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映画版「映画大好きポンポさん」と自覚的な暴力関連

 令和にナウいのは暴力だなと思います。僕は物語の中に自覚的な暴力が登場するととても嬉しくなってしまう人間なので、映画版の「映画大好きポンポさん」を見て、すごく嬉しくなってしまいました。

 

 映画大好きポンポさんは、pixivで公開された杉谷庄吾人間プラモ)の漫画で、映画プロデューサーのポンポさんが、映画オタクで制作助手をしていたジーンくんに映画を撮らせるお話です。

 

www.pixiv.net

 

 この漫画で僕が面白く感じたのは、偏った考え方を肯定的に描いていた部分です。ポンポさんは長さが90分程度の分かりやすい娯楽作を好み、長い映画を嫌っています。その理由は、ポンポさんは子供の頃から映画プロデューサーだったおじいさんと一緒に映画を鑑賞させられていて、長い映画に辛い思い出があるからです。

 ただ、長い映画もそれらが名作であることは自体は認めます。でも、苦手なわけです。それはポンポさんの偏った考え方です。他にも、映画は女優を魅力的に撮れれば成立するとか、クリエイターに向くのは社会に居場所がない、目に光がない人々であるなど、独自の理屈を主張します。

 もちろんこれらは絶対的な指標ではありません。上映時間の長い映画が好きな人もいますし、きらびやかな青春を送ってきた素晴らしいクリエイターもいるでしょう。女優を魅力的に描けただけの作品を楽しめない人もいるかもしれません。ただ、ポンポさんの感性はそうであるというだけです。そして、ポンポさんに寄り添うということは、そういった偏った感性に寄り添うということです。

 世の中には人の数だけ、少しずつ違った良い悪いの感性があります。それらは絶対ではありません。でも、ひとりひとりにとっては重要なことのはずです。そして、そこに寄り添うかどうかという話があります。その、何に寄り添うかということがはっきりしていて良かったなと思いました。

 

 さて、映画版のポンポさんの話ですが、すごく良かったです。

 

 原作として漫画があったとしても、アニメは別の人が作った別の作品だと思っています。さらに媒体が変われば適切な表現も変わってくるものでしょう。なので、この映画版を作った人は、原作を読んで、これがどのような物語であると解釈し、それを表現することにしたのかというところが毎度気になります。

 僕が映画版を見て思ったのは、原作の中からピックアップして主軸に置くものが「暴力」なんだなと思ったというか、この原作を見て、暴力の物語だという認識をしたということに、ある種の批評性を感じて、そこがすごくよく感じました。

 

 この映画が着目したのは「上映時間が90分」という部分だと思います。ポンポさんがそれを好きだと言ったから、原作のジーンくんは自分の作った映画を90分におさめました。そして、この映画もまた、90分で終わります(映画の事前情報は何も調べてなかったのですが、絶対に90分で終わるものだという確信を持って見に行きました)。

 そして、この映画には原作にはない大きなオリジナルパートがあります。それが90分に収めるということの意味について、映画として掘り下げた部分だと思います。そしてそれが「暴力」です。

 ここで言っている「暴力」とは、「自分の考える形に、他人の形を歪める力」のことです。

 

 ジーンくんが撮った映像は72時間におよぶものでした(ちなみに原作では17時間)。それを90分に収めるということは、70時間30分の映像を、不必要なものとして排除するということです。せっかく撮った98%近い映像を、誰の目にも触れない形に葬り去るということです。

 ジーンくんは、それらの映像を自らの手で編集するという大役を担います。なぜなら彼は監督だからです(なお、監督が自分で編集をするのはポンポさんの映画会社の方針)。

 そして、撮れた映像は、ジーンくんの力だけで生み出せたものではありません。環境をお膳立てしてくれたポンポさんがいます。演じてくれる俳優がいます。撮影をしてくれたり、セットを作ってくれたりするスタッフがいます。それぞれの映像は、誰かのアイデアが入って撮られた素晴らしい映像であったりします。誰かの思い入れがあったりします。自然の偶然によってたまたま撮れた貴重な映像であったりもします。みんなのアイデアが結集して、思い出深い大切な映像であったりもします。

