漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

2019年の自分の振り返り

 2019年が終わりつつありますが、今年は個人的に色々な変化があって、大変な感じでした。

 僕はあまり人間の自由意志みたいなものに力があることを信じていないので、自分にあった変化は環境に適応しただけのことだと思います。ただ、その環境から逃げずに適応することにしたところには、意志の作用はあるのかもしれません。

 

 とにかく人と接することが不得意なので、仕事も技術的になことさえやれればできる仕事を選んできたつもりでしたし、人間関係も最小限にしていたつもりでしたが、いよいよそうもいかなくなってきたこの一年です。

 変化の大きなところでは、あんなに避けていたマネージャーの仕事を本格的にするようになりました。

 

 やることにしたというよりは、去年からの仕事がなまじ上手く行ってしまったせいで、新しい仕事の量が増えてしまい、そういう仕事をせざるを得なくなりました。もう自分ひとりで技術的なことの全てをやることができる量ではなくなったからです。社内から人を集めたり、新しく雇ったりしながら、チームを作り、人に任せることもできる体制を作るところからやりました。

 具体的な細かい話を書くことはできないのですが、どうすればチームの仕事を上手く動かして、めちゃくちゃなタイミングでやってくる仕事に対応できるかを考えて、メンバーに相談しつつ、色々なやり方を試しています。そのおかげで、今のところは上手く回っているように思います。

 ただ、慣れないことをしているせいで、手の抜きどころもよく分からず、とりあえず全部のリソースを突っ込んでいるので、常にめちゃくちゃ疲れた感じになってしまっています。今の目標は、疲れ過ぎないように働くことです。

 

 仕事で全てが埋もれてしまうような毎日になっていたので、それしかないのが嫌になり、漫画を描いてはコミティアに出まくっていました。

 昔は、インターネットの人とは全く会うつもりもなく、実在性も曖昧にする方針でインターネットをやっていたのですが、イベントに出るようになってから、もうそうは行かなくなったので、タガが外れて、インターネットの知り合いとたまに会うようになりました。とはいえ、僕はもともと一番仲の良い友達とも、年に2回会えば多い方なので、平均的な人からすると、まだあんまり人と会ってはないんじゃないかなとも思います。

 

 コミティアに出ていたおかげで、色々な漫画雑誌の編集さんから声をかけてもらいました。その中で、なんと賞も頂けて、商業誌に自分の漫画を載せたいなという気持ちが自分に発生したので、びっくりした一年でもありました。

 にもかかわらず、仕事の方で脳がいっぱいになってしまい、全然上手いこと具体的な作業を進められず、もどかしい状況が続いています。どうにか、仕事のチームの運営体制も落ち着いてきたので、年末休みに入ってからは、まずはまた手を動かすことから始めています。

 

 でも、とにかく疲れている上に仕事のことばかり考えてしまい、ここ数日は、夢の中でも仕事をしているわ、頭が暇になると休み明けの仕事のことを考えてしまうわで、完全に疲れが抜けきらないしでダメです。

 もっと手を抜けばいいとか、自分ひとりで背負いこみ過ぎなくていいとか、色んなアドバイスも貰えるんですけど、それに従ってしまった先にあるのは、自分が嫌だなと思ってきたマネジメントをろくにしないマネージャーと同じ姿なんじゃないかなと思っていて、結局のところ、彼らも自分自身にとって最適な行動をするとああなってしまうのではないかなと思ってしまいました。

 やはり、人間の自由意志なんて信じるべきではないなと思いました。

 

 僕のような人間が、人のとりまとめをして、リーダー兼マネージャーとして活動するということは、HUNTER×HUNTERで言うと、カストロが自分の特性に合わないダブルの能力を使って、ヒソカに勝つというようなことを目指していることと思うので、それが出来たらめちゃくちゃ感動的じゃないですか?

 

 人生の話ですが、何事も最初の一回がとにかく大変で、それをやってみると、二回目以降は一回やったことのあることだから、割と楽にできるようなことがあったりします。

 早い段階で、自分の能力や特性を見限ってしまい、向いていると思うことだけしかやらないのは、そういう可能性に気づかない不幸もあるんじゃないかと思っています。だから、気の進まないこともやらざるを得ない、仕事というものに取り組んでいるおかげで、自分の中の選択肢が増え、生存可能性は上がっているような気もしています。

