漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

AIがお話を作るということ関連

 AIにお話って作れるんでしょうか?

 

 手塚治虫の漫画をAIに学習させて新しい漫画を作る試みこと「ぱいどん」が今週のモーニングに載っていました。

 作り方の解説を見ると、お話については、過去の作品から人手で属性情報を抽出し、あるひな形に合わせてパーツの組み合わせて新しいプロットを多数生成したという手法で、その案の中から人がひとつを選び、その選んだプロットに合わせて人がシナリオを作るという形式だそうです。僕はこれはあまりAIが作ったという感じではないなと思いました。現時点ではAIは人にインスピレーションを与える手がかりを与えているだけのように思うからです。

 

 ただしこれは、漫画のお話とはどのような構造のものであるのかということを分析する手法としては面白いと思います。僕は漫画の同人誌を作っていますが、いまだに自分がどうやって話を作っているのかがさっぱり分かりません。なぜか漫画は完成していますが、なんで完成しているのかは全然わかりません(冗談で言っているのではと思うかもしれませんが、真面目にそうなんです)。

 お話というものがどういう構成要素のもとに作られているかを分析することは、様々な作品を系統だてて分類することに役立つでしょうし、そこには意味も意義もあることでしょう。

 そのように、自分たちが作っているお話とは何なのか?その謎と神秘に少しでも迫り、明らかにすることには興味があります。

 

 さて話変わって、ちょっと前、僕のTwitterのタイムラインではツイートの自動生成が流行りました。それはWebサービスで、自分たちの過去の発言をマルコフ連鎖を使って上手く切り貼りすることでそれっぽい文章を作り出すものなのです。それがとても面白くて、なぜ面白いかというと、何の意図もなく切り貼りしたはずの文章に、時折感情を読み取ることができたからです(AIくんに感情が!?)。

 自動生成はこう読ませようという意図があるわけではなく、ただ繋がるように繋げただけなのだと思いますが、そこには元となった文章にはなかった別のニュアンスが読み取れることがあって、僕はそれをたいへん面白く思いました。

 

 だってそれはたった140文字ですが、AIが作ったお話とも言えるじゃないですか。以下、適当に僕自身の自動生成を貼ってみます。

 

 

 どうですか?意味、感じちゃいましたか??(感じないかもしれません…)

 もし、意味を感じ取れたなら、お話という概念の核はAIの中には全くなく、読み手の側にあることが理解できるはずです。そういう意図をもって書かれたものではないのに、そういう意味を読み手が勝手に見いだしてしまうことがあるということです。ひょっとして創作の秘密のひとつはそこにあるのではないでしょうか?そう思うと、僕自身は実はそのようにお話を作っている気すらしてきました。

 

 つまり、自分が何気なく途中まで描いたものを読み手として読み返すことで、何かしらの自分の意図ではない、勝手な意味を見出し、そこから創作者の特権として、それを正解として自分の作る物語に取り込むことで、意図して設計されたものではない謎の連鎖を作りだして展開させていくという方法を僕はとっているからです。

 これはプロットという概念とは真逆に存在するものではないかと思います。なぜならば、寄り添うべき最初の設計が全くないからです。僕は確かにそのようにお話を作っているんですよ。プロットも作ってみたりするんですが、それをそのままお話できた試しがありません。途中でひん曲がります。

 ただ、こういう作り方をしていると人に話すと、「変」って言われるので、え、でもじゃあ他の人はどうやってお話を作っているのかが気になりますね。

 

 ともかくAIに物語が作れるか?という問いについては、僕がAIですということを答えとさせて頂きます。

 

 これは間違った答えです!!しかし、もしAIに物語が作れるかということを考えるなら、そこには「物語を読めるAI」が必要なのかもしれません。素材を元に沢山のパターンとその組み合わせを生成することはできても、その中でどれが良いか、どれが人に感動をもたらすかを選ぶことができないからです。もし物語を読むことができるAIがいれば、無数に生み出される物語の可能性の中から、良いものを選び、それを人に教えてくれるようになるかもしれません。

 そのように、例えばお話を読ませると感動して泣くAIがいたら、僕は作る試みよりもより強く興味を持ってしまうかもしれませんね。そうすれば、自分の描いた漫画がどのように読まれたかもすぐに知ることができますし、よりよく改善するための糸口になるかもしれません。

 

 言いたいことはだいたい終わりですが、それにしても、意図したわけではない自動生成文章から意味を見出すことができるということはめちゃくちゃ怖いことだとも思いませんか?例えば、自分が誰かを傷つける意図がなかった文を書いたとしても、傷つけるニュアンスを別の誰かが読み取るかもしれないじゃないですか。文章は誰かから誰かに情報を伝えるものですが、その伝達過程で存在しなかった情報が読み手の感性によっていきなり生まれるということを、これは示唆しています。

 その意図しない読み取り方によって、僕は誰かから良い人にされるかもしませんし、悪い人にされるかもしれません。なので、自分が書いた文章から、それが意図していないとはいえ何らかの別の情報を読み取れるように書いてはいないか?をチェックしてから文章は外に出していることが多いです。

 

 逆に、僕自身も他人の発言意図や人となりなんかを勝手に解釈している可能性だって全然あるわけですよ。もしかしたら、この人には悪意を持たれているかもしれないとか、もしかしたら、僕はこの人に好かれちゃってるかもしれないとか、色々思って心を乱してしまっても、それが実はまったく勘違いかもしれません。そんな風に自分の頭の中だけで踊っている感じだとしたら、人はなんて孤独なんでしょうね。

 

 そんな孤独のお伴にはお話が一番、お話はどれだけ間違って読んでも人とは違ってそんなに困らないので、堂々と間違った読み方をすることができます。人間は辛いことばかりです。AIになろう。