 切りたくはありません。切りたくはないという気持ちに寄り添えば、映画は長くなります。90分にはとうてい収まりません。大切な映像を切ることは、誰かの思いが踏みにじられることかもしれません。あなたたちの仕事は結局無駄だったと捉えられるかもしれないからです。

 

 そう、だからこそ暴力だなと思いました。監督をするということは暴力を振るうことです。様々な人の力が結集し、みんなで一生懸命作ったそれぞれの大切なものを、自分が望む形に切り刻んで、自分の望む形に作り上げる行為が監督には求められるからです。

 みんなに良い人と思われたいのであれば、監督なんてするべきではないのかもしれません。みんなの意見を全て取り込んだ、太った映画ではなく、自分を形作るために必要な最小限のものをカリカリになるまで削り込んだものが、少なくともポンポさんが望んだものであるのではないかと思うからです。

 

 ジーンくんは、監督という立場を与えられ、脚本を与えられ、キャスティングも与えられました。それを映画に仕立てるための監督としての役割を単純に果たすだけのことはできるかもしれません。でも、それだけでは、そこには自分がいません。でも、かつて自分が映画を見ていたときには、映画の中に自分を見つけていたことがあるはずです。その映画の中にあるものが自分の中にあるものと共鳴してその映画を良いと感じていたはずです。

 みんなの意見を全て尊重するなら、何十時間もの映画になってしまいそうなとき、それを削り込むためのガイドラインとして、ジーンくんは自分自身を発見しました。そしてそれにそぐわないものは、それがどれだけ大事なものであったとしても削る決意をします。そして、削るだけではなく、足りないものを追加撮影したいとも決心します。

 これは監督のわがままです。今あるものだけで完成させる方が簡単で、楽な道です。でも、それが自分じゃないときに、自分自身となるものを作り上げるわがままを突き通すことを、ジーンくんは望みました。それは多くの人に多大な迷惑をかけます。そして、多くの人が手助けをしてくれます。そして、それもジーンくんは切って構成し、映画を作るのです。

 それが暴力の目覚めだなと思って嬉しくなってしまいました。編集のシーンを刃物でフィルムを切り刻むように表現したことの意味が、後半になって理解ができました。だって、それは暴力だからです。みんなが一生懸命作ったものに、自分のエゴを基準にして、必要なものと必要でないものを切り分ける行為だからです。

 

 一度も暴力を振るったことのない人間が、初めて暴力を振るうシーンは、いつもある種感動的です。それは、他人の力で自分の形を決められるのではなく、自分の力で周りを歪めてでも、自分の形を決めるということだからです。つまり、それは自我の目覚めだと言えるからです。

 ジーンくんは監督になるために、暴力を手にすることになりました。自分の映画に不要なものを徹底的に切り続けた結果、ジーンくんの映画はついに完成します。それは、期せずして、ポンポさんが望んだ90分の映画となりました。

 

 ここが原作に加えられた良かったところでもあると感じました。ポンポさんのためだけに作った映画ではなく、自分のために作った映画が、ポンポさんが望んだものを重なったということです。

 創作物とはそういうものではないでしょうか?全ての人に好かれたいと思って作った物語が、全ての人に響くとは限りません。誰か一人のために作った物語が百万人に共感されることもあります。物語を書き手と受け手のコミュニケーションとして捉えた場合、それが双方向には上手くいっていないことが実は正解であることもあると思っています。

 結局物語で感動することは、見る人がそれぞれ勝手に発見しているだけの、すれ違ったコミュニケーションなのかもしれないと思ったりするからです。

 

