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「ドラゴンボール」の悟空の人間性と、悟飯はその後継者にはなれなかった関連

 ドラゴンボールの主人公、孫悟空人間性については、未だに識者の間でも意見の分かれるところがあり、彼が何を考えてどのように行動しているのかの理解が追いついてなかったりします。そのため悟空の人間性の良し悪しについては、疑問視されることもあり、悟空は酷い人間なのでは?と思われている様子もしばしば目にします。

 物語を読むということは、とても個人的な行為だと僕は思うので、それが作者の意図や、他の人の感じ方とは違っても、ある人がそう思ったならそれがその人にとっては事実なのではないかと思います。

 

 でも、じゃあ言わせて頂きますけど、僕が悟空をどのような人間として捉えているかも、めちゃくちゃ個人的な認識で書いてやりますよ!!!

 

 僕が孫悟空は、「目的に対して最短距離しか走れない人間」だと思っています。イメージするなら、「魁!男塾」の直進行軍です。直進行軍とは、ただただまっすぐ歩く訓練です。つまり、目の前に壁があろうが他人の家があろうが、とにかくそれらを壊してでも、ただまっすぐ歩くというものです。

 人間の多くはこれをすることができません。ある地点Aからある地点Bに移動するとき、直線で進むのが一番早いのは間違いありませんが、そのためには障害にぶち当たってしまうので、普通は回避をするのです。

 このように、まっすぐ進むことが距離的には一番近いことを知っていながらも、それを回避して遠回りしてしまうのが普通の人間で、そこで最短距離を突き進むことができるのが変わった人です。

 

 悟空はそんな特異な人物なのではないかと思います。

 

 これはもう少し細かく言うと、悟空は普通の人と比べて葛藤することがとても少ないのだと思います。葛藤とは、僕の理解では、自分の中に複数の評価指標があり、一方では良しとされることが、他方では悪しとされてしまう状態ではないかと思います。

 なので、ある判断をするときに、それはある評価指標では良いことであるが、別の評価指標では悪いことでもあったりして、本当にそれを選んでいいのかの躊躇が発生してしまいます。だから、人は、その指標の優先度や重み付けをよく考え、乗り越えることで、ようやく自分にとっての最良の決断をするのです。にもかかわらず、やはりそこには何かしらの悪い要素も残ってしまいがちです。だから、決断したことにすっきりできなかったりして、それがまた次の決断の足かせになったりします。

 しかしながら、こと悟空にとっては、このような状態のときに内面と外面の乖離がほとんどないのだと思います。そして、内面が持つ評価指標も矛盾せずにほぼひとつに統一されているようにも思いました。

 だから、悟空はあらゆるシチュエーションにおいて、すぐに明確な答えを出せます。そして、それを実行することに躊躇がありません。なぜなら葛藤がないからです。内面の中でも、外面との境界でも、矛盾がなく、ただあるがままであればよいだけだからです。

 

 もちろん、これは悟空が作中で百パーセント常にそうだったということでもありませんが(予防線)。

 

 内面の葛藤が少なく、考えた通りに即実行に移せるという性質は、強くなることや問題解決においてはとても強い性質です。どうすればいいかの答えを出せずにまごついている時間なく、目的を達成するための行動だけに集中することができるからです。戦うことの意味や意義や価値を考えずとも、強くなるということに集中することができるからです。

 このような性質を抱えた悟空は、戦闘民族サイヤ人であるという土台を元にどんどん強くなっていきます。ハンターハンターのキメラアント編でも、人間と他の生物と融合して生み出されたキメラアントたちは短期間で強くなっていきました。それは人間的な規範から解き放たれた彼らは、強くなるための欲求に素直だからです(悟空との対比は誤解を招く悪い例えかもしれませんが)。

 そして、悟空はどんどん頼られる存在となっていきます。ベジータ戦でも、ギニュー特戦隊戦でも、フリーザ戦でも、悟空の到着は遅れ、そこにいかにして間に合うかという話になります。圧倒的な力の差があったとしても、それでも「悟空ならなんとかしてくれる」という気持ちを皆が抱えるようになります。

 

 悟空が心臓病で死んでしまった未来では、悟空を知る誰もが悟空さえいればという気持ちを抱えていました。その気持ちが理解できないのは悟空を知らないトランクスだけです。悟飯もトランクスもスーパーサイヤ人になれる未来では、悟空の戦闘力が突出していたというわけではありません。それでも敵わないぐらいに人造人間たちは強いのに、それでも、皆は「悟空さえ生きていれば」という気持ちになるのです。

 どれだけ悲惨な状況でも、どこかあっけらかんとしていたのがドラゴンボールの漫画の世界です。しかし、悟空のいない未来の外伝では、とてつもなく閉塞感のある世界が描かれました。それこそが悟空がいる意味です。悟空がいること、悟空がいさえすれば、どんな状況でもなんとかしてくれると思えること、それが、この世界に光をもたらしていたということが分かります。

 だから、ブルマはタイムマシンを発明し、トランクスを過去に送り込んで悟空が生き延びる未来を生み出しました。

 

 このように人造人間編の序盤において、悟空の存在の神格化は始まっていたように思います。悟空がいれば未来は明るく、悟空がいなければ未来は暗いということ、いつのまにか悟空はそんなものを背負う存在になっていました。天下一武道会でピッコロを倒したあとに、地球の神を引き継がないかという提案を断った悟空が、知らずに信仰の対象のような存在にまでなってしまっていたのです。

 

 僕が思うに、悟空にはこのとき既に自覚があったのではないでしょうか?心臓病の治療が終わるまでの眠りから覚めたあと、悟空の在り方は少し変わったように思いました。それはつまり、自分がいなくなったあとのことを考え始めたのではないかということです。

 「悟空がいたから楽しかった」は、ドラゴンボールGTの最後の言葉です。GTの意味のひとつは悟空がいたから楽しかったです。でも、悟空がいないから楽しくない世の中でもいいのでしょうか?いや、よくないでしょう。だってそれなら悟空はいつまで経っても去ることができないし、ドラえもんが安心して未来に帰れないわけですよ。

 

 そして、悟空は自分の後継者として息子の悟飯のことを考えたのではないでしょうか?精神と時の部屋での2人っきりでの修行の中で、悟飯の持つポテンシャルは自分よりも強いことを感じ取り、自分がより強くなるために修行をすることを止め、完全体のセルに対しても早々に敗北を認めて「お前の出番だぞ」と悟飯に呼びかけます。

 しかし、悟空には誤算があります。それは、悟飯は悟空の悟空性を受け継いでいなかったということです。強い力を抱えながらも、悟飯はその内面に葛藤を抱えた普通の人間でした。父親から期待されていることは分かっても、それを実行することができません。そのやり方が分かりません。

 そして、怒りとともに力を解放したあとにも、悟飯はセルをいたぶってしまいます。これも悟空にはない性質でした。悟空は戦う力や戦意を失った相手にとどめを刺すことにはこだわらず、ただ、脅威を収めることでよしとします。もちろん、それでも敵意を失わず人を傷つけようとする相手にはとどめを刺しますが、それそのものが目的にはならないわけです。目的さえ達することができれば、それ以外のことにはこだわらない悟空に比べ、悟飯は、相手を苦しめることを求めました。そして、そのことがセルの自爆へと繋がる隙を作ってしまいます。

 

 そして、悟空は膨れ上がったセルを連れて界王様の星に瞬間移動しました。皆を助けるためです。巻き添えにされた界王様はたまったものではないですが、それでも悟空は十分に考えた末にその決断を行ったのです。セルの自爆から皆を助けること、その代わり自分と界王様とバブルスくんが死ぬことを天秤にかけ、出た答えをあっけらかんと実行します。それがいいと思ったならば、こともなげに実行できてしまうこと、それが悟空の悟空たるゆえんなのではないでしょうか?

