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漫画業界は新人を育てようとしているか?関連

 インターネットで目にした話で、乱暴に要約すると「今の漫画業界は貧しくなり、売れ筋しか作ろうとせず、新人を育てる気もない」みたいな意見があって、別にそんなことはないんじゃないかなと思いましたが、ただ、そこに全く理がないわけでもないかもしれないと思ったので、それを書きます。

 

 まず、漫画業界が貧しくなったかというと、国内の漫画市場は電子書籍の追い風もあり拡大しているので、全体としては特に貧しくはなっていないと思います。

 次に、売れ筋しか作ろうとしないという認識の解釈は難しいですが、基本的に商業出版は売れなければ続けられないので確かに売れる必要はあると思います。ここで言いたいのはおそらく、売れるために新奇性ではなく既にウケているものの模倣が中心になっているという危惧だと思います。実際、そういう作品も多くあるでしょうが、昨今は、漫画の連載のWeb媒体への移行が進んでおり、定期刊行する紙面という制約にとらわれず、採算性もとりやすくなったことで、昔よりも様々なチャレンジがしやすい状況になっていると僕は認識していて、今の方がむしろ、従来であれば出せなかった変わった漫画も出やすくなっているという認識です。

 最後に、新人を育てようとしていないというのは、例えば、既にネットでバズッた人を連れてきて連載させるような話に対してではないかと思いますが、今はWeb掲載の柔軟さもあって、そうではない新人の読み切り企画も増えているように思います。実際、僕自身、40歳の中年新人漫画家なのに、原稿料の投資が即時に回収できるわけではない読み切り漫画の話を頂けていますし、今月からは連載もさせて貰えることになりました。

 

 僕は、コミティアで知り合いを中心に数十冊程度売れる同人誌を作っていただけのオッさんだったので、ろくに実績もなければ、パッと見、将来性も低いと思うので、そんな中年にまでお金を出して漫画を描かせようとしている業界に、育てる気がないとは思えません。

 

 ただ思うのは、ここで言う「育てる気がない」という言葉の意味が、「すぐに結果を出せる才能のある人や、何らかの後ろ盾のある人以外のチャレンジが難しい環境である」という意味なら、理解できる部分があるかもしれないなと思いました。

 

 それはつまり、収入面の問題です。

 

 漫画の連載のタイプを大きく2つに分けるなら、週刊連載と月刊連載があります(細かく言えば隔週や季刊や不定期もありますが)。新人の原稿料の一般的な相場を8000円とした場合、週刊連載が週17ページ×4回であるなら、月収54万4000円、月刊連載で32ページなどであれば、25万6000円です。どちらも生活はできそうな収入に見えます。

 しかし、それは「アシスタントを使わなければ」ということが前提です。そして、特に週刊連載は、アシスタントなしでやることは普通の人にはほぼ不可能な作業量です。例えば、週3日の日給1万円で2人のアシスタントをお願いした場合、週刊連載の収入は54万4000円-1万円×2人×3日×4回=34万4000円になります。

 

 これならまだ生活が大丈夫そうにも見えますが、アシスタントをしてくれる人に、より多くの報酬を払ったり、人数を増やしたり、スタッフとしてちゃんと法律を守って雇用したりすると、あっという間に赤字になってしまうと思います。

 

 連載で赤字になっても、単行本が出れば回収できるかもしれません。しかし、例えば初版1万部程度で重版なしの500円の単行本で印税率10%の場合、1冊の単行本で得られる収入は50万円です。週刊なら年4冊で200万円、月刊なら年2冊で100万円です。この規模では、連載を赤字で回し単行本の収入で生活するということがしんどいということが分かります。

 

 つまり、このような連載で赤字が出るやり方は、単行本が売れなければそもそもアウトという環境であり、一方で、知名度のない新人漫画家が単行本をいきなり売るのは困難なことです。なので、新人ほど、生活がギリギリになる状態や、あるいは借金の可能性のある状況を切り抜けなければ漫画家になれないという苦しい状況があると思います。

 加えて、連載が始まるまでの期間は無収入になるので、最悪載らないかもしれない漫画の作業を延々続けないといけないかもしれません。

 

 そのような状況を想定して、「育てる気がない」と表現するのであれば、それは理解できる話だなと思います。

 例えば、即座にお金にならないような斬新な漫画を描いている新人がいた場合、それで食っていけないなら、漫画は趣味に留めて、食える仕事の方をするしかありません。

 

 ただし、この前提がそもそも常に真とは限りません。

 

 例えば、出版社によっては年間契約などによる金銭面のサポートがあったり、今は紙の本に加えて電子版の印税もありますし、Web連載であれば先読みの収入もあったりします。原稿料も交渉次第で上げられるかもしれませんし、デジタル画材の進歩で、アシスタントの人数や稼働を最小限にすることもできるかもしれません。また、Web連載ならば、紙面に空きができるまでの無収入待機時間も最小限にできるかもしれませんし、連載化のハードルも低いかもしれません。

 前提とする条件は、上記のように単純化したものだけではなく選択肢も沢山あるわけです。

 

 また、作品の権利が個人に帰属するタイプの仕事は、雇用されているときのような手厚い補償のあるものではなく、実力主義の厳しいものであるという考え方もあるでしょう。その条件でやっていけないならば、サポートされながらダラダラ続けるよりも、やっていけないことを早めに悟って退場するのが筋であるというような、厳しい考え方もあるかもしれません。

 

 一方で、条件が上で挙げたものよりもさらに悪い場合もあって、出版社によっては、原稿料が相場よりもずっと低かったり、印税契約ではなく買い切りであったり、成果物が作者でなく出版社に帰属するような契約を持ちかけられたりの話もあるそうです。

 

 このような話題は、話者によって前提としている条件が異なり、それゆえに、今の状況が問題ないと感じる人と大いに問題であると感じる人が、全然違う前提条件を元にすれ違って話しているということもあるのではないでしょうか?