 ジーンくんが自分のために作った物語がポンポさんの望むものと重なったということは、そういう奇跡的なことが起こったことのように思えて、僕はそれがとてもいいなと思いました。

 

 また、この映画は、何重にもなぞらえがされていて、映画監督となるジーンくんの心は、ジーンくんが撮る映画「マイスター」の主人公の立場とも重なります。そしてなにより、この映画そのものも重なります。原作にあるものの要素を一部削って、多くのものを足しています。

 それができることが創作者の振るう暴力であり、それをやるんだということが、作中作の登場人物と、作中の登場人物と、作品の在り方の3重構造で存在しており、言いたいことはそれなんだなということを深く重く突きつけられた気持ちになりました。

 そして、そのメッセージ性が僕に個人的にとても響いたので、とてもよく感じたのではないかと思います。僕は人間が自分の暴力を自覚し、それを振るうことを決意するということがとても好きなんですよね。令和の物語のスタンダードは「自覚的な暴力」だと勝手に思っています。

 

 なので、原作もすごく好きな漫画ですが、映画版も新たな意味ですごく良かったと思いました。

 

 余談ですが、作中の主要登場人物であるベテラン俳優のマーティンブラドックの声を大塚明夫が演じていて、映画の冒頭は彼の言葉から始まるのですが、それを見た瞬間、ベテランをベテランがやるということから、おそらく新人監督のジーンくんと、新人俳優のナタリーは、それぞれ声優としては新人がやるのだろうなとビビっと感じて、この映画をメタな意味でも解釈してくれよな!!というメッセージを勝手に受け取ったりしました。

 これも勝手に僕が受け取ったと感じているだけかもしれません。まあ、でもそういう見た人が勝手に何かを思うというようなことが物語を受け取るというところでは重要な気がしていて、僕はこの映画から色んな分かるものを受け取ったように思いました。

 とにかくすげえ良かったです。

最終回で火星に向かう漫画は良い漫画関連

 漫画の良い最終回って色々類型があると思うんですけど、僕が好きなものの一つが「火星に行く」という最終回です。この終わり方をしている漫画は名作ばかりで、例えば「YAIBA」や「度胸星」がそれにあたります(ゲッターロボ號もそうだと人に聞きました)。

 

 昨日、「キラっとプリ☆チャン」の最終回を見ていたら、月に向かうシーンがあったので、実質的にほぼほぼ火星に向かうエンドだなと思って、これはいいアニメでしたよ!!という気持ちを抱きました。

 

 火星に向かうエンドの何がいいかっていうか、具体的にはYAIBAの終わり方が良いという話をするんですけど、主人公の刃とヒロインのさやかは、沢山の冒険をしてきたわけですよ。でも、刃は旅に出て、さやかは日常に戻ってしまうわけです。

 そして、時が経ち、少し成長したさやかは、自分にはあの頃のような冒険がもうないのかなと思って悲しくなってしまうわけですよ。これって読者も同じなわけです。これまで読んできた冒険は、もう続きがないのだと思って悲しくなってしまうわけです。

 

 そこに、急にやってくるのが刃なんですね。あんなに小さかった刃がいつの間にかさやかの身長を追い越していて、そして、今他の仲間たちがピンチだと言うわけです。さやかのいないところで、読者の見えないところで、まだまだ冒険は続いていたわけです。それを知らされるわけです。

 みんながピンチだから、だから、「さやかの力が必要だ」と言うわけなんですよ。さやかは、自分はもう一生蚊帳の外だと思っていたかれど、そうではなかったんです。

 

 特別な剣を失っていたはずの刃は、知らぬ間にまた新しい剣を見つけていまいした。沖縄のさきっちょで見つけた魔剣クサナギは、乗ると空を飛び、大気圏を突き抜け、宇宙に飛び出します。さやかに行き先を聞かれた刃は事もなげに答えます。「火星」。

 

 最高じゃないですか?