 また、悟空は自ら退場することを望んでいたふしもあります。そこには、悟空の息子は特別な存在である悟空とは異なり、別の人格を持った人間だったと分かったということも関係しているのかもしれません。

 

 神話の時代に自ら幕を引き、代わりに残った、かつて自分を頼った人間たちに世界の舵取りを任せて、悟空は自ら表舞台から身を引くことになるのでした。

 

 しかしながら、そう簡単にはいきません。神は死に、人間の時代が来たと思いきや、ドラゴンボールの世界の在り方は、それを許しません。死んだはずの悟空を呼び戻し、魔人ブウとの戦いに雪崩れ込みます。

 魔人ブウ編は、悟空の悟空性と世界との齟齬の物語と読むことができるかもしれません。これまで悟空の価値を生み出してきた率直さと目的に対して最短の解を出す素直さが、むしろ、悟空を悪く見せるように機能しているからです。そして、ここには悟天とトランクスという、悟空を知らない子供たちがまず悟空に向けるのは懐疑の目がありました。

 神のいない時代に生まれた子供たちは、信仰の意味を知りません。そんな中で、悟空は自分の力で倒せたはずの魔人ブウを見逃しました。それは現世の人々の力で倒せた方がいいと思ったからです。

 

 それによって、悟空がいたから助かる世界ではなく、悟空がいなくとも助かる世界を望むこと、つまり、自分がいなくなることをむしろ望むことが、一度は幕を引いたはずの神話の時代の先に、悟空が再び成し遂げようとしたことではないでしょうか?

 

 それでも、フュージョンの力で悟空に匹敵する戦闘力を獲得した悟天とトランクスも、老界王神の力でおそらくはそのとき世界で一番強くなった悟飯もやはり悟空の代わりを務めることができません。魔人ブウは何もかも吸収して強くなり、悟空とベジータも合体することでそれに対抗します。

 そして、魔人ブウはこれまで吸収し続けた人々を失い、悟空もベジータとの合体が解けて、最期の戦いに向かっていきます。

 

 ここでの印象的な出来事は、ベジータが悟空をナンバーワンだと認めるということです。常に対抗意識を持ち、勝つために敵に心を売るまでしたベジータが、魔人ブウとの戦いの中でついに、自分は力不足と認め、悟空に戦いを託すのです。これは良い話でした。感動しました。しかし、感動する良い話ですが、それによって決定的に破綻するものがあります。

 ついにベジータまでもが、「悟空助けてくれ」になってしまうのです。悟空を信仰の対象としてしまうのです。沢山の人の気持ちを一心に背負うことになった悟空は、もしかすると、とてつもない孤独になってしまったのではないでしょうか?

 

 誰も彼もが、自分自身で戦うことを放棄し、戦う役目を悟空に押し付けたと捉えることもできるからです。

 

 悟空に祈れば何でも叶います。それはさしずめ何でも願いを叶えてくれるドラゴンボールの別の形なのかもしれません。願いを叶えてくれる存在を手に入れた人々は、自分たちで戦うことを止めてしまいます。なぜ、悟空がその責任をたったひとりでとらなければならないのでしょうか?

 しかしながら、ここには救いがあります。魔人ブウを倒すために決定的となった元気玉は、地球の人々の力を集めたものであったことです。それは悟空を知らない、悟空を信仰していない人々の力です。

 

 それは、たったひとりの絶対的な存在になりそうだった悟空を、その責務から解放してくれる強い力です。

 

 魔人ブウにとどめを刺す瞬間、悟空はブウのことをねぎらいます。たったひとりでよく戦ったということをです。考えてもみてください。あの場において、誰もが自ら戦うことを放棄したとき、孤独に戦い続けたのは、悟空と魔人ブウだけだったじゃないですか。

 倒されたのは魔人ブウですが、もしかすると悟空でもあったのかもしれません。元気玉魔人ブウが倒されたとき、このドラゴンボールの世界において、悟空という神が死に、遂に人間の時代が、それも英雄ではなく普通の人々の形作る時代が来たのです。

 

 調子こいて書きましたが、この後のドラゴンボール超の話をすると、この辺めちゃくちゃ矛盾が出てくるので、これはあくまで原作漫画だけで完結した与太話だと思ってください(予防線2つ目)。

 

 結局のところ、悟飯は悟空の後継者にはなれませんでした。悟空は神格化された存在であって、悟飯は人でしかなかったからです。でも、それが悪いわけではありません。神話の時代が終わり、人間の時代が来たのなら、そこでは人間として生きることの方が良いと思うからです。

 そして、悟空は、魔人ブウの生まれ変わりであるウーブとともに去ることで物語は終結します。それはつまり、たったひとりで戦い続けたウーブこそが、悟空の後継者になり得る存在であって、そして、そんな彼らの居場所はもうなかったということなのではないでしょうか?

 

 その後、ドラゴンボール超が始まってしまったのは、また神話の時代が求められてしまったということなのかもしれませんね。時系列的に言えば漫画の最終回よりまだ手前なので、結論は同じなのかもしれません。この捉え方を念頭に置いたとき、物語の再開のきっかけとなった映画が「神と神」だったのは、果たして偶然でしょうか?

 

 これは偶然ではありません!!なぜなら、僕がそれに寄せようと思って書いたからです。おしまい。

「マイブロークンマリコ」と物は壊れるし、人は死ぬ関連

 「マイブロークンマリコ」は喪失の物語だと思った。

 

 世の中のあらゆるものはいずれ壊れて失われる。でも何かが壊れたら、同じものを手に入れて埋めることもできる。スマホを落として壊したら、また同じものを買えばいい。でも壊したスマホと新しく買ったスマホは実は違うものだ。同じ外観と機能を持っているから忘れさせる力が強いだけの話だ。

 何かが失われると、人は代わりの何かを手に入れてその喪失を埋めようとする。そうすることで、世の中から常に何かが失われていることを忘れることができる。喪失の痛みに気づかないでいることができる。

 でも、失われてしまったものがあまりにも大きいとき、それが埋まるまでに時間がかかることがある。そういうときに、人は失われてしまったものが失われてしまったことを直視せざるを得ないのではないだろうか?そして、場合によっては、自分がそれを似たような別の何かでその喪失を埋めようとしてしまうことを自覚し、それを拒否してしまうかもしれない。

 

 この物語は、マリコが失われてしまったことを知らされることから始まる。マリコ睡眠薬を大量に飲み、転落死をしたことを主人公のシイノはテレビのニュースで知る。この前も会ったばかりの友達のマリコが、子供の頃からずっと近くにいたマリコが、ある日突然永久に失われてしまったことを知らされてしまうのだ。

