漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

兼業で漫画を描くノウハウメモ(2022年2月版)

 今、仕事をしながらたまに漫画を描いているので、仕事をしながら漫画を描くためにやっていることをメモしておきます。

 

・ネーム編

 ネームというのは、漫画の設計図のようなもので、漫画を作る上では必ずしも必要なものではありません。同人誌では今でも作らずに描いています。しかしながら、商業原稿ではほぼ必須の工程です。なぜなら、編集さんに見せる必要があるからです。

 設計図の段階で見せるのは、その段階で内容を改善する必要があるからです。完成原稿まで描いてしまったものを修正するのはかなり面倒な作業ですが、設計図の段階であれば、大きく修正することも比較的容易です。

 

 なので、ネームの役割のひとつは、他の人に共有するために、これから作るものがどういうものであるかが理解できることです。その最低限の構成はコマ割りと台詞で、絵については、イメージが伝わればいいのではないかと思います。モブの人の顔を細かく描くのが面倒なときは、顔に文字で名前を描いたりもします。顔のある場所を丸だけしか描いていないこともあります。

 ちゃんと描かないのは、その段階では、その部分は全体設計の中ではあまり重要ではないと思うからです。キメの表情などは重要なので、どういう表情になるかを細かく描いたりもします。また、どうせ修正のときに消すかもしれないので、あんまり気合を入れて描いてもなと思っている部分もあります。

 ネームが完成し、編集さんに伝われば、分かりにくいところや、盛り上げるために必要なアドバイスなどが発生します。僕は修正指示には今のところ全て対応していると思いますが、修正意図は確認し、アドバイス通りではなく、その意図に沿う形での代替案で直すときもあります。

 

 結果的にどのようにしたいかという部分において、僕と編集さんで方向性が一致していれば、あまり修正で困ることはなく、自分の見落としを指摘してもらえるので、自分以外の人が、この段階で内容をちゃんと読んでくれて、意見をくれることはかなり助かります。

 実際、そうやってネームは修正すると良くなったと感じるので、良くなったなと思うと、どんどん自己肯定感が上がってきます。

 

 最初のたたき台となるネームがどうやったら描けるのかは依然として謎に包まれています。今までのところどこかのタイミングで完成はしていますが、そのプロセスがちゃんとしたルールになっていないので、サイコロを振っていたらたまたま出来るみたいな感覚に近いです。

 それでもいくつかの手がかりはあり、ひとつは見開き単位で作るということです。「ページをめくったときに、次に何が見えて欲しいか?」という部分が重要だと感じていて、この見開きの2ページに何を描くのかは決まっていないが、とりあえずページをめくったあとに何があるかを先に決めて、間を埋めるような描き方をすると進みが良くなります。

 ページをめくった先には、驚きがあって欲しいと思います。そうするためには、ページをめくる前に読者が想像したことを少し裏切る必要があり、そのような予測のずらし方を重ねることで、グルーヴ感を上げていくと具合がよく感じます。

 

 文字のプロットは作っていません。その理由は、作ったところで、どうせその通りにはならないからです。ネームを描く前の時間よりも、ネームを描いている時間の方が長いですし、より具体的に見えてくるとアイデアも生まれやすくなります。ならば、最初に思ったことよりも、途中で思いついた方に舵を切った方がいいと感じてしまいます。そのため、ぼんやりと方向性は考えていても固めることはせず、実際にネームにする段階で初めて完成する感じにするようなやり方になります。

 ネームをするときにしてはいけないのは、考える以外のことをしないことです。特にツイッターを観てしまうと、ネームは完成しません。そういうのを見るとき、自分が他人が考えたことを再生する装置になるので、自分として考える機能が停止するのではないか?と思っています。

 

 とはいえ、世の中には何かしら夢中になってしまうものが沢山あるので、僕はそれらを遠ざけるために原チャリを運転して買い物に行くことにしています。運転中は何かを見たりできないですし、運転に集中しなければなりませんが、頭は比較的暇なので、そこまで考えたことを頭の中でぼんやり再生していると、ふいにその先が流れてくることがあります。それを捕まえると、続きが描けるので、先の展開が思いつかないと運転をすることが多いです。

 そこでひとつでもいい感じの場面が出てくれば、それをまずネームに描いてしまって、前後を上手く馴染ませて取り込むような感じにします。

 

 僕は自分の作者としての力量は全く信じていませんが、読者としてはそこそこ信頼しているので、ネームを作る工程で重要なのは、自分でそれを読む工程です。読んでいて不自然だな?と思うところを細かく修正していって、読者としての自分のひっかかりがなくなるまで、やすり掛けのような作業をすると、当初はボロボロでも、だんだんとそこそこ読めるものになっていきます。漫画を読むのが得意でよかったなと思います。

 

 だいたいそんな感じにするとネームができます。ネームが出来る時間はまちまちですが、1週間から2週間ぐらいで何かができることが多いです(ページ数にもよります)。上手く描けてないなと思っても、そのまま編集さんに送る場合もあります。そうすると相談できるので、また直す糸口が見つかったり、上手く描くには足りてなかったページが増やせたりすることがあります。

 

 そのやり取りの中で、編集さんがそのネームに対して言うことが特になくなかったら完成という感じになります。

 