 だから、結構追い詰められたりもしまくってますけど、こうやって自分の特性をごりごり書き換えようとしたりしているのは良いことなんだとぼんやりと思うんですよ。環境に合わせて自分を変えるということを全くせずとも生きられることは、その時点では幸運ですが、いずれ環境が激変したときに、耐えきれない変化にさらされる可能性も高いと思うからです。

 

 子供の頃は、大人って完成していて、もう強い変化が来ない存在なんじゃないかなと思っていて、だからこそ揺るぎなく、だからこそ頼りがいがあるようにも思っていましたが、でも自分はぜんぜんそうならないなと思います。

 いつまで経っても毎年のように変化を求められ、どんどん新しいことにチャレンジをしなければならない状態が少なくとも、このままではあと五年ぐらいは激動のように続く予感がしていて、なかなか厳しいです(中年の疲れやすい体)。ただ退屈はしないので、気がつくとすぐに四、五年経っているのかもしれません。

 

 とりあえず、来年は仕事に疲れすぎないようにして、漫画を描いたりを安定的にできるようにしたいなと思っています。あとは、人と会ったりするのをもう少し増やしていくぞ!という気持ちもあります。

 ゆくぞ、来年。

他人を自分の思った通りに動かす方法関連

 ウチの爺ちゃんは陸軍にいたので、陸軍の話を聞かせてもらったことがあるけれど、終戦が近くなって若年で徴兵された爺ちゃんには直接的な戦闘経験はあまりなく(いや、もしかすると僕にはあまり話したくなかっただけかもしれないけど)、軍隊の話と言えば、主に陸軍のシゴキの話だった。

 

 爺ちゃんが所属していた隊でよく行われていたのは、机をひっくり返してその四つの足に両手と両足を乗せ、バランスをとった上で、背中を棒で叩かれるというもので、落ちてしまうとまたやり直しになるので、必死で耐えたという話を聞いた。なぜ叩かれたのかは、聞いたはずだけどよく覚えていない。でも、若年の兵隊の多くはそのシゴキにあっていて、戦闘もないのに、その怪我からどんどん動けなくなっていったと言っていた。

 軍隊のすごく偉い人が視察に来た時に、怪我人ばかりの状態を見て、シゴキを行っていたことに対する叱責があったそうだ。しかし、それは逆効果だった。なぜなら、その叱責があったという事実が当時の爺ちゃんの上官を激昂させ、お前たちがだらしないせいで怒られたとさらにシゴかれたのだから。

 

 爺ちゃんはその後のシベリア抑留を経て帰国してからは主に農家の仕事をしていたので、組織の中で働いた経験があまりない。唯一の例外は、50歳ぐらいになって婆ちゃんの病気をきっかけに農業を縮小して、生まれて初めて履歴書を書き、警備員の仕事をしていた時期ぐらいだ。

 だから、爺ちゃんにとって組織というもののイメージは陸軍での生活が主だった。なので、僕が就職するときに言ったのは「日本は縦社会だから、上の言うことを聞かなければならないんだぞ…」という話で、爺ちゃんが陸軍で最後に受けた命令は「死んでこい」とう玉砕命令だったよ…という話をし始め、今の世の中はそこまでじゃないと思うよ…と思った。

 玉砕命令後にあった玉音放送のタイミングがもう少し遅かったら、爺ちゃんは死んでたと思うので、昭和天皇、ナイスタイミングだったなと思っています。天さんありがとう。

 

 さて、人がひとりで生きることは非効率的なので、色んな人たちが協力して生きることが多い。協力をする中でも、上手く統率がとれていた方がより効率的で、だから人を組織にとって効率的に動かすための方法が色々考えられているように思う。

 代表的なものは信賞必罰だろう。望ましい行動に利益を与え、望ましくない行動に不利益を与えることで、人が組織にとって望ましい行動をとるように誘導しやすくなる。しかしながら、このやり方にも問題があって、それは、望ましい行動に必ずしも利益を与えることができない場合があるということだ。

 

 例えば会社組織では、望ましい働きをした社員に賞与を与えるとか職位を上げて給料を上げるなどのお金による利益を与えることができるけれど、会社自体の業績が思わしくないときには、いかに良い働きをした社員がいたとしてもお金をあげるための原資が足りなくなることがある。昔の戦争でも、戦争には勝ったものの、勝った相手から大した利益を得ることができなかったために兵士に分配をすることができず、不満が高まったというようなケースを読んだことがある。

 

 そして、そんな風に組織が「信賞」ができるほどの豊かさを持ちえない場合、利益を与えずともできる人を動かす方法、「必罰」に偏ってしまうことがあるんじゃないだろうか。

 