 シイノは、マリコの実家に乗り込み、骨壺を奪って逃避行を図る。なぜならば、その骨が父親の下にあることが許せなかったからだ。自分の子供を虐待し続けた父親の下に、死んだあとまでマリコを置いておくことができなかったからだ。

 

 そして、失われ、生き返ることなどないマリコの骨とともにシイノは旅に出る。

 

 マリコは壊れた女だった。少なくともそう自称する女だった。彼女の周りでは、様々なトラブルが起こり、彼女はそれによって傷つけられていく。そのトラブルを起こす周囲の人々は決まってそれを「マリコのせい」だと言った。

 確かに、その不幸な出来事が起こる原因の一端はマリコにもあったのかもしれない。それは責任があるということではなく、悲劇の被害者でありながら、悲劇の構造を維持する行動をとってしまうという悲しみの話だ。

 シイノの記憶に残るマリコは、変わることを恐れる人間のように見えた。少し持って回った言い方をしたのは、この物語にはマリコは登場しないからだ。この物語の中のマリコは常に記録と人の記憶の中にだけ登場する。誰かの中に残るマリコは、果たしてマリコそのものと同じ人物だったのかは分からない。

 

 少なくとも記憶の中のマリコは、必死で何かを維持しようとしていた。父親を怒らせないため、母親を繋ぎとめるため、男に望まれた通りに、シイノが自分から離れないように必死だった。何かが変わっていればよかったのかもしれない。でも、そのマリコはただ今が変わらないことを望み、そのために、そこにある歪みの責任を引き受けて、傷つき続けながらもそこにいようとし続けたように見えた。

 シイノは、マリコにそんなところから逃げ出せるように変わって欲しかったのかもしれない。だけど、マリコは変わることでそこから逃げ出すことができなかったのだ。そして、マリコは死んだ。これはそういう話だと思う。その事実は何をどうしたところで変わることがない。

 

 人間は弱い生き物だから、すぐに不安を解消しようとする。何かの不安があると、そこに理由を求めてしまう。理由がありさえすれば、それは説明可能なものになり、安心するからだ。だから、人間はすぐに「こう考えれば辻褄が合う」ということと「それが事実である」とうことの間の距離をいきなりゼロにしようとしてしまう。

 マリコはそんな弱い人間のために都合がよい存在だった。その歪みのはけ口になってくれるからだ。それが事実とは異なっていても、マリコは自分がそれを受け入れさえすればいいと思ってしまう人間だからだ。そして、何でも受け入れてくれるマリコは、それゆえに傷ついていく。壊れていく。

 

 シイノは、旅をする中でマリコのことを思う。マリコに貰った手紙の束の中には、可愛くいじらしいマリコの姿があり、そして、シイノの記憶の中には、それだけではない面倒くさい女であるマリコの姿もある。マリコはもういない。だから、マリコの存在は、写真や手紙のような記録と人の記憶の中と、骨壺の中に残ったものしかない。それらは全て断片的だ。

 シイノにはマリコが何を思って死んだのかもわからない。何もわからない。その死が意志だったのか、事故だったのか、もしかすると誰かの作為だったのかも分からない。人が死ぬとはそういうことだ。確認のしようがない。

 だってもういないのだから。だから、シイノは仕方なく自分の中のマリコを探し、そして、シイノの中のマリコ像は断片的でバラバラになった骨のように繋ぎ合わせることができず、壊れている。生きていたそれまでには分かっていたように思えたはずのものが、指の間をすり抜けるように断片的でつかめないバラバラなものであったことを突き付けられる。

 

 そんなシイノの前にマリコの幻影が現れる。そのマリコは、シイノの抱える苛立ちのすべてをマリコのせいにしてしまえと囁きかける。でも、シイノにはできない。できっこない。それは、だってそれは、マリコの父親が、母親が、男が、マリコに押し付けたことと同じじゃないか。

 その妥協をしてしまえば、マリコという人間をひとつに繋げて理解することもできるかもしれない。そんな女だったと言えるのかもしれない。でも、理解とはなんと残酷なことだろう。無数の情報を持っていたひとりの人間を、ほんの少ない言葉だけに圧縮してしまう。圧縮できなかったものは、なかったことにされてしまう。

 ついこの前までは、生きて存在していたはずのものが。全て何らかの賢しらな理解に変換されて消え去ってしまう。

 

 この物語が描いたものは、喪失の穴なのではないかと思った。読者が見せられたものは、その穴にかつてどんなものが詰まっていたかということだけだ。それをシイノと同じ気持ちになるまで、見せつけられるだけだ。そして、この物語の中で、その穴はもう二度と同じもので埋まることはないということが事実だ。

 

 代わりの誰かを助けたって戻ってこない。届かなかった手紙が届いたところでやっぱり戻ってこない。失われてしまったものを本当に埋められる代わりのものなんてないではないかと思う。

 それでも人生は続いていく。人生の大半はそれに気づかないふりをしながら続いていく。今も多かれ少なかれ何かが失われ続けていて、それが二度と戻ってくることはない。でも、それが嫌だから生きないわけにもいかないんだ。

 

 物は存在して壊れていくし、人は生きていて死んでいく。普段はそこから目を背けて生きているけれど、目を向けてしまうこともある。人間はその中で生きているんだよなと、なんかそういうことを思った。

作品の感想を作者に伝えることの難しさ関連

 世の中に公開される何らかの作品というのは、基本的に多に向けて作られていると思います。作者は大勢に人に見られる形でそれを公開しますし、それが世の中に広く届けば、一本の幹から別れた無数の枝のような形でそれぞれの受け手に届くかもしれません。それぞれの枝の先からさかのぼれば、幹までは一本道です。でも、作者からの視点では無数のうちの一本です。そこを見誤ると、なんかバランスがおかしなことになるんじゃないかなと思ったりしています。

 つまり、そういった場合、基本的に作者と受け手は1対1の人間関係ではないのではないのかなと思うということです。

 

 年始に「推しが武道館にいってくれたら死ぬ」を最初から読み直していたのですが、漫画が面白いこととは別に、しんどい気持ちにもなってきたりしていて、それは作中の描写から喚起される何かしらが、自分の感覚を色々引っ張り出すからだと思いました。

 「推し武道」はマイナーな地方アイドルと、それを応援するファンを描いた漫画です。そこではアイドルがマイナーであるために、ファンの数、つまり前述の枝の数がまだ少なく、ファンとアイドルの関係性が双方向に一本に見えやすくなってしまったりします。しかも、強いファンは多くのCDを買いますし、それに比例する時間だけ握手会などで直接対面もしますから、より1対1の人間関係に近似してしまいます。

 アイドルというものは1対多のコミュニケーションの構造を持つものだと思うんですけど、そこに1対1の人間関係的なコミュニケーションに近似したものが生じてしまうことには、矛盾があり、その歪みがどこかに出てきてしまうものなのではないかと思います。その人間模様が、この漫画の面白さのひとつであると同時に、僕が読んでいて感じてしまうしんどさの一因なのではないかと思いました。

 

 僕は漫画の感想を書いていますけど、作者に直接送ったことはほぼありません。それは、作者が僕が書いた感想を読みたいかどうかが分からないからです。作者に直接送らずに、ネットにぼんやり出しておけば、もし読みたければエゴサーチして読むでしょうし、読みたくなければ読まなくて済みますから、そこで何らかの事故的なものが起きにくくなるのではないかと思ってそうしています。押し付けられたのではなく、覚悟を持って読んだんでしょ?という言い訳が立つからです。