オタクと吸血鬼の共通点関連

 オタクというものは、と一般化をしていいものなのかは分かりませんが、僕はオタクなので、これから書くことは少なくともひとりのオタクである僕自身に対してはそうだという話です。また、オタクの友達と話すと近いことを感じている人もいるようなので、僕やその人たちというある種のオタクが抱えている性質について思っていることを書こうと思います。

 

 僕は他人にはほんのり嫌われているという前提で人と接しています。それはマジで嫌われているのを検知したというよりは、自分が相手に好かれている前提で人と接してしまったときに失敗するのがすごく怖いからです。なので、うっすら嫌われてるんだろうなと思いながら人と接することで、そういった事故が起こる可能性をできるだけ減らしたいと思っています。しかし、そんな調子で人と接しても友達ができるわけがありません。

 

 学生の頃を思い返してみると、友達はちゃんとできましたが、できるまでに最低1年はかかっていたように思います。もちろん話すことができる人ならいるんですけど、この人のことを友達と思ってもいいのかな?好きなことを喋りかけたり、遊びに誘ったりしても大丈夫だろうか?という不安が解消されるぐらいになるのに少なくとも1年以上は同じ空間で過ごした実績が必要で、それは当時からなんでかなあ?なんですぐに人と仲良くなれないのかなあ?と思っていたところでもあります。

 

 今思うのは、その人がどのような人であるかということの理解に至ることができるまでの情報を得るのに、1年ぐらいかかっていたのかなということです。その人がどんなことを喋り、何かに対してどんな反応をし、どういう行動をとるのかを、自分との関係性を含めて1年ぐらい見続けるとその人に対する理解が深まり、警戒心を解くことができたのではないかということです。

 まあ、心の問題だと思うわけですよ。知らない誰かを簡単に信じることができないという僕の心の問題です。

 

 毎日のように直接的に接することができる環境でも1年かかるのですから、そうでない環境ではなかなか理解に至れることがありません。そのせいもあって、就職で上京してからは大阪に住んでたときの友達以外に新しく友達ができることもなく、おっ、これはこのままでは一生これ以上友達は増えないなと思っていました(ただ、別にそれが問題だとも思いませんでしたが)(そもそも人間力がなさすぎて維持できる人間関係の量が少ないので)。

 

 さて、にもかかわらず近年は意外と知り合いがぼちぼち増えるようになりました。きっかけは同人誌即売会などに参加するようになり、人がいる場所に出てくるようになったことですが、でも、会場で人と知り合うことはあまりなくて、原因はほぼTwitterです。

 前述のようにその人がどんな人であるかということが分からない限りは常に警戒心を持ってしまうようなところがあるので、それを解くためには、その人について知る必要があります。つまり、Twitterでどのような発言をしているのかを何年も見続ける必要があります。僕は人とあまりリプライによるやりとりをすることがないので、一方的に見ているだけですし、実際一回もやりとりをしたことのない相手の方が多いですが、まあでもずっと見ているわけです。

 そうしていると、どこかでこの人は面白いなと思うことがあり、それによって警戒心が解けていき、今度は好奇心が生まれてきます。

 

 この段階までいくと、僕はこの人のことが好きだなと思うようになるわけですが、それでも自分の側が相手からほんのり嫌われている可能性は捨てきれていませんから、相手からこちらがどう思われているかを確認する必要があります。

 

 ここでこの文章のタイトルに繋がるわけなんですけど、吸血鬼の性質として語られるもののひとつに「相手から招かれなければ、その家に侵入できない」というものがあります。そしてそれは、僕もそうなんですよ。

 この人面白くて好きだなと思う相手がいても、相手側からの何らかの招きがなければなかなか近づいていくことができません。例えばTwitterなら、相手からお気に入りされるとか言及されるとかをしてもらったりすると、それまで張っていた「ほんのり嫌われているのでは??」というバリアが解けてしまうので、それでやっと相手に声をかけやすくなります。同様に同人誌即売会に来てもらったりしてもそうです。向こうからこちらへの好意的な目線を貰えることでようやくコミュニケーションを開始できるみたいなところがあり、何かそういうのがオタクっぽく、吸血鬼っぽいよなあと思っています。

 

 そういうのがなくても相手にぐいぐい行けるのがコミュニケーション強者なんだろうなと思うんですけど、僕は自分が好意を持っている相手にズカズカ近づいたことで嫌われたらと思うとめちゃくちゃ怖いのでなかなかそれができないわけなんですよ。

 

 そういうこともあって、インターネット経由で人とやりとりするようになるまで、僕は最短でも3年ぐらいは直接的なやりとりをせずに互いに見ているだけみたいな時間を過ごしたりするんですが、それは別に無意味な時間じゃなくて、その間に実は色んな情報のやりとりが行われているように思うのです。

 つまり、向こう側からしても多かれ少なかれ僕と同じような部分があるんじゃないかなと思っていて、自分が相手にどう思われているかとか、自分が相手をどう思っているかとかがある程度分かっていて、互いに警戒心を抱かなくてもいいような状態になるまでの情報交換がなんとなく行われているということです。

 そのタイミングは人によっても異なりますし、僕が必要としている時間が長い方だと思うんですけど、でも、十分時間をかけて、その人に対する互いの好感度を確認してからやりとりしたりするので、今のところそれによって嫌な思いをあまりせずに済んでいます。

 

 そういうことを思うと、人間関係は、相手から自分に何らかの形で興味を持ってもらうことと、自分は相手に興味を持っていると何らかの形で伝えることの両輪がそろったときに安定的に発生するんだなと思ったりしていて、それが成立するのは実際は割と稀有なことなのではないかと思えてきます。

