漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

碇ゲンドウの破からQ関連

 シンエヴァンゲリオン劇場版(なんか記号が入る)のネタバレがありますのでご注意。

 

 映画を見て、碇ゲンドウくんに対して何らか新事実が分かったかというと、そうでもなく、まあ、ほぼほぼ大体分かっていたよという話だったのですが、漫画とかで若干触れられていたものの、碇ゲンドウという男が何を考えていたかということが、本人の口からじっくり語られたことはよかったなと思いました。

 キミがそれを最初から口にしていれば、もっと早い目に別の道があったかもしれんぞ!と思ったものの、結局彼の望みを叶える方法は、あのような形しかなかったので、途中の道がどうであっても、結局似たようなところにたどり着いてしまったのかもしれません。

 

 碇ゲンドウくんの望みは、エヴァに取り込まれた妻のユイと再び会うことでした。

 

 そして、思い返してみると、新劇場版破で、碇シンジくんが言った「綾波を返せ」と、碇ゲンドウくんの「ユイに会いたい」は同じような感性だろうなと思ったりしました。エヴァに取り込まれ、自分の目の前から消え去ろうとする大切な人を、自分を、世界の他の全てを犠牲にしたとしても取り戻そうとする、絶望的な営みであるからです。

 なので、親子揃って同じようなことをしているなと思いました。

 

 しかしながら、ゲンドウくんの行為を肯定的に捉える人は少ないのかなと思いました。なら、なぜシンジくんが世界を犠牲にしたとしても綾波レイを取り戻そうとした行為の方は、ある種の喝采のもとに受け入れられたりしたのでしょうか?シンジくんは、それによって引き起こしたニアサードインパクトによって世界をめちゃくちゃにしてしまいます。

 シンジくんはあまりにもかわいそうだから、シンジくんだけの責任ではないと言ってくれる人がいます。少年に世界のすべてを託したり、説明をちゃんとしない大人の方がダメだと言ってくれたりします。

 それがゲンドウくんには当てはまらないのはなぜでしょうか?大人だからでしょうか?

 

 あるいは、ゲンドウくんが傷ついた顔を見せないからでしょうか?表情を変えず、淡々としているから、傍目からはかわいそうであるようには見えない人は、傷ついてはいないのでしょうか?

 そんなの分からないですよね。

 

 新劇場版Qにおいて、自分の行為が世界をめちゃくちゃにしてしまったことを知らされたシンジくんはとても傷ついてしまいます。そして、せめて綾波レイを助けられていればよかったのですが、そうでもなかったことが一段と彼を傷つけます。

 

 その後、ロンギヌスの槍とカシウスの槍があれば、槍があればやり直せると教えてもらったシンジくんは、その希望にすがってしまいます。それが実は罠だとカヲルくんが気付いても、絶望の中で見せられたわずかな希望にすがってしまうシンジくんは、その罠に引っ掛かり、フォースインパクトを引き起こしてしまいます。

 シンジくんは愚かです。しかし、その愚かさを責めることができるでしょうか?

 

 そして、同じくわずかな希望にすがり、自らを人ではないものに変えてまで、その道を進み続けた男がゲンドウくんです。もしかすると、彼はずっとQのシンジくんと同じ状態であったのかもしれません。自分がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、槍があればやりなおせる、その言葉はすべて、ゲンドウくんにも当てはまります。

 

 彼は完結編に至るまではその心を誰にも見せませんでした。大体察することはできても、自分自身で自分を語ることをしませんでした。他人に理解してもらうことに意味がないと思っていたのかもしれません。それ以前に、シンプルに他人が怖かったのかもしれません。

 だから、彼は、自分の子供さえ怖がった人生の中で、唯一安心できる相手であったユイに過剰にすがってしまったのかもしれません。彼女の存在が失われてしまったことに、どうしても耐えられなかったのかもしれません。

 それゆえに起きた悲劇が、エヴァンゲリオンの物語であったのかもしれません。

 

 そう考えれば、碇ゲンドウくんが、ユイ以外の他人に自分のことを開示できる人間ではなかったことが、この物語の鍵となる部分です。だから、そこが解かれることで、この物語は終わるのかなと思いました。

 しょうもない話です。しかし、そのしょうもない部分にどうしても囚われてしまうのが人間でしょう。

 

 周りからかわいそうだと思って貰えない人は、かわいそうだと思って貰える人よりも、ずっとかわいそうかもしれません。ゲンドウくんの前に立つ人間がシンジくんであったのは、その意味でちょうどよかったのかもしれません。

 シンジくんには優しくしてくれる人たちがいたからです。だから、シンジくんには誰にも優しくして貰えない苦しさと、誰かに優しくされることの大切さが、身に染みて分かっていたのかもしれません。

 

 碇ゲンドウくんの身に起きた破とQはシンジくんのそれよりずっと先に始まり、そして、後にようやく終わりました。結果だけ見れば、彼は望みを達成し、同時に心も救われたように思います。だから、よかったなと思いました。

 

 ゲンドウくんは孤独だったなと思いましたが、よくよく考えると冬月がいますね。ずっといますね。ネルフから人が離反してヴィレに行ってもずっといますね。他に人が残っていないような中でも、冬月だけはいました。なんでいたんでしょうか??

 でも、もしかすると、シンジくんにとってのミサトのように、ゲンドウくんには冬月がいたのかもしれません。ミサトはシンジくんに、冬月はゲンドウくんに力を貸しました。

 

 なので、やはり、あの親子は似たもの同士なんだなと思いました。

自分の行動をルールで縛ることで判断のストレスから解放されたい関連

 「ニセモノの錬金術師」に登場したノルンさんの存在が面白くて、まずその話をします。

 

 なお、ニセモノの錬金術師についてはこちらを読んでください。

mgkkk.hatenablog.com

 ノルンさんは、その身に周囲の全てを破壊しつくしてしまうような強烈な怒りの感情を持ちながらも、社会の中で生きて行こうとしている人です。

 

 そのとき彼女が頼りにしたのは「法」でした。法を遵守するということが、どうしようもない怒りをその身に抱えたノルンさんが、社会の中にいるための効果的な方法となったのです。

 つまり、人間の怒りは、「どうしてもやり過ぎてしまうもの」だということです。右の頬を殴られたときに、殴った相手を拳銃で撃ちぬいてしまうようなバランスの悪さが、怒りにはあります。そこにあるのはどうしようもない主観的な話で、客観的なバランスは、主観的な怒りの奔流の中では忘れ去られてしまいます。

 

 ハンムラビ法典の有名な一節に、「目には目を、歯には歯を」というものがあります。それは傷つけられたなら同じだけ報復をしろという意味として捉えることができるかもしれません。しかし、目を傷つけられたときには、相手にしていい報復は目を傷つけることだけという、報復における暴力の際限なさに縛りを入れたものでもあります。

 そうでなければ、人間はどうしてもやり過ぎてしまうからでしょう。

 法律には、長い歴史の中で改善が繰り返されてきた、適切な量刑の決め方が書かれています。それはきっと、個人の感情に任せて行われる報復よりも、社会全体のことを考えたとき、妥当なものなのだろうと思います。

 