 望ましい行動をとる組織の構成員に利益を与える代わりに、望ましい行動をとらない組織の構成員に不利益を与えることで、同じことを達成しようとする試みについては、皆さんも色んなところで目にする機会があるのではないだろうか?最初に書いた爺ちゃんの陸軍の経験は、まさにそれに該当する。

 「良い行動を褒め悪い行動を叱る」ということは、「良い行動をしないことを叱り悪い行動をしないことを褒める」ことでも達成されそうに思う。しかしながら、褒めるということは行動を促すということ、叱るということは行動を止めさせるという効果があるように思っていて、だとすれば、結果はおそらく同じにはならないのではないだろうか?

 なぜなら、良い行動をしないことを叱ることは、良い行動をしてないように周囲に見える行動を「止める」ことはできても、積極的に良い行動を能動的にすることには繋がらないように思うからだ。悪い行動をしないことを褒めることも同様で、褒めることが行動を促す効果があるのだとすれば、悪い行動を自分がいかにしていないかというアピールをする行動を促して、それを止めさせることとは直接は繋がらないのではないかという危惧がある。

 

 これが本当に一般的に言えることなのかどうかは分からない。でも、僕はこのように考えていて「行動を促すために叱る」みたいなことは、意味がないと思っている。だから、しないようにしている。行動を促したいなら、その人に利益が行くような体制にするべきだと思っているし、それが不十分にしかできない辛い状況でも、少なくとも感謝の気持ちは伝えるようにしなければ、色々とちぐはぐになってしまうんじゃないかと思うからだ。

 

 罰を受けたくないために、皆が「正しいとされている道」を踏み外さないかに怯えながら成り立っている組織は、行動を促す要素がないために、何かが変わることもどんどん停滞して、悪い空気が出ていくこともなく、どんどん息苦しくなっていくように思う。そういうところにいないといけないのが、僕はめちゃくちゃ嫌なわけなんですよ。

 

 停滞してしまう組織には罰による人のコントロールが発生していることが多いように思えて、停滞していることを解消するためにさらに大きな罰を与えようとしてしまうことでいつか破綻してしまうような雰囲気を感じたりする。ただ、その背後にあるものは、分配できるほどの賞の原資が存在しないという貧しさであったりするんじゃないかと思っている。だから、豊かにならなければ根本的には解消しないのではないかという気持ちがある。

 これは誰か悪い奴を倒せば解決するというものじゃなくて、組織自体が利益を生み出すための構造の問題や、その中の様々な流れの澱みを解消するためにひたすら調整し続けるようなことだと思うので、ああ、もう、大変だなと思う。でも、やらないと居心地が悪い状態が続くのでやらないといけないけど、これも罰に駆動されているので、やりたい気持ちは自前で調達しないといけないし、誰か褒めてほしい。

 

 さて、人の行動を組織が束縛する代表的な方法としてまずは「賞罰」を挙げてみたけれど、もっと不可解なものが世の中にはある。それは「身分」だ。

 

 色んな組織に属して生きてきた中で、人が別の人に自分の言うことを聞かせる理由が「身分」にしかないことがある。分かりやすい例で言えば、「年上」も身分のひとつだ。年上を敬うべきという観念は、別に悪いとは思わないし、自分が今生きている社会は、先達のおかげでなりたっているというぼんやりとした感謝はあるけれど、ある人が自分より年上というだけで、その人から何の利益も得られないのに敬うべきか?というところには説明をつけづらいものがある。

 「年上年下関わらず、全ての他人を敬うべきだろう」というのなら全然分かるけれど、年上だからというのはよく分からない。歳をとって体を動かすのがしんどくなってくるのだから手助けをするといいだろうとか、年齢的に最新のものに疎くて困っているから助けてあげるといいだろうとか、そういう自分が今得意なことでそれが不得手な人と助け合うことはいいと思うし、全然やることに抵抗はないけれど、その理由がが「年上だから」となってしまったときに、「なぜ??」とすごく思ってしまうところがある。だって年齢なんてどうでもいいじゃん(個人の価値観です)。

 

 この身分の概念は例えば「お客さんだから」とか「上司だから」とか「あなたのファンだから」とかに置き換えてもいいと思う。

 

 お店とお客さんの場合、商品を介した等価交換の取引だし、どちらが立場が上ということも本来はないと思うんだけど、「店員たるものお客さんが失礼だと感じる態度をとってはならない」とか、「真摯に話を聞かなければならない」とか、自分がお客さんであることを根拠に店員の行動について縛りをかけてくることがある。