 

 漫画は最終回を迎えます。読者にはその先を見ることはできません。でも、諦めるしかないそれも、実はどこかで続いているという想像力を持つことができます。その先には、無限の冒険が待っているという、可能性だけ無限大に広げたワクワク感を残した終わり方だったんです。火星エンドは。

 読み終わったあと、当然寂しさもないではありません。でも、一方で、彼らの冒険がずっとずっと続いていくと思えることが、力をくれる気がするんですよね。

 

 「YAIBA」は大作長編だと思っていたので、その後、始まった「名探偵コナン」がそれ以上にこんなにも超大作になっているのも何か不思議な感じがします。まだしばらく先のような気もしますが、コナンはどんな感じに終わるのでしょうか?

 

 そういえば、「沖縄の先っちょで見つけた魔剣クサナギ」という言葉の意味なんですが、YAIBAの世界では、日本列島の正体は八岐大蛇なので、古事記と同じように、八岐大蛇の尻尾からクサナギの剣が見つかったという小ネタだったことには、完結後ずっと経ってから気付きました。

 刃とさやかは、今はどんな冒険をしているのだろうな?と今も考えることができます。

光る棒を初めて振った関連

 この前、Pretty Series 10th Anniversary Pretty Festivalに行ってきました。プリティーシリーズの10周年を記念したライブイベントです。アニメの声優さんが、アニメの中で行われていたライブを、アニメキャラになり変わり、実際に舞台上で再現してくれます。

 

 去年プリティーシリーズのアニメを見てから、配信ライブを見たりはしていたのですが、現地参加してみたいなと思ったので、10周年記念公演の3公演中、日曜の昼の1公演だけチケットをとりました。

 その後、夜のチケットも余分に確保しているので夜も見ませんか?と、プリティーシリーズ伝道師のあらばきさんから話をもらったので、折角だから見ようかなとチケットを融通してもらうことにしました。

 

 当日は昼に海浜幕張駅に到着し、チケットの分配などをしてもらったあと、手渡されたのが、あらばきさんが余分に持ってきてくれた2本の光る棒です。アイドルのライブなどで振られるその棒は、アニメの中でも使われていて、でも、自分が使うだなんてこれまでは思ってもみなかったので、こういうときは急に来るものなんだなあと思って感慨にふけってしまいました。

 

 イベント自体はすごく良くて、昼公演も夜公演もあっという間だったんですけど、今まであんまり気にしたことがなかった光る棒の役割みたいなものをそのとき初めて理解した気がするので、それを書きます。

 

 特に今は感染症対策でマスクは着用、声を出すこともできません。だから、光る棒を振るのってコミュニケーションなんだなと思ったんですよね。舞台の上の人たちと客席の、そして、客席同士のです。

 舞台に立つアイドルには、それぞれカラーがあって、光る棒の色をそれに合わせたりします。それって客席からすると、舞台に向けてのあなたのこと分かっていますよという意思表示のようにも思うんですよね。その色を選べるということ自体に意味があるんだろうなと思ったということです。客席から、舞台を見ているという意思表示であり、客席同士が同じものを見ているという意思表示です。

 

 特に今回のライブでは、たくさんのユニットが登場するので、曲が変わるたびに適切な色を選ぶ必要があって、僕はそれぞれのカラーをうろおぼえだったので、イントロを聞いて、これはあの曲だからこの色だなと思って棒をカチカチ変更して色を出すんですけど、結構間違ってて、周りを見回して合わせ直したりして大変でした。大変でしたけど面白かったです。でも、そんなごちゃごちゃ操作をするよりも舞台に集中した方がいいのでは?とかも思ったりしました。

 そういうのは、もっと色の正解をスムーズに当てて操作できればいけるんでしょうね。

 

 あと、3人編成のユニットの場合、貸してもらった2本では1人ぶん足りないので、え、ごめんと思いながら、2人ぶんしか色を選びませんでしたが、周りを見回すと、強い人は3本棒を持っていて、準備万端だなと思ったりしました。