 それが今の自分にいくつかあるというだけで、なかなか恵まれてるやんけと思えるところがあり、相変わらず日々孤独な中年として生活をしてはいますが、人間関係は閉じずに割と開いた感じになっていて助かっています。

 

 これが例えばmixiとかのときはいきなり近い人間関係をする必要があって、互いの関係性が微妙なままでも近くにおらねばならず、すぐに辛くなってしまったのですが、Twitterはやりとりせずに十年過ぎても平気なので、いやー、本当にTwitterがあって助かったなあと思っています。

 

 この文は吸血鬼との類似をなんとなくひねり出そうと思って書き始めたのに、結局最初に連想したひとつだけだったので、あんまりいいタイトルではないということが分かりました。

他人の創作物を批判する自由関連

 公開された創作物を批判する自由はあるか?という問いに対しては、そりゃあるでしょうと思います。誰にも他人の感じ方をコントロールする権利などないでしょうし、口をふさぐ権利もないと思うからです。法に触れない範囲ならば。

 

 ただし、それを発言した場合には何かしらの反動もあるものだと思います。批判というものがその創作物とは異なる価値観の提示でとどまっていればいいですが、相手の価値観を変えることに踏み込まれるということは、相手の口をふさぐということにもなりかねないからです。

 自由であるということは時折、そうであることが他の自由を侵害することがあります。そのとき、どちらの自由が優先されるべきか?という問いがそこに発生します。

 

 何かを良いとか悪いとか判断するとき、そこには価値観や目的があります。身長は高いか方が良いか悪いかという話をするときに、高いところにあるものをとるという目的があればとりやすくて良いとも考えられますし、天井の低い部屋で過ごすという目的があるなら動きにくくて悪いとも考えられます。物事には良い面と悪い面があり、それが明らかになるのは、何を目的として考えるかという価値観とセットです。

 つまり、世の中には価値観が異なる人がいるという当然の前提に立てば、ある創作物は良いということと悪いということは同時に成り立つことです。

 

 仮に100人のうちの99人が悪いと評価したとしても、良いと評価した人が1人でもいれば、その1人にとっては良い創作であったと言えるでしょう。その1人のために作りたいと思った人がいるならば、仮に99人に悪いと批判されたとしても、それらの批判は別に無視してもいいことなのではないでしょうか?

 もし、99人の方にウケる方が正しいと思うのであれば、それは自分が99人の中にいるということを当たり前に感じ過ぎて、自分がいるある種の偏りのある価値観がこの世界の全てだと思い込んでいるというだけだと思います。

 

 みんな違ってみんないい。価値観同士がぶつからないように孤独に暮らせば、あるいは同じ価値観を共有できる人だけで暮らすならばそれで問題がないわけです。批判に対しては「あなたの価値観ではそうなんですね」と思って、その人から離れればそれで終わりです。

 

 一方で、多様な人たちが同じ空間を共有せざるを得ない場合では、実際的にはその取扱いは難しくなります。

 万人に共有できる価値観が存在しないのに、同じ空間は共有しなければならないとき、そこに存在する価値観とは何でしょうか?理想論ではなく現実にある話では、その場で強い力を持つ人の価値観が優先されることも多いです。その人とは異なる価値観を持つ人は、力が弱いために自分が好まない価値観にさらされながらその空間を利用するはめになります。

 もう少し民主的ならば、できるだけ多くの人が理不尽な思いをしなくてもいい価値観が選ばれるかもしれませんし、さらには少数の人にも配慮できる価値観を選び取って貰えることもあるでしょう。

 

 そんな共有地で発生する批判もあるわけです。場で共有されている価値観があるならば、それに基づく批判は、異なる価値観を変えさせたり、排除するために機能してしまいます。

 

 創作物への批判というものが最低限持っているものは価値観の相違の表明だと思います。自分の抱えている価値観が創作物の内包する価値観と異なるという表明です。しかしながら、ある種の条件が整うと、批判は異なる価値観を変えさせようとするある種の暴力性も持ちえます。そして、その暴力性を期待し、何かを変えようと思って批判をする人も珍しくはありません。むしろ、積極的に批判をする人はそれを目的としているのかもしれません。

 

 正しい価値観と正しくない価値観というのも世の中にはもちろんあるでしょう。例えば、人の尊厳を傷つける価値観もあるでしょうし、それが批判されるのは当然のように思います。ただし、そんなに正誤が明確に共有できない、多様な広がりのある領域もあると思うわけです。その領域では、批判が正当性を持ちえるのは、批判者の心の中だけで、批判対象の創作物は別の人の心に寄り添っているだけかもしれません。だから、批判によって変わるということは、寄り添っていたことを止めるということでもあり、そうすることが正しいとは僕にはとても思えないわけです。

 

 僕は日頃はあまり批判的なことを書かないようにしていますけれど、それは特に他人の価値観を変えたいとは思えないということが理由です。というか、他人を変えようとしてしまうことの相手からの反動を受けたくなかったり、変えてしまったあとのその責任をとりたくないのかもしれません。一方で、今書いていることはそこそこの批判性を持っていて、それは自分がこういう価値観であるということを他の価値観を持つ人に対しての表明になっていると思います。

 

 創作物が公表されたものである以上、それに対する批判は起こり得るものですし、それを止めることは他人の権利の制限ですから良いことだとは思えません。一方で、批判する行為が、創作物の持つ価値観を変えようとしてしまうことは、またある種の他人の権利の制限として捉えることもできるわけです。

 そこで、お互いが「あなたの価値観はそうなんですね」と思って距離をとることもできますが、同じ集団に属するなど、距離をとりづらい状況になってしまったら、自分の価値観が正しいか相手の価値観が正しいかの戦争になってしまいます。ここで言う戦争とは、互いに相手を自分の価値観を受け入れるまで攻撃し続けるという意味です。