 需要と供給の話があるので、もしかすると店側の立場が弱く、お客さんがどれだけ気持ちよく物を買えるかということを追究しなければならないこともあるだろうけれど、それはあくまでも店側がその意志をもってやるかやらないかを決めることで、お客さん側がこうあるべきと強制する話をしてしまうのは説明がつかないのではないかと思う。

 その商品に対して支払う価格に、そういったサービスの料金がちゃんと入っていれば納得できる線もあるけれど、実際はそのための十分なお金は貰っていないことの方が多いと思うので。だから、そこには「店員」と「お客さん」という身分しか存在しなくて、その身分が存在するということを根拠に要求をしているのではないか?と思ってしまう。

 

 「上司だから」でもそうで、あくまで会社とは契約のもとに有限の責任のもとに、労働と報酬を交換していると思うのだけれど、例えば会社の幹部にはめちゃくちゃ恐縮しなければいけないみたいな雰囲気があったりする。出世とか、環境とかを気にして、上に気に入られるためにそういう行動を自発的にとること自体は利益があることだから、全然いいと思うけれど、僕は仕事は都合がいいぶんには続けるし、嫌になったらやめようとしか思っていないので、人間的な部分で言うと、その辺の道で知らないおっさんと接するぐらいの敬意の払い方しかしていない。

 だから、部下に対して払う敬意も、社長に対して払う敬意も同じだけの他人に対する敬意だと思う。新入社員に対しても敬語で話すし。同じ。

 上司という身分に対して支払われている敬意が強い場合、その上司という立場を失ったときには、それまで感じられていた敬意が消えてしまうみたいなことがあるんじゃないかと思う。それだって別に良いとか悪いとかはないけれど、そこに自覚的でなければ、身分があるときには払って貰えていた敬意がいきなり減ってしまうので、びっくりしてしまうこともあるのかもしれない。

 

 「あなたのファンだから」というのは、めちゃくちゃ不思議だなと前から思っていて、人気商売の人たちは、行動にめちゃくちゃ縛りを入れられてしまう。もちろん、ファンの人たちはお金を払ってくれてはいると思うけれど、例えば、漫画家だとして、漫画一冊買ってもらっても百円にも満たない印税しかその人からは貰っていないので、いかに何十冊買って貰えていたとしても、せいぜい数千円程度で、数千円で言うことを聞かせられるとか考えると、めちゃくちゃ割に合わないなと思う。

 いや、何万円貰っても、嫌なときは嫌だろう。私はあなたのファンなのだから、あなたはファンのために、ファンをがっかりさせるような行動をとってはならないというようなことを言われている人をネットで目にすることが結構あって、人気商売は、こういう自由を売ることで成り立っているんじゃないかなと思ってしまう。

 となると、ファンと1対1で接するとしたら途端にその人から貰っているお金と、課せられる縛りのバランスが破綻してしまうよなと思う。そういう意味では、それもまた貧しさなのかもしれない。めちゃくちゃ沢山の人のために縛りを入れるのなら我慢はできるけれど、その規模が縮小すればするほどに、辛い縛りだけが発生してしまい、そこに納得できるだけの利益が発生しないからだ。

 

 例示しようと思えば、まだまだ色々あるけれど、とにかく社会には人間が他の人間に、自分の言うことを聞かせるための方法というのが色々あって、でも、自分が他人に言うことを聞かせられる立場で考えると、なんで、そんなことで言うことを聞かなければならないの??とびっくりしてしまうことがある。

 お爺ちゃんは戦力的に勝てるわけでもないことがもう分かっていた戦争の中で、最終的に爆薬の袋と銃剣だけを持たされて、ひとつでも戦車を潰して来いと言われていて、玉音放送がちょっと遅かったらやるつもりだったとか、やるしかなかったとか言っていたので、マジやべえなと思うし、でも嫌だなと思って逃げられる状況でもなかったことだけは伝わった。

 

 人の心は自由であって欲しいと思うけれど、何らかの意味で何かに服従しなければ、何かの組織に属するのは難しいのだろうなと思うところがある。そして、ひとりで生きられるほどの強さも持ち合わせてはいないんだ。

 社会で生きる以上、他人の言うことを聞くのはある程度仕方ない。でも、本当にそれに従うほどの理由ってある??と思ってみた方がいいんじゃないかと思うし、そうは思っても、そうは思ってもさ…従わざるを得ないこともあるよね…と寂しそうな顔で僕はつぶやいたのであった。