 

 僕は、何かから色んな要素を剥ぎ取っていったときに、最後に残るものを「最少単位」として考えたりするのが好きなんですけど、アイドルの最少単位って、僕の理解では「見る人がいること」だと思うんですよね。たとえ1人だとしても、そのアイドルのパフォーマンスを見ている人がいればアイドルとしては成立し、どんなに歌と踊りが素晴らしくても、誰にも見られていなければアイドルではない気がするからです。

 そういう意味で、光る棒を振るのは自分は見ているぞということを舞台上のアイドルに向けて伝えているということで、この関係性こそがアイドルのライブなのではないかと思ったりしました。

 まあ、棒以外の手段でもいいんですけど、アイドルと、それを見ている人の関係性が存在するところにアイドルのライブの特別さがあるような気がします。そういう意味では無観客ライブは、その重要な部分が欠けているのかもしれません。

 

 僕は配信ライブは見たことがあったんですけど、現場で光る棒を振ったのが、今回初めてだったので、その欠けていたものを初めて埋める体験だったのかもしれないなと理解をしました。

 そういう意味で初めての面白い体験だったなと思いました。

前田光世方式の生活への導入関連

 前田光世方式を生活に導入してします。

 

 前田光世方式とは「バキ」に出てきた勝負のルールで、作中では、柔道家前田光世が海外武者修行中に提案したルールだと説明されています。そのルールとは、指定された時間に指定された街に対決する2人が到着し、服装も普段のままでその街を散策をし、何をしていてもかまいません。やがて、2人がその街のどこかで自然に出会ったとき、そのまま自然に闘い戦い決着をつけるという形式になります。

 

 前作の「グラップラー刃牙」の終盤では、定められた会場でトーナメント形式で試合をしていたため、このルールが採用されたことで、戦う場所やタイミングがより自由になり、また、決着がどのようにつくかも様々となったため、従来ではなかったような戦いが繰り広げられました。

 

 それはいいんですが、結構前に、僕の生活にもこの前田光世方式を導入できないかと考えた結果、導入することに成功しました。

 

 例えば、人気の商品は売り切れてしまうので、買うのが面倒なことが時折あります。でも、転売品は買いませんし、予約の抽選に参加したりするのも面倒です。オンラインストアに追加されるのを監視したり、そういうことに気を遣ったりしたくありません。

 そこで登場するのが前田光世方式です。

 

 つまり、たまたまお店に行ったときに店に欲しいと思っていたものがあったら買う、というだけのことなのですが、そのやり方をしようと心に決めることが重要です。買うための余計な作業を、一切しないということを心に決めることで楽になりたいと思いました。買うために何もしていないのではなく、これはただ前田光世方式であるだけだと思うことで、気持ちが楽になります。

 

 さて、今はPS5を前田光世方式で買おうとしているんですけど、まだ全然買えませんね。こんなに長いこと買えないとは…と思っていますが、幸いこのゲームをどうしてもPS5で遊びたいと思ったりすることがまだないので、そのうち遊びたいゲームが出たときまでに手に入ればいいかなと思って、まだ光世でいいかなと思います。

 来るべきときまでには持っておきたいと思っています。その気持ちは本当だと思うのですが、まだ出会わないので仕方ないなと思っています。光世だから。光世だからしかたない。

「ダブル」と役者と本当の自分関連

 野田彩子の「ダブル」を何度か読み返しているのですが、面白いことは確実に分かるものの、自分がこの物語を分かっているかどうかはよく分かりません。ひょっとして全然分かってないのではないだろうか?などと思いながら読んでいますが、自分の認識と似たようなものを感じた部分があるので、それを書きます。

 

 ダブルは宝田多家良と鴨島友仁の2人の関係性を追った漫画だと思います。多家良は、たまたま友仁の舞台を観たことから、演劇の世界に足を踏み入れた天才役者です。多家良は文字を読んで理解することが不得手であるために、まず友仁に主導される中で一緒に理解した役を元に演じていきます。多家良の演技は、友仁の演技をコピーするところから始まり、そして、そこから友仁の演技を破壊した先に、多家良の天才性が発揮されます。