 暴力の報復合戦には際限がありません。それがエスカレートするものであるならばなおさらです。それを無制限に認めてしまえば、ほんの些細な切っ掛けから、お互いを取り返しがつかないぐらいに傷つけあう結果となってしまうかもしれません。

 

 近代の歴史は、個人が暴力性を手放し、社会へ委託する流れにあります。私的な制裁もまた法で禁じられ、犯罪者への制裁は、法に則って行われます。しかしながら、どこまで行っても法は完璧ではないかもしれません。法律が制定されたときには、想定していなかったことだって起きるかもしれないからです。

 それでも、この社会は、法をアップデートしながら、社会全体の便益のために、個人は暴力を放棄することとなっています。

 

 だからこそ、物語の中では、法で裁けない悪を私的に制裁するお話が喜ばれる土壌もあったりするのかもしれません。

 

 ノルンさんは、自分の抱えるどうしようもなさを理解しているからこそ、自ら法による縛りを受け入れました。それは必ずしも平和主義を意味するものではありません。法に則る暴力は彼女の許容するものだからです。そして、法による制裁もまた受け入れるのであれば、法への違反だって行うことができます。

 

 彼女の性格は初見ではとても風変りに見えて、一見すると価値判断の根拠が意味不明の理解できない人物に見えてしまうかもしれません。しかし、彼女の在り方を理解すれば、それは我々の生きる社会の相似形と理解することができます。社会が暴力をどのように取り扱ってきたかのように、彼女自身も、自分の抱える暴力を上手く取り扱おうとしています。いや、結局のところ、一個人のあり方が、社会との相似形となっていることそのものが不可思議に見えるのかもしれませんが。

 

 さて、ようやく本題なのですが、僕もノルンさんのようなことをして生活している部分があるなと思いました。自分自身の意思ではなく、ルールで行動を決めていたりするからです。何故そういうことをしているかというと、自分が決断をしたということの意味を重く受け取りたくなかったり、自分自身の考えでは決してやらないだろうけれど、やった方がいいことを無理矢理やるためです。

 つまり、自分のことを全く信用していません。自分がやりたいように色んなことをやっていると、絶対に良くないことが起きると思っています。なので、そうならないようにするために、自分の意思よりも一段高いところに予めルールを制定しておき、それに従うことで自分をしんどさから救おうとしているんですね。

 これは、そのルールがある部分を、外部の神さまなどに置き換えたりすると、宗教を信じることで人間が救われる話にも通じるかもしれません。

 

 しょうもない例で言えば、Twitterのフォローとかミュート、ブロックなんかは、それを実行することへのストレスが大きいので、僕は自分が信仰することにしているルール様に、その運用を任せています。とはいえ、そのルール自体は、僕自身がこれで上手くいけると思って設定したものなので、結局自分の考えのもとに行動しているとも言えるかもしれません。

 それでも、ひとつひとつの行動をするときのストレスは激減します。なぜならば、誰かをブロックするときって、その人のことをまた見れるようになるためのきっかけが限りなくゼロに近づくので、本当にそれをやってもいいのか?ということを悩んでしまうじゃないですか。悩んでしまうというのは、どっちにしたらいいのかがよく分からないということです。だから、中途半端な状態が継続してしまったり、いざ実行してしまったあとで、本当にそれでよかったのか?と悩んでしまったりします。

 こういう部分をルールに全て預けてしまえば、「ルール通りに行動した」というそれだけで全てが終わります。

 

 これによって困ったことも起こって、この人のツイート好きだからフォローしようかなと思っても、自分のルール上はフォローする条件に合致しないのでフォローできないとかがあります。そんなもの無視して、自分がしたいならしろやって話なのかもしれないですが、ルール違反をすることは、そもそも僕がルールに身を預けることでやりたかったことを無駄にしてしまいます。

 僕はルールに基づいて何かをやることで、自分が決断したというストレスから解放されたいのです。もう少し詳しく言うなら、決断をした結果起こったことを正面から引き受けることを避けようとしています。ルール違反をしてしまうと、違反したときとしないときという別の文脈が生じるので、自分へのダメージが通ってしまう口を作ってしまうんですよね。

 だから、大きなルールを変えることで同じことを達成するべきで、その場その場の都合でルール違反はしたくないみたいな気持ちがあります。

 

 こういう話をすると、いつも皆に呆れられてしまうんですが、でも僕こうなんですよ…。

 

 さらに連想したことで、「鬼滅の刃」で鱗滝さんが言う「判断が遅い」があります。鱗滝さんは、炭治郎くんが即座に問いに答えられなかったことについて、ビンタをして「判断が遅い」と言います。このくだりを読んでて思ったのは、遅いのは「判断そのもの」じゃないんじゃないかな?ということです。つまり、その瞬間に聞かれたことを、その場で判断できるために必要なことは、その場その場で瞬間的に価値判断をするのではなく、それを問われる以前に、あらかじめ十分、自分の中で優先順位について整理しておくことではないかと思うからです。

 例えば、2択を問われたとき、えいやでどっちかを選ぶことはできます。判断自体は拙速で無根拠にすること自体はできるわけです。でも、それでは意味がないわけでしょう?鱗滝さんに問われていたのは、覚悟が足りないということです。それはつまり、聞かれる前に十分にそのことについて考えていなかったことを責められているということだと思うんですよね。

 

 そういう意味で言うと、近年の僕は結構色んな判断が早くなりました。それは自分の意志で何かを決めることを放棄し、その代わり、もしこういうことが起こったらどうするか?ということをあらかじめルールとして設定しているからです。

 なので、仕事とかでは、判断根拠を明確に提示しながら、聞かれたことに即答できることも多いです。これはかなり役に立っています。しかし一方で、自分がそれについて全然考えていなくて、ルール化できていない部分については、いつまでも考え続けて答えが出せなかったりします。

 

 僕の人間としての基本的性質は優柔不断なので、特に若い頃はなかなか答えを出すことができない人生をずっと送ってきました。でも、答えを出せないことで、色んなタイミングを逸してきたことから、どうにかしないといけないぞ!!という考えのもとにこういうやり方が合っていたようなんですよね。自分の価値判断から、自分の今この場での感覚みたいなものを抜いていくことができたおかげで、人生の調子がかなりよくなりました。

 

 こういうことがあり、自分の人生から、その場その場で決断するということを取り除き、その代わりに、こういうことが起こったらどうするか?ということを事前によく考えてルールとして持っておくということをしています。そうすることで生活や仕事のかなりの部分を楽にしました。

 

 しかし、たまに困ったことが起こるのは、僕がルールに基づいて行っている行動を、感情によって行っていると誤解されるときがあることです。人が行動から逆算して他人の中で感情を再現して理解しようとすることはよくあることです。でも、僕は、行動原理から感情的なものをできるだけ排除しようとしてこういうことをしているので、そこで再現される人物像は、実態の僕とかなり乖離していたりします。

 

 「あなたはこのような行動をしたのだから、このように考えているに違いない」と誰かに思われたときに、僕はそうではないんですよとしか言うことしかできないんですよね。

 でも、そういうときまさしく僕が、他の人にとってノルンさんのように、一見すると奇異にも見え、つかみどころのない人のように捉えられてしまったりするんだろうなと、漫画を読みながら思ったりしました。