 なので、こういう話題をコミュニケーションとして真面目にやるなら、相手が何を前提として何を言おうとしているのかを確認するところから始めて、正しいとか間違っているとかの話は、それを十分やったあとの話だろうなと思いました。

 

 ちなみに僕の今月から始まった連載は、アシスタントなしの紙媒体の月刊連載(ページは少なめ)という選択をしています。連載にともなう電子媒体からの追加のお金は発生しませんが、支出が少ないので、連載そのものは黒字で行えます。なお、アシスタントがいない代わりに、素材を買ったりはしているので、支出がないわけではありませんが。

 

 また、兼業で漫画を描くという選択をしたのは、自分の生活の収入基盤を不安定にしたくないという理由からです。今の本業は同じ業界の中で15年以上働いていて。それなりに足の置き場があるので、そっちの仕事をやっていれば「生活できるかできないか」レベルの不安については全く目を向けなくて済むという状況があります。

 僕は昔、生きるための金に困っていた時期のことが悪夢のように思い出されるので、絶対にお金に困りたくないんですよね…。

 

 そういう感じに金のことを考えていくと、例えば、自分の原稿料が今の3倍だったなら、仕事を辞めて専業をやるという選択肢も出てきたかもしれないなと思います。でも、実際に漫画の連載をひとつの投資として考えた場合、原稿料をそれだけ上げたとして、単行本を売って回収するのに必要な冊数を想像したら、難しいなと思ってしまいます。自分の漫画がそれだけ売れる前提がまず必要ならば、そもそも企画が通っていないかもしれないとも思ってしまうんですよね。

 例えば、200ページの単行本を作る場合、原稿料が8000円だとしたら(念のため書きますが、これは仮定で、僕の実際の原稿料は秘密です)、作者に支払う原稿料は160万円ですが、3倍にすると480万円です。500円の単行本で1万冊刷るとしたら、全部売り切れても500万円なので、そんな前提はこの規模ではあり得ないなとすぐに気づいてしまいます。

 少なくとも数万冊以上は刷っても売り切れるぐらいの見込みがないと商売としては破綻しています。

 

 ここで「人を育てるためなら赤字でもやれ」という人もいるかもしれませんが、でも、多くのケースでは既にとっくに赤字でやっていることも容易に想像できると思います。なぜなら1万部刷っても全て売れるということはなかなかなく、もし半分しか売れなければ、全体の売り上げが250万円しかないからです。もちろんその250万円の中には、印刷製本や流通決済の費用も含まれるので、どう考えても1万冊刷って半分しか売れない200ページ500円の本に原稿料8000円払う事業って赤字ですよね?

 赤字の幅がデカく、赤字の本が増えてしまえば、同じ出版社から他によほどどでかいヒットが出ていなければ、事業として立ち行かなくなるだろうなと思います。

 

 なので、自分の原稿料を3倍にしてくれ!!と交渉するのは、まず前提として本が既に沢山売れているという状況がなければ、通ることのない無理筋だと思うんですよね。

 

 もちろん単行本の価格を上げるとか、電子版が売れるなど、その認識を補正して検討するための材料はまだまだありますが。

 

 こう考えていくと、新人が漫画で生活を成り立たせるのが難しいという状況は、「売れ筋しか作らないから」ではなく、むしろ、「将来売れ筋になるかもしれないから」という多くのチャレンジの機会を作っているからこそ、そうなる傾向があるようにも思います。

 なぜなら、既にある程度売れる見込みのある実績のある漫画家の本だけ作っていれば、赤字の本は最小化できるという考え方もできるからです。その場合、赤字の可能性の高いギャンブル的な新人の本を作る必要はありません。

 

 つまりこれは、誰かが悪いことをしているからそうなっているというのではなく、現状の枠組みでは様々なバランスからそこに落ち着いてしまうという構造的な問題だという理解になります。雑誌で連載して単行本で回収するというビジネスモデルが、現状の価格や分量のバランスでは、必然的に新人の生活に厳しい状況となってしまうのであれば、別の新しいビジネスモデルが望まれているのかもしれませんね。

 それが例えば、スマホアプリでの連載(ウェブトゥーンを含む)などだったり、fanboxなどの支援や電子での自費出版だったりするのではないかと思います。今後、もっと新しいモデルが出てくるかもしれません。

 今日思ったことはここまで。

紙の漫画と電子書籍とWeb連載とウェブトゥーンが違う関連

 漫画の在り方というのは近年選択肢が増えているように感じていて、昔ながらの紙の漫画の他に電子書籍という選択肢が増え、紙の雑誌ではなくWeb連載となる漫画も増え、スマホに特化したウェブトゥーンなども勢いがある状況です。

 

 一口に漫画と言っても、「読者に届ける」というやり方についてはそのような多様な選択肢があり、その中で、どの方法を選ぶか?を考えるには、どのように届けたいか?という価値観が必要だと思います。この文章では、その選択においてどのような考え方があるかについて僕が思っていることを散漫に書きます。

 

 (1)紙vs電子
 目につく大きな違いのひとつは、昔ながらの紙で作られた本と、データで売ることが出来る電子媒体の違いです。この2つの性質の違いは、販路とリスクと収納と保存性の4点あると思います。

 近年電子書籍が強くなっている理由の一つは販路だと思います。つまり、書店や通販で買う必要のある紙の本は、「買える場所が限られている(さらに書店は現象傾向)」かつ「欲しいと思った瞬間に買えない」という、電子書籍に対して劣った部分があります。つまり、「今すぐにこの場で買って読みたい」という需要に紙の本はなかなか応えることができません。

 

 また、販路の違いには決済方法という論点もあって、例えば、クレジットカードを持てなかったり、スマホ決済手段も親に握られている年齢の子供は、電子書籍を買うための決済を行うことに手間がかかったりできなかったりします。さらに、小学生以下の場合は自分専用のスマホを持てない場合もあるでしょう。

 一方で、書店で紙の本を買うのであれば、現金を出せば買えるので若年層にとっては身近な販路になり得るかもしれません(この辺の状況はしだいに変わる可能性もありますが)。

 

 この辺りのことを感じたのは「鬼滅の刃」の単行本がとても売れているときに、それまで紙の本はもう減少していくしかないだろうなと感じていたのに、「紙で買いたいと思う人がこんなにもいたんだな」ということを認識したということで、紙の本は廃れていっていたのではなく、「届くべきところに届くための導線が薄くなっていたんだな」と思いました。それは「呪術廻戦」や「東京卍リベンジャーズ」などで継続する紙の本の売れ方を見て、印象がより深まります。

 

 つまり、紙と電子では、届く範囲が異なっており、電子でなければ想定読者に届かない漫画もあれば、紙でなければ想定読者に届かない漫画も、今現在あるということです。

 