 それとネットに書くもうひとつは、感想を書くということが広がりを持つことに繋がった方が良いような気がしていて、それならば、作者しか見ないところに送るよりも、人の目に触れるところに書いた方がいいのではないかとも思ったりするからです。まあ、でもそれを言い出すと、僕のようなどこの誰とも知らない人が書いた感想が、何かの作品を広げるための手がかりになることはまれなことではないかと思うのですが。

 

 作者に直接感想を送ってしまうことは怖く感じるところがあるんですよ。それは前述のように、相手が望んでいないものを読ませてしまうかもということもありますし、こちらに「1人の人間としての対応」を求めてしまうことでもあるかもしれないからです。

 人間にはひとりひとりを人間として丁寧に応対することができる数に限りがあると思っていて、それは僕自身が特にそうで、例えばTwitterでたまに自分のしょうもない発言がバズったときにリプライには返信をしないこともその理由からです。全てのリプライに個別にちゃんと返信するとしたら、自分の一日分のコミュニケーションに使える精神力を一瞬で使い切ってしまうかもしれません。

 

 作者は僕だけの相手をするわけではないですし、にもかかわらず手間のかかる返信を求めるような形になってしまったり、さらには、こちらがわざわざ感想を送っているのだから喜んでほしいなんて思ったりしてしまうのは、ひどく勝手な考えだなと思って、まあなんというか、とにかく先方に負担をかけたくないんですよね。相手が良い人ならなおのこと、気を遣ってくれてなんかいいことを返そうとしてくれたりもするわけじゃないですか。それが負担になるんじゃないかなと思ったりするんですよね。

 負担をかけたくないのは、嫌われたくないからです。自分が好きな作品の作者には絶対嫌われたくないじゃないですか…。

 

 なんでこういうことを書いているかというと、さっき、ネットのまとめみたいなので、作者に感想を送ったのに邪険にされたみたいなのの愚痴を言っている人が大量にまとめられているものを見たからですが、それが悲しいのは分かるけれど、作者の人だって、ひとりひとりに人間的な対応をするほどのリソースないことだって多いでしょって思うんですよね。

 

 広く作品を公開するということは1対多のコミュニケーションを試みているのに、それを無数の1対1にしようとしてしまうと、よほどのバイタリティがある人でなければ無理が出るんじゃないかと思っています。百万人のファンがいたら、百万の枝が伸びているということです。自分からみれば1本でも、幹からすれば、その百万の枝の一本一本はやっぱり個別には見れないんじゃないでしょうか?

 ただ、これはアマチュアになってくると、枝の本数が少ない分、もしかしたら1本1本を見れるんじゃないかと思ってしまうことが、しんどさのきっかけになってしまうのかもしれません。

 

 この辺の、好きな作品の作者には直接相対したくない(向こうが得をすることがないと思うので…)という感情は長年感じていることがあって、それが「推し武道」を読んでいるときにも分野は違っても喚起されて、ウワッこんな辛いことを物語として描いている!と思ってしまったりもするような気がしました。

 とはいえ、好きな作品を作っている人で交流のある人もいて、でも、そういうときははそっちから僕の感想とかに触ってきたんだからな!じゃあ、ちょっと!ちょっとだけ交流させてもらいますが!??みたいな、こうなんか、そこまで迷惑にはならないのではないかという外堀を、すごい慎重に埋めるみたいなのがあります。でもやっぱり、そういうのはそんなにできないので、そんなにないです。

2019年の自分の振り返り

 2019年が終わりつつありますが、今年は個人的に色々な変化があって、大変な感じでした。

 僕はあまり人間の自由意志みたいなものに力があることを信じていないので、自分にあった変化は環境に適応しただけのことだと思います。ただ、その環境から逃げずに適応することにしたところには、意志の作用はあるのかもしれません。

 

 とにかく人と接することが不得意なので、仕事も技術的になことさえやれればできる仕事を選んできたつもりでしたし、人間関係も最小限にしていたつもりでしたが、いよいよそうもいかなくなってきたこの一年です。

 変化の大きなところでは、あんなに避けていたマネージャーの仕事を本格的にするようになりました。

 

 やることにしたというよりは、去年からの仕事がなまじ上手く行ってしまったせいで、新しい仕事の量が増えてしまい、そういう仕事をせざるを得なくなりました。もう自分ひとりで技術的なことの全てをやることができる量ではなくなったからです。社内から人を集めたり、新しく雇ったりしながら、チームを作り、人に任せることもできる体制を作るところからやりました。

 具体的な細かい話を書くことはできないのですが、どうすればチームの仕事を上手く動かして、めちゃくちゃなタイミングでやってくる仕事に対応できるかを考えて、メンバーに相談しつつ、色々なやり方を試しています。そのおかげで、今のところは上手く回っているように思います。

 ただ、慣れないことをしているせいで、手の抜きどころもよく分からず、とりあえず全部のリソースを突っ込んでいるので、常にめちゃくちゃ疲れた感じになってしまっています。今の目標は、疲れ過ぎないように働くことです。

 

 仕事で全てが埋もれてしまうような毎日になっていたので、それしかないのが嫌になり、漫画を描いてはコミティアに出まくっていました。

 昔は、インターネットの人とは全く会うつもりもなく、実在性も曖昧にする方針でインターネットをやっていたのですが、イベントに出るようになってから、もうそうは行かなくなったので、タガが外れて、インターネットの知り合いとたまに会うようになりました。とはいえ、僕はもともと一番仲の良い友達とも、年に2回会えば多い方なので、平均的な人からすると、まだあんまり人と会ってはないんじゃないかなとも思います。

 

 コミティアに出ていたおかげで、色々な漫画雑誌の編集さんから声をかけてもらいました。その中で、なんと賞も頂けて、商業誌に自分の漫画を載せたいなという気持ちが自分に発生したので、びっくりした一年でもありました。

 にもかかわらず、仕事の方で脳がいっぱいになってしまい、全然上手いこと具体的な作業を進められず、もどかしい状況が続いています。どうにか、仕事のチームの運営体制も落ち着いてきたので、年末休みに入ってからは、まずはまた手を動かすことから始めています。

 

 でも、とにかく疲れている上に仕事のことばかり考えてしまい、ここ数日は、夢の中でも仕事をしているわ、頭が暇になると休み明けの仕事のことを考えてしまうわで、完全に疲れが抜けきらないしでダメです。

 もっと手を抜けばいいとか、自分ひとりで背負いこみ過ぎなくていいとか、色んなアドバイスも貰えるんですけど、それに従ってしまった先にあるのは、自分が嫌だなと思ってきたマネジメントをろくにしないマネージャーと同じ姿なんじゃないかなと思っていて、結局のところ、彼らも自分自身にとって最適な行動をするとああなってしまうのではないかなと思ってしまいました。

 やはり、人間の自由意志なんて信じるべきではないなと思いました。

 

 僕のような人間が、人のとりまとめをして、リーダー兼マネージャーとして活動するということは、HUNTER×HUNTERで言うと、カストロが自分の特性に合わないダブルの能力を使って、ヒソカに勝つというようなことを目指していることと思うので、それが出来たらめちゃくちゃ感動的じゃないですか?