「ダイの大冒険」のヒュンケルにおける光と闇の葛藤が生み出す人間性関連

 「ダイの大冒険」の再アニメ化が発表されましたね!!僕は生まれて初めて買った漫画がダイの大冒険の4巻なので、めちゃくちゃ思い入れがあります。自分が好きな物が世間でも好かれているとめちゃくちゃ気分がいい体質なので、これを機に今の若い人にもダイの大冒険が好きな人が増えたらいいなあと思っていて、少なくともその邪魔をするような老害の動きだけは決してすまいという決意があります。

 

 さて、今回は僕が色々参考にしているヒュンケルの話を書こうと思います。記憶だけで書いたので、細かいところ間違ってるかも(免罪符)。

 

 ヒュンケルは悲しい生い立ちの男です。赤ん坊の頃から心優しい魔物に育てられた少年のヒュンケルは、そののちに勇者アバンに弟子入りをします。しかし、それは育ての父の敵討ちのためでした。勇者が魔王を倒しに来なければ、彼の育ての親である魔物は死ななかったと思ったからです。才気あふれるヒュンケルはアバンの下でめきめきと力をつけ、ある日ついにアバンに襲い掛かります。とはいえ、魔王を倒した勇者アバンにまだ少年のヒュンケルが敵うはずがなく、負けて川に流されていたところを魔王軍のミストバーンに助けられました。その後、ヒュンケルはミストバーンの下で暗黒闘気を学んで力をつけ、人間の身でありながら魔王軍の6人の軍団長のひとりにまで登りつめます。

 そして、ヒュンケルは、主人公であるダイやポップ、マァムと同じアバンの使徒でありながら、彼らの前に立ちふさがるのです。

 

 さて、その後ダイたちに敗北したヒュンケルは、様々な葛藤を乗り越えて再びアバンの使徒として人間側の味方になります。ピンチのときに現れる頼もしい味方としての活躍をしはじめ、かつて得意とした暗黒闘気を捨て、光の闘気によるグランドクルスという大技も身につけて戦うのです。

 ヒュンケルは強く、カッコよく、頼もしく、そして活躍します。

 

 しかしながら、かつての師、ミストバーンはそんなヒュンケルを「弱くなった」と表現しました。

 

 それはヒュンケルの力の根源は、その内在する葛藤にあったと看破するからです。アバンを仇敵として恨んでいた(それは結局勘違いでしたが)とはいえ、アバンから与えられる愛情にも気づいていたヒュンケルは、アバンに対する恨みと思慕の両方の感情を同時に兼ね備えていました。そして、光と闇の2人の師匠を持つヒュンケルは、光の闘気と暗黒闘気の両方を使いこなすことができます。相反する2つの力をその身に備えたヒュンケルは、反発し合うその相克から爆発的な力を発揮していたのだと、ミストバーンは語るのです。

 しかしながら、光の闘気ばかりに頼るようになったヒュンケルからはその葛藤が消えてしまいました。だから弱くなったのだとミストバーンは語ります。だから、ヒュンケルは再び暗黒闘気を受け入れ、その身を悪に染めることでまた大きな力を得る賭けに出ることとなるのです。

 これは作中では主に戦闘力の話として語られましたが、同時にキャラクター性の話でもあります。つまり、キャラクター性が強い存在とは、その身の内に葛藤を抱えているということです。

 

 ヒュンケルの抱えていたキャラクター性とは、決して許してはならない仇であるアバンに惹かれてしまうが、それを認めることができないという相反する感情の揺れ動きにあったのではないでしょうか?もし、分かりやすい正解があったならば、そこにドラマは生まれません。

 「人を信じることが常に正しい世界」であれば、容易に人を信じる選択をとることができます。しかし、信じることで大きな損失を伴う可能性があるとき、「信じていいのか?信じてはいけないのか?」の葛藤が生まれます。人を信じることが正しいことを描こうとするとき、それが「人を信じたら得をした」という物語となることは良いことでしょうか?それは、「人を信じることが正しい」と言いたいだけのために、都合よく逆算して作られた茶番のようには思えないでしょうか?

 人を信じることで大きな損をするかもしれない、それでも、人を信じるのだということを描くということ。そしてときに人を信じてしまったことで大きな損失を被ってしまうこと。現実がそうである以上、信じることが正解に決まっている世界で人を信じることではなく、現実と同じように人を信じることが必ずしも正しくないという葛藤がある前提に立たなければ、読者には響かないのではないでしょうか?