 次に、リスクの問題があります。紙の書籍はリスクが高いので出ず、電子書籍専売の漫画なども既に多く存在します。また、最終巻は紙で出せず、電子でしか出ないというケースもあり、その本をそれまで紙で買っている場合、やめてくれよ!!と強く思いますが、見方を変えれば、「電子でなら出せた」という理解にもなり、紙で出せと要求すると「なら出ない」という判断にもなってしまうかもしれないので、しぶしぶ仕方ないなと思っています。

 

 世の中には最初から紙の本は出ず、電子専売の漫画なども既にあり、それらは出版のリスクが低いため、チャレンジがしやすいという状況もあるようです。紙の本が出ないということは、印刷費や保管費が不要ですし、在庫にかかる税金もないはずです。そして、在庫管理やどのように増刷するかなどのためのあれこれの判断なども不要です。

 電子専売にすることで、様々なリスクを減らして気がるに漫画を出せるようになり、それによって世に出てくる漫画も出ているのではないかと思います。

 

 最後に、収納と保存性については、マニア向けの話です。僕の家などは紙の本をあとどれだけ家に置けるか?という部分で日々頭を悩ませており、電子ならばまだ好きなだけ買える!という希望を見ています。一方で、電子書籍は、現状電子書籍の各ストアと個別に紐づいたものなので、仮に電子書籍のストアが閉鎖した場合、読めなくなる可能性があります。保存性に難があります。

 

 電子書籍もネットのサービスとして考えると、ずっと続くものの方が少数派で、いつか読めなくなるかもしれないというリスクを抱えることになります。その点、紙の本であれば、とりあえずその物体が存在している以上は読めるので安心です。ただ、何十年とかの単位で考えれば、結局、本も物理的に崩壊していくので永遠の存在ではありませんが。

 

 これらの違いで言いたかったことは、紙と電子は対立するものであるとは限らず、その性質の違いから、それぞれの購入者に対して響く場所が異なるということです。

 ある漫画における収益の最大化を狙うなら、両方やる方が良いでしょうし、リスクの方を高く見るなら、電子専売でやるという方法も出ているなと思っています。


(2)単行本vs連載

 単行本派という言葉があるように、漫画が単行本化されて初めて読むという流儀の人と、雑誌連載で読む人が存在します。このあたりは、どちらが正しいか?ということもなく、どれぐらいの頻度で読みたいかであるだとか、単行本を買っている漫画以外も読みたいか?というあたりの違いではないかと思いますが、近年はWeb連載が増えたことによって、連載を即時に追うための選択肢が増えたと思います。

 漫画を連載で追うことのメリットは、同時性というものがあると思っていて、同じタイミングで同じものについて仲間内や知らない人同士でリアクションを返すことで、連載を追うという行為に対して、ただ漫画を読むということ以外の、何らか社会的な楽しみが生まれるという部分はあり、その他の試走な輪の中に入ることで連載を追い始める人などもいるように見えています。

 連載が読まれているかや、それに対する反応があるかというのは、特に紙の雑誌とWeb連載では大きな違いがあって、人気のあるWeb連載であれば、公開直後に、その話に対する多くの反応を見ることができます。それは作者にとっても有用なことかもしれませんし、ファン同士でもその活発さがさらなる推進力になるようにも思います。

 

 一方で、紙の雑誌での連載であれば、ジャンプ等の一部の例外を除けば、多くの場合は、読者の反応はまばらというのが普通だと思います。話題になるのは基本的に単行本が出てからで、そこである程度の盛り上がりがあることで、やっと反応にありつけます。

 

 反応の即時性も量も、Web連載の方が多くなりがちなので、作者側からすれば、自分がどこに向けて描いているのかを細かく把握したいならば、Web連載の方がいいかもしれません。一方で、即時的な細かい反応に気持ちを影響されたくないのであれば、連載は穏やかに進められる紙の雑誌の方が落ち着くという人もいるかもしれません。

 

 一概に何が良いとは言えないかもしれませんが、最近の傾向としては、自分が描いているものがどのような反応を受けているのかを観測しやすいWeb連載のメリットが好ましく思われているようにも見えています。

 

 紙の雑誌を買う人は今は少数派だと思うので、単行本発売前に知名度を上げていくためには、まず雑誌を買って読む人を増やさないといけないでしょうし、それができるなら既に売れとるという感じもしてしまいます。

 ただ、紙の雑誌を買う読者層とWeb連載の漫画をアクティブに読む読者層は異なる気がしていて、また、Twitterなどで可視化される読者層の他に、漫画アプリの中で閉じた客層もあります。それぞれ異なる性質があるように見えていて、Twitterで話題になっても売れない漫画の話も聞きますし、Twitterではろくに話題になっていなくても、漫画アプリでガンガン課金されて読まれている漫画の話も聞きます。

 

 自分の漫画がどの層に向けてアピールすればいい性質の漫画なのかによって、適切な宣伝場所や、反応を見るべき場所は異なるかもしれません。

 一概に正解はないと思いますが、ある漫画が、どこで読まれるのが適切なのか?ということを考える発想は必要なのではないかと思っています。

 

(3)作品vsサービス

 単行本派と連載派の話とも少し被りますが、ここでは日本で主流の単行本ベースのやり方とウェブトゥーンの違いのような部分の話です(ただ僕はウェブトゥーンをそんなに沢山は読んでいないので雑な話かもしれません)。

 

 僕の印象では、そこにある違いは、単体で成立する作品を作っているのか、サービスとして提供されているのかということであるように感じていて、単行本ベースのやり方とウェブトゥーンのの大きな違いは、お金を儲ける場所だと思います。

 

 つまり、日本で現在主流の漫画でのお金の儲け方の基本は、単行本を売って儲けるという方法であるために、様々な制約や偏ったパワーバランスがあるように思います。ウェブトゥーンが新たな選択肢として見えているのは、その従来確固として存在した制約がとっぱわれたという部分で、そこに自由があるように見えるからではないでしょうか?