 

 人生の話ですが、何事も最初の一回がとにかく大変で、それをやってみると、二回目以降は一回やったことのあることだから、割と楽にできるようなことがあったりします。

 早い段階で、自分の能力や特性を見限ってしまい、向いていると思うことだけしかやらないのは、そういう可能性に気づかない不幸もあるんじゃないかと思っています。だから、気の進まないこともやらざるを得ない、仕事というものに取り組んでいるおかげで、自分の中の選択肢が増え、生存可能性は上がっているような気もしています。

 だから、結構追い詰められたりもしまくってますけど、こうやって自分の特性をごりごり書き換えようとしたりしているのは良いことなんだとぼんやりと思うんですよ。環境に合わせて自分を変えるということを全くせずとも生きられることは、その時点では幸運ですが、いずれ環境が激変したときに、耐えきれない変化にさらされる可能性も高いと思うからです。

 

 子供の頃は、大人って完成していて、もう強い変化が来ない存在なんじゃないかなと思っていて、だからこそ揺るぎなく、だからこそ頼りがいがあるようにも思っていましたが、でも自分はぜんぜんそうならないなと思います。

 いつまで経っても毎年のように変化を求められ、どんどん新しいことにチャレンジをしなければならない状態が少なくとも、このままではあと五年ぐらいは激動のように続く予感がしていて、なかなか厳しいです(中年の疲れやすい体)。ただ退屈はしないので、気がつくとすぐに四、五年経っているのかもしれません。

 

 とりあえず、来年は仕事に疲れすぎないようにして、漫画を描いたりを安定的にできるようにしたいなと思っています。あとは、人と会ったりするのをもう少し増やしていくぞ!という気持ちもあります。

 ゆくぞ、来年。

他人を自分の思った通りに動かす方法関連

 ウチの爺ちゃんは陸軍にいたので、陸軍の話を聞かせてもらったことがあるけれど、終戦が近くなって若年で徴兵された爺ちゃんには直接的な戦闘経験はあまりなく(いや、もしかすると僕にはあまり話したくなかっただけかもしれないけど)、軍隊の話と言えば、主に陸軍のシゴキの話だった。

 

 爺ちゃんが所属していた隊でよく行われていたのは、机をひっくり返してその四つの足に両手と両足を乗せ、バランスをとった上で、背中を棒で叩かれるというもので、落ちてしまうとまたやり直しになるので、必死で耐えたという話を聞いた。なぜ叩かれたのかは、聞いたはずだけどよく覚えていない。でも、若年の兵隊の多くはそのシゴキにあっていて、戦闘もないのに、その怪我からどんどん動けなくなっていったと言っていた。

 軍隊のすごく偉い人が視察に来た時に、怪我人ばかりの状態を見て、シゴキを行っていたことに対する叱責があったそうだ。しかし、それは逆効果だった。なぜなら、その叱責があったという事実が当時の爺ちゃんの上官を激昂させ、お前たちがだらしないせいで怒られたとさらにシゴかれたのだから。

 

 爺ちゃんはその後のシベリア抑留を経て帰国してからは主に農家の仕事をしていたので、組織の中で働いた経験があまりない。唯一の例外は、50歳ぐらいになって婆ちゃんの病気をきっかけに農業を縮小して、生まれて初めて履歴書を書き、警備員の仕事をしていた時期ぐらいだ。

 だから、爺ちゃんにとって組織というもののイメージは陸軍での生活が主だった。なので、僕が就職するときに言ったのは「日本は縦社会だから、上の言うことを聞かなければならないんだぞ…」という話で、爺ちゃんが陸軍で最後に受けた命令は「死んでこい」とう玉砕命令だったよ…という話をし始め、今の世の中はそこまでじゃないと思うよ…と思った。

 玉砕命令後にあった玉音放送のタイミングがもう少し遅かったら、爺ちゃんは死んでたと思うので、昭和天皇、ナイスタイミングだったなと思っています。天さんありがとう。

 

 さて、人がひとりで生きることは非効率的なので、色んな人たちが協力して生きることが多い。協力をする中でも、上手く統率がとれていた方がより効率的で、だから人を組織にとって効率的に動かすための方法が色々考えられているように思う。

 代表的なものは信賞必罰だろう。望ましい行動に利益を与え、望ましくない行動に不利益を与えることで、人が組織にとって望ましい行動をとるように誘導しやすくなる。しかしながら、このやり方にも問題があって、それは、望ましい行動に必ずしも利益を与えることができない場合があるということだ。

 

 例えば会社組織では、望ましい働きをした社員に賞与を与えるとか職位を上げて給料を上げるなどのお金による利益を与えることができるけれど、会社自体の業績が思わしくないときには、いかに良い働きをした社員がいたとしてもお金をあげるための原資が足りなくなることがある。昔の戦争でも、戦争には勝ったものの、勝った相手から大した利益を得ることができなかったために兵士に分配をすることができず、不満が高まったというようなケースを読んだことがある。

 

 そして、そんな風に組織が「信賞」ができるほどの豊かさを持ちえない場合、利益を与えずともできる人を動かす方法、「必罰」に偏ってしまうことがあるんじゃないだろうか。

 

 望ましい行動をとる組織の構成員に利益を与える代わりに、望ましい行動をとらない組織の構成員に不利益を与えることで、同じことを達成しようとする試みについては、皆さんも色んなところで目にする機会があるのではないだろうか?最初に書いた爺ちゃんの陸軍の経験は、まさにそれに該当する。

 「良い行動を褒め悪い行動を叱る」ということは、「良い行動をしないことを叱り悪い行動をしないことを褒める」ことでも達成されそうに思う。しかしながら、褒めるということは行動を促すということ、叱るということは行動を止めさせるという効果があるように思っていて、だとすれば、結果はおそらく同じにはならないのではないだろうか?

 なぜなら、良い行動をしないことを叱ることは、良い行動をしてないように周囲に見える行動を「止める」ことはできても、積極的に良い行動を能動的にすることには繋がらないように思うからだ。悪い行動をしないことを褒めることも同様で、褒めることが行動を促す効果があるのだとすれば、悪い行動を自分がいかにしていないかというアピールをする行動を促して、それを止めさせることとは直接は繋がらないのではないかという危惧がある。

 

 これが本当に一般的に言えることなのかどうかは分からない。でも、僕はこのように考えていて「行動を促すために叱る」みたいなことは、意味がないと思っている。だから、しないようにしている。行動を促したいなら、その人に利益が行くような体制にするべきだと思っているし、それが不十分にしかできない辛い状況でも、少なくとも感謝の気持ちは伝えるようにしなければ、色々とちぐはぐになってしまうんじゃないかと思うからだ。

 

 罰を受けたくないために、皆が「正しいとされている道」を踏み外さないかに怯えながら成り立っている組織は、行動を促す要素がないために、何かが変わることもどんどん停滞して、悪い空気が出ていくこともなく、どんどん息苦しくなっていくように思う。そういうところにいないといけないのが、僕はめちゃくちゃ嫌なわけなんですよ。

 