 

 もうほんと嫌なんですよね。そういうの。ここまでで僕の価値観の表明は終わったので、以下はただの攻撃的な文章です。

 

 批判するという行為を、相手を自分のフィールドに引きずり込んで、自分の価値観こそが優越であると証明することとして使うことを好む人は、それはあなたがたまたま抱えているだけの価値観でしょう?というようなことを世の中の全てであるかのようにして、ヒヨコの雄雌鑑定のようにあらゆる創作物を自分の価値観に合うか合わないかの話をしたりします。でも、そんなのどうでもいいですよ。だってその人に興味がないことが大半なのだから。その人の抱える価値観が何であったとしてもどうでもいいです。

 

 創作物を批判をするという行為が、このように自分の価値観を根拠とした示威行為あるいは自慰行為となってしまうことが、僕がオタク界隈にいて非常にしんどかったところで、オタクの集団に属することの苦手意識の根源でもあります。

 何かの創作物を批判することは、その創作物が内包する価値観よりも、それを見る自分の価値観の方が優越しているという表明で、つまり、作っている人よりもそれを否定している自分の方がすごいというアピールになります。そして、同じように自分こそがすごいとアピールしたい人たちが、そのやり方に群がって、何かを批判することで自分たちはすごい価値観を持っているぞとアピールする動きに繋がっているように思うことがあります。

 

 最初に書いたように、そんな理由だったとしても批判するということは自由だと思います。でも僕は、あまり批判的な話は聞きたくないと思ってしまうことが多々あります。だって、その話を聞いたところで得られるものが「自分はすごいぞ」という話者のアピールでしかないことがあるのですから。そんなのどうでもいいですよ。

 

 自分の持っている価値観が、他の創作物よりも優越していると思うのなら、それを元に創作をすることだってできます。それが本当により多くの人たちに共有されるべきものなのだとしたら、より多くの人がほめたたえてくれるでしょう。

 そういう意味で、創作者が他の創作者を批判するということは、ある種のフェアさがあると思っていて、自分の価値観とはこういう形をしていると創作物で表明してくれているのだから、批判対象の抱える価値観とどのように違うかを比べやすくなります。

 

 例えば、僕から見てめちゃくちゃおもんない話をしている人が、別の僕から見ておもろい人をおもんないと批判していたとして、そりゃ、そのおもんないやつがその人の中ではおもろいという価値観なのだから、別のおもろいやつをおもんないと批判することに疑問はありません。そのことに何の反論もなく納得できるでしょう。そのおもんない価値観で褒められる方が傷つく可能性だってあります。

 

 当然、僕だって色んな人におもんないと思われていることは多々あるでしょうし、それも価値観です。それをおもろいと思わせるように変えたいとは特に思いません。世の中には多様な価値観があった方がいいと思うからです。

 そのような感じに、僕も批判的な話は苦手とか言いながら他人の批判は全然しますが、だからといって別にそれによって他人の価値観が変わって欲しいとは思わないというスタンスを持っているということの表明とさせて頂きます。

三宅乱丈の「ペット」と自分の中の自他の区別に悩む関連

 三宅乱丈のペットがアニメ化されて、毎週楽しみに観ています。

 ペットはめちゃくちゃ面白い漫画なんですけど、これがどのような漫画であるのかについてある程度読み進めないと理解が難しいところはあると思っていて、分かってからまた最初から読み返せば最初からさらにめちゃくちゃ面白いので、アニメで初見の人たちもとにかくとっかかりの理解を得るまで観てくれという気持ちがあり、そして、とにかく最後まで観てくれという気持ちでいます。

 

 ペットは精神感応能力を持つ人々を主軸にした物語です。彼らは生まれながらに他人の精神に感応し過ぎるために、自分の人格を保つことができませんでした。つまり、自分の頭の中にあるものが自分の記憶か他人の記憶か分からないために、自我を確立することができなかったのです。そんな中で、記憶を整理する方法を自力で編み出した男がいました。彼は自分が編み出したその方法を他の人にも分け与えるようになります。

 

 彼が編み出した方法とは記憶を良い記憶「ヤマ」と悪い記憶「タニ」に分けて整理し、人が忌避するタニの記憶で大切なヤマの記憶を囲むように守ることで、自分の記憶が他人と混ざりにくいようにするというやり方でした。これにより彼らはついに自我を持ちえるようになり、その特異な精神感応の能力から、他人の記憶を改竄することを仕事とするようになります。

 

 彼らはヤマを分け与えてくれた人のことをヤマ親と呼び、慕うようになります。なぜなら、彼らにとって自分の一番大切な記憶は、ヤマ親から分け与えられたものだからです。そして、それなしでは自我を保つことができず、自他の曖昧な世界でしか生きられなかった自分を想像してしまうからです。だから、彼らのとってヤマ親とはかけがえのないとてもとても大切な存在で、そのヤマ親に強い思慕を向ける姿は、周囲から「ペット」と揶揄されるようになりました。

 そして、彼らはペットであるために、その絆を利用されて、会社に従わざるを得ないことになります。これはそんな悲しく苦しい物語でもあります。

 

 さて、この物語は特殊能力者の物語ですが、個人的にはとても分かるところがあります。それは、普通の人間だって少なからず他人に感応して生きていると思うからです。他人のことは分かりませんが、少なくとも僕は人と会うことで、その人と同じ気持ちになりやすくなります。悲しい気持ちを抱えた人と話していると自分も悲しくなりますし、楽しい気持ちを抱えた人と話していると自分も楽しくなってきます。

 

 人は自分の記憶と他人の記憶を本当に明確に区別できるものでしょうか?例えば、他人の怒りや悲しみを自分の中に取り込んで生きていたりはしないでしょうか?自分の考えだと思って口に出した言葉が、実は誰かから聞いたものを反復しているだけだったりはしないでしょうか?自分とは本当に自分でしょうか?