 

 ただ、別に単行本で儲けるモデルがダメなわけではなく、実際、好調に儲かっているので、日本の漫画もウェブトゥーンの方式に移行するべきと見えているわけではありません。ただ、別の選択肢があるということであり、それは前提が異なるので、それぞれメリットとデメリットがあるように思えるという話です。

 

  まず、単行本になる漫画はその前提からして、縦スクロールで連載するという選択肢が非常に狭まります。これまで、縦スクロールの漫画を紙の単行本に変換するという試みがあったり、本の形式の漫画を縦スクロールに変換して連載するという試みも行われていますが、めちゃくちゃ上手くいったという事例はまだ見えていません。

 

 つまり、それぞれが中途半端になっているようにも見えていて、結局どちらかに最適化してしまうためも、もう一方には歪さが残るような形になっている(少なくとも現状は)ように思えます。

 コマの構成方法は演出に直結するものなので、変換時には少なからず歪さが残ってしまうというのが現状であるように思っています(今後それを埋めるやり方があるかもしれません)。

 

 本の形式と縦スクロールはそれぞれ演出論の異なる方法であり、どちらが優位であるかは単純には言えないと思います。ただ、作成の効率という意味での差はある気がしていて、僕自身でやってみた実感があるわけではありませんが、週刊連載以上で量産するという意味では、縦スクロール漫画の形式の方が効率がいい可能性があるのではないかと思っています。

 

 また、紙の単行本にしないという選択をすることで、白黒である必要がなくなり、カラーをバンバン使うことができるようになります。これは電子書籍でも同じかもしれませんが、紙にする場合、白黒とカラーは印刷上かなり違うものですが、電子であれば、その差はかなり小さくなります。

 

 また表題にした、作品なのかサービスなのか?という部分なのですが、ウェブトゥーンは単行本にするタイミングでお金にするモデルではないので、連載だけで十分なお金を儲けるというWebサービスとしての立て付けになっているはずです(いくつかパターンはあるので、一概には言えないかもしれませんが)。

 

 ここにウェブトゥーンのメリットがあるのではないかと思っていて、つまり、単行本で設けるという日本で主流の漫画のモデルでは、「赤字で連載する」ということが珍しくないという部分があります。これは単行本が売れれば辻褄があうという部分があるために温存されている良くない部分ではないかと思っていて、結果的に単行本が売れなかった場合、連載をした結果、借金を抱えるというまであります。

 

 ただ、赤字になるのはアシスタントを雇って量産体制を作るという部分に大きな原因があり、原稿料にもよりますが、一人で描くのであれば少なくとも借金を抱えることはないのかもしれません。ただ、そこで赤字になってもクオリティを上げたり、量産できるようにするのは、漫画が個人に帰属する作品であるという性質があるのが要因のひとつではないかと思いました。

 それは、日本の漫画の多くが、出版社の提供するサービスではなく、漫画家個人の作品であるからこそ、可能な限りリソースをつぎ込んで、ハイリスクハイリターンを目指されることが多いのではないかと思いました。

 

 作者に帰属する作品であれば、当たれば大きいものの、連載をするということそのものは苦しい可能性があり、その部分が連載の一話一話そのものが赤字にならないように作るはずのウェブトゥーンとの、在り方の違いの大きな部分があるのではないかと思いました。

 

 継続するサービスとして、ひとつひとつの話が赤字にならない収入源のもとに量産体制を作るという部分と、大きなリターンを見込んで、借金を抱えてでもハイクオリティで量産し、単行本で一気に回収するという博打を打つという部分が、ウェブトゥーンと単行本で回収するモデルの違いのひとつではないかと思っています。

 

 また、連載で儲けるというパターンは10人の読者から満遍なく1のお金を貰う形で、単行本で儲けるというのは、10人の読者のうちの忠誠心の高い1人から10のお金を貰う形のような差もあるかもしれません。これは、音楽や映画のサブスクにも見られる変化で、ユーザのひとりひとりがお金を出してくれるモデルの方が全体のパイが大きくなる可能性はあって、その辺の変化が漫画にも今後来る可能性はあると思います。

 

 書いてたら長くなったので、ここで急に終わりにしますが、なんか色々違うもので、どれを選ぶかが大事だなと思っている話です。

中高年は新しい友達ができにくい関連

 人間は中高年になってくると新しい友達ができにくいという話をよく目にします。そうかもしれないなと思う一方で、自分にとってはあまり切実な話ではないなと感じていて、なぜなら僕は、若い頃から別に新しい友達ができやすかったわけではないからです。

 

 学生時代の経験では、同じクラスの誰かと友達になるのにだいたい1年ぐらいはかかっており、ようやく友達になった頃にはクラス替えというような感じでした。若い頃はそんな自分には問題があるのではないか?と思って、新学期に友達を作ろうかなと思って話しかけたりもしたのですが、そういう無理をして人に話しかける元気は、一週間もしないうちになくなっていき、最初はあれだけ元気よく話しかけていたのに、人に話しかけることがなくなり、向こうからも話かけにくいようで、4月の最初だけ頑張っていた人、みたいな感じになっていました。

 そういうの、ほんとダメだなあと思っていましたが、そんな僕でも1年ぐらいかければ、同じ空間にいるというだけで、なんとなく話す人も増えていき、学校に3年ぐらい通ったぐらいになると、それなりに友達がいる感じになっていました。

 しかし中高はそれで卒業しておしまいです。

 

 今は学校に通っていないので、同じ空間に人がいることがあまりありません。会社がそれにあたると考えられますが、会社に友達はひとりもいません。仲良く話したり、一緒に飯を食いに行ったり、飲みに行ったりは別にするんですけど、休みの日にまで予定を合わせて何かするような人はひとりもいないという感じです。

 会社の人が嫌いなのか?というと全然そんなことはなく、むしろ好きな人が多いですが、友達にはなりません。その理由を考えると、僕自身が壁をわざわざ作っているような気もしています。

 

 壁というのは、見せていない部分があるというところです。例えば、会社で、僕が漫画を描いているということを知っているのは2人だけです。その2人にも、商業誌でたまに描いたりしていることや、来月から連載が始まることは教えていません。

 情報だけでなく、自分の性格の素の部分を見せていないように思います。それはきっとコントロールしたいからだと思います。自分を会社用に装っているんですよね。なので、会社の人がコミュニケーションをとっているのは、装っている僕の部分で、僕の素の部分とは異なるので、一定以上の距離が縮まらないのだと思います。あえてそうしているきらいがあります。

 

 なぜかというと、会社人としてのコントロールすべき人格があると思っているからかもしれません。その場所に当面いることになるならば、そこでの人間関係が悪くなりたくないと思いますし、でも人間の性質の根っこの部分はどうしても、人と人とはぶつかる可能性があるので、人間関係を悪くしないための特別な人格が必要だと思っていて、それを装っているという感じだと思います。