 停滞してしまう組織には罰による人のコントロールが発生していることが多いように思えて、停滞していることを解消するためにさらに大きな罰を与えようとしてしまうことでいつか破綻してしまうような雰囲気を感じたりする。ただ、その背後にあるものは、分配できるほどの賞の原資が存在しないという貧しさであったりするんじゃないかと思っている。だから、豊かにならなければ根本的には解消しないのではないかという気持ちがある。

 これは誰か悪い奴を倒せば解決するというものじゃなくて、組織自体が利益を生み出すための構造の問題や、その中の様々な流れの澱みを解消するためにひたすら調整し続けるようなことだと思うので、ああ、もう、大変だなと思う。でも、やらないと居心地が悪い状態が続くのでやらないといけないけど、これも罰に駆動されているので、やりたい気持ちは自前で調達しないといけないし、誰か褒めてほしい。

 

 さて、人の行動を組織が束縛する代表的な方法としてまずは「賞罰」を挙げてみたけれど、もっと不可解なものが世の中にはある。それは「身分」だ。

 

 色んな組織に属して生きてきた中で、人が別の人に自分の言うことを聞かせる理由が「身分」にしかないことがある。分かりやすい例で言えば、「年上」も身分のひとつだ。年上を敬うべきという観念は、別に悪いとは思わないし、自分が今生きている社会は、先達のおかげでなりたっているというぼんやりとした感謝はあるけれど、ある人が自分より年上というだけで、その人から何の利益も得られないのに敬うべきか?というところには説明をつけづらいものがある。

 「年上年下関わらず、全ての他人を敬うべきだろう」というのなら全然分かるけれど、年上だからというのはよく分からない。歳をとって体を動かすのがしんどくなってくるのだから手助けをするといいだろうとか、年齢的に最新のものに疎くて困っているから助けてあげるといいだろうとか、そういう自分が今得意なことでそれが不得手な人と助け合うことはいいと思うし、全然やることに抵抗はないけれど、その理由がが「年上だから」となってしまったときに、「なぜ??」とすごく思ってしまうところがある。だって年齢なんてどうでもいいじゃん(個人の価値観です)。

 

 この身分の概念は例えば「お客さんだから」とか「上司だから」とか「あなたのファンだから」とかに置き換えてもいいと思う。

 

 お店とお客さんの場合、商品を介した等価交換の取引だし、どちらが立場が上ということも本来はないと思うんだけど、「店員たるものお客さんが失礼だと感じる態度をとってはならない」とか、「真摯に話を聞かなければならない」とか、自分がお客さんであることを根拠に店員の行動について縛りをかけてくることがある。

 需要と供給の話があるので、もしかすると店側の立場が弱く、お客さんがどれだけ気持ちよく物を買えるかということを追究しなければならないこともあるだろうけれど、それはあくまでも店側がその意志をもってやるかやらないかを決めることで、お客さん側がこうあるべきと強制する話をしてしまうのは説明がつかないのではないかと思う。

 その商品に対して支払う価格に、そういったサービスの料金がちゃんと入っていれば納得できる線もあるけれど、実際はそのための十分なお金は貰っていないことの方が多いと思うので。だから、そこには「店員」と「お客さん」という身分しか存在しなくて、その身分が存在するということを根拠に要求をしているのではないか?と思ってしまう。

 

 「上司だから」でもそうで、あくまで会社とは契約のもとに有限の責任のもとに、労働と報酬を交換していると思うのだけれど、例えば会社の幹部にはめちゃくちゃ恐縮しなければいけないみたいな雰囲気があったりする。出世とか、環境とかを気にして、上に気に入られるためにそういう行動を自発的にとること自体は利益があることだから、全然いいと思うけれど、僕は仕事は都合がいいぶんには続けるし、嫌になったらやめようとしか思っていないので、人間的な部分で言うと、その辺の道で知らないおっさんと接するぐらいの敬意の払い方しかしていない。

 だから、部下に対して払う敬意も、社長に対して払う敬意も同じだけの他人に対する敬意だと思う。新入社員に対しても敬語で話すし。同じ。

 上司という身分に対して支払われている敬意が強い場合、その上司という立場を失ったときには、それまで感じられていた敬意が消えてしまうみたいなことがあるんじゃないかと思う。それだって別に良いとか悪いとかはないけれど、そこに自覚的でなければ、身分があるときには払って貰えていた敬意がいきなり減ってしまうので、びっくりしてしまうこともあるのかもしれない。

 

 「あなたのファンだから」というのは、めちゃくちゃ不思議だなと前から思っていて、人気商売の人たちは、行動にめちゃくちゃ縛りを入れられてしまう。もちろん、ファンの人たちはお金を払ってくれてはいると思うけれど、例えば、漫画家だとして、漫画一冊買ってもらっても百円にも満たない印税しかその人からは貰っていないので、いかに何十冊買って貰えていたとしても、せいぜい数千円程度で、数千円で言うことを聞かせられるとか考えると、めちゃくちゃ割に合わないなと思う。

 いや、何万円貰っても、嫌なときは嫌だろう。私はあなたのファンなのだから、あなたはファンのために、ファンをがっかりさせるような行動をとってはならないというようなことを言われている人をネットで目にすることが結構あって、人気商売は、こういう自由を売ることで成り立っているんじゃないかなと思ってしまう。

 となると、ファンと1対1で接するとしたら途端にその人から貰っているお金と、課せられる縛りのバランスが破綻してしまうよなと思う。そういう意味では、それもまた貧しさなのかもしれない。めちゃくちゃ沢山の人のために縛りを入れるのなら我慢はできるけれど、その規模が縮小すればするほどに、辛い縛りだけが発生してしまい、そこに納得できるだけの利益が発生しないからだ。

 

 例示しようと思えば、まだまだ色々あるけれど、とにかく社会には人間が他の人間に、自分の言うことを聞かせるための方法というのが色々あって、でも、自分が他人に言うことを聞かせられる立場で考えると、なんで、そんなことで言うことを聞かなければならないの??とびっくりしてしまうことがある。

 お爺ちゃんは戦力的に勝てるわけでもないことがもう分かっていた戦争の中で、最終的に爆薬の袋と銃剣だけを持たされて、ひとつでも戦車を潰して来いと言われていて、玉音放送がちょっと遅かったらやるつもりだったとか、やるしかなかったとか言っていたので、マジやべえなと思うし、でも嫌だなと思って逃げられる状況でもなかったことだけは伝わった。

 

 人の心は自由であって欲しいと思うけれど、何らかの意味で何かに服従しなければ、何かの組織に属するのは難しいのだろうなと思うところがある。そして、ひとりで生きられるほどの強さも持ち合わせてはいないんだ。

 社会で生きる以上、他人の言うことを聞くのはある程度仕方ない。でも、本当にそれに従うほどの理由ってある??と思ってみた方がいいんじゃないかと思うし、そうは思っても、そうは思ってもさ…従わざるを得ないこともあるよね…と寂しそうな顔で僕はつぶやいたのであった。

「ダイの大冒険」のヒュンケルにおける光と闇の葛藤が生み出す人間性関連

 「ダイの大冒険」の再アニメ化が発表されましたね!!僕は生まれて初めて買った漫画がダイの大冒険の4巻なので、めちゃくちゃ思い入れがあります。自分が好きな物が世間でも好かれているとめちゃくちゃ気分がいい体質なので、これを機に今の若い人にもダイの大冒険が好きな人が増えたらいいなあと思っていて、少なくともその邪魔をするような老害の動きだけは決してすまいという決意があります。