 

 この物語は、そんな実は誰にでもある性質を能力として強調することで描いているのではないでしょうか?

 

 ヤマをタニで囲むことを、彼らは「鍵」と呼びます。鍵を強くかければ、他人に感応する能力は抑えられ、より普通の人間に近くなります。しかしながらそれは、一方で自分の能力を抑制する結果にもなります。

 ヒロキはタニの記憶を嫌がり、鍵のかけ方が緩いために感応の力は強くなります。だから、他のペットたちよりも早く感応することができますし、精神世界では自由自在に動き回ることができます。その代償として、周囲の他人の精神に影響を受けやすく、とても不安定な精神性を抱えてしまうことになりました。

 一方、司は鍵を強くかけすぎた男です。彼は他のペットにおいそれと感応されない強さを持つ一方で、他人に感応しようとする場合もその制限を受けてゆっくりになってしまいます。そして、その他者との感応を拒否する精神性は、周囲の他人とのバランスをとることが難しくなり、独自化し孤立し、行き詰った思考に向かいがちになっているように思いました。普通の人だって、周囲の人の影響は受けて生きているのに、司はそれすら拒否しているように思えたからです。だからこそ、周囲の人間は彼のことを助けることは難しい。鍵の強さは孤立の強さだからです。

 悟はもっともバランスがよい存在です。でも、彼とてヤマ親に見つけ出されなければ、自我のないままに日々過ごしていたことは同じです。そのヤマ親と離れて暮らすことの喪失は悟にとってもやっぱり強いストレスで、それをなんとか誤魔化しながら生きていました。

 

 そして、メイリンです。メイリンは「ベビー」とも呼ばれ、鍵を作る前にヤマ親から引きはがされた少女です。だから彼女は、いまだ自我を確立することはできません。彼女の頭の中に流れ込んでくるのは、膨大な他者の記憶で、そして、人殺しに利用されるメイリンの能力は、仕事を重ねるたびに他人の中の陰惨なタニの風景を彼女にもたらします。

 自分自身の意志を持つことを否定され、他人の記憶に無防備にさらされ続け、道具として利用されるしかない存在です。それは、ひょっとすると司や悟、そしてヒロキも陥ってしまったかもしれない恐ろしい可能性です。

 

 鍵をかけること、つまり自我を保つことは人間として最低限必要な尊厳でしょう?他人の意志を再生するためだけの道具にされることはあまりにも残酷ではないですか。でも、考えてみてください。自分が何かを判断し発言し行動すること、それは本当にあなた自身の自我から来たものでしょうか?もしかしたら、誰かが望むように自分の意志を出す暇もなく、ただ、それを再生させられている、そんな可能性はないでしょうか?それに気づいてしまうことはないでしょうか?

 誰かを喜ばせるために、誰かに怒られないように、何かを当たり前だと思わされて、人は自分以外の人間の意志を再生するためだけの部品のようになってしまうことがあるのではないでしょうか?

 

 三宅乱丈はその後「イムリ」でも、類似することを繰り返し描いています。人にとって一番残酷なことはその人から選択肢を奪うことです。そうですよ。誰かの考えたことを再生する装置としてしか生きられないことは、とても悲しいじゃないですか。

 

 そして、世の中にも似たようなことは実際にありますよね?

 作中の催眠術や精神感応ほどではなくとも、ある場所で当たり前とされていることが、その場所以外では全く間違っていたとしても、当たり前として受け入れざるを得ないことがあります。どんなに間違っていると思っても、百人のうちの九十九人が当たり前にやっていることを、自分だけは拒否すると毅然と言うことはとても難しい。そんなとき、間違っているとは思っても、仕方なく同じことをしてしまったりはしないでしょうか?そういうものだ。ここでは正しい。逆らっても意味がない。そんな風に言い訳をしながら、やってしまうことがあります。

 それはある種の精神感応をかけられているということなのではないでしょうか?価値観をハックされ、誰かの思った通りに動かされていると言えるからです。

 

 ペットの物語では、他者に強く共鳴してしまうことの危うさと同時に、他者と共鳴することを拒否して思いつめてしまうことの危うさも描かれています。そして、他者に共鳴すること以外を求められないことの残酷さが描かれています。

 それらは果たして他人事でしょうか?

 

 僕は誰に近いかというと司に近いと思うので、鍵を緩めて他人に適度に感応して、周囲と上手くやっていかなければ、どこかの袋小路に入ってしまいやすそうな危うさを自分自身に感じます。そういうところもあって、アニメで改めて司を見るとき、原作で結末まで全て分かっているにも関わらず、その危うさに他人事ではない心配を感じながら観てしまっています。

 良い漫画で良いアニメですよ。よかったですね。

コミティア131にでます情報

 新しい同人誌を作ったのでコミティア 131にでます。以下、情報です。

  • 日時:2020/2/9(日) 11:00-16:00
  • 場所:東京ビッグサイト
  • スペース番号:き03b
  • サークル名:七妖会

 11月のコミティアで一般参加で本を買いに行ったときに、「次はラブコメを描こうと思ってるんですよ」と人に言ってしまったので、そうだなラブコメを描くか、と思って描こうとしたのですが、どうにも自分に人生にラブコメ要素が無さすぎたので、開始数ページで頓挫してしまい、こいつ、どうしてもラブコメに行かないつもりだなという主人公を、どうにか様々な人を配置してみて、自然とそっちに持っていかせようとして、でもそうならないみたいな格闘をした結果、なんとか話を終わらせることに成功しました。しかし、これが他の人が読んで面白いのかどうかは僕には分からないので、読んで確かめてみてください。