 それで不都合はありませんが、友達はできません。

 

 さて、僕が近年友達を得ているのは、インターネットとコミティアです。インターネットでは比較的素に近い部分を出していると思っていて、それはなぜなら、誰かの目を気にした行動をしていないからだと思います。だから楽だなと思いますが、誰かとコミュニケーションをやる用の人格でもないので、人とやりとりをしません。

 そのように人とやりとりをしない状態で、例えばTwitterで数年相互フォローだったりすることがあります。ほとんどやりとりをしないままTwitterで数年相互フォローだったりする人というのが、比較的友達になれる可能性がある人だと感じています。

 きっかけの多くは、その人たちがコミティアに来てくれて、これまでお互いを認識しつつも、ほとんど言葉を交わしたことがなかったのに、初めて対面することで、距離が縮まったりします。数年間僕の独り言に耐え切った人たちなので、面構えが違いますし、比較的素の状態で喋っていても問題がない可能性が高いので楽なんですよね。

 

 場所はコミティアには限らないんですけど、そのようにして、何かのタイミングでやりとりを開始することで徐々に人間関係が発生し、友達になったりしています。

 頑張って友達になろうと思って行動してもできないけれど、同じ空間に長い時間いる期間を経て、なんとなく友達になっていくというのは、学生時代と同じことをしているなという理解があります。

 

 今も大体の友達はTwitter経由だったりしますが、とにかく、互いの手の内がある程度わかっている状態になるので、探るようなコミュニケーションをあまりせずに済むので楽です。

 

 人が友達になるために必要な条件は、「相手との間に壁をなくすこと」と「相互にコミュニケーションをとった量」かなと思っていて、中高年になって友達ができにくくなるのは、「互いにフラットな関係性の人と知り合うことが減ってしまう」ということと、「仕事や生活の忙しさから、十分な量のコミュニケーションをとることが難しくなる」ということからなのではないか?と思います。今は幸いインターネットがあり、直接会うイベントとかがまれにあったりするので、その辺の条件が満たされて、自分は中高年でも友達ができているのかなと思ったりします。

 

 友達はできているとはいえ、インターネットで人と仲良くなるのには、それぞれの人との間で3年ぐらいの時間をかけているので、やっぱりこれはできにくいと言った方がいいのかもしれません。でも、友達がどんどん増えたとしても、それぞれの人とやりとりする時間が減るだけな気がしますし、幸運なことに今いる友達との友人関係が十分足りているので、それでいいかなと思ったりしています。

4月から会社員と漫画の月刊連載の二足の草鞋を始める関連

 4月から漫画の月刊連載を始めます。連載する雑誌はコミックビームでタイトルはまだ仮ですが、「ゴクシンカ」、昨年の夏に掲載された読み切り「へレディタリー/極道」を、連載用に設定から仕切り直して再構築した物語です。

 

 本作は、もともとコミティアで出した「自分のことをヤクザの若頭だと思っているピエール手塚くんのグルメ紀行」という半エッセイ漫画を元にしていて、それを元に思いついたアイデアを昨年「へレディタリー/極道」という読切漫画で描いてみたあと、何かしらの手ごたえを感じたので、連載向けに再度練り直しました(ヘレ極とはパラレルです)。

 そのため主人公の名前は僕と同じ手塚です。僕の人生経験が反映された物語になるのではないかと思います。

 

 さて、会社員をしたままで月刊連載をしてみるというのは、そこそこ大変な試みだと思っていて、僕自身できるかどうかの自信はなく、踏み出すことに躊躇のある領域だったのですが、これまでこのブログにも書いて来たような漫画制作の時短テクを考えて習得しつつ、実際に読み切り原稿をいくつか受けて、どれぐらいの時間で仕上げられるかを何度か試すことで、これぐらいの分量ならばできるだろうといういくつかの手がかりを得たので、そのデータをもとにした判断で、やるぞ!という決意を固めました。

 連載開始前なら多少の描き貯めもできるので、その余裕の範囲でやりくりしながら、続けていこうと思いますが、これが本当にこの先上手くやれるのかどうかは全然分かりません。

 

 でも、本業の仕事がこの先に手が空くことは考えられないですよね。4月からは様々なしがらみから出世することを受け入れ、管理職としての仕事をメインにすることにしたので、苦手意識のあるマネジメント業務を今まで以上にしなければならなくなります。そういった事情もあり、「いつか手が空いたら」などと考えていたら、一生漫画の連載なんてしないだろうなと思うので、やるのだとしたら、チャンスが目の前にある今だろうなと思いました。

 そういう、様々な不安を塗りつぶしながら始める以上は、せっかくなので面白いものにしたいという気持ちは強くあり、どうにか少しでも面白くならないかなと色々考えていますし、無理めなことをせっかくやる以上は、売れるものを作りたいな…という気負いもあります。

 

 これが上手くいくかは全然わからないというか、これまで色々描いた読み切り漫画とかも、今までのところ好評に読んで貰えているようですが、発表するまでは見向きもされない可能性で不安でした。

 また、これまでは雑誌やWebに掲載されるだけなら、描いた漫画が編集部のジャッジを通り抜ければ良かったのですが、今後単行本を出たら、読者が「この本を買いたい」と思ってくれるかどうか?という今までは晒されていなかったジャッジに晒されるようになります。そのジャッジを抜けて買って貰えるか?というのは読めないし、とても難しいことだろうなと思います。

 

 コミティアで出していた自分で作った本も、色んな人が買いに来てくれるようになるまでそこそこ時間がかかったので、駆け出しの中年新人漫画家としても、人の目に触れて読んでもらえるのはすんなりとはいかないのでは?という想像はありますが、今は電子書籍もありますし、そこに時間がかかったとしても、とりあえず面白いと思える本を作っておくことが大事だろうなと思っています。

 

 幸いこの前40歳になったので、不惑パワーでなんとかしていこうと思います。様々な想像できる困難にも、不惑なので、惑うことなく淡々とやっていけるんじゃないでしょうか。連載が始まるのが、まだ惑いのある30代の頃でなくてよかったですね。