 

 さて、今回は僕が色々参考にしているヒュンケルの話を書こうと思います。記憶だけで書いたので、細かいところ間違ってるかも(免罪符)。

 

 ヒュンケルは悲しい生い立ちの男です。赤ん坊の頃から心優しい魔物に育てられた少年のヒュンケルは、そののちに勇者アバンに弟子入りをします。しかし、それは育ての父の敵討ちのためでした。勇者が魔王を倒しに来なければ、彼の育ての親である魔物は死ななかったと思ったからです。才気あふれるヒュンケルはアバンの下でめきめきと力をつけ、ある日ついにアバンに襲い掛かります。とはいえ、魔王を倒した勇者アバンにまだ少年のヒュンケルが敵うはずがなく、負けて川に流されていたところを魔王軍のミストバーンに助けられました。その後、ヒュンケルはミストバーンの下で暗黒闘気を学んで力をつけ、人間の身でありながら魔王軍の6人の軍団長のひとりにまで登りつめます。

 そして、ヒュンケルは、主人公であるダイやポップ、マァムと同じアバンの使徒でありながら、彼らの前に立ちふさがるのです。

 

 さて、その後ダイたちに敗北したヒュンケルは、様々な葛藤を乗り越えて再びアバンの使徒として人間側の味方になります。ピンチのときに現れる頼もしい味方としての活躍をしはじめ、かつて得意とした暗黒闘気を捨て、光の闘気によるグランドクルスという大技も身につけて戦うのです。

 ヒュンケルは強く、カッコよく、頼もしく、そして活躍します。

 

 しかしながら、かつての師、ミストバーンはそんなヒュンケルを「弱くなった」と表現しました。

 

 それはヒュンケルの力の根源は、その内在する葛藤にあったと看破するからです。アバンを仇敵として恨んでいた(それは結局勘違いでしたが)とはいえ、アバンから与えられる愛情にも気づいていたヒュンケルは、アバンに対する恨みと思慕の両方の感情を同時に兼ね備えていました。そして、光と闇の2人の師匠を持つヒュンケルは、光の闘気と暗黒闘気の両方を使いこなすことができます。相反する2つの力をその身に備えたヒュンケルは、反発し合うその相克から爆発的な力を発揮していたのだと、ミストバーンは語るのです。

 しかしながら、光の闘気ばかりに頼るようになったヒュンケルからはその葛藤が消えてしまいました。だから弱くなったのだとミストバーンは語ります。だから、ヒュンケルは再び暗黒闘気を受け入れ、その身を悪に染めることでまた大きな力を得る賭けに出ることとなるのです。

 これは作中では主に戦闘力の話として語られましたが、同時にキャラクター性の話でもあります。つまり、キャラクター性が強い存在とは、その身の内に葛藤を抱えているということです。

 

 ヒュンケルの抱えていたキャラクター性とは、決して許してはならない仇であるアバンに惹かれてしまうが、それを認めることができないという相反する感情の揺れ動きにあったのではないでしょうか?もし、分かりやすい正解があったならば、そこにドラマは生まれません。

 「人を信じることが常に正しい世界」であれば、容易に人を信じる選択をとることができます。しかし、信じることで大きな損失を伴う可能性があるとき、「信じていいのか?信じてはいけないのか?」の葛藤が生まれます。人を信じることが正しいことを描こうとするとき、それが「人を信じたら得をした」という物語となることは良いことでしょうか?それは、「人を信じることが正しい」と言いたいだけのために、都合よく逆算して作られた茶番のようには思えないでしょうか?

 人を信じることで大きな損をするかもしれない、それでも、人を信じるのだということを描くということ。そしてときに人を信じてしまったことで大きな損失を被ってしまうこと。現実がそうである以上、信じることが正解に決まっている世界で人を信じることではなく、現実と同じように人を信じることが必ずしも正しくないという葛藤がある前提に立たなければ、読者には響かないのではないでしょうか?

 

 「幽遊白書」でも、強くなるためには私を殺せと言った幻海に対して、幽助は、すごく考えたが答えが出せなかったと言います。幻海はそんな幽助に合格を出します。強くなるために師匠を殺すという結論に飛びつける人間には力は渡せないし、かといってすぐに殺さないという結論に達することができる毒気のないやつも嫌いだからという理由です。これもまさにヒュンケルが直面した問題と同じではないかと思います。

 

 このような、敵側にいたときには魅力的だった存在が、いざ仲間になると魅力が減ってしまうという問題は、漫画にはたまにあるものです。それはどんどん強くなる敵に対して、仲間になったキャラクターの強さが追いつかなくなるという問題もあるかもしれません。しかし、上記のように、仲間になった瞬間から、キャラクターとしての葛藤を失いがちであることも関係があるのではないでしょうか?

 葛藤がなく最初から答えが決まっていれば、もはや人間性は存在しなくてもいいわけです。だって答えなんて決まっているのだから、その後に起こることは予定調和でしかありません。

 敵同士がたまたまの一時的な利害一致で共闘するのは興奮しても、最初から仲間ならばそれは普通のことです。読者としての僕は心を揺らされたいので、前者を好むわけです。

 

 ドラゴンボールでも、いつの間にか完全に仲間になってしまったベジータが、バビディの力を受け入れてその精神を悪に変容させる展開がありました。ベジータはだんだんと穏やかになっていく自分を好ましくさえ思っていたと独白します。そして、そんな自分がとてつもなく嫌になり、あえて悪になる道を選んだのです。どうですか?ここにも葛藤がありますよね?そして、その選択によって魔人ブウの復活を手助けしてしまったベジータは、その責任をとるという決断もするのです。彼は間違った選択をしました。しかしそれでも、そうせざるを得なかったのです。このエピソードはベジータという男が何であるかを理解するためにとても重要なものでした。

 ベジータは、最終回近辺で悟空をナンバーワンだと認めてしいます。そこから葛藤が消えてしまいます。それは最終回が近いからこそ許されることであって、続編の「ドラゴンボール超」のシリーズでは再び悟空よりも強くなろうとするようになりますよね?これは当然のことなんじゃないかと思っていて、悟空のことをナンバーワンと思うようになってしまったベジータからは葛藤という魅力がなくなってしまうからだと思います。

 

 ヒュンケルは、再び暗黒闘気を受け入れるものの、それを強靭な光の闘気で抑え込むということで強い力を獲得します。そしてその後のキャラクターとしての表現方法はその逆です。アバンの生存を喜ぶ仲間たちとは別に、アバンのことを口では戦力外だと悪く言いながら、誰にも見せない涙を流すのです。その喜びを悪く振る舞うことで覆い隠そうとします。その葛藤のある姿はとても魅力的ではないですか。彼はそのままたったひとりでしんがりを務め、命を賭しての戦いに挑みます。

 一方で、ヒュンケルがもうひとりの師であるミストバーンに見せたのは、ある種の慈愛のような心でした。彼を悪の道に引きずり込み、最後は道具として使おうとしたミストバーンに、それでも弟子としての理解を見せ、最期の引導を渡すことになるのです。

 終盤のヒュンケルの姿は、一度はただの心強い仲間という面白みの少なくなりかけていたキャラクター性から、再び自身の抱える葛藤を取り戻し、魅力的なキャラクターとして全てに始末をつける存在に回帰したのではないかと思います。このあとは最終回なので、ここで葛藤を全て失ってもよし、というか、葛藤を抱えた人間が、それを解消する姿を見て、読者は感情を動かされたりするものですからね…。

 

 僕は自分が漫画を描くときには、このことを結構意識していて、魅力的に見せたいキャラクターの内面には相反する感情を同時に存在させることでなんか上手くいかないかなあという試みをやっています。とりわけアマチュアの描いてる漫画なんて、基本的に皆読みたくはないものだと思いますから、分かり切った価値観の中で分かり切った正解に向かっても、その他の表現力が拙いのだから読んだ人の心に響かせることができないんじゃないかなと思うんですよね。なので、こういう技を使っていますし、僕が描いた漫画を読んだことのある人は、「おっ、使っとるな」と思うんじゃないでしょうか?