「ニセモノの錬金術師」と大切なものはほしいものより先に来る関連

 「ニセモノの錬金術師」は杉浦次郎がpixivで描いているネームの漫画で、一話が4~12ページぐらいのお話が、これを書いている現在で302話まで進んでいます。ほどなく第一部完が予告されているのですが、とにかく302話がよかったので、その話を書こうと思います。

 

 以下が第1話なので、とりあえず302話まで読んでください。

ニセモノの錬金術師(旧異世界でがんばる話)1www.pixiv.net

 

 「ニセモノの錬金術師」というタイトルは、当初「異世界でがんばる話」として始まったものが、途中で、より具体的なタイトルとして改題されたものです。主人公のパラケルススくん(以下パラくん)は、トラックに轢かれ、謎のジジイに2つのチート能力を与えられて異世界に転生しました。

 彼が得た能力は「天地万物のレシピ」と「セーブクリスタル」です。「天地万物のレシピ」は、何かを錬成する上での完璧なレシピを引き出すことができ、そして、その通りに作り上げれば最高のグレードのものになるという能力です。セーブクリスタルは、砕くと生成したタイミングまで時間が巻き戻る能力ですが、その代償として、自分が一番大切だと考えているものの記憶が失われます。

 

 この2つの能力を持つパラくんは、それを隠し、初心者の錬金術師として生活をしています。物語はパラくんが、奴隷商人から2人の奴隷を買うところから始まりました。ひとりは異国の少女ノラ、もう一人は四肢も目も耳も、あらゆるものが失われ、かろうじて生きているだけのエルフ(ココと名付けられる)です。

 果たしてこのエルフの正体は何なのか?

 

 実は呪術師であるノラが見たところ、ココには強い呪いがかかっていることが分かりました。彼女はあらゆることを奴隷契約として禁じられ、許されているのは怒りの感情だけです。そして、その呪いは、なぜか強い愛情によってかけられているのでした。

 

 そしてまた、パラくんに能力を与えたジジイの目的は、人と人が争う様子を見ることだということが分かります。能力は奪うことができるため、異世界から転生した能力者同士は、強くなるために能力を奪うように仕向けられています。

 

 純朴な青年であるパラくんは、自分の周りを取り巻く異常な状況の中で、がんばるのでした。

 

 さて、ニセモノの錬金術師というタイトルの意味のひとつは、天地万物のレシピを持つパラくんのことなのではないかと思いました。なぜならば、錬金術師はこの世の理を明らかにし、真理に近づくための探求をする存在だからです。しかしながら、パラくんは天地万物のレシピにより、他のどんな錬金術師よりも、真理に近い錬成を行うことができ、SSクラスの錬成物を自在に作ることができます。

 パラくんは誰よりも真理に近いはずなのに、この世の理についてはまだ全然理解していません。チート能力のないパラくんは錬金術師としては初学者だからです。

 

 錬金術は、金を作ることが目的でしたが、実際に意味が大きいのは、その過程で明らかになった理の理解です。しかしながら、パラくんはその理を持たずとも、金(成果物)を手に入れることができます。

 

 これは、さながら「中国語の部屋」のようだなと思いました。

 「中国語の部屋」とは哲学者ジョン・サールが発表した思考実験で、紙切れをやり取りするためだけの穴の開いている部屋があり、そこに中国語で質問が書かれた紙を入れるとします。その後、穴からは適切な返答が中国語で書かれた紙が出てきたならば、紙を受け取った質問者は、この中には中国語が分かる人がいると思うはずです。

 しかし、中にいるのは実は中国語は全く分からない人です。部屋の中には、「ある言葉が書かれていたときに、このように返す」という完璧なマニュアルがあり、文字の意味を理解しない人が、ただマニュアルに従って言葉を返しているに過ぎないのです。

 これは外から見て辻褄が合っていることが、内面が存在することを保証しないという話なのですが、パラくんもまた、この世の理を理解しないままに真理に近づいているという、必要な過程がなく結果を得られる存在なのでした。

 

 しかし、これは本当に良いことばかりでしょうか?「ハンターハンター」の登場人物であるジンは、「大切なものはほしいものより先に来た」と言いました。

 ある遺跡を発掘したいと思っていたジンには、協力を申し出る仲間ができました。彼らは金銭的にも情報や知識的にもまだ若輩であったジンをサポートしてくれ、ついに遺跡の本丸に辿り着きました。そのときにジンは気づくわけです。大切なものは、この遺跡そのものの前に、そこに辿り着くために力を合わせてくれた仲間たちとの関係性にあったということを。

 

 錬金術師の目的が当初の金そのものではなく、そこに至る過程でこの世の理を明らかにするということにあったのならば、パラくんは、欲しいものを手に入れたようで、大切なものを手に入れていないということになります。だから彼はまだニセモノなのではないかと思いました。

 

 ニセモノの錬金術師の物語の中には、様々なルールが登場します。そして、そのルールは、後に別の形で登場したり、それを逆手にとった展開が発生したりします。この物語は最初からアクセルを踏みまくっていて、チート能力を与えたジジイの登場や、この世界そのものの秘密などが、どんどん出てきます。パラくんと読者は、この物語の中に存在する理にどんどん詳しくなり、それは錬金術師の探究と同じ意味かもしれません。

 また、本作の面白いところは、世界の理解のしかたはひとつとは限らないということです。例えば、錬金術師と魔術師では、同じものを別の理解をすることが描かれます。そして、呪術師もまた別のルールで動いています。仮に、この世界にある真理自体はひとつであったとしても、その理解の方法は、いくつもの道筋があるというわけです。

 

 パラくんは物語の中で、様々なことを知り、体験し、過程を得ていきます。それはきっと大切なものです。

 そして、ここで思い出さなければならないのは、彼がもし自分の最大のピンチに対してもうひとつの能力であるセーブクリスタルを使うとき、自分の死さえなかったことにできる一方で、大切なものが失われてしまうということです。

 

 物語は終盤に近付き、ついにそのときはやってきます(ほんと面白いので未読の人は読んでください)。物語の冒頭では、彼が危惧したのは、セーブクリスタルの発動によって、自分のチート能力である天地万物のレシピのことを忘れてしまうことでした。でも、今回失われるものはそれではありません。彼はこれまでの過程の中で、より大切なそれを得てしまったからです。

 

 セーブクリスタルの発動によって、彼らはある種の勝利を獲得します。彼らは結果を得ることができるわけです。そして、そのために大切だった過程が再び失われてしまいました。結果しか持たないニセモノだった男が、徐々に本物に近づいていたはずなのに、その勝利と引き換えに再びニセモノに戻ってしまうわけです。

 そこで失われることの悲しみがどれほどかは、これまで読んできた読者は痛いほど分かるわけじゃないですか。

 

 そして、その後に起こることですよ!!(読みましたか??)

 

 さっき読んだ302話が本当に良かったのですが、これまでの過程を読んでいない人がいきなりこの話を読んでも、ちっとも意味が分からないかもしれません。そこでは登場人物のビジュアルも、発せられる言葉も、その全てが奇妙で奇怪です。

 でも、ここまで読んできた人になら、その意味するところが分かるわけでしょう?