 不惑の中年新人漫画家、ピエール手塚の今後にご期待ください。

AIが自動生成で創作する未来関連

 AI技術の進歩が、色んな新しいものを生み出していて、例えば文章の続きを描いてくれるAIなども出てきています。またゲーム等ではそういった自動生成の試みは昔からされていて、例えば3Dの背景も、ひとつひとつ手作りするのではなく、ある程度条件を指定すると自動生成する仕組みがあったりして、僕が最初にその話を読んだのはシェンムー2でシェンファとともに山道を歩くシーンがそうやって作られたという話でした。

 ゲームの世界は技術の進歩に合わせて広くディテールが細かくなり、膨大なリソースを要求されるようになっているので、もはや人の手だけで全てを設計することが難しく、どんどん機械によって自動生成されたものがその下支えをしていくのではないかと思います。

 人間は機械と連携することによってその創作力を倍増させることができます。

 

 さて、今後の技術の進歩によって、創作性の核の部分にどれだけAIが入ってくるのだろうか?という想像があります。

 

 僕自身の経験では、自分のツイートを切り貼りして新しいツイートを作るサービスを、面白がって使うことがあります(その仕組みはいわゆるAIではないですが)。それは過去の自分のツイートから、意味の繋がりは考慮されず、ただ、言葉の繋がりだけが一見まともそうに見えるように切り貼りされた文章なのですが、ときおり、その文章からハッとするような意味を感じるときがあって、それを面白く感じます。

 

 つまり、おもしろさというものの本質的価値については、見る側が持っているもので、それがどのような意図で生成されたものかについては、あまり重要ではありません。そのような自動生成ツイートについては、意図はそもそも無だからです。

 もし、AIによる創作が高度になってきたとしても、この部分は本質的に同じなのではないか?と思うところがあります。つまり、生成はできるものの、それが面白いかどうかを判別するのは結局、それを見た人間の側だということです。

 自動生成で上がってきたものに対して、それが「良い」か「悪い」かを判別することが、創作をするということと限りなく近くなってくると考えると面白い感じがするなと思いました。

 

 ただ、これは別に特異な話でもないなと思っていて、例えば映画監督などは昔からそういった要素のある職種だと思います。監督は、企画を立てなくても、脚本を書かなくても、撮影をしなくても、演者として出演しなくても、編集を自分でしなくても、監督は監督です。つまり、監督とは、誰かが作ったもの対して、それぞれ「良い」と「悪い」を判断する機能さえあれば成り立つものです。

 もちろん、それぞれの分野に足を踏み入れても監督は監督です。ただそれは、自分の判断する良し悪しにどれだけ具体的に干渉して至るか?という話であって、やらずにそこに至る道筋もあるということだと思います。

 こう考えていくと、映画の要素における個別の良し悪しを語るファンというのは、監督に求められているものと同じ役割をファンながらにしてやろうとしているのだなという理解になります。ただし、ファンはあくまでファンであって、監督ではありません。なぜなら監督ではないからです。

 

 しかしながら、もし色んな要素をAIが自動生成してくれる世の中になると、様々な良し悪しを判断するファンと、監督の間の垣根は限りなく小さくなるのではないかと思いました。AIが自動生成する脚本の中から良いものをより分け、それを映像に自動変換してくれるものの中で良いものをより分けていけば、作品は完成するかもしれません。

 そうなってくると、今までの監督という立場は、様々な人が関わってくれる以上、椅子の数が限られていて、その椅子が一部の何らかの理由で選ばれた人に独占されていただけであるという理解になり、同じような能力があったとしても、座れる椅子が少なかったため座れなかっただけの人たちにチャンスが巡ってくる可能性があります。

 

 これは希望がある話であると同時に怖くもあって、今までなら自分は監督ではなくファンであるのだから、好き勝手に自分は監督よりもセンスがあるとばかりに、この脚本がだめ、このカメラがダメ、構成がダメ、企画がダメと好き勝手言えたものが、その言葉そのままに、じゃああなたのセンスで映画を生成してみましたという話になるかもしれません。

 そして、それが全然おもんないと言われてしまったり、誰にも見向きもされなかったら、これまでは無傷でいられたのに、それが他人から評価される土俵に上がってしまうため、めちゃくちゃ傷ついてしまうかもしれません。

 

 さて、漫画も自動生成が上手くハマるような領域はあると思っていて、それによって、今後、今まで漫画を描けなかった人も描けるようになるかもしれません。

 僕自身既に作画に対して機械の恩恵を強く受けている部分があって(AIではないですが)、iPadクリップスタジオによるサポートがなければ、漫画は描けないだろうなと思っています。

 例えば僕は全然パースがわからないのですが、3Dモデルを使うと、頭の中でこねくりまわさなくても、一定の理屈の中での正解が見られるので、めちゃくちゃ助かるなと思ったり、最近は写真をうまい具合に加工して取り込むことも試しています。

 

 ただし、絵のサポートは機械から受けていても、お話を作ったりそれを演出するという部分に対しては、まだ全て人力です。でも、そこの部分にも、あと何年もしないうちにAIによるサポートが入ってくる可能性は全然あるのではないでしょうか?

 

 例えばジャンプ+の公開している「World Maker」というアプリでは、シナリオをネームに変換する部分をある程度自動化するという試みをしています。ネーム作成にもある程度の法則性とパターンはあると考えていて、その部分を蓄積なしに利用できるのであれば、ネームの描き方が分からないという人に対してのネーム作成のハードルが下がるかもしれません。

 例えばシナリオの中の、どの部分を強調したいかを支持することで、コマの大きさや配置を自動調整してくれれば、仮にそのままでは使えなかったとしても、そこから改善するための最初の叩き台としては有用かもしれません。

 

 人間は叩き台があれば、それにダメ出しをするのは気軽にできたりしますが、そもそもの叩き台を作ることがかなり面倒だったりします。そのハードルをAI等による自動生成がサポートして下げてくれれば、創作のスピードが跳ね上がるかもしれません。

 

 ネームをやるたびに、ネームを明確な指針を持って作る方法が全くわからず「ひたすらこねくり回していたらなんとかできる」、みたいな感じなんですが、そのように全く再現性のあるやり方が見つかっていないので、なんらかAI様が助けてくれよ…という気持ちがあります。

 何度か書いていますが、僕は自分の作者としての力量は信用していませんが、読者としての力量には「自分の面白いと感じるものがちゃんと分かる」という意味で信用しているので、とりあえず叩き台として最後までは描いた自作を読み返すことでの読者力で漫画を作っており、それは、AI自動生成に対しても同じようにできる気がするし、自分に向いているのでは??という予感があり、そういったものを渇望しています。