 

 多家良の演技の中には友仁が存在しますが、世間からはその事実は分かりません。そして、多家良は世間に発見されていきます。そして、友仁の存在は世間からは見えていません。これは天才に食い物にされる裏方の物語でしょうか?いや、そうとは言い切れなくて、なぜなら多家良は友仁に強く依存してしまっているからです。そして、友仁の多家良に対する感情も、嫉妬に到達するには、既に誰よりも多家良の天才性を理解しているからこそ、それすら叶いません。

 

 この2人の歪な関係性が、物語を駆動します。

 

 多家良という人間を理解する上での手がかりは、彼が「自分がそれまで演じた役を手がかりにして、自分と自分以外の存在を理解していく」というところではないかと思います。

 人によって程度は異なるとは思いますが、人間には多面性があります。例えば、自分の家族に接するときの顔と、友達に接するときの顔、仕事をするときの顔は同じでしょうか?限りなく同じの人もいるでしょうし、全然違うという人もいるはずです。

 なお僕は全然違う側なのですが、似た感覚の人と話をするときに、「自分の結婚式って怖いよな」という話になったりします。なぜなら、全然別の顔で接している人たちが一同に会する場合、自分がどの顔をすればいいかが分からなくなるからです。そういう想像だけをして、勝手に怯えています。

 

 話は逸れましたが、自分がなぜ人によって全然違う顔をしてしまうのだろう?とか、本当の自分とは誰とも会っていないときの自分なのだろうか?と思ったときに、色々考えて出した結論は「全部が本当の自分」です。

 その全部がそれぞれ本当の自分で、その総体こそが自分自身だなと思います。誰かと接するとき、何かの役割を背負うとき、何故だかそうなってしまう自分というのは、きっと他人とは違う部分じゃないかと思うからです。そこに自分がないとも思えないからです。

 

 ただし、沢山いる自分の中で、どの自分でいることが好きか?という話はあります。無数の、ときに乖離した自分が存在する中で、どの状態でいるのが好きか?というところ考えることで、付き合う人間や、全うする立場を選ぶ手がかりにしたりしています。

 

 俳優の蒼井優さんが、「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要」と言ったそうです。それを読んだときに、僕が感じているこの感覚は、他にも思っている人がいるんだなと思いました。そして、この言葉が共感を集めたということは、同じことを感じている人が沢山いるんだなと思いました。

 この言葉が俳優から出てきたことを僕に都合よく解釈すると、俳優というのは、色んな自分が存在する職業だということです。ここでダブルの話に戻ってきますが、多家良は、憑依型とでも言うのか、演じる役を自分自身と区別がなくなるぐらいに自分に降ろすことで、役に対する理解を内面化している役者です。

 だからこそ、自分が理解して自分自身と化している役が、監督の理解と異なる場合に、自分自身を一回破壊しないといけないという苦痛も伴うのだと思います。しかし、それも踏まえた上で、彼は役者という職業を得ることによって、様々な自分であることができるようになった存在だと思います。

 

 自分がたった一人の人間であったなら、決してなれなかった状態に、役を得ることでなることができます。彼にとっては、それが生きることそのものと重なる部分が多くあるように見えます。役を演じるたびに、自分がひとり増えていきます。役者とは、自分の新しい側面を発見する生き方です。

 そして、その大元の部分には友仁の存在があるということでしょう。なぜなら、多家良の演技の根源には、友仁の演技が存在しているからです。

 

 自他の区別が曖昧になってしまうような多家良には、自分自身であるはずなのに2人の人間であるという矛盾した状況への戸惑いと苦しみがあるのではないでしょうか?そして、半身となる相手が見つかってしまったという幸運と喜びもあるのかもしれません。