 細かく言うと、他にも指針にしているものがいくつかあります。面倒なので全ては書けませんが、例えば、キャラクター同士の会話の繋がりは噛み合わせず、少しずらしておくようにしています。それは、現実の人の会話が実際そうだと思うので自然さを出すという意味と。完璧に噛み合った会話は、一人の人間の考えを2人に分けて描いているだけに感じて、情報量が減ってしまうと捉えているからです。2人いるのだから、別の人格を持つ2人が会話するから出てくるような情報があった方がいいだろうなと思っています。

 また、噛み合った会話は起承転結で言うと承が続くようなもので、長くなりやすいです。長くなったのに見合うだけの情報があればいいですが、そうでないことも多いので、会話を途中で打ち切ったりすり替えたりする方が短く表現することができます。

 つまり、承ではなく転で会話を繋げた方がいいと思っています。そのために楽なのは、他人の話をちゃんと聞かずにぐいぐい行動するキャラクターで、人と上手く会話していない人を会話の中に放り込むと話が早くなっていいなと思ったりしています。が、僕が作る漫画はうじうじと考えるが行動を起こさない(僕のような人)が出やすいので、その辺をどうするかが考えどころです。

 

・作画編

 ネームはそんなに早くできる技がないんですが、作画の時短テクは沢山あります。

 まず重要なのは、ネームがそのまま下描きになるようにすることです。特に、ネームで描いている絵の比率と、原稿の比率が異なると、コマの中の絵の再設計から始めないといけないので二度手間です。ネームでコマ割りから台詞の配置までを一旦終わった状態からスタートすると、その部分が時短になります。

 僕個人の感覚かもしませんが、精神は目減りします。やるぞ!と思って描き始めた当初は、良い感じの線で絵を描けますが、作業を始めて時間が経つと、だんだんとぶっとくて雑な線で絵を描くようになってしまいます。それは疲れてきたので、早く終わったことにしたいという気持ちの表れではないかと思います。

 

 ともかく作業をしていると、だんだん絵が荒れてくるので、元気があるうちに、見せ場のコマからまず描いていきます。

 

 背景は基本的にクリップスタジオの3点透視のパース定規に沿うように描きます。パース定規を使うと、全ての線が設定したパースに沿うように描けるので、雑然と描いてもそれっぽい画面になります。

 ここで背景を何のために描くのかという話になりますが、僕の場合はキャラクターがどこにいるのか(状況把握)と、そこにどのような3次元空間があるか(位置把握)を表現できればいいと割り切って、背景そのもので何かを表現したり、現実にあるようなディテールのある背景を再現することは諦めています。

 これは一人で描いているという事情から、かかる労力とリターンのバランスでやらないことにしていますが、あった方が幅が広がるということは当然あります。そのため、労力を減らす手段として、写真を上手くベースにした背景が描けないかは色々試しているところです。

 

 背景で便利に使っているのはグラデーションのトーンです。これはお手軽に明暗の変化を描くことができるので、貼るだけで背景の情報を増やすことができます。人間は明暗の区別に敏感なので、明暗の差があれば情報を読み取ってくれます。つまりグラデトーンは空間の情報を示すための便利な補助になるんですよね。

 トーン処理も、基本的には絵の描き込みを増やさずともお手軽に情報を増やせるツールとして使っています。シンプルな例で言えば、手前と奥が表現できればよく、カメラの手前にあるものをボケさせるようにトーンを貼ったり、逆に奥にあることを示すためにトーンを貼ったりします。

 

 絵の描き込みは増やせば情報が増えて目が留まりやすくなりますが、増やし過ぎるとガチャガチャしてしまうこともあります。人は描き込みの多いところに自然と目が向きますが、そのためには逆に他の部分の描き込みを減らす必要もあります。

 その辺の塩梅をトーン処理でお手軽にやってしまおうとしていますが、まだ最適なバランスは見つけられていません。

 

 時短の理想で言えば、トーンがなくとも質感と奥行きが表現できればいいのですが、その画力が不足しているので、トーン処理に頼っているというところもあり、まだ何段階も改善ができるポイントだと思います。

 

 3点透視のパース定規を使うことには重要な意味があり、それは3Dモデルの素材を使えるようになることです。3点透視のパース定規のレイヤの上に3D素材をドラッグアンドドロップすれば、そのパースに合わせて変形してくれるので、描くのが面倒なものを素材を使うだけで済ますことがやりやすくなります。

 実際は素材をそのまま使うと画面になじまないので、線を自動抽出したあとでタッチを追加したりしますが、複雑な形状をしたものはできるだけ素材を購入して、それで済ませようとしています。メガネとかも描きたくないので、3D素材で済ませるようにし始めました。

 

 僕は人の顔の絵は労力を描けずに一発で思った通りの絵が描けるので、基本的には人の顔の絵を上手く連ねていくことで、漫画を構成しようとします。人の顔を描くのは楽なので、まずはズバババと人の顔のアップのコマを埋めてしまい、だいぶ進んだなと思ったあとで、後半戦で背景を描かないといけなかったり、沢山の人がいて、その距離感などを表現しないといけないコマが残りまくって苦しくなってきたりします。

 

 今はそういうコマはクリスタの機能で3Dの人形をまず配置して、アタリの代わりにしたり、パースの雰囲気を掴むことで段階的に進捗させることでなんとか乗り切っています。

 時短で絵を描くためには、悩まないということが必要で、つまりは、何が正しいのか?という部分を何度も試行錯誤することを止めなければなりません。これは数をこなしていけば、良いと悪いの基準も整理されてくるので、割と速く描けるようになってきます。

 