 

 それは、ほしいものよりも手前にあった「大切なもの」がそこにあるからですよ。大切な過程があるからこそ、結果の輝きが理解できるわけです。全ては失われたかのように見えて、失われていないものがあるということが示されるからですよ。

 それがホンモノなんじゃないですか???

 

 もうすぐ第一部が終わるこの物語が何に辿り着くのかはまだ分かりません。しかし、とにかく今の自分の気持ちを書いておこうと思ったので書きました。

批評的行為と序列の認識を分けて考える関連

 作品を批評する行為に関して「近年はコミュニティの和を重要視して、貶す批評が忌避されているのではないか?」という意見があるのをこの前読んで、自分の認識とは異なっていたので、それを書こうと思います。

 

 実際、近年「何かの作品を、価値が低いものであると否定するタイプの批評行為」に対する反発があることは感じています。僕自身も実際に他人のそのような文章を読んで、嫌な気持ちになったりすることもあるので(該当作品を好きな場合には特に)、そういう雰囲気に対する自分の中からの実感もあります。ただ、人が何かを思うことは自由ですし、それを外に向かって表現することそのものは、別に咎められるいわれはないと思います。

 

 ただし、外に向かって発したものもまた、ある種の表現である以上、それに対するリアクションもあるでしょう。そしてそこに、人と人との意見の相違による摩擦のようなものが発生することも避けられないと思います。

 

 つまり、人は自由だが、自由であるということは争いも起こるものだろうということです。

 

 さて、そのような価値観の摩擦による争いが起こることを避けるなら、否定的な批評というものはその火種になりやすいので避けられるかもしれません。それをもってして、否定的な批評を避けた方がいいというような流れが存在しているということ自体はあるのではないかと思います。

 

 なので、「否定的な批評が避けられる風潮がある」ということに対する認識相違はありません。僕が認識が異なると思ったのは、それが「作品そのものに対する純粋な批評行為ではなく、コミュニケーションを重視してるから起こること」だという解釈の部分です。そして、僕が思うのは、それは「その批評の中に作品そのものに対する純粋な批評行為以外の、コミュニケーションが発生しているからこそ起こっている」のではないかということです。

 

 つまり、批判されているのは、「コミュニケーションを重視していないから」ではなく「コミュニケーションを重視しているからこそ」なのではないかという点が見解の相違の部分なのです。

 

 作品に含まれる何らかの要素について、それを良しとするか悪しとするかが、その周辺の人々との関係性に影響を与える行為として存在しているように僕は思います。

 それは批評をする側にとってもそうですし、その読み手にとってもそうだと思います。そのようなコミュニケーション要素が多いか少ないかはあるにせよ、批評からコミュニケーション性を完全に取り払うのはとても難しいことなのではないでしょうか?いや、批評に限らず、人間が発する言葉には少なからずそのような要素が含まれてしまったりします。

 

 ここで言うコミュニケーション性とは、代表的なものを取り上げるなら「格付け」です。批評をすることによって、「そう考えたり、感じた自分」のブランディングとして、集団における自分の格付けを上げようとする行為が発生します。そして、その批評に読み手によるリアクションとしての、それの格付けへの抵抗という綱引きが存在したりします。それによって、揉め事が発生しているように見えるケースがよくあるように思います。

 

 人間は集団における序列を非常に気にしてしまう性質があると思います。つまり、自分がある種の集団の中で、どのポジションにいるかを気にしてしまいますし、他人がある集団の中でどれぐらいのポジションにいるかも気にしてしまいます。

 なので、例えば、批評者が自分の序列を上げようと思って何かを悪く言っている場合、あるいは、たとえ意図がなくとも、そう思われる可能性のある書き方をしてしまっている場合、そこにはその批評を読んだ人からの反発心が発生しやすいのではないでしょうか?

 

 なぜなら、批評を読んだ人の中で、その批評を書いた人の序列が高いとは限らないからです。特にその作品のファンの場合、作品や作者の方が序列が上なのは確定的で、批評者はそれよりもよっぽど序列が下です。そんなときに批評者が、作品を踏み台にすることによって、自分の方が、この作者よりも価値の本質を分かっているという主張をしていると思ってしまうと、それは否定したくなってしまうと思います。序列が矛盾するからです。

 

 批判が揉めを誘発しやすいのは、そういう部分だと思っていて、批評の中で褒めている場合には、批評者の序列はどれだけ高く行っても作者と同等(同じものが分かっている)ですが、批判の場合は、批評者の方が作者よりも高い序列に位置づけられようとしてしまう可能性があります。

 例えば批評者が「この漫画の作者は面白さの本質がわかっていないので面白くない」という種類の主張をした場合、批評者は漫画の作者以上に面白さの本質に近い立場にいるという主張として読み取れます。しかしながら、その批評者は実際には漫画を描いているわけではなく、その作者よりも面白い漫画を描いてみせることで主張を証明して見せたというわけでもありません。

 

 なので、「漫画の面白さの本質を分かってる序列」において批評者が作者よりも本当に序列が上であるかは、一目で分かるようには示されていはいないわけです。ならば、批評文の中で、なぜそう思うかという部分を説得的に記述する必要があります。そこで書かれたのロジックや提示される証拠が、批評の読者にとって納得できる内容になっていなければ、それは「序列の低い人間が、序列の高い人間よりも自分の方が上だと主張している」という文として読めるはずです。

 そして、だからこそ、そこには納得できないという不協和が発生し、批評文への反発が生まれやすいというふうに僕は理解しています。

 

 そもそも論で言えば、批評の中で、批評者が何かの作品を良いと表現しようが悪いと表現しようが、その人が実際にそう感じたのであれば、そこに他の人が口を挟める余地は本来ないはずです。なぜなら、そう感じたのだから仕方ありません。辛いものを食べて辛いと感じたとき、他の人に辛くないと言われても、自分が辛いと感じたものが消えるわけがありません。

 

 しかしながら結局のところ、それを口に出すということには別の意味が出てしまいます。その代表的なものが、人間の序列における格付けです。本人が意識をするしないに関わらず、そのコミュニケーションが発生してしまうせいで、批判的なものは軋轢を生みやすく、風潮として避けられるようになっているのではないかというふうに思いました。

 これは、ネットによって多くの人が繋がりやすくなってしまったことでより鮮明になってきていると感じていて、つまり、人の序列の格付けがはっきりしている間柄であれば、何かを悪く言っても序列違反が起きないので問題とならないからです。

 でも、それは小さな集団の中での話であって、より広い場所では成り立ちません。

 

 具体的に言えば、例えば大学の漫研の中で、先輩が後輩に対してある漫画を取り上げて「この漫画は面白さというものを全然分かっていない」という話をしても、後輩にとって先輩が漫画力が上と考えていれば特に問題になりません。序列が変わらないからです。しかし、その先輩が世間的に別に何者でもない場合、その会話がネット等で外に広まれば、「イキった大学生が何かを否定的に言うことで、作者よりも自分はすごいと言っているというイタいもの」として取り扱われてしまうかもしれないというような話です。

 

 広い世界に繋がっているインターネットは怖いですね。

 