 

 というか、そもそも人間がそうですからね。そうそう簡単に人間の生き方の正解なんていうものは分かりませんし、自己矛盾したようなことを言ってしまったり、それに気づいて恥ずかしくなったり、求められている正解は分かっても、そうはしたくない別の感情があることに気づいたり、なんかそういうものじゃないですか。

 人間は相反する感情を持ったりしますし、差別はいけないと心の底から思いながらも、見下している人間がいることにも気づいてしまったりもするわけじゃないですか。

 

 僕はそういうのを人間っぽいなと思っているという話です。ダイの大冒険には、ヒュンケルだけでなく様々な矛盾を抱えた人々が出てきます。これまで説明した見方をちょっと当てはめただけで、何人ものキャラクターが思い浮かぶのではないでしょうか?そんな様々な人間が登場するダイの大冒険の再アニメ化、めちゃくちゃ楽しみですね。

 来年まで生きよう。

自分が物心ついた頃には既に終わっていたものを好きになれる時代関連

 十何年か前、X JAPANの再結成したときに、十歳年下の妹の友達がライブに行くと張り切っている話を聞いて、X JAPANが解散時には君らまだ幼稚園児ぐらいだったでしょ?と聞いたら、そうだけどCDはあるから聞けるし、親がファンだからビデオもあって見れるし、聞いて好きになったけど、既に解散して諦めていたんだけど、でも再結成したからライブに行けるんだよ!!とめちゃくちゃ興奮していて、他人事ながら、それはよかったなあと思いました。

 

 「桃色メロイック」という漫画に出てきた男の子は、エルレガーデンのファンなんですけど、姉の影響で聞き始めて、でも聞き始めたときには既に解散していて、エルレガーデンを知っている人を見つけては大興奮して、自分がいかに好きかを話し始めてしまうんですけど、この前、エルレガーデンの再結成の話もあり、「桃色メロイック」の連載もとっくに終わっていましたが、勝手によかったなあ、きっと彼はライブに行くことができたのだろうと思いました。

 

 人間の歴史は長いです。自分が生きている期間はその中のちょっとで、その中で自分がどの年齢の問題もあるし、自分が好きなものと同じ時代に良い感じに生きられることって結構なまれな話だと思うんですよね。この前、僕が将太の寿司Tシャツを買いに走った話でも、今更再供給があるだなんてと思った興奮がありましたし、いやでも、最近は子供の頃に好きだったものが、大人の財力を目当てにか色々復刻することも多くて、ついに色々追いついてきたなと思ったりします。

 

 そして、その復刻を契機に、今の子供がそれを好きになってくれたりしないかなあとちょっと思っちゃったりもするんですよね。

 

 それはめちゃくちゃ個人的な話で、自分が好きなものの話はめちゃくちゃしたいけれど、それを好きじゃない人相手にしてしまうと迷惑なんじゃないかなと思ってしまいますし、相手も好きであってくれるといいじゃないですか。だから、自分が好きなものは、世代を超えて多くの人に愛されていて欲しいというめちゃくちゃ個人的な欲があるわけなんですよ。

 

 僕の場合の自分より上の世代の漫画で好きなやつで言うと「カムイ伝」なんかがそれに当たるんですけど、もうとっくに終わっている連載の最終巻(第一部の)を読んだとき、めちゃくちゃ衝撃を受けてしまいました。当時は、雑誌の読者投稿なんかで色んな話がされていたというぼんやりという話はネットでも見つかるんですけど、なにせ昔のことなので、インターネットに直接情報が残っているはずもなく、実写映画の「カムイ外伝」の松山ケンイチの顔写真ばかりが検索結果として出てきます。

 ああ、いいな、リアルタイムで読んでいた人たちは、同じ時間を共有して読んだ漫画についてあれこれ言うことができる時間があったんだな。今の時間軸の僕にはそれがないんだな。ひとりで、ひとりで色々思うしかないんだなと思ったんですよね。

 

 好きなものと自分の人生の時間軸がずれてしまったという悲しみがあります。それとは別に、他の大好きな漫画とともに育ってこれた嬉しさみたいなのもあります。あらゆる方面で完璧な環境を得るには不老不死にでもなるしかないので、その辺は全てを得ることはできないんだなと思ったりします。

 とにかく今、今現在進行形な好きなものと同じ時間軸にいられるということを嬉しく思っていくしかありません。

 

 そういえば、この前知り合った人が、年下っぽかったんですけど、好きなものとして挙げる漫画やアニメが僕が子供の頃から大好きなものが多くて、めちゃくちゃ嬉しくて書いていることを読んでたりしたんですけど、年齢を教えて貰ったら、思っていた以上に年下で驚いてしまいました。

 僕も年上の人に、その年でその昔の漫画読んでるの?世代じゃないでしょ?って驚かれることも多かったので、文庫化ブームとかあったし古本屋とかでも読めるので、世代関係ないですよって答えてたものの、自分が逆の立場になったらやっぱり驚いてしまうことがあって、でも、なんか、昔の良いものに若い人が触れて、素直に好きになっている様子はめちゃくちゃいいなと思ってしまいます。

 別の若者と話してたときにも、好きな漫画家が華倫変と聞いて、なんで?世代じゃないでしょ!?って言ってしまったことが最近あったんですけど、だって本屋ではもう売ってないし…電子化もされてないし…と思っていましたが、でも、最近の若い漫画を描いている人にはファンが多いんですよと聞いて、そうなのかあと思いました。

 

 そして!そのタイミングではまだ電子化されていなかった華倫変の漫画が、ちょっと前から電子化されています!!読んでいる人は買いなおし、読んでない人は買って読むことができます。

 

 電子書籍とかネットの配信とかが、今までなら触れることがなかなかできなくなっていた昔の漫画やアニメなんかとの距離を、時代を超えて一歩先に縮めてくれるの、すごい便利時代到来だなあと思っています。バンドの再結成が、解散後のファンを取り込んでいくように、漫画やアニメも、ずっと昔に完結したものが、今のファンを取り込んで動きになってくれるといいなと思います。

 何がいいかというと、僕が好きなものが好きな人が増えてくれると、色々新しい何かが出ることに繋がったりするので。

 

 いやほんと、今は良い時代ですよ。僕の人生がこの時代に重なってくれるタイミングでよかったです。まあ、別の時代に生まれていたら、それはそれで良かったとか言っているかもしれません。

 今に満足することが得意なので。