 ただし、本当は悩むことが力になると思うので、もっと悩んだ方がいいと思うのですが、今のところはとにかく量を追求する時期だなと思っていて、多くのページ数を描くことの方にまずは注力しているという認識です。

 

 あとは、実際に作業時間を計ってみて思ったのですが、手を動かしていない時間が結構長く、とにかく一秒でも多く手を動かせばそれだけ早く終わるので、手を止めない工夫が必要です。

 今のところは作業通話がそれにあたると思っていて、人と喋りながら手だけは絵を描いていると、口の方に意識が集中して、手を止める思考にならないのか、ずっと止まらずに絵を描き続けられるので、作業が遅れ気味のときには誰かがやっているmocriの作業通話に入ったり、discordで友達に強請ったり、twitterのスペースで開いて人に来てもらったりをすることで進捗を出しています。

 

 今のところは、1ページあたり1時間~3時間程度で描き上げていて、ここのところは平日2~3時間、休日5~8時間程度を使うことで、作画だけなら月に50ページぐらいまでは無理をしなくてもできるということが分かってきました(いや、自分にそんなに漫画仕事があるのか?という部分はありますが)。

 多分もうちょっと効率化ができるんじゃないかという認識があるのと、効率的ではないが、今はまだやったことがないが意味がある表現のバリエーションを増やしたいというのもあって、ここからも試行錯誤が続いていくと思います。

 

 長くなったので、とりあえず今回は終わり。

誰かが作ったビジネスの中でお金を貰う関連

 ある人の年収と能力って直接的には関係がないと思います。つまり、能力が高いからといって年収が高くなるとは限らず、年収を上げるために能力を高めるのは直接的に効果が出るものではないと思うということです。なので、いくら能力向上のための研鑽をしたところで、年収は増えないことも多いと思います。

 

 ではどういう要因で年収が決まると僕が認識しているかというと、それは「どういうビジネスの中で、どういうポジションを得ているか」です。いい感じに儲かっているビジネスの中でいい感じのポジションを得ていれば年収は高くなりますし、儲かっていないビジネスの中では、どれだけもがいても年収は上がらなかったりします。

 もちろん、そういったポジションを得るためには能力が関係することも多いと思います。しかしながら、例えば、能力によらず、経営者の血縁であるなどの理由でもポジションは得ることができ、その場合は、能力の研鑽とは関係のない領域で年収が高くなります。

 なので人の年収の比較は、その人の能力そのものの評価ではないと思います。でも、年収によって人の能力を値踏みするような見方も世の中にはありますよね。そもそも人の価値を年収で見るというところに意味を見出したくはありませんが。

 

 さて、人が社会の中でお金を得る手段について考えるとき、「就職」という考え方が主流を占めていると思います。これは「自分以外の誰かが考えて維持しているビジネス」の中に、何らかの部品としてのポジションを得るための儀式だと思います。

 なぜそういったことが主流なのかというと、ビジネス、つまり「お金を設ける仕組み」を作って維持するということが非常に困難なことであるからでしょう。自分でイチから作り上げることが困難なチャレンジであるからこそ、他人の作った立派なビジネスの仲間に入れてもらおうとするということです。

 きっとその方がリスクが少なく確実な道だと思われているのだと思います。一方で、そのビジネスの仲間に自分が入れてもらえるかもらえないか、という就職活動の中で苦しみを感じてしまうことも生じてでしょう。

 

 就職をしなくても、自分で起業をしたり、フリーランスで働くという道もあります。その方がリターンが大きいこともあると同時に、失敗するリスクも高くなりがちです。

 また、自分でビジネスを立ち上げたつもりでも、結局大きな意味では、起業した会社やフリーランスの労働が、別の会社のビジネスの中とどのような立場を得るかによって収入が決まってくることがありますし、完全に独立した全くゼロから作り上げたビジネスで食べていくということは、あまりないのかもしれません。

 

 漫画で言えば、出版社が作っている雑誌の中で連載し、単行本を出してお金を稼ぐというのが既に確立され、維持されているビジネスのひとつです。そこでの連載権を得ることは、就職の相似形とも捉えることができて、つまり、何らかの条件を突破した人間が、その仲間に入れて貰えるという認識になります。

 会社への就職と異なるのは、「雇用」という形態ではないため、雇用であれば意識せずとも守られるような部分が守られる保証がなく、各種契約によってそれに相当する部分を自ら守らなければならないという部分などがあると思います。

 他人が作ったビジネスの中でお金を儲けられるポジションを得ると言うことは、その体制を維持管理している側に対して、自分も入れてもらおうとする側は、基本的に分が悪くなりがちです。なぜなら維持している側は、別の人でもいいですが、入れて貰いたい側はそこでなければならなかったりするからです。

 

 それが良いとか悪いとかの話ではなくて、実際問題として、人がお金を儲けるときは、他人が作ったビジネスの中でポジションを獲得できるか?という話になることがとても多く、そこに入れてもらいたい側の人間の立場はいつも弱いなあと思っています。

 そういう意味では、会社に就職しようとする人も、出版社の仕事で漫画を描こうとすることも同じだろうなと思いました。

 

 漫画に関しては、それ以外の方法も生まれています。例えば、自費出版は電子でできることによってハードルが大きく下がっていますし、支持者からの直接的な支援を受けられるサービスも増えています。