 

 この前出た最新4巻では、「初級革命講座 飛龍伝」がダブルキャストで演じられることになりました。熊田と山崎という2人の役を、多家良と友仁が公演によって交代で演じるということです。前記のような理解を元に考えると、2人の人間が立場を交代してそれぞれを演じるということは、より一層互いの存在が交錯してしまうという状況です。

 そう捉えたときに、今回の公演では、剥き身のテーマ性のようなものが見れるような気がして、その下地が既に整えられているなと思った気がして、続刊が楽しみだなと思いました。

ピカソの解釈と「ちいかわ」関連

 アフタヌーンの最新号の「ブルーピリオド」で、「ピカソって何がすごいのか?」みたいな話が語られていて、なるほどなと思ったので、それに関連することを書きます。

 

 そこで語られるピカソのすごさとは、「多様な語りに耐えうる存在としてのすごさ」です。つまり、キュビズムに代表されるものの、ピカソは他にも様々な画風の絵を描いており、なおかつ、作品が十数万点もあり、まだ未公開のものすらあります。私生活は派手で、絵にはとてつもない高額がついているために人目を惹きます。つまり、その中から都合が良い要素をピックアップすれば、任意の人物像や美術概念を導き出せるということです。

 そこでは人によって相矛盾するような語られ方がすることもあるかもしれません。しかし、そのどちらかが間違っているというわけでもなく、それぞれがどちらも十分な根拠がある理解としてそれを語ることができる足腰を持っているのがピカソの凄みということです。さらにそれが、20世紀初頭のアートビジネスと上手く合致したことで、化け物じみた力を持つに至ったという理解がされます。

 

 ただ、人が絵に感じる良し悪しは、世間的評価と一致する必要があるものではありません。世界中の他の全ての人が、その絵に興味を持たなくても、たったひとりがその絵を好きであれば、少なくともそのひとりに対しては、その絵は良い絵だと言えると思います。

 しかしながら、その絵の社会的な意味や、金銭的な価値は、社会全体でその絵をどのように受容するかという部分に強く関係しているのではないでしょうか?そしてそれが個々人においては、「語られる」という行為に現れてくるのではないかと思います。

 

 多くの人の口にのぼり、それぞれの視点で解釈できるために議論が巻き起こるということが、人の注目を集める構造を生み出し、それが認識や手法として他のアートに影響を与えることで、社会的立場を獲得していくのだと思います。そして、それを欲しがる人が増えることで、競り合いが発生し、金銭的評価も高まっていくものです。

 

 そして、人に語られるということは、唯一無二の絶対的解釈だけが存在するのではなく、それぞれの人が自分に合わせて語りなおすことができる隙間があることによって加速するのではないでしょうか?

 

 つまり、人によって多面的な理解をされれるものが、社会的に価値を持ちやすいという傾向があるということです。そういうことを考えていて、「ちいかわ」のことを思ったりしました。ちいかわは、ちいさくてなんかかわいい生き物の生活の様子を描いた、Twitterで公開されている漫画です。

 このちいかわは、見た目のかわいさや、かわいい出来事の合間や裏に、不穏な描写があることが話題になっており、そこにはちいさくもなくかわいくもないものが存在するということが示唆されています。

 

 僕のTwitterのタイムラインでは、主に、その不穏さに対する言及が多いのですが、一方で、漫画のTweetそのものには、かわいさに対する言及が多くされています。つまり、同じものを見ても楽しみ方が全然違うようなんですよね。そして、違うということはそれぞれの立場に対する言及も存在し、より多く対象に対する言及が生まれることになります。

 そのかわいさについても、その不穏さについても、ちいかわではそれぞれについて語りたくなるぐらいの丁寧な描写がされているため、多くの人の口にのぼりやすく、インターネットで話題になりやすいのかなと思って、そう考えたときにピカソの話とちょっと似ているなと思ったりしたのでした。

 