 以下は途中までのお試し版です。

 

【お試し版】少年対組織暴力www.pixiv.net

 

 タイトルの「少年対組織暴力」は、梅宮辰夫氏の訃報を聞いたあとぐらいに、「県警対組織暴力」をまた見ていてなんとなく決めたんですが、タイトルが決まったおかげで、タイトルに合わせる形でお話を収束させる力を出せたので、まあよかったです。タイトルは最初に適当に決めておくと助かるなあと思いました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 この文でも描いたんですけど、自分だけの価値観でお話を作って、それが本になるのはめちゃくちゃ楽しいので、もう既によかったなあという気持ちになっています。

 

 ここのところ、もう気が狂ったように仕事があり、体力的にもギリギリでやっているので、全く人と会うようなことをできる余力がなくて、年が明けてから仕事関係の人以外とは全く合っていない状態で(いや、年始に実家にいたのはありますが)、コミティアでようやく人前に出てくるなあと思いますので、年に数えるほどしか人のいるところに出てきませんが、よかったら来てみてください。

 使ってない対人能力が死んでるかもしれませんが、捻り出す気持ちもあります。

 

 よろしくおねがいします。

同人誌を作ると自分の形が分かって便利関連

 しばらく前にインターネットを見てたら、「コミケに出ることは自分が特別な存在でないことを知ること」みたいな話が流れてきていて、これはつまり、世の中にはすごい人が山ほどいて、自分はすごくないってことを知らされるって話だろうなと思いました。

 

 でも、僕は自分のサークルではコミティア文学フリマしか出たことないですけど、出るたびに自分は特別な存在だな!!!という気持ちになっているので、同人誌即売会に出ることは自己肯定のためにめっちゃいいなという話をしようと思います。

 

 同人誌即売会の何がいいかって、参加するためにあたって本が発生することです。発生するというか、自然に発生するわけじゃなくて、自分が頑張って作っているんですけど、本ができあがったのを見たときがとにかくめちゃくちゃ感動的なんですよ。

 同人誌を作るためには、生活の中からそこそこの時間をつぎ込んでるわけじゃないですか。それまで液晶の画面でしか見ていなかったものが、その労力の果てに紙に印刷された本という物理的な存在になって目の前にあるということ、これがマジですごいんですよね。

 初めて自分で同人誌を作って、初めて文学フリマに出たときに、自分が作ったものが本になったことにめちゃくちゃ感激してしまって、すぐに2冊目を作りました。そこから、ひょっとして自分は漫画も描けるんじゃないかな?という気持ちになったので、三十代半ばの中年が急に漫画の同人誌を作り始めたりして、今もやっているわけです。

 

 同人誌の何がいいかというと、それはその中に自分そのものがみっしり詰まっているものだということです。

 

 同人誌は誰に頼まれるでもなく、全て自分で考えて自分で描いて自分でOKを出しているので、作った本は隅から隅まで自分の価値観で満たされています。例えば、世の中にどれだけ素晴らしい漫画があったとしても、それはたまたま自分に合ったというだけで、自分のために描かれたわけではないですよね?

 でも、同人誌は自分のために描くことができます。そんな特別な本を物理的に存在させることができるの、めちゃくちゃ助かる行為だなーと思ってしまいます。

 

 他人に「あなたはどんな人ですか?」と聞かれたときに、どう答えるでしょうか?○○という音楽が好きとか、××という漫画が好きとか、どういう会社に勤めているとか、配偶者が誰であるとか、色んな言い方をすることができますけど、そういうのって、自分の話をする目的なのに、結果的に自分じゃないものの話をする行為じゃないですか。それって不思議ですよね。

 「もち食感ロール」みたいじゃないですか。もち食感ロール、美味しいのに、名前はもちの話です。もちというすごいものがあって、それに似ているということを名前にしてしまっている以上、こんなに美味しいのに、もちの価値に寄りかかっている雰囲気が出てしまいます。

 同人誌を作ることとは、もち食感ロールから「もち」という言葉を取り除く行為なんじゃないかなと思うということです。そうすることでこれまでも、実は本当は、もち食感ロールにちゃんとあったのに見えにくくなっていた価値が明確に見えるようになると思っていて、だから同人誌を作ると便利じゃないかなと思うんですよね。

 自分がどういう形をしているかを、自分以外の要素で輪郭を縁取ることで表現することではなく、そのものを直接的に実体化させる行為が同人誌なんじゃないかなと思うということです(ただし、二次創作だともうちょっと違う文脈もあると思いますが)。

 

 自分が他の誰かと比べて似ているとか秀でているかどうかなどではなく、自分が他人と比較せずともどのような形をしているかを具体化する行為が同人誌を作る行為なんじゃないかなと僕は思っています。なので、僕は自分が作った本が増えるたびに、自分の形をはっきりさせるものがまた増えたと感じてとても嬉しくなります。

 これって自分が誰にも似ておらず特別であることを確認する行為じゃないですか??他の誰かとの比較を利用せずとも、自分がどのようなユニークな形をした人間であるのかを示し、本という形でくっきりさせることができる行為だからです。

 

 創作活動には、そういう便利な面があると思うんですよね。

 

 こういう創作活動は、別に同人誌即売会に出なくても出来ると言えばそうです。でも、人間は〆切が決まっていないとなかなか動けないとかありますし、この日までに入稿しなければならないという気持ちが、いつまで経っても完成しないかもしれない漫画を無理矢理にでも完成に持って行ける力があります。