 

 「幽遊白書」でも、強くなるためには私を殺せと言った幻海に対して、幽助は、すごく考えたが答えが出せなかったと言います。幻海はそんな幽助に合格を出します。強くなるために師匠を殺すという結論に飛びつける人間には力は渡せないし、かといってすぐに殺さないという結論に達することができる毒気のないやつも嫌いだからという理由です。これもまさにヒュンケルが直面した問題と同じではないかと思います。

 

 このような、敵側にいたときには魅力的だった存在が、いざ仲間になると魅力が減ってしまうという問題は、漫画にはたまにあるものです。それはどんどん強くなる敵に対して、仲間になったキャラクターの強さが追いつかなくなるという問題もあるかもしれません。しかし、上記のように、仲間になった瞬間から、キャラクターとしての葛藤を失いがちであることも関係があるのではないでしょうか?

 葛藤がなく最初から答えが決まっていれば、もはや人間性は存在しなくてもいいわけです。だって答えなんて決まっているのだから、その後に起こることは予定調和でしかありません。

 敵同士がたまたまの一時的な利害一致で共闘するのは興奮しても、最初から仲間ならばそれは普通のことです。読者としての僕は心を揺らされたいので、前者を好むわけです。

 

 ドラゴンボールでも、いつの間にか完全に仲間になってしまったベジータが、バビディの力を受け入れてその精神を悪に変容させる展開がありました。ベジータはだんだんと穏やかになっていく自分を好ましくさえ思っていたと独白します。そして、そんな自分がとてつもなく嫌になり、あえて悪になる道を選んだのです。どうですか?ここにも葛藤がありますよね?そして、その選択によって魔人ブウの復活を手助けしてしまったベジータは、その責任をとるという決断もするのです。彼は間違った選択をしました。しかしそれでも、そうせざるを得なかったのです。このエピソードはベジータという男が何であるかを理解するためにとても重要なものでした。

 ベジータは、最終回近辺で悟空をナンバーワンだと認めてしいます。そこから葛藤が消えてしまいます。それは最終回が近いからこそ許されることであって、続編の「ドラゴンボール超」のシリーズでは再び悟空よりも強くなろうとするようになりますよね?これは当然のことなんじゃないかと思っていて、悟空のことをナンバーワンと思うようになってしまったベジータからは葛藤という魅力がなくなってしまうからだと思います。

 

 ヒュンケルは、再び暗黒闘気を受け入れるものの、それを強靭な光の闘気で抑え込むということで強い力を獲得します。そしてその後のキャラクターとしての表現方法はその逆です。アバンの生存を喜ぶ仲間たちとは別に、アバンのことを口では戦力外だと悪く言いながら、誰にも見せない涙を流すのです。その喜びを悪く振る舞うことで覆い隠そうとします。その葛藤のある姿はとても魅力的ではないですか。彼はそのままたったひとりでしんがりを務め、命を賭しての戦いに挑みます。

 一方で、ヒュンケルがもうひとりの師であるミストバーンに見せたのは、ある種の慈愛のような心でした。彼を悪の道に引きずり込み、最後は道具として使おうとしたミストバーンに、それでも弟子としての理解を見せ、最期の引導を渡すことになるのです。

 終盤のヒュンケルの姿は、一度はただの心強い仲間という面白みの少なくなりかけていたキャラクター性から、再び自身の抱える葛藤を取り戻し、魅力的なキャラクターとして全てに始末をつける存在に回帰したのではないかと思います。このあとは最終回なので、ここで葛藤を全て失ってもよし、というか、葛藤を抱えた人間が、それを解消する姿を見て、読者は感情を動かされたりするものですからね…。

 

 僕は自分が漫画を描くときには、このことを結構意識していて、魅力的に見せたいキャラクターの内面には相反する感情を同時に存在させることでなんか上手くいかないかなあという試みをやっています。とりわけアマチュアの描いてる漫画なんて、基本的に皆読みたくはないものだと思いますから、分かり切った価値観の中で分かり切った正解に向かっても、その他の表現力が拙いのだから読んだ人の心に響かせることができないんじゃないかなと思うんですよね。なので、こういう技を使っていますし、僕が描いた漫画を読んだことのある人は、「おっ、使っとるな」と思うんじゃないでしょうか?