 ただ、それにしたって、どこかの会社が作ったサービスの枠組みの中で行われていることだろう?という話はあります。そこにある違いは「向こうから選ばれるということの要素が少ないこと」ではないでしょうか?つまり、「誰かに値踏みをされることで向こうの仲間に入れてもらえるという話」と、「登録すれば誰でもやれる話」という差があり、後者ではグラデーションの中で、自分で作ったビジネスという要素の色は濃く出てくると思います。

 

 自分でやる漫画ビジネスは上手くしたら儲かりそうですが、他の誰かがそれを維持してくれようとすることはないので、自分がやる気をなくしたら活動が止まってしまったり、それを上手くするための方法がない状態から始めなければならないため、やったところで軌道に乗るところまで進めることができないかもしれません。

 

 これは結局自分がお金を稼ぐために、どこのビジネスのどのポジションにいたいと思うかという話で、それぞれ自分に合う場所を探すといい話なのかなと思っています。他人が作った枠組みの中で、そこに入れてもらえるか?という不安と戦いながらお金を稼ぐという手段にも、自分で作った枠組みで、なんとか道筋をつけてお金を稼いでいく手段にも、別に優劣も貴賎もなく、自分が何を選ぶかという話なのではないかと思っています。

 

 この1年は、会社員としての収入と、副業としての収入もそこそこあるなと税金関係の手続きをしながら、自分は誰かの作った枠組みの中でたまたまいくつかのポジションを得ているからお金が貰えているんだろうなと思い、なんか、そういうことを思いました。

文章原作を批評のように漫画に変換する関連

 2/28(月)に発売のヤングキングから、3号連続で3話完結の漫画が掲載されます。

 

 こちらの漫画は頂いた文章原作を元に漫画を作っているのですが、ネームにする段階で好きに演出していいという、非常に大らかな話になっているので、僕の方で原作の中身を色々組み替えて漫画にしています。そして、その結果のネームをチェックしてもらい、OKなら作画に入って完成に至っています。

 なぜ完成までにそういう工程を経ているかというと、それは、文章で綴る物語と漫画で描く物語は、特性がかなり異なるため、最終的には漫画としての最適な形を探らないといけないと僕が考えているからです。

 

 文章の物語を漫画に変換する際に気を付けるポイントは、大きく以下の4点です。

(1)フキダシに収める文字数

(2)絵的な演出の追加

(3)コマ割りの圧縮

(4)ページ数調整のための構成変更

 

(1)フキダシに収める文字数

 漫画では、基本的にセリフをフキダシに収める必要があります。しかし、文字が多くなるとフキダシ自体が大きくなってコマの中に占める領域も大きくなり、その場合、絵がその隙間に入るような窮屈な形になってしまう可能性があります。また、漫画はかなりの速度で読まれるので、言葉は一瞬で意味がとれるまとまりになっておいた方が良いという側面もあります。

 そのため、元のニュアンスを残したままで、セリフを分割したり言い換えたりすることで、読む際のテンポ感を作れるように変換をしています。

 ただ、セリフは原作の要素の中で重要な部分だと思うので、どこまで変えていいのか?という懸念はあり、チェックしてもらってOKは出ていますが、変えてしまうときの申し訳なさがあります。

 

(2)絵的な演出の追加

 漫画はパラパラとめくったときに目に留まるようなコマが1話に少なくともひとつはあった方がいいと思うので、そういうコマがどこに入れられるか?を考えて入れています。場合によっては、そのシーンを足したりもしています。

 絵の文章とは異なる特性としては、「見た瞬間に理解ができる」という部分があり、文章であれば、ひとつひとつの描写を追っていかなければ書けないものを、絵であれば一目で理解できたりするので、ダイナミックな動きや、微妙な表情に関しての描写を絵で追加することで画面から読者が読み取れる情報量を増やすことができます。

 

 漫画の絵というのは、単純な絵というよりは、ある種の象形文字だと認識していて、ひとつひとつの絵が示しているものは何か?という、その意味の部分を読者に伝える必要があります。なので、地の文を絵というひとつの象形文字に圧縮するような工程や、絵を追加することで文を補強するようなことが、漫画であればできます。なので、それをやろうとしています。

 

(3)コマ割りの圧縮

 文章で書けば短く書けるが、絵にしようとするとコマ数を費やす必要のある描写があります。例えば、「冷蔵庫を開け、中に象を入れ、冷蔵庫を閉める」という文章を絵にしようとした場合に、どの描写も省略できそうにないため段階を踏んで最低3コマ必要です。その場合、それを1コマで表現する言い換え(描き換え)がないか?を検討する余地があります。

 果たして、本当にここで言いたいことを表現するために、冷蔵庫の中に象を入れる描写に3コマも費やしていいのだろうか?重要でないならば、「冷蔵庫からパオーンと声が出ている描写」で済ませてもいいのではないだろうか?などを考えます。

 重要なのは、原作が描こうとしていることについて、その描写そのものが重要な役割を果たしているものであるかどうか?という部分です。それを考えるためには、原作が何を描こうとしているのか?という部分を考える必要があります。

 

 そう捉えたとき、これは批評的な行為だなと思う部分があって、つまり、この原作は何を描こうとしているのか?を考えることで、限られたページ数の中で、何を「重要」だと考え、何を「さほど重要でない」と考えるかを判断し、重要でない描写を圧縮することで、重要な描写により多くのコマを割けるようになります。

 

(4)ページ数調整のための構成変更

 これは(3)とも共通する部分ですが、原作をそのまま漫画に置き換えた場合に、全体のページ数が長くなってしまう可能性があります。ただし、紙面に載せられる分量には限界があるので、規定ページ数の中にそれを収めなければなりません。