 そうやって、即売会の朝に、印刷所に会場搬入をしてもらったものを確認すると、前述のようにめちゃくちゃ満たされた気持ちになりますし、自分そのもののようなものが物質になったぞ!!とはしゃいでしまうので、同人誌即売会に参加するのは、その時点で勝利なんですよ。そのポイントは本を完成させることです。

 

 そこから先のことはオマケみたいなものです。僕は本ができた時点で勝利なので、仮に1冊も売れなくても堂々とやりきったぞ!という気持ちでいられると思います。とはいえ、在庫を家に大量に抱えるのも困るので、全く売れなければ刷る部数は減るかもしれませんが。

 

 逆を言うと、他人にウケたいという気持ちだけを抱えて同人誌を作り、売りに行くと、心に傷を抱えてしまうかもしれません。それは結局のところ他人を使って自分をかたどる行為になってしまうからです。他人を使って自分の形を把握しようとしているのに、他人がちっとも来てくれなければ、どんどん自分の形が不定形になってしまいます。自分の形が分からなければ、それは不安なのではないでしょうか?

 別にそれで飯を食うつもりがあるわけでもないなら、好きな物を作ればいいと思うんですよね。そうすれば、その行為そのものに満足感が得られると思うからです。

 

 さて、2月9日(日)に開催されるコミティア131に参加します。今頑張って漫画を描いているので、細かいことはまた告知します。

「龍が如く7」の会社経営ゲームをやってて感じたこと関連

 龍が如く7が出ましたね!

 ここのところ仕事も立て込んでいるくせに同人誌も作っていて、ゲームをやっていられる場合じゃないのですが、なぜだかもう30時間近く遊んでいて、いったいどこにそんな時間が?自分はいったい何を犠牲にして?という疑問が湧いてきますし、順調に仕事も同人誌の進捗も悪く、睡眠時間も削れています。ゲームは体に悪い可能性があります。でも、面白いんだ…。

 

 さて、今回の龍が如く7は従来のアクションゲームからRPGへの大胆な方向転換をしたゲームです。ではありますが、いつものようにミニゲーム集でもあり、街から街へと旅をすることがない代わりに、街の中にある様々な場所に、様々な人がいて、そこに様々な遊びが存在しています。

 

 その中のひとつに会社経営ゲームがあります。

 

 これは潰れかけた煎餅屋さんを立て直すために主人公の春日一番が社長に就任し、経営を立て直すと同時に、新たな物件も買収し、人を雇って割り当てて、お金を儲けていくゲームです。このゲームは、中間目標を達成してひと段落するまで辞めどきがなく、また、役員報酬によってお金を儲けやすいゲームなので、優先的に進めています。

 そして、このゲーム、遊んでいて色んなことを思うんですよね。

 

 「マネーの拳」という漫画があります。元ボクサーが会社を作る漫画なんですが、作中で会社とは何ですか?と聞かれた主人公が「人を雇うことだ」と答える場面がありました。僕はこの答えが好きなので、そうだよなあ、会社とは人を雇うことだよなあと思います。

 

 さて、経営ゲームはそんなに難しいゲームではありません。要は収入より支出を減らせばいいので、ちょっと数字を確認して調整するだけで簡単に儲かっていきます。

 買収した店舗には成長性があって、収益性アップにお金をかけると代わりに要求されるリソース(商品力、サービス力、知名度)も増えます。店舗ごとの各リソースにも成長性があるのですが、マックスまで育てても最高の収益性で要求される量には足りません。そこを補填して辻褄を合わせるのが人の能力値です。人間にも成長性があり、それは仕事を通じた自然な成長と、お金をかけて強制的に成長せることもできます。

 このゲームは、お金を基本のリソースとして、人と物にそれぞれ投資して成長させるとともに、組み合わせて安定的な収益源を確保することで簡単に進めることができます。

 

 このゲームの重要なポイントは金主との約束と、株主総会です。金主との約束は、ある時期までに株価ランキングの何位に食い込むかというものです。それを最初にお金を貸してもらうときに約束してしまいました。そして、株主総会はチャンスです。通常の経営ではじわじわとしか上下しない株価を、株主たちに効果的に対応することで一気に上げることが可能になります。

 株主総会のためには基本となる業績を上げておくと有利ですから、資本と従業員と売り上げの3つの評価軸に気を配らなければなりません。投資をし過ぎて資本を食いつぶしてしまうと、悪い評価の中で株主総会に挑まなければなりませんし、従業員の不満を解消したり(お金を使えば黙ります)、売り上げも達成しなければなりません。

 とはいえ、こちらに株主対応用の能力に長けた人員をちゃんと用意しておき、株主からの不満に対して適切に「人」「物」「金」の3すくみの属性を配慮して対応していけば、ある程度業績が悪くても株主総会を成功させることができます。

 

 ゲームの難度をもっと難しくすることもできたのでしょうが、今のところ普通に遊んでいるだけでは結構ぬるいバランスになっていると思います。

 

 さて、テンポよく成功体験を積めて、新しい課題に取り組んでいれば、僕の会社は気が付くと株価ランキング10位以内になっていて、本社も一等地のビルに移転しましたし、毎期数億円のお金が入ってくる構造を構築することができました。もうちょっと頑張れば1位にまで行けそうなんですが、その前に、ゲームを遊んでいる僕の心について色々気づきが得られてしまったので、それについて書きます。

 そう、この文章の本題はここからです。

 

 ゲームを進めていくうちに気が付くと、僕は人間を数字としか見なくなっているんですよ。

 

 このゲームでは従業員を街中でスカウトすることができます。様々な事情を抱えた人を条件をクリアするとスカウトすることができ、経営ゲームの中で従業員として利用することができるのですが、ここで、それぞれの従業員には人生があることが分かります。