 

 というか、そもそも人間がそうですからね。そうそう簡単に人間の生き方の正解なんていうものは分かりませんし、自己矛盾したようなことを言ってしまったり、それに気づいて恥ずかしくなったり、求められている正解は分かっても、そうはしたくない別の感情があることに気づいたり、なんかそういうものじゃないですか。

 人間は相反する感情を持ったりしますし、差別はいけないと心の底から思いながらも、見下している人間がいることにも気づいてしまったりもするわけじゃないですか。

 

 僕はそういうのを人間っぽいなと思っているという話です。ダイの大冒険には、ヒュンケルだけでなく様々な矛盾を抱えた人々が出てきます。これまで説明した見方をちょっと当てはめただけで、何人ものキャラクターが思い浮かぶのではないでしょうか?そんな様々な人間が登場するダイの大冒険の再アニメ化、めちゃくちゃ楽しみですね。

 来年まで生きよう。

自分が物心ついた頃には既に終わっていたものを好きになれる時代関連

 十何年か前、X JAPANの再結成したときに、十歳年下の妹の友達がライブに行くと張り切っている話を聞いて、X JAPANが解散時には君らまだ幼稚園児ぐらいだったでしょ?と聞いたら、そうだけどCDはあるから聞けるし、親がファンだからビデオもあって見れるし、聞いて好きになったけど、既に解散して諦めていたんだけど、でも再結成したからライブに行けるんだよ!!とめちゃくちゃ興奮していて、他人事ながら、それはよかったなあと思いました。

 

 「桃色メロイック」という漫画に出てきた男の子は、エルレガーデンのファンなんですけど、姉の影響で聞き始めて、でも聞き始めたときには既に解散していて、エルレガーデンを知っている人を見つけては大興奮して、自分がいかに好きかを話し始めてしまうんですけど、この前、エルレガーデンの再結成の話もあり、「桃色メロイック」の連載もとっくに終わっていましたが、勝手によかったなあ、きっと彼はライブに行くことができたのだろうと思いました。

 

 人間の歴史は長いです。自分が生きている期間はその中のちょっとで、その中で自分がどの年齢の問題もあるし、自分が好きなものと同じ時代に良い感じに生きられることって結構なまれな話だと思うんですよね。この前、僕が将太の寿司Tシャツを買いに走った話でも、今更再供給があるだなんてと思った興奮がありましたし、いやでも、最近は子供の頃に好きだったものが、大人の財力を目当てにか色々復刻することも多くて、ついに色々追いついてきたなと思ったりします。

 

 そして、その復刻を契機に、今の子供がそれを好きになってくれたりしないかなあとちょっと思っちゃったりもするんですよね。

 

 それはめちゃくちゃ個人的な話で、自分が好きなものの話はめちゃくちゃしたいけれど、それを好きじゃない人相手にしてしまうと迷惑なんじゃないかなと思ってしまいますし、相手も好きであってくれるといいじゃないですか。だから、自分が好きなものは、世代を超えて多くの人に愛されていて欲しいというめちゃくちゃ個人的な欲があるわけなんですよ。

 

 僕の場合の自分より上の世代の漫画で好きなやつで言うと「カムイ伝」なんかがそれに当たるんですけど、もうとっくに終わっている連載の最終巻(第一部の)を読んだとき、めちゃくちゃ衝撃を受けてしまいました。当時は、雑誌の読者投稿なんかで色んな話がされていたというぼんやりという話はネットでも見つかるんですけど、なにせ昔のことなので、インターネットに直接情報が残っているはずもなく、実写映画の「カムイ外伝」の松山ケンイチの顔写真ばかりが検索結果として出てきます。

 ああ、いいな、リアルタイムで読んでいた人たちは、同じ時間を共有して読んだ漫画についてあれこれ言うことができる時間があったんだな。今の時間軸の僕にはそれがないんだな。ひとりで、ひとりで色々思うしかないんだなと思ったんですよね。

 

 好きなものと自分の人生の時間軸がずれてしまったという悲しみがあります。それとは別に、他の大好きな漫画とともに育ってこれた嬉しさみたいなのもあります。あらゆる方面で完璧な環境を得るには不老不死にでもなるしかないので、その辺は全てを得ることはできないんだなと思ったりします。

 とにかく今、今現在進行形な好きなものと同じ時間軸にいられるということを嬉しく思っていくしかありません。

 

 そういえば、この前知り合った人が、年下っぽかったんですけど、好きなものとして挙げる漫画やアニメが僕が子供の頃から大好きなものが多くて、めちゃくちゃ嬉しくて書いていることを読んでたりしたんですけど、年齢を教えて貰ったら、思っていた以上に年下で驚いてしまいました。