 そのため、全体の構成上、なくても辻褄が合う部分を探して省略したり、複数の場面を1つに合成することで全体を圧縮したりをしています。

 

 基本的な考え方としては、同じ内容が表現できるのであれば、ページ数は短い方がいいと思います。なぜなら、長い話はそもそも読んでもらえない可能性が上がると考えるからです。ページをめくってもらうためには、ページをめくるごとに可能な限り密度の高い情報が出てきた方がよく、そこで、もしページを増やすのであれば、その増やした部分に見合った新しい何かを表現する必要があるのだと思います。

 そういえば、今回の話は3話構成ですが、当初は2話構成で考えていました。2話構成のネームを元に打ち合わせたときに、描こうとしているものに対してページが足りていないという判断があり、最終的にもう1話追加させてもらいました。追加ページで、当初の設計では落とした演出上追加したかったものが表現できたので、かなり良かったです。

 

まとめ的な

 ある物語を別の媒体で表現するにあたっては、表現媒体の特性に合わせた変換を行う必要があるものだと思います。これは例えば、よく批判のやり玉に上げられる漫画の実写映画化などでも当然そうだと感じています。長大な物語を映画の2時間前後の尺に収める制約や、漫画の絵では良くても、実写にすると不自然になるビジュアルや、言葉のやりとりなどは、必要がある場合に変えなければ映画としての表現を棄損する可能性があります。

 例えば、実写映画版のるろうに剣心では、技の名前を叫ぶという描写がなくなっています。これは実写化する上での重要な変換部分だと思っていて、人が技の名前を叫びながら戦うのは、漫画やアニメではよくても、実写で違和感がある部分だと思うからです。もちろん技の名前を叫ばせながら上手く演出する方の道もあると思います。ただ、これまでの実写映画のシリーズでは、その判断をしたということが分かります。そこには、その判断をする意志が存在したということです。

 他の例では、漫画の格闘ゲーム化などでもそういう側面があるかもしれません。例えば、漫画の中には明確な強さの序列があることが多いと思いますが、格闘ゲームでその部分を再現し過ぎた序列があると、ゲームとして成立しなくなってしまいます。作中で最弱のキャラが最強のキャラに勝利することがあることは、原作漫画においては解釈違いですが、ゲームとして成立させるためには重要な部分で、そこをどのようにバランスをとって変換するかという部分に判断が存在します。

 

 僕は、媒体が異なれば別物だと昔から考えているので、漫画を原作とした別の媒体の何かが作られる際には、原作の何かが変わってしまうという部分に対して、基本的にはそういうものだと思っています。僕は、原作の何かがそのまま再現されるかどうかにはあまり興味がなくて、むしろ媒体特性に合わせて当然変えるべきものだと思っています。

 ただし、その過程において「どこを変えずにどこを変えるのか?」という部分に、制作側の批評家としての態度が求められるのではないかと感じています。つまり、その原作において、重要な部分はどこであって、どの部分を再現して表現しきれば、それ以外の手段は変えてもいいのか?という部分に批評家としてのセンスが問われるのではないかということです。

 この場合の批評家という言葉が意味するものは、「その作品が何であるかを、自分なりに捉えようとする態度」のことです。

 

 ただ、変換する過程で核の部分まですげ替えてしまうことで内容を乗っ取ってしまうという手法も世の中にはあって、これは原作ファンからすると怒りの対象になりがちな行為ですが、にもかかわらず、そのような形の名作もあります。

 例えば、宮崎駿のアニメ映画ではそのようなことが行われることが多いと思っていて、「カリオストロの城」のルパン三世は、原作漫画のルパン三世とは異なる人物だと思いますが、それでもカリオストロの城は名作だと僕は感じているんですよね。押井守による、「うる星やつら ビューティフルドリーマー」なども同様ですし、他にも例は沢山あります(僕は実写映画の「バクマン。」もそう捉えています)。

 

 さて、僕自身が原作の良さを損なわずに漫画化出て来ているか?という部分には不安もあります。でも、皆さんは原作を直接読むことがないので、そこに差がある可能性に気づかないかもしれません。

 ただ、僕はできうる限り、藤見登吏央先生の原作の核の部分はここであるという部分に対して批評家としての態度で臨んでいます。そして、それを表現するために、原作を変換した部分が上手く行ったかどうかについては、読んでもらって想像してもらうしかありませんが、もし、この漫画を面白いと思って貰えたとしたらなら、それは僕が原作を読んで面白いと感じた部分が上手く表現できたということではないかと思います。

 来週発売なので、よかったら読んでみてください。

 

 余談というか、思い出したので書きますが、僕はこれまで書いたような意味で「ドラゴンクエスト ユアストーリー」は、かなり媒体の変換を考え抜かれた作品だと思っていて、個人的な評価は高いです。そもそもゲームというインタラクティブな媒体特性を利用した、2人のうちのどちらかをプレイヤーが選ぶという内容を元に、一本道の映画に変換するにあたって、かなり考え抜かれたパズルを上手く解いたような描き方をされていると感じました。

 ゲームでは描きにくかった映像表現の追加や、時間に合わせた内容の省略の仕方と、その辻褄の合わせ方、全てが良く出来ていて、惜しむらくは、結末における主人公と敵とのやり取りに、目新しさを感じない内容だったので、そこが印象を悪くしたなと思いました。