 例えば、今はホームレスになってしまったが、僕のやっている会社に就職することで、また社会との接点を取り戻していきたいなどの気持ちを抱えた従業員がいたりします。序盤でカードとして手に入る彼らは、レア度が低く、能力値も低いという事情があります。

 だから、会社が拡大していくにあたって、彼らの能力では店舗のリソースを補填するには能力不足であることが分かっていくわけです。1店舗に割り当てられる従業員数は3人までなので、運用できる店舗数にも上限があり、人をどんどん雇える状況になると、彼らに割り当てられる仕事がなくなっていきます。

 そして、収入より支出を抑えておけばOKというゲームでは、彼らの存在は意味なく支出を増やす負債でしかないかのように見えるようになっていくのです。彼らはそれぞれ人生の事情を抱えて働いているのにもかかわらず!!

 

 このゲームの良いところで、ある意味悪いところは、ゲームの最初のチュートリアルで最初に練習としてやらされるのが「解雇」であるところです。初期のどう考えても収入より支出が大きい赤字店舗では、人員整理をすることが簡単な収益化に繋がります。初期は収入も少ないですから、一人雇うか雇わないかが命取りなのです。

 そういう状況にしておいて、ゲームはまずプレイヤーである僕たちに練習をさせるわけです。「ほら、解雇すれば利益が上がるようになったでしょ?」と囁きかけるのです。解雇による利益増という成功体験をまず積まされます。

 

 ゲームの序盤を支えてくれた人たちが、いつの間にか戦力外になっており、その過程で成長のためにそこそこ給料も高くなっており、ただ支出を増やすだけの存在として認識してしまうということが発生します。その先にある合理的な結論は彼らを解雇するということです。そして、僕はもはや気軽にそれをしてしまっています。なぜならそれが目的に対して合理的だからです。

 

 このゲームには解雇制限がないということから、ノーリスクで人を解雇することができます。そして、また雇いたくなったらまた同じ人を雇うこともできることで、罪悪感も減らされます。

 経営という数字を達成するゲームをしていると、個別の人を見ることをだんだんと止めていき、その人がどの数字を達成できるかということしか見なくなります。また、だんだん面倒くさくなってくると、まずは人のレア度を確認し、レア度が低ければ、そもそも能力も確認しないなどということまで発生します。採用も雑になります。

 

 金主からの催促がなければ、のんびり利益を上げて段々と株価を上げてもいいじゃないかと思う可能性もありますが、どうしてもある時期までに株価を上げないといけないとしたら、そうも言っていられません。収益性の低い店舗はすぐに閉鎖し、新しくて大きな店舗を買収してそこにレア度の高い従業員を配属させ、一定時間に生み出す利益をとにかく最大化することに注力します。

 地道なことをやるのではなく、いかにマイナス条件を誤魔化して株主総会を乗り切り、その結果株価を上げるかにばかり興味を持つようになります。

 

 そうやって、いつの間にかステレオタイプな「経営者」になっている自分がそこにいるわけです。自分が自然とそうなってしまったと気づくときに、ああ、面白いなと思うわけです。

 

 会社とは「人を雇うこと」だという言葉に共感を得ていました。しかしながら、ここでいう「人」が「今利益を生み出すのに役に立つ人」の略であるということにも気づいてしまうからです。

 

 こういうことを思いながら遊んでいると、気まずいことが起こりました。

 ゲームの本編ストーリーで、ずっと一緒にやってきた仲間をリスクマネジメントと称して簡単に切り捨てている人が出てくるのです。それに対して主人公の春日一番は、なんでそんなことができるんだ?と憤るわけですが、一方で僕が操作する春日一番は、冷徹な経営者として、かつて一緒に会社を経営した仲間たちを「利益にならないから」という理由だけでバンバン解雇しまくっていて、こいつ、気が狂っとるんか?と思ったりしました。

 しかし、春日一番は悪くない!彼の気を狂わせたのは僕の遊び方だからです。

 

 でも、そういうゲーム設計にしているのは意図的じゃないんですか??

 

 必達することを求められる目標は、そのために生じる犠牲の存在を軽くします。一度やってしまったことを再びやることは、随分と気が楽になります。だから、誰かを何かに引きずり込みたい人は、まず一度体験をさせようとします。表面的に不快なリアクションの無いことは、その裏に実はどれだけの悲しみがあったとしても気になりにくくなります。あらゆる合理性は、大切な非合理を粗雑に扱うことの言い訳として機能します。

 誰かが何かをするのは全てお膳立てされた末のことで、人の自由意志の及ぶ範囲なんてとても狭いのかもしれません。でも、そうやって仕方ないで回っていることも多い世の中ですよ。そして、このゲームの舞台である伊勢佐木異人町は、そんな仕方ないの中で傷ついて生きる人間のるつぼです。

 

 世の中がそうであるということを考えるとき、様々な立場で生きる人々の視点がなければ、誰かの人間性の問題としての理解をしてしまうのかもしれません。でも、それがそう強いられる環境の問題であったとしたならば、その誰かの人間性を否定したとしても、後釜に座った人がまた同じことをしでかすでしょう。

 

 僕は、様々な人を解雇したりして合理的な考えのもとに得られた大金を無駄にはしません。病気の人にポンとお金を出してあげたりします。お金が人を救うわけです。他にも、工場に投資したり、発明に投資したり、選挙資金に提供したり、高額な武器を購入したり、ギャンブルにつぎ込んだりをしています。

 

 それは果たしていいことなのか?そして、それは本当に僕の意志でやっていることなのか?ゲームをクリアするころには、自分なりの答えが出ていることを期待しています。