 多面的な語りに耐えうる強度をその描写の中に持っているということが、とりわけSNSで作品が話題になる上では必要な条件となっているのかなと思ったりしています。そのどちらか一辺倒の一面的な理解をされるものだってもちろん面白いですが、ただ、持続的な話題にはなりにくいのかなという話です。

 多面性という観点から、バズり続ける漫画を見てみるのもいいかもしれませんね。

メガネキャラが本気になるとメガネを外す関連

 メガネキャラが戦闘とかになるとメガネを外す描写があります。それはメガネをつけたままだと、殴られたときに破片が目に入って危険だからなのではないかと思いますが、同時に、メガネがないと生活に支障があるからメガネをかけているのに、本当に外して大丈夫なの??という不安もあります。

 

 そのキャラが近視だった場合、外してしまうとぼんやりとしか世界が見えなくないですか?その状態で戦ったりすると、不利になりませんか?戦うときにだって、相手をよく見ることが重要だと思います。それなのにわざわざ見えなくするなんてナンセンスだなと思います。

 

 そういうとき、大丈夫なのかな?と心配になってしまいます。

 

 ただし、メガネを外す合理性があるキャラもいます。例えば、実は伊達メガネだったなんていう方法があります。あとは、なんか人格が入れ替わると視力も変わってメガネが不要になるキャラなんてのも見た覚えがあります。あとは、目に特殊な力があるので、普段は特殊なメガネで抑えているなんてのもありますね(ARMSのキクロプスなど)。

 あとは、吸血鬼のキャラが、太陽の光に弱いのでサングラスをかけているものの、夜に戦うときには外すなんてのもあったと思います。

 

 一方で、メガネをかけることで強くなるキャラもいたりします。つまり、特殊な力のあるメガネなどです。有名どころでは、江戸川コナンくんは追跡機能のあるメガネをかけることで犯人を捕まえることができたりします。「死がふたりを分かつまで」の土方護は、失明している男ですが、特殊なメガネ(サングラス)をかけることで、超音波で認識した物体の形を網膜に投影して物を見ることができるようになります。

 そう、メガネは本来、人体の能力を強化したり補ってくれるものだということを思い出させてくれます。僕も目が悪くなってきたとき、黒板を目を細めて見ていましたが、メガネをかけるようになったら色んなものがくっきり見えるようになって生活の良さが向上しました。メガネがなければ運転もできません。

 

 「岸和田博士の科学的愛情」では、存在がマイナスになってしまった安川くんが、光を上手く認識しなくなってしまったために、岸和田博士がマイナスのメガネを作ってくれ、マイナスの眼鏡にマイナスの眼鏡をかけることでプラスにして、見えるようにしてくれたという心温まるエピソードもあったんですよ。この文章の意味が分からなかったら漫画を読んで確認してください。

 

 散漫な話になってしまっていますが、言いたいことは、メガネは人間にとって必要だからかけているものなんですけど、一方で、メガネが割れたら危険だということです。はじめの一歩でも、普段はメガネをかけている真田がリングに上がるときには外していました。危険だからです。

 メガネは必要だが、メガネにはリスクがあるとき、そこにメガネのジレンマが生まれます。果たして、かけるべきなのか?かけざるべきなのか?

 

 このメガネのジレンマへの対抗策が、「危険性の低いメガネにかけ替える」という方法です。このキャラは、大ヒット漫画に既に存在するんですよね。それが、「スラムダンク」に登場した海南の宮益です。彼は、バスケの試合に出るときに、試合用のメガネにかけ替えるんですよね。

 宮益のように、本気を出すときには本気を出すとき用の眼鏡があればいいと思うのですが、イマイチそういうキャラは少ないように思います。いや、そう言えば、キテレツくんも、キテレツ大百科を読むために専用のメガネにかけ替えていましたね。探せばもっといそうです。

 

 皆さんは本気を出すとき用のメガネを持っていますか?僕は持っていません。