 そこさえ除けば、めちゃくちゃ満足した映画です。そして、そこの印象の悪さが全体の評価に波及しているという残念な扱われ方をしがちな作品だなと思っています。

漫画の掲載情報とコミティア出ます情報

 告知情報です。

 

 

 ヤングキングにまた漫画が載ります。前回と同じく藤見登吏央先生の原作を元に、昨年8月に載った読み切り漫画の続編で「いじめ撲滅プログラム 女子高編」が3号連続、前中後編の集中連載という立て付けとなっています(全部で80ページぐらいあります)。

 まず前編は2/28発売号に載るので宜しくお願いします。

 

 今回は女子高生が主人公なので、女子高生ってあんまり描いたことないなーとか、性的な場面も一部あったりして、それぞれ今まで描いたことがないものばかりなのを、試行錯誤しながら描いてみたので面白かったです。このシリーズは、まず文章の原作があり、それを僕が漫画として演出するという役割分担で進められている作品です。原作の言わんとするところを、漫画としてどのように見せれば、より伝わるのだろうか?ということを僕が考えて、漫画として再構成をしています。

 いじめをテーマにしているため、どうしても単純には気持ちの良いお話にはなりにくいものですが、読んだ人の心に何か引っかかる部分があるように描けているのではないかと自分では思っているので、良かったら読んで下さい。

 

 また2/20のコミティアに出ます。色々やっている中で、どうにか無理矢理なやり方で新刊を捻出しました。

 

 

 「おもしろツイート倶楽部」という、どうしようもないタイトルで、コンセプトは会話劇だけでお話を作るというものです。すでに最後の1コマ以外はネットに公開しているので、良かったら読んでみてください。

 

 最後のコマが気になったら、コミティアに買いに来てくれれば読めますが、時勢が時勢なので、感染のリスクもありますし、どうしても来てくれという感じでもないです。そのうちネットに公開すると思うので、読むだけなら待ってもらえればいいと思います。

 

 ここのところ、日々労働が大変なんですが、なんとかそれ以外の時間で漫画を描いています。平日の朝仕事前と夜仕事後、休日はずっと漫画を描いています。これまでと比較して、日々沢山描いているためか、日々、めきめき漫画が上手くなっている気がするので、どんどん良い漫画を描いていけたらいいなと思います。

 2022年も漫画をがんばるぞ!!

モノローグは物語の中にしか存在しない関連

 物語の登場人物が、自分の頭の中の考えを喋るモノローグは、よくある表現であると同時に、とても特異な表現だなと思います。なぜなら現実では、「他人の考えていることがそのまま分かること」はあり得ないからです。

 

 自分が実際に生きている世の中では、自分以外の人が考えていることは、その言葉や行動を手掛かりに類推して理解するしかありません。言葉ではそう言ったけれど、頭の中でも同じことを考えているとは限らないのです。他人の考えを完璧に正確に理解することは、きっと不可能でしょう。

 

 なので、これが人生であれば、他人に対しては、本質的には理解し得ない存在だと思いながらやっていくしかありません。

 

 しかしながら、物語の中では違います。モノローグで語られることは基本的にその時点でのその登場人物の本当の気持ちです。だから、それは疑う必要性がない言葉なんですよね。

 そのため、モノローグ描写のある物語の登場人物は、読者にとって疑う必要のない人物として存在することになります。これは疑う必要がないために安心すると同時に、神の視点が得られるということなのでもやもやする要素になる場合もあります。

 

 つまり、本来人間と人間のコミュニケーションはすれ違っているのに気づかないで、なんとなくそれで上手く行ったり行かなかったりするものだと思うのですが、モノローグによる神の視点を得てしまうと、人と人とのすれ違いが明確に見えてしまうために、それが過剰に愚かなことであるかのように思えてしまうからです。

 実際は他人がどのように考えているかなんて分からないので、言葉や行動から想像するものだけ、という当たり前で普通なことを、なまじ確定した答えを見てしまうからこそ、読者は、なぜ相手の気持ちを確認しない?とか、なぜ勘違いをしたままでいる?などと思ってしまったりするのではないでしょうか?

 

 普通のことがあたかも愚かであるかのように見えるのは、たまたま神の視点を得ているからというだけだぞ!という認識がなければ、自分がちゃんと意思表明をしないことがなく、相手を誤解することもない、ちょっとした賢い人間であるかのように誤認してしまったりするんじゃないかと思うんですよね。でも、誰だってそんなことはないと思うんですよ。

 

 それはなんというか、全部の牌が透けて見える麻雀を見ているようなものです。次に何をツモるかや、他の人たちが何を持っているかが分かる視点を持っているときの最善手と、現実のように限定的な情報しか持っておらず、その中での最善手はきっと異なります。そんなとき、その打ち手のことを何も分かっていない愚かな人間だと思ってしまうかもしれません。

 

 実際の人生では持ちえないような神の視点を得てしまうことで、本来はちゃんとしている人を、過剰に愚かな人間だと思って見てしまうというようなことっていいことなのだろうか?と思ったりします。

 

 そういうふうに考えると、様々な物語の見方が少し変わってくるかもしれません。例えば、浦沢直樹の漫画は基本的にモノローグを禁じ手にしているという話によって、読者と登場人物が同じ情報しか与えらえないという緊張感が生まれるのだろうと思います。あるいは、ラブコメの登場人物たちが好き合っているのに、なかなか踏み出せない様子にも、実際にモノローグが読めない人同士であれば、そうなるだろうなと思ったりもしません。

