シリーズ単位ではちょっとずつ足りない感じです。ただ、おそらくそんなに遠くないうちに本になると思います。

 

 そのうち多分出るぞ!初単行本が!やったぜ!!

 

 2021年度を助走期間として、自分が生活の中でどれぐらいの量の漫画を描けるかと、漫画を描く上でどれだけ効率的に描けるかの実験を色々していたので、その研究成果と事前準備によって、連載が始まって数ヶ月は今のところそんなに〆切に追われてしんどくなることなくできています。おかげで多少余裕もあるので、空いてる時間で、過去の同人誌の手直しをしてヤングキングに掲載して貰ったりもしています。

 

 先日は、この1年でぐんぐん絵が上手くなりましたねと編集さんに褒められたので、成長期来てるかもしれんな!と思いました。40歳を過ぎてもやってくるのが成長期です。やっぱりスキルアップは、量をこなすのが一番早道だなと思います。

 

 兼業漫画家としての活動は、いつまで続けられるのかは分かりません。仕事が貰えるうちは続けたいですが、仕事が貰えなくなったらおしまいです。ただ、商業活動が上手く行かなくても、漫画活動自体は別に辞めないと思います。またコミティアに出ていればいいか(今も継続的に出てるけど)、ぐらいの気持ちではいます。

 

 専業漫画家になることも考えはしますが、今のところ仕事も続けられるなら続けたいんですよね。なぜなら、会社員であることで、僕が社会生活を送る上での様々な恩恵を受けているからです。毎月仕事が確実にあり、給料が確実に発生するということが心に与える安心感は、できれば手放したくありません。

 先日、何年か前に兼業から専業に移った漫画家さんから、さっさと辞めて不安定なフリーランスになったらどうだ?というお誘いを受けました。怖。

 

 少なくともしばらくは現状維持かなと思います。単行本が出てくれば、自分の漫画が世間にどのように評価されるかが具体的に見えてくるので、身の振り方が変わってくるかもしれませんが。まあそこはどんなもんか全然分からないので。

 

 この文章は、ピエテヅはこの一年頑張っていたな、本もそのうち出そうで良かったな、本が出たら買ってあげようかな、と読んだ人に思ってもらいたくて書いています。できればそのようにして頂けますと幸いです。

2022年7月の漫画掲載情報関連

 今月の漫画掲載は先月に引き続き2件です。

 連載以外の漫画の仕事がコンスタントにありますが、話自体は今表に出てないものも色々きていて、とりあえず具体的に〆切の設定されているものからやっている感じです。

 

 会社員の仕事をがっつりやりながら漫画を描いているので、「無理をしているのではないか?」と心配されたり、量を描いていることでビビらせたりしていますが、基本的にできると思ったスケジュールの仕事しか「やる」とは言っていないので、今のところさほど無理はないです。

 無理があるとすると、会社員の仕事の方で大変な気持ちになることが色々あって、どんどん精神がすり減っているという部分はあります。漫画をやっているのは、しばし、そのしんどさを忘れられるだけでなく収入にもなるので、精神衛生上は助かっている感じがしています。

 

 連載のゴクシンカは、基本的に僕が実際に遭遇した経験を反映している漫画なのですが、第4話は直接的な実体験ではない話を描いてみました(細かく言えば過去の体験のいくつかの要素は入れていますが)。自分の経験の切り売りだけだと目減りしていくので、色々試していくことが大切だなと思っています。

 この話から、そのうち出る単行本1巻の終わりに向けて進んで行くので良かったら読んで下さい。もしくは単行本が出たら読んで確認してくださいね。

 

 虚無病は、昔描いた同人誌のリマスター版です。当時、印刷所の入稿期日のギリギリまで話が終わっていなくて、ラスト4ページぐらいを、えいやという気持ちでなんとか終わらせたお話だったので、詰め詰めの殴り描きになっていた最後の下りをこの機にやっと描き直せて満足感があります。

 内容については人殺しの話を描こうと思って描きました。読み直したら難しいことを描こうとしているなと思って、もう少し分かりやすくなるようにいくつか調整を入れたので、上手く伝わってくれるといいなと思います。

 

 漫画を頑張るのは、淡々とやっているので今のところしんどくないですが、会社員の仕事の方が4月からずっとしんどくて、この先もしばらくしんどいことが見えているので、とてもしんどいです。

 この仕事、今は頑張れているが、この先もずっと頑張れるか?については、心が今は疲れているので弱気ですが、ただ、こういうことはよくあって、乗り切ったらもうちょっと頑張るか…といつもなるので、なんとか乗り切ろうかと思います。が、今この瞬間としては、漫画が思ったよりも売れて、仕事辞めても大丈夫になったらいいのになという夢想で心を守っています。

 

 仕事を続けるにせよ辞めるにせよ、もうちょっと気持ちが追い込まれない仕事に転職するにせよ、とにかく漫画は売れて欲しいですね。面白いものを描いているつもりではいるので、そのうち単行本が出た日には、読んで買って面白寄って広めてくれると嬉しいです。

 注文が多い告知文。