 そして、これは僕がたびたび言う話でもあるのですが、このような構造の中には罠があります。つまり、自尊心を保つために何かを悪く言うという行為をしてしまった先にあるのは、何も面白く感じなければ自分が世間の面白いものが分かっている人になれるという思い込みだからです。

 世間で皆が楽しんでいるものを否定的に言えば、それを作った人や、それを楽しんでいる人よりも自分の感性が上等だと主張する手段になるかもしれません。そして、それを広げていくなら、「何も面白いと感じないこと」が自分が一番と感じられる道です。

 

 でも、それって本当に勝利でしょうか?だって、何も面白いと感じてはならないなんて、めちゃくちゃしんどいじゃないですか。

 

 そして、何かを悪いと評価する表現が適切ではなかった場合、それを良いと思っている人たちからは反発を受けたり、距離をとられたりしていきます。行き着く果てにあるのは孤立でしょう。

 

 そういうことを避けるためには、何かを否定的に批評するときこそ、自分がそこに序列意識を見出していないかを気にする必要があります。そして、その気持ちがなくとも、自分の書いた文章がそう読めないかどうかに注意する必要があります。

 「これを否定している自分ってイケているよね?」みたいな目くばせが文章に含まれてしまうと、どうしても反発を招きやすいからです。「お前は別にイケていないぞ!」という反発が沢山集まるのを避けるためには、批評の中から序列意識をできるだけ排除することが重要だと思います。

 

 なので、序列を意識したコミュニケーション性を排除しさえすれば、作品を否定的に批評しても反発は起きにくいのではないかと思っているということでした。

 

 これは原則論なので、他にも色々抜け道的な方法はあります。例えば、自分が見ている世間で、劣っているという共通認識が明確なものであれば、貶しても自分の序列と世間の序列に齟齬が出にくいので反発をされにくかったりします。あるいは、自分が表現者としてめちゃめちゃ優れているということが世間で認められていても、序列に変化が起きにくいからいいかもしれませんね。

 

 僕は外部に公開する感想文を書くときは、そういうことを意識しながら書いています(上手くできているかは分かりません)。

エヴァンゲリオンは聖書ではなく徐福伝説を元にしているのでは?関連

 エヴァンゲリオンは実は徐福伝説がベースなのでは??というのは、ヱヴァンゲリヲン新劇場版Qが公開された当時なので、八年ぐらい前に僕がウッキウキしながら考えた話で、前一回書いてたような気がしたんですけど、検索しても出てこなかったので改めて書こうと思います。

 

 徐福伝説とは、秦の始皇帝の命を受け、東の海の向こうにある蓬莱に不老不死の霊薬を探しに行った徐福という男の話です。徐福伝説は昔から色々な脚色や解釈がされており、例えば、その蓬莱とは日本のことだと解釈するものもあって、日本には実際に徐福にちなんだ名前がつけられた土地もあります。

 

 余談ですが、徐福伝説に関する僕が好きな漫画で言えば「鬼斬り十蔵」があります。始皇帝を恐れ、なんとしても不老不死の力を手に入れようと日本まで辿りついた徐福は、そこで不老不死の霊薬を見つけることはできず、追い詰められ、連れてきた童男童女を人体実験に使って、自ら不老不死の法を作り出そうとします。そして、その失敗が日本に様々な妖怪を生み出します。それほどのことをしてたのに不老不死にはたどり着けなかった徐福は死んでしまいますが、生まれ変わってなんと安倍晴明となります。そしてその生まれ変わりこそが不老不死の法であるということに辿り着いた徐福は、色んな面倒ごとを起こすのでした。

 鬼斬り十蔵は徐福伝説に端を発する物語が、様々な時代の様々な有名人をひとつに結びつけるタイプの伝奇漫画で、とても面白いので、皆さんも読みましょう。

 

 さて、エヴァンゲリオンシリーズの設定については、僕はアニメをざっくり見たのと、さっきウィキペディアを見たぐらいのことなのでよく知らないのですが、そのざっくりとした認識では、地球にはアダムとリリスという宇宙から飛来した始祖生命がいて、アダムは使徒と呼ばれる生命を生み出し、リリスは人間を生み出したと言われていたと思います。

 作中では、南極で発見されたアダムに人間が接触したことによって起こったセカンドインパクトという災害によって、人類の半数が死滅する事態になってしまいました。

 それから月日は流れ、日本の箱根の地下に居を構える特務機関NERVが、エヴァンゲリオンという巨大な人型兵器を作り上げます。エヴァンゲリオンはアダムあるいはリリスをもとに作られた人造生命で、14歳の少年少女たちがパイロットとして神経接続を行い、シンクロすることでその巨体を動かします。

 

 エヴァンゲリオンが作られた目的は使徒を迎撃するためです。使徒とはアダムが生み出した人間とは別の可能性の生命です。彼らは、アダムと接触することで、サードインパクトを引き起こすため、箱根に作られた第三新東京市の地下へと向かってくるのでした。

 エヴァンゲリオンは、サードインパクトを阻止するために、使徒を倒さなければなりません。あと、アダムだと思われていたものが実はリリスだったとか、そういう色んな展開が最初のアニメや劇場版の終盤ではありました。

 

 さて、エヴァンゲリオンには聖書などに基づいた言葉が沢山でてきて、それに基づいた色々な裏設定の推測がされていたりするようですが、僕が考えたのは、一回その聖書要素を忘れてみて、最初に紹介した徐福伝説を注入して見ても、意外と話が成り立つのではないか?ということです。

 

 僕がこの考えに至ったのは、複数回の延期の末に、ついに3月8日に公開されようとしているエヴァンゲリオンの新劇場版の完結編のタイトルが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」だと知ったからです。

 つまり、この「シン」が実は「秦」なのではないか??という非常に論理的な話なんですね。

 

 でも考えてみてください。アダムとの接触を求めて第三新東京市(箱根)にやってくる使徒という構図は、秦の始皇帝の命によって蓬莱にやってくる徐福と似ていませんか?似ていますよね。そっくりと言っていい。

 エヴァンゲリオンという名前は福音という意味だそうです。ひょっとして、この福音とは徐福のことを意味するのかもしれません。

 

 そう考えてみると、徐福が連れて行ったとされる百工や童男童女は、NERVの科学者やチルドレンに置き換えることができます。最初の人間アダムとは、つまり始皇帝です。そして始まりと終わりは同じであるという言葉から、始皇帝は終わりの皇帝でもあるということができます。オワリという言葉は一文字ずらすとカヲルになります。そう、渚カヲルこそが、始皇帝の魂を継ぐ者というわけです。

 そう解釈すると、徐福が最初に蓬莱に辿り着いたあと、始皇帝は次々と別の使いを送ったということです。それらを使徒と考えると、最後についに始皇帝自らの魂を宿した存在がやってきたわけなんですね。

 

 そして、エヴァンゲリオンの舞台は富士山のほど近くの箱根。富士山は竹取物語でも「不死」との掛詞が存在しています。諸星大二郎の「徐福伝説」でも、徐福が目指した場所は富士山でした。富士山の地下で、混沌の神と合一することで不老不死を得ようとし、そして失敗します。これは新劇場版Qの展開とも酷似していますね。これがサードインパクトの元ネタなのかもしれません。

 

 さらに日本における秦氏は、渡来人で、始皇帝の末裔を名乗る一族です。そしてまた、日ユ同祖論で読んだ情報では、秦氏景教ユダヤ人を祖に持つという話があります。ここで、結局また作中で象徴として使われるカバラのセフィロトとも繋がってくるんですよね。

 つまり、皆が聖書モチーフだと思っていたものは、実はその裏にいる秦氏、つまり、シンを意味していたというわけです。

 

 無理矢理な話をしているとお思いでしょう??でも、僕がこれから説明する内容を読めば、きっと、エヴァンゲリオンが徐福であると納得できるのではないかと思います。

 

 ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破急(Q)という3部作でこれまで描かれました。

 

序破Q

ジョハキュー

ジョフキュ

徐福

 

 そう、徐福なんです!!