 作者が、どの登場人物にはモノローグを喋らせ、どの登場人物には喋らせないのかで、登場人物の誰を現実の人のように分からない存在として描こうとしているかにも気づくかもしれません。

 

 一方で、モノローグがないことで、読んでいる人によって、それぞれが想像した「この登場人物はこのように考えているのではないか」という認識が統一されないということもあると思います。それは演出上意図されたものだとしても、作者が思いもよらない読み方が可能にもなるということであって、そこで突飛な読み方が代入されても辻褄があってしまったりします。

 たまに物語のある登場人物が、このとき何を考えていると思ったかの認識が、他の人と全然合わないことがあったりして、でも、そういう読者が自分で埋めて理解するところがあるんだから、ホント、物語において作者がコントロールできる範囲は限定的だよなと思います。

 

 僕がこの文章で言いたかったのは、モノローグって物語を描くときに基本的な演出なのに、実際の生活の中では絶対にあり得ないものなんだよなという認識がなんか面白いということです。現実も、そういう神の視点を持てさえすれば変な誤解もないだろうになと思いました。

 いや違うか。誤解がないからこそ、良い感じに勘違いし合うことができず、生まれるトラブルもある気もしますね。世の中はままならない。

忙しいと優先度の低いことができなくなる関連

 昔からの自分の傾向なんですが、優先度が高いタスクが手元にあるとき、優先度の低いタスクが「今そんなことをやっている場合ではない」という判断となってしまい、ずるずると後回しになっていきます。

 仕事で、めちゃくちゃ忙しくなってくると、今すぐにやらなくていい優先度の低いメールへの返事が遅くなりますし、事務手続きなども締め切りギリギリまでできなくなります(締め切りギリギリになるとできるのは、それによって優先度が上がるためです)。

 

 ここのところずっと忙しいので、自分が色んなことができなくなっていることを把握していて、今は捨てようと思って捨てられていないダンボールやペットボトル、シャンプーや洗剤など日用品の無くなる前の買い足し、最近買った漫画を一時的に入れておくリビングの新刊棚が溢れているのに、他の部屋の本棚に移しに行く作業などが滞っています。

 あと、自分から友達に連絡をとるというのが優先度が低いので全然できなくなっています。友達から連絡が来た場合は対応はできて、なぜなら友達から連絡を貰って対応するというのは自分の中で優先度が高いことだからです。

 

 この辺は美徳のように思えますが、一方で、友達からの連絡が多くなり過ぎると、その応対を優先させるために他のことが滞っていくという現象が確認されていて、そのため、頻繁に連絡をとる必要があるタイプの友達とは長期的な連絡の取り合いができなくなっていくという傾向があります。

 例えば恋人が非常に頻繁に連絡をとる必要があるタイプであったときなどに、それを優先させないとと感じていたら生活の他のことがどんどんダメになっていた時期もあったりして具合が悪くなってしまっていたこともあり、今仲良くしている友達は、みんなそんなに頻繁にやりとりをしなくてもいい人ばかりになっています。

 人が嫌いなわけではなく、人は好きですが、好きなために無碍にはできないという気持ちが、自分の生活の淡々としたバランスを壊してしまい、結果的に具合が悪くなってしまう感じだなと思っています。

 

 自分がそういう風に優先度の高いことが多いせいで、優先度が低いことをできなくなっているのは、ゴミ捨てをしようと思っているのに、まあ別に次の収集の日でもいいかと思ってしまうあたりで気付くんですが(ただ生ゴミは傷んで変化していくので優先度が高く、生ゴミがあるときはそれでも捨てられたりする)、その辺での自分的な分かりやすい指標はトイレの棚に放置されているトイレットペーパーの芯の数です。

 トイレットペーパーの芯を捨てるのは、別にいつやってもいいことなので、それが外のゴミ箱に入れられず何本放置された状態でおかれたままでも、「まあいいか」と感じていることが目に見えてきます。これは本数によって数値で判断できるので、自分がどれぐらい追い込まれているかの指標となりやすいなと思っていて、今は7です。これは結構高めです(基準が分からんと思いますが…)。

 

 この状況を脱するために必要なのは、単純には、優先度の高いタスクを終わらせていくことで、低いことの優先度ランキングを相対的に上げていくことなんですが、今はとにかく何かが終わると次の何かがどんどん入るので、なかなか優先度の低いことが余裕でできる状態に戻りません。

 この前は、シャンプーとコンディショナーを買い足さないといけないなと思って、スーパーで食糧を買い足している(優先度が高い)ときに、上の階の日用品コーナーに移動して買うという行為の優先度がどうしても低いまま上がらず、そのまま移動して買えばいいだけのことがどうしてもできずに帰ってきてしまいました。

 シャンプーが完全になくなれば優先度が高くなるので買えるだろうなと思っていますが、その場合、シャンプーの容器に水を入れて増やすことで、しゃばしゃばのやつで数日延命させることで回避しようとするような現象もこれまで観測されていて、ダメだなあと思います。

 

 別に今でなくてもいいことは、ちょっとやる気を出せば1時間もかからないことでも1ヶ月やれないままで過ごしてしまうことも全然あり、このブログも、月に5本何か書くかと思って続けているのですが、今月も残り2日になってまだ3本しか書いてなかったので、とりあえず1本書いて、明日もう1本書くかと思っている感じです。

 文章を書くのには30分もかからなくて、コタツに入ってテレビを見ながらぼんやりしている時間も日々あるので、時間自体は別にあるのですが、なんかできないんですよね、忙しいと。今やらなくてもいいことを今やる気を出してやるということが。