 もう何年もすれば当たり前にそれがあったりしませんか?してくれ。

連載時には批判的な感想ばかり見た漫画がいつの間にか名作扱いになっている関連

 僕は、自分が好きな漫画についての、他の人の感想をあさったりすることがあるのですが、近年は色んな潮目が変わっている気がしていて、漫画の好意的な感想が沢山目に入るようになりました。十数年前などは、感想を探しても批判的なものが多く目に入ることがあり、いかに「作者が分かっていないか」、「この漫画が面白くないか」を主張する感想の方が多く目に入った記憶があります。

 それらの漫画が、最近になってアニメ化をされたり、電子書籍で期間限定読み放題になるなどによって、再び話題になることがあり、そのとき、かつてあれだけ批判的な感想ばかりを目にしていたのに、今では、誰もが認める名作というような扱いになっていることがあり、え?じゃあ、昔のあれは何だったの??と不思議な気持ちになってしまうことがあります。

 

 その理由として、4つ仮説が考えられるなと思ったので、それについて書こうと思います。

 

(1)感想を書く人が変わった

 単純な話で、当時批判的な感想を書いていた人は、批判的な感想を書くことを好んでいた人で、そういった感想を書く人しか僕の目に入っていなかっただけという可能性があります。つまり、当時から好意的に読んでいる人は沢山いたのに、ネットの目立つところにあり、僕の目に入るのが、たまたま批判的な感想の人だけだったので、僕が勘違いしていたという説です。

 だいたいこれで説明がつきそうですが、一方で、その人たちが今その漫画が駄作であると主張しないという部分が気になります。でも、これももしかすると、その人たちが今なお批判的な感想を抱いていることを、今の僕が見えていないだけかもしれません。

 

(2)好きな人だけが残った

 一つ目の説を補完するようなものですが、かなり前に連載が完結した漫画の話を、今なおしているような人は、その漫画がめちゃくちゃ好きな人だけであるという説です。

 人間は世の中で注目を集めている作品に対して、それが好きでなかったり、場合によっては読んでなかったとしても、みんながそれに注目しているがゆえに言及をしてしまうことがあると思っていて、それゆえに連載中の人気作は、そのような形で否定的な言及もされやすいという側面があるように思います。

 ただ注目が集まっているからと言及していた人は、今は注目が集まっている別の何かの方に言及をするようになっていると考えられるため、こちらの作品に言及するのはファンだけとなり、それゆえに、名作という評価が強まるという側面があるのではないかと思いました。

 これも一つ目と同様に、当時も今も、面白いと感じている人、面白くないと感じてる人はそれぞれ一定数いるものが、どちらが見えやすくなるかが切り替わったために、僕の主観では変化したと感じてしまうという解釈です。

 

(3)面白がり方が普及した

 漫画の面白さが連載中にリアルタイムに分かるとは限りません。分かりやすい例では、子供の頃にはよく分からなかったお話が、大人になってから読めば分かるようになったということはあると思います。そして、他にも、このお話はこのように読むと面白いというような解釈が普及することも多いと思います。

 例えば、鬼滅の刃でサイコロステーキ先輩と呼ばれているキャラは、リアルタイムで連載を読んでいたときには、流して読んでしまったかもしれませんが、その後ネットで勝手に名前をつけられ、面白いものとして話がされ続けた結果、あれは面白いキャラであるという解釈が普及したように思います。

 キン肉マンなども、様々なツッコミどころが面白いものとして取り上げられるようになっていますが、僕は小学生のときに読んでいた時点では、そういった部分は気にせずに面白く読んでいたので、後にそういう面白がり方が普及して、突っ込まれながら読まれるようになったんだなと思った覚えがあります。

 他には、漫画を結末まで読み終わったところで、満足が得られたため、過程でそれまで疑問があった展開も肯定的に理解できるように変わった可能性もあります。

 この場合は、当時はそんなに面白いと思われていなかったものが、時間の経過によって、徐々に理解が深まり、転向していったという解釈になります。

 

(4)面白いと感じたことの表現方法が普及した

 人が面白いと感じたときに、それを気軽に面白いと表現できる場所や、語彙が増えたということもあるかもしれません。感じたことをそのままさっと書き込めるサービスの普及や、周囲の人がそのように気軽に書き込むことの相乗効果により、自分が好きなものを好きであるということを他人の言葉を参考に、どのような言葉で表現すればいいかを、悩まずに済むようになっている可能性があります。

 この場合も、昔から面白いと思っていた人は、面白いと感じていたのでしょうが、ただ、それを気軽に書くことができなかったため不可視になっていたという解釈になります。

 

 実際にはどれか一つではなく、いくつかの説の組み合わせかもしれませんし、他にも僕が認識していない要因があるのかもしれません。ただ、僕は昔、自分が好きな漫画が延々叩かれているのを見ていたときに、こいつらは全然分かってない!!とおかんむりだったので、今ようやく、自分の脳内の感覚と、周囲に見えるものが一致したりしてご満悦という感じになったりしました。

 人間が感じる不快感は、多くの場合、「自分が感じている感覚」と「周囲の評価」の間に大きな差があることに起因するものだったりするので、僕の不快感は一致によって軽減されることになりましたが、もしかすると今の状況では逆に、「あんな駄作が、世間で名作のように扱われている!」と憤っている人もいるのかもしれません。

 

 だとしたら、世の中はままならないものですね。

「ケモ夫人」とコミティアのCHAOS関連

 Twitterで連載されている藤想さんの「ケモ夫人」が、先週アフタヌーンから単行本が出て、重版および続刊が決定したという嬉しいニュースがありました。

 

 2/26(土)に開催された配信イベント「ケモ夫人 オーディオコメンタリー」にファンの一人として登壇させてもらい、藤想さんと一緒に5時間半かけてケモ夫人を全話振り返るという大変贅沢な時間を過ごしましたが、そこで喋ったことや、あまりでしゃばっても良くないだろうと思って、長々とは言わなかったことを含めてここに書いておこうと思います。

 