 置き換えると、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破急」とは「徐福秦劇場版徐福」だったんですね!!そしてついに3月8日に公開になるのは「秦徐福劇場版」です!

 

 徐福は果たして不老不死の法を手に入れることができたのか?始皇帝との関係はどうなったのか??歴史では分からないその真実の結末がついに分かるのかもしれません。

 

 信じるか信じないかはあなた次第…。

男らしさから降りる関連

 近年、「人間の精神が自由であること」と「人間が何らかの属性に起因する役割を担うこと」の間に少なからず存在する齟齬について、それが「ある」ということを言っても大丈夫な雰囲気になってきていると感じていて、世の中が良くなってきたなあと思います。

 「アナタは○○なのだから、○○としての役割を全うすべき」という風潮は、ときに、その人の個人的特性と全然合わなかったりして、そういうとき本当に辛くなったりするんですよね。

 

 とはいえ、世の中は誰かが何かの役割を全うしてくれているから成り立っているということもまた、ひとつの事実だと思います。誰もが役割を果たす必要がないと考えるようになったい場合、今上手く回っている仕組みの多くは回らなくなってしまうかもしれません。

 ただし、「その役割を全うする」ということについて、それ以外の選択肢がないように見えることが苦しみとなりうると思っていて、それを全うしないという選択肢があることを否定しないというのは、人間の生きる苦しみを取り除ける活動なので、いいことだなと感じています。

 

 さて、この「役割を全うしなくてもよい」あるいは「役割による何らかの強制が存在することがそもそもおかしい」という考えについて、男性も「男らしさ」というものから人は降りてもよいという話があります。直近では「違国日記」の7巻でそういう話が出ていていて、男性も男らしくあることが辛いときがあるのではないか?というところへの言及がありました。

 

 僕自身、結構前から男らしさ的なものからは降りて生活している感じがするので、ほんとその通りだよなあ!と思ったりするのですが、ここで言う「男らしさを降りる」ということが意味する内容については、人によって思っていることが違う場合があると感じています。

 なので、一概に「男らしさを降りる」と言っても、そこで実際は何の話をしているかによって話がこんがらがってしまうことがあるよなと、インターネットとかを見ていても思うので、僕の中で整理していることについて書こうと思います。

 

 僕の認識では、「男らしさから降りる」の意味は、概ね以下の3つに分類できると思います。

  1. 競争社会から降りる
  2. 異性に男としての役割を求められることから降りる
  3. ステレオタイプな男像から降りる

 では、各項目を個別に見ていきます。

 

1. 競争社会から降りる

 「競争社会から降りる」ということは、男という属性が、「男同士の競争社会を生きなければならない」という概念として認識されているということだと思います。例えば、自分な優秀な雄であるということを示すために、誰かと争って勝つという戦いの中に身を置くタイプの男らしさです。

 ここから降りるには、シンプルに「競争をしない」ということによって降りることができると思いますが、特に仕事なんかをしていると、その全てから降りることは難しい部分もあります。

 

 他人を蹴落としてでも、自分が優秀であるということを示すということは、勝てれば楽しいかもしれませんが、負けるのは辛いかもしれません。一方で、仮に勝てたとしても、いつまで勝ち続けなければならないんだ?というような果てないプレッシャーの辛さもあると思います。

 それは苦しい話ですが、にもかかわらず、スポーツでも芸術でも、一番を決める戦いに人が進んで参加したりもします。それは、そういう場において、「自分が優秀であると証明すること」に意味を見出している人も多いからでしょう。そして、それに向かない人も全然いると思うわけです。

 

 争いに最初から参加しないことがそこから降りるための方法です。しかしながら、人は望む望まざるに関わらず、そういうものに巻き込まれてしまうことがあります。そのとき、「自分が負ける人間でよい」と思えるかということが分水嶺です。そこで、「他と比べて自分が優秀な人間ではない」と認定されることを受け入れられるか?ということです。

 つまり、世間の一部から自分が「負けている存在」であると見なされることを無感情に受け入れられないなら、そこには少なからず「勝ちたい」という気持ちが残ってしまうということです。勝ちたいと思うなら、争いに参加するしかなく、競争社会から抜けることはできません。

 

 勝ちたいと全く思わないことは、そうそう人に出来ることではないかもしれません。例えば、目にした他人の意見に対して「反論を書きたくなること」も勝ちたいということだと思うからです。つまり、自分の目の前に、自分とは全く異なる考えの人がいたとして、「それは違う!」と言いたいなら、「自分の考えの方が正しい」と思っているということです。相手の意見より自分の意見の方が正しいはずということは、勝ちたいということだと思います。

 なので、目の前の人がどれだけ自分と異なることを考えていても、「そういう人もいるんだね」で全てを流せるぐらいではないと、競争社会から完全に抜けることは難しいのではないでしょうか?

 

 僕自身、あまり争わないようにしたいと思っていても、そこから完全に解脱しているとは言い難いです。

 

 そして、重要なことですが、このようなことは別に男社会に限ったことではありません。女社会でも全然あることです。人は、「自分が他人よりも優秀である」ということを示したくなるという苦しみの中で生きていることが多いと思います。そこからできるだけ抜けられた方が楽ではあると思いますが、でも勝ちたいと思ってしまうでしょう?

 それはつまり、勝つことのメリットが大きいということです。勝たなくていいと思うことは、そのメリットを放棄し、何かしら相対的に損をしてもいいと思うことでもあります

 その損があることが、競争をせずに楽になることと同じかそれ以上に苦しい場合、人はどっちにしたって、何らかの苦しみからは逃れられないのかもしれません。

 

 競争は男女問わずあるものだと思いますが、それが男らしさと結び付けられるのは、男が競争する相手は男のことが多いからかもしれません。つまり、同じ場所に足を置いている者同士が、その中でより良い席を確保するために他人を蹴落とし、蹴落とされることをし続けなければならないという苦悩だと思います。

 

 僕は、そういうものから出来るだけ降りようとしているつもりですが、その方法は、社会との接点をあまり作らないということです。同じ場所に似たような形でいるから椅子取りゲームが始まるのであって、何かに属することをできるだけ避ければそこからある程度逃げられます。なので、基本的にひとりでいればいいわけです。しかしそれは、孤独と表裏一体です。人間関係を疎にすることで成り立つ気楽さは、僕は良くても、他の人に薦められる解決方法ではないかもしれません。

 あと、ネットで見た意見とかに反応はよくしているので、全然解脱できてないなという気もしてきました。インターネットをやめよう!