 

 今やんなくてもいいことは、やんなくてもいいことなので、まあ、やんなくても即時的な問題はないのですが、やれなくなっている自分を観測すると、それでいいのか?という気持ちにもなります。でも、努力的なものではなんともならない人間的性質な気もするんですよね。そう考えた方が楽なだけかもしれませんが。

 とにかくその前提で言うと、面倒なことも最小の労力でやれるようにしていたら、まあできるんじゃないかと思っていて、近所のスーパーやドラッグストアで買っている日用品も、Amazonとかで宅配してもらえば受け取れるかもしれませんし(そこで箱を玄関に放置してしまう懸念はありますが!)、そういった優先度の低さと面倒臭さのバランスを、面倒くささを下げることで変えていくみたいな方面の解決方法の模索が当座はいいのかもしれませんね。

 

 自分の行動に不満があるなら、やり方を変えろ。それが嫌なら、トイレに並べられていくトイレットペーパーの芯を見つめながら孤独に暮らせ。それも嫌なら…。

大友克洋全集で「童夢」を読み返した関連

 大友克洋全集の刊行が始まり、第一弾として「童夢」が出たので、買って久々に読み返しました。どう思ったかというと、めちゃくちゃすごくて面白い漫画だなあということです。

 

 僕は大友克洋世代ではなく、その影響を受けた漫画で育った二次世代だと思います。童夢が雑誌に掲載されたのも、僕が生まれる前です。なので、その登場に直接的な衝撃を受けたということはなく、童夢は、中学生のときに読んだAKIRAから遡って、高校ぐらいのときにようやく読んだおぼえがあります。

 

 当時読んだときから面白かったですが、今読むとより良い感じがしていて、全然古びない漫画だなと思いました。そして、そこから影響を受けた漫画を沢山読んだあとですら、その価値が失われているとは特に思いません。むしろ「新しい」とさえ感じてしまいます。実際の時系列を考えるとそんなことはないのですが、自分の理解が大人になってからやっと追いついた部分があるのかもしれません。

 

 僕が感じた童夢の凄さは、「無いものを描かずに描く」ということを徹底していることだと思います。在るものを精緻に描くことで、無いものを描かずに描いているように感じました。つまり例えば、よく話題になるチョウさんが超能力で壁に押し込まれるシーンや、その前段の、手が壁にビタッと貼り付けられるシーンでは、そこに存在する力そのものは描かないのに、それによって動かされたものをリアリティをもって描くことで、読者の頭の中で「無いものを想像させて描く」ということを徹底しているように感じました。

 原因と結果だけを描くことで、その間にある過程を描かずとも、読者の頭の中にだけ生み出すことができるという手法です。

 

 他の例も挙げれば、例えば冒頭の屋上の扉に手を掛けるシーンをめくると、見開きの団地に「どさっ」という音だけが描かれ、人が落ちたことを認識できます。落ちる瞬間の絵も、落ちたあとの絵も描かずに、落ちたということが表現されました。このように構成としても、描かずに描くことを目指しているように思います。

 

 超能力による破壊表現は、「ドラゴンボール」のようなエネルギーそのものを描くものや、「ジョジョの奇妙な冒険」のスタンドのように力に特定のビジョンを与えて壊すものなど、在るものとして表現する手法もあり、それは表現手法の選択の問題であって単純な優劣はないと思いますが、どのような表現を選択するかという部分には、何かしらの思想があると思います。

 

 つまり、童夢で描かれた表現のフォロワーは沢山いると思いますが、その表現そのものに影響を受けたとしても、その背後に感じられる「描くことで描かずに描く」という思想性にまで徹底して再現した作品は比較的少なく、それゆえに、その後似たような表現を沢山見たとしても、そこにある凄みそのものは、今なお真似できないものとして存在しているのではないかと思いました。

 表現そのものは氷山の一角で、その下に眠っている、その表現を生み出した大きな部分があるように感じられるからです。

 

 大友克洋漫画は、あれだけ「描ける」人でありながら、だからこそ「描かないこと」を表現としてしまえるところに、達人的な凄さがあるように感じます(刀を極めて無刀に至るというような)。

 

 そう考えていくと、童夢は積極的にセオリー外しのようなことをしているようにも思えます。舞台を日本的な団地とすること、そこで起こる戦いに他の誰も気づかないこと、戦う2人を老人となんの変哲もない少女とすること、戦う理由を過度にドラマチックに盛り上げないことなどです。

 これを、誰もが注目する世界の存亡をかけた戦いとし、印象的な場所を舞台として、古くからの因縁を断ち切るように美男美女が戦うお話に装飾することで、盛り上げることもできるはずです。それによって何巻も続く大作にすることもできると思います。

 でもそうはならないことが童夢の凄さというか、そういった盛り上げるための装飾を可能な限り取っ払うことで、必要なものだけで構成された、素材としてのシンプルな強さが見えてきているのではないかと思いました。

 

 ここにおいても何を描かないかの部分に思想性があると解釈があると言えるのではないかと思います。

 

 まとめると僕が童夢に感じた凄さは、物事のディテールを強く描くということと、重要な部分を描かずに描くという、「描く」と「描かない」の両極端が同時に存在しつつ、それが破綻ではなく同じ目的に使われている強さが徹底されている部分なのではないかと思いました。

 ほんと凄いし、買って良かったです。