 ケモ夫人は、ケモノの姿の夫人が唐突に斧を渡され、巨人と戦うことを指示されるというところから始まる漫画です。この漫画の1ページ目が描かれた時点では、その後どうするかは決まっていなかったそうですが、結果、今まで続いている物語は、長大な奇想に溢れた世界の広がりの中で、ケモ夫人という存在がなんたるか?を踏みしめながら続いています。

 

 僕は、1話目を読んだあとすぐにファンアートを描いたのですが(それもきっかけのひとつでイベントに呼ばれた)、そうさせた魅力の一つは、第一話には隙が多かったという部分があります。これは全然ネガティブな意味ではなくて、ケモ夫人とは何者なのか?斧を渡した人物は何なのか?巨人とはどういう存在なのか?というものの全てが謎に包まれていて、しかし、ケモ夫人はめちゃくちゃな無茶ぶりをされており、「出来ないわ…ちょうちょしか捕まえたことないのよ…?」のリアクションでケモ夫人のキャラクター性が端的に表現されています。

 

 

 その足場が置かれた部分における、確固とした部分と、謎に包まれた空白の隙の部分、あとは思い付きのままに描かれた絵の部分が、自分なりに絵に描いてみることの欲を誘うので、描いてしまったというところがありました。

 

 さて、1話(1ページ)が大きくバズったことで、2話以降はとてもプレッシャーが大きかったと藤想さんもおっしゃっていましたが、大きな空白の部分が埋められていくことで、物語がドライブしていきます。

 具体的には、ケモ夫人という存在のキャラクター性として夫の存在とその関係性によるキャラクターの確立、巨人という存在が、人智を超えた本当にどうしようもない存在であることの提示、そして、この世界が、とてつもなく混沌に包まれた、異形と暴力の跋扈する世界であるということへの導入です。

 

 特に夫との通話に不思議なスマホが出てくるところが面白くて、着信したスマホがめちゃくちゃ長い上に形状を変化させ、伸びたりします。とても自由ですが、そこには理があります。つまり、ケモ夫人の耳の位置を考えれば、耳と口に合わせるために長くなるという必然性があり、必然性があるならば、それがどれだけ奇妙に見えたとしても、そうなるだろうという、奇想と理解が同時に存在するのが面白く感じました。

 伸びるスマホは、空中にも浮くし、形状を変化させて戦いもするわけです。

 

 この物語は、とても理不尽な暴力の渦巻く世界の中に、とても暴力とは無縁そうなケモ夫人という存在が存在するというギャップによって生まれる不思議なグルーヴ感によって、異様なバランスが生まれていることが魅力のひとつだと思います。

 また、それをどのように演出するのか?というところに、強さがあるように感じていて、印象的な部分は、タイトルが出る部分でした。

 

 それは、ケモ夫人と、ともに理不尽な巨人討伐を押し付けられたフォックステール博士が、研究所も廃棄させられ、孤立無援の中をたった2人で、道を歩く場面です。背後には巨人との戦いの巨大な残骸が広がっており、とてつもない理不尽の前に2人がそれでも歩くしかないという光景に対する祈りのように、大きく「ケモ夫人」と出るのがめちゃくちゃ面白くて、タイトルがカッコよくでる漫画はめちゃくちゃいいなと思いました。

 

 さて、ケモ夫人はとても個性の強い漫画ですが、似た漫画ってありますか?という話の中で、僕は「BLAME!」を挙げました。BLAME!は、どこまでも続く構造物の中をネット端末遺伝子を求めて探索する物語です。BLAME!の僕が好きな部分は、壁の向こうには全く異なる世界が広がっているというところで、この世界には未知が広がっていると思える部分です。

 それは子供の頃に読んだ「ガリバー旅行記」や「ほら男爵の冒険」に抱いたものと同じお憧れで、この世界には見知らぬ国があって、今自分が生きているのとは異なる法則の何かが存在しているという想像へのワクワク感です。

 

 BLAME!は、現代の情報化によって認識が平均化された世界からは失われつつある、未知のワクワク感を持った物語だと思いました。構造物によって隔てられ、長大な時間の中で、それぞれ独自に進化した未知が無数に存在するというワクワク感が復活したという認識です。

 そして、そこにある多くの設定や理屈も、仔細には説明されません。つまり、分からないが確固として存在するものに対峙するときに、人の気持ちがめちゃくちゃ良くなるということを再認識されてくれた物語でした。

 ケモ夫人に僕が感じているのも、そういうところだと思います。この世界はまだよく分からないが、広大に広がっていて、小さくまとまった話にするのではなく、とにかく大きく大きく広がっていき、その広さを埋めるために数多くの設定とキャラクターが惜しみなく投入されています。

 そして、その各パーツを利用した、要所要所にあるエモさのある演出がめちゃくちゃ上手いんですよね。

 

 まとめると、僕の感じているケモ夫人の魅力は、「広大に広がる未知なる世界とそこを埋める設定やキャラクター」、「その世界に存在するギャップのある人としてのケモ夫人」、「それらをエモくまとめる演出の美学」の相乗効果が生み出す、混沌とした部分です。

 

 それが面白い一方で、人がついてこれるのか?という疑念はあり、それが、商業出版における即重版と続刊の決定によって杞憂だと分かったので、とても良かったなと思いました。

 

 僕はコミティアがとても好きなんですが、コミティアには大きくLAW属性(秩序を重んじる)とCHAOS属性(自由を重んじる)の作品群が存在していて、LAW属性の作品は綺麗にまとまっているため、商業展開がしやすく、雑誌で言うと、ハルタ青騎士、トーチやコミックビームなどに回収されていくことも多いです。

 一方で、CHAOS属性の作品には、めちゃくちゃなパワーが存在していて、他では見られない面白さがある一方で、面白過ぎるがゆえに、その面白さを一般的に展開するための商業化が難しい印象があり、コミティアの外にはなかなか出てこないという印象がありました。

 藤想さんの漫画はそのCHAOS属性という認識があります。

 

 ここで、ケモ夫人が、描き直しなどもなく、CHAOSがCHAOSのままで商業化に成功したというのは、ひとつのロールモデルとなる偉大な話だなと思っていて、その部分でも良かったなと思いました。

 ちなみに、僕自身はコミティアのLAW属性だと思います(コミックビームに読み切りも描いたし)。CHAOSの要素も多少はあると思いますが。

 

 まあ、とにかく、ケモ夫人は面白いし、その面白さが世間に受け入れられているというのは希望的な話だなと感じていて、とても良かったなと思っていますという話でした。