 

2. 異性に男としての役割を求められることから降りる

 僕の記憶だと、「異性から男としての役割を求められる」ということをとても苦しく感じていた時期があります。20代の前半ぐらいの時期です。

 これは一般化はできない話だと思うんですけど、少なくとも僕は「男たるもの女にこう接するべき」という話を女の人からとにかくされまくっていました。そして、僕があまりその男像に合わせられないことでひたすら叱られていました。それが知り合いぐらいなら距離をとればいいだけの話なんですけど、付き合っている相手とかになってくると、もはや逃げ場がなくかなりしんどい気持ちになってしましました。

 僕は結局その人たちの望むように変わることができなかったのですが、それは向こうからすると僕がカスなんだという話なんだと思うんですけど(そもそも人間関係は歩み寄りなのでそれができない僕に良くないところが当然ある…)、それでも僕はどうしてもその人たちの望むように振る舞うことができなかったということがありました。

 そのような関係は最終的に、僕がどれだけダメかという説教&罵倒をくらって人間関係が壊れるので、とにかくキツい気持ちになっていた覚えがあります。

 

 「こういう男はダメ」という言い方で、とにかく「自分たちの言うことを聞かないと、アナタを低く評価します」という態度をとられることを当時は繰り返されたので、そういうふうに扱われるがマジで無理だなと思っていました。それを引きずっているのか、中年になった今でも、女の人のことは基本的に怖く感じてしまいます。

 そうなってしまったのは、人と仲良くなっていく過程で、男の人相手よりも、女の人相手の方がこちらに踏み越えてくることが、早くて大きかったことが多かったからかなと思います。これは異性だからかもしれません。こういうことも一般化はできないでしょうし、僕の社会性が乏しく拙いというのが、そうなってしまった主因なんでしょうけれど、とにかく、「女の人には怒られる」というトラウマのようなものがあり、その後、女の友達ができても、この人もそのうち僕を怒るのだろうか?ビクビクしてしまっているところがあります。

 なので、そうは思わないで済む人とだけ友達をやっています(男でも女でも)。

 

 そういう経験で非常に辛くなってしまったので、女の人から男という役割を果たす態度を求められるということを、僕はとても苦手だなと思って避けているんですけど、一方で、そんな風に求められることを、むしろ嬉しく感じる人もいると思います。そういう人の場合、求める人と求められる人のマッチングが上手く行くので、それはそれで幸福なことだなと思います。

 

 つまり、そういう風に、他人に男らしさを求めることそのものが完全に悪いことだとは僕は思わないということです。ただ、僕はそこにおけるマッチング相手としてはダメなんですよね。そういうことを思っていたので、若い頃は早くおっさんになりたいと思っていました。そうすれば、そういう関係性の対象外になれると思ったからです。

 そして、今はおっさんなので、かなり楽になりました。

 

3. ステレオタイプな男像から降りる

 男だからこういう服装をしなければならないとか、男だからこういうものを好まないといけないとか、そういうステレオタイプな人物像というのはあると思います。そこから降りるということは、好きなようにするということですが、そのため、珍奇なものを見るような目で見られたりする可能性はあります。

 

 例えば、僕はパフェが好きなので、よくひとりでパフェを食べに行ったりするんですが、イマドキ別に、それで珍奇な目で見られるとかはありません。平然としていればいいわけです。

 僕自身も普段は別に気にしないのですが、それでも、混んでいる店におっさん一人で行ったときに、一人なのに順番の関係で4人席とかに座ってもそもそパフェを食べていると、まだ並んでいる人たちが、もしかしたら「おっさんが一人でパフェ食いに来て、4人席を占有してんじゃねえよ」と思われているのでは??と思ってしまって、ちょっと食べる速度が速くなってしまったりします。

 そこにはやっぱり、自分の中にふさわしいふさわしくないという感覚があるにはあって、ふさわしくないところでは、異分子としておとなしくしておこうとか、迷惑をかけないようにしようというような感覚があるんだろうなと自覚したりします。

 

 僕はあまり自分の好き嫌いを、「周りにどう思われるか?」ということに左右されないようにしようとしていて、それはそこそこできるようにはなっているのですが、でも結局やっぱり、他人と摩擦が生じる部分では、自分の姿や振る舞いは、自分が属する社会において適切か?というところからは完全に自由になれていません。

 学生の頃は、友達がよく変な服をくれたので、ブルースリー死亡遊戯で来ていた服とか、着ぐるみパジャマとかを着たり、プロレスラーのマスクをかぶって大学に行ったりしていたのですが(友達があきれるのが面白くて)、そういう場違いな服装をして夜中家に帰っていたりすると、職質にもよく遭いました。

 このように当たり前に合わせないということは、目立ってしまうということもあって、目立ってしまうと面倒なことも増えます。埋没するにはステレオタイプに合わせておいた方が楽という現実があるので、めんどうになるとステレオタイプになりますし、それがまたステレオタイプ感を強化してしまいます。

 

 僕自身そういうものに若い頃は縛られることが多かったのですが、これも歳をとるにつれて、ある程度恥知らずになってきたというか、気にならなくなってきました。若い頃の自分だったなら、映画や漫画を見てめちゃくちゃ泣いてしまうことは恥ずかしいことだと思っていたでしょうし、女児向けのアニメとかを見て、心からこれが好きだなと言うことはできなかったと思います。

 世間から見て、自分がどうであるか?というところからはまだ完全に自由にはなってはいません。でも、完全にまで自由になれなくてもいいかな(自由すぎると軋轢も増えるので)と思っているのですが、ただ自分が心から好きだと思えるものに関しては素直でいられることが増えたことで、かなり気持ちが楽になっています。

 周りに変に思われたくなくて、好きなものを好きと言えなかったり、好きではないものを好きであるとして振る舞わなければならなかったりすることがなくなってくるからです。

 

まとめ

 男らしさについて1も2も3も、完璧ではなくとも、僕はある程度降りることができていて、そして、それによって日々の生活はストレスの少ないものになっています。なので、良かったなあと思っているのですが、そこにある僕の姿は、「女児アニメを見ながら号泣している孤独な中年」だったりして、それでいいのか??というご意見もあるかもしれません。

 

 でも、それでいいのか?と、僕自身は思わないで済むような精神性を今の僕が持っていることが、日々感じるストレスが少なくなっていることと関係していると思います。だから、いいんですよ。僕がその方が生活が楽だと思って選択したことなのだから。

 でも、もし、そこに辛さを感じてしまうのであれば、これらの男らしさから降りることは、より多くの苦痛を感じてしまうことなのかもしれません。なので、安易に降りればいいと言えることではないのかもしれませんね。

 

 結局のところ、男らしさから降りることのメリットは、それによって自分の苦しさが軽減できるというところにあるはずです。なので、例えば、自分が他人より劣っていると感じると苦しいとか、異性に求められないと苦しいとか、変に目立ってしまって視線が苦しいとか、そういうことを苦しいと感じてしまうと、男らしさから降りても別の苦しさが立ち上がってきます。

 ただ、そう感じてしまうことそのものが苦しさの根源にあるのだとしたら、そこから抜け出られるといいですよね。でも、はいそうですかとそれがすぐにできるなら、人は苦しんだりはしません。

 

 ただ、全てはゼロかイチかの極端で決まるわけではなく、その間にグラデーションがあります。自分にとって何が重要で、何が重要でないかをちゃんと整理することで、何をどれだけやって何をどれだけやらないかが明確になってくれば、今感じている苦しさみたいなものは軽減できるかもしれません。

 そういう意味で男らしさについても、そこから降りる降りないは、複数ある長い梯子のどの部分に自分のちょうど良い足置き場を見つけるという話なのかもしれないなと思いました。おそらく、全ての梯子を完全に下まで降りることはほとんど不可能だと思うからです。

「ダンジョン飯」とキメラの寿命関連

 「ダンジョン飯」の10巻を読みました。ダンジョン飯は、妹を助けるために、モンスターを調理して食べながらダンジョンの深い階層に潜っていく漫画です。

 10巻の巻末に、本作におけるキメラの解説があったのですが、複数の獣やモンスターのパーツが合成されたキメラは、生きている生物として捉えたときに、その身体に多くの矛盾を抱える存在であるという示唆が面白かったです。また、これは本編の内容にも関わっています。

 

 例えば作中に登場する、人間の上半身とレッドドラゴンの首から下が合成されたキメラは、内臓として炎を吐くための器官があっても、口が人間のものであるために、炎を吐くために必要なパーツが揃わず、その内臓の持ち腐れになっています。

 もう少し現実的な例で言えば、仮に、頭が草食獣で身体が肉食獣のキメラがいた場合、頭が好んで食べる植物を十分に消化吸収する内臓がないため、十分な栄養を摂取することができないかもしれません。

 

 生物の肉体は、全体がシステムとして上手く調和して機能するように作られているものです。というより、上手く調和していないものは不利なので、生存競争に勝つことが難しいのではないでしょうか?

 しかし、キメラは、その身体で長い時間を生き延びてきたわけではなく、別々に生き延びてきた生物同士のパーツのみが組み合わされています。だからこそ、場合によっては、肉体に根本的な矛盾が生じ、長く生きることに向かないかもしれません。

 

 別の漫画でも似た問題を取り上げています。人間と動物の遺伝子が入り混じるようになった世界を舞台にした漫画、「螺旋じかけの海」には、動物由来の内臓を持つ人間が登場します。

 その別の動物由来の内臓は、人間のものよりも寿命が短く、つまり、人間と別の動物がその人生の歩みを合わせるのが難しいように、同じ人間でありながらも寿命が異なってしまいます。つまり、構造的な他人との別れが最初から存在していることを意味するわけです。

 

 この辺りの問題は、ダンジョン飯でも種族によって寿命が異なることの悲哀として描かれています。10巻に収録されている話では、全滅を避けるために、唯一蘇生術が使えるハーフエルフのマルシルを守るような戦いが繰り広げられます。一番寿命が長い種族であるマルシルには、自分以外の仲間が先に死んでいくことについてのどうしようもない別れの悩みがそもそもあるわけです。

 つまり、この戦いでは蘇生術で生き返らせられても、いずれ、寿命の問題で避けられない同じことが起こるということです。それを、マルシルは予習させられてしまうという悲しいお話です。

 

 さて、話を戻してキメラの話ですが、もう少し枠を広げて考えると、このダンジョン飯という漫画そのものを、ある種のキメラであると捉えることができると思います。

 それはつまり、「ゲーム等に登場するモンスター」と「実在の生物」という2つの、概念上のキメラです。

 ゲームに登場するモンスターには役割があります。それは、主人公の前に障害として立ちはだかり、倒され、経験と金銭を与えるという役割です。逆を言えば、それ以外の要素は別になくても存在が成り立つということです。それぞれのモンスターがどのように生まれ、どのような肉体と生態系の中で生き、そして主人公たちに倒される以外の理由で死んでいくのかは、最初から存在しなくても特に問題がありません。

 

 しかし、ダンジョン飯では、そのモンスターを調理するという都合上、実在性の高いものになっている必要があります。そこで、それぞれのモンスターがどのような体の構造で、どのように生きているか詳細に描かれます。そこには、実在の生物からの様々な引用によって補完されている部分も多々あります。

 そうでなければ、モンスターを食材として解体することができないからです。解体するためには、中身がなければなりません。そしてその中身の理屈は通っていなければいけません。

 

 こう考えると、キメラの寿命は短くなりがちということと、メタに繋がっているようにも思えます。本来モンスターは、生物としての辻褄が合わなくても存在しうる概念でした。しかし、生物然として存在してしまう以上、その大きな肉体を支えるために、日々どれだけの食料を摂取しなければならないかなどの理屈を必要としてしまう身体になってしまいます。

 理屈が存在すれば、その理屈を逆手に取れば弱点にもなります。つまり、食材としてモンスターを捉え直すことにより、そのモンスターが本来持っていたはずの、「辻褄が合わなくとも存在しうる」というある種の強さが棄損されてしまうとも考えられるのではないでしょうか?

 

 ここで思い出すのは、作者の過去の短編「竜の学校は山の上」です。この短編は、大学の竜学部を舞台にしており、現代日本に存在する竜がどのように取り扱われるかを描いた物語です。そこでは、竜を食用に使うなら家畜を食べた方が安くておいしいし、移動手段として使うにも効率が悪く、愛玩用にも向いていないという、竜という存在がいかに現代の日本に不要な存在であるかということが詳細に描かれます。

 そして意地悪なことに、そんな小さな辻褄を一掃するような雄大で力強い竜の飛行風景がが、その存在が必要であることを誇示するがごとく描かれます。竜は不要ということはどうしようもなく今の結論だけれでも、それでも、いつか必要になるかもしれない道を模索することを諦めないということで物語は終わって行きます。

 

 空想上の存在に実在的な肉付けをすることに非常に長けている作者であるからこそ、それが上手くできればできるほどに、本来持っていた強さを失わせてしまうかもしれないというジレンマが、そこにあることも描けるのかもしれません。

 

 よく考えられていないキメラならば、肉体の調和がとれていないので寿命が短くなります。でも、よく考えられたキメラならば、キメラであったとしても美しく調和がとれて寿命も長くなるのかもしれません。これは作中のモンスターの話で、ダンジョンという生態系の話で、この漫画そのものの話かもしれません。

 そう思うと、オタクにはそういうところに拘りがちな人も多い気もします。例えば、好きな漫画に矛盾を見つけても、それを上手く解釈することで、なんらかの辻褄を合わせて理解したいと思ってしまったりするじゃないですか。

 好きなものの寿命を延ばすために、上手く調和させる方法を考えてしまうことはある種のオタクの夢です。

 

 ダンジョン飯の物語の、終わりは近いのではないかと思いますが、この先に、調和のとれたキメラの姿や、必要とされる竜の物語など、これまでの短編でも描かれてきたことの、さらにその先が描かれたりするのかなということを期待してしまいます。

 続刊が楽しみだなと思います。

 

以下、関連です。

mgkkk.hatenablog.com

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