 僕も年上の人に、その年でその昔の漫画読んでるの?世代じゃないでしょ?って驚かれることも多かったので、文庫化ブームとかあったし古本屋とかでも読めるので、世代関係ないですよって答えてたものの、自分が逆の立場になったらやっぱり驚いてしまうことがあって、でも、なんか、昔の良いものに若い人が触れて、素直に好きになっている様子はめちゃくちゃいいなと思ってしまいます。

 別の若者と話してたときにも、好きな漫画家が華倫変と聞いて、なんで?世代じゃないでしょ!?って言ってしまったことが最近あったんですけど、だって本屋ではもう売ってないし…電子化もされてないし…と思っていましたが、でも、最近の若い漫画を描いている人にはファンが多いんですよと聞いて、そうなのかあと思いました。

 

 そして!そのタイミングではまだ電子化されていなかった華倫変の漫画が、ちょっと前から電子化されています!!読んでいる人は買いなおし、読んでない人は買って読むことができます。

 

 電子書籍とかネットの配信とかが、今までなら触れることがなかなかできなくなっていた昔の漫画やアニメなんかとの距離を、時代を超えて一歩先に縮めてくれるの、すごい便利時代到来だなあと思っています。バンドの再結成が、解散後のファンを取り込んでいくように、漫画やアニメも、ずっと昔に完結したものが、今のファンを取り込んで動きになってくれるといいなと思います。

 何がいいかというと、僕が好きなものが好きな人が増えてくれると、色々新しい何かが出ることに繋がったりするので。

 

 いやほんと、今は良い時代ですよ。僕の人生がこの時代に重なってくれるタイミングでよかったです。まあ、別の時代に生まれていたら、それはそれで良かったとか言っているかもしれません。

 今に満足することが得意なので。

漫画版「光圀伝」を読んで思った歴史物語の点と線関連

 冲方丁の「光圀伝」を原作に、三宅乱丈が描いていた漫画版「光圀伝」ですが、4巻が出て以降、数年単行本が出ていませんでした。にもかかわらず、先日単行本予定表を見たら、愛蔵版の上下巻が発売予定になっていて、あれ?いつのまに最終巻まで出ていたの??と不思議に思いましたが、どうも紙の単行本は4巻で終わり、5巻から7巻は電子版のみとなり、その代わりに全部が収録された一冊3000円の愛蔵版が上下巻の2冊に収まったものとして同時に出たようです。

 

 なんでこんなことに?と思いましたが、連載作品の途中まで出た単行本の続きが紙で出なくなり、電子版のみになるケースは最近体験することがちらほらあり(「もっこり半兵衛」とか「ブルーストライカー」とか)、採算とれるぐらいに売れるなら紙でも出すと思うので、売れる見込みが立たなかったのかな?と想像しました。4巻からの時間が空いて、既刊も書店では手に入りにくくなっていると思いますし、1~4巻を買った人以外は5~7巻は買わないでしょうから、難しい話だなとも思います。

 

 たとえ赤字だったとしても紙の本を出してくれ!と頼むには、自分が儲からない仕事を頼まれたときのしんどい気持ちがよみがえってしまって気後れする部分があり、とりあえず買いなおしになったとしても愛蔵版としては出してくれたのはありがたかったなと思いました。この本も多分あまり多くは刷られてない予感なので、紙で欲しい人はさっさと買った方がいいと思います。

 

 さて、僕は原作小説を読んでいないので漫画版の話をします。原作にあって漫画版にはないもの、そして漫画版にはあって原作にはないものがあると思いますので、これはあくまで漫画版を読んでの話だと思って読んでください。そして、これがめちゃくちゃ良かったです。

 

 「光圀伝」は、タイトルの通り、水戸黄門として有名な徳川光圀の生涯を描いた物語です。そして、僕が読み終わったときに思ったのは、これは人間の生涯に「義」という背骨を通すことで一本に繋げた話なのだなということです。

 

 僕が思うに、実際の人の人生は物語ではありません。もっと猥雑で混沌とした、離散的な事実の連なりです。しかしながら、それを一本に繋げて線形に理解することもできます。離散的な事実と事実の間を結んで線として理解するとき、そこには何らかの式が必要です。

 つまり、離散的な点の全てを理解するためには点の数だけの記憶領域を必要としますが、それを式で記述することができれば、もっと少ない記憶領域で済むはずということです。ただし、それはあくまで近似式でしかなく、本来は存在しなかった点と点の隙間を埋めてしまったり、その線から外れたものを無視することも生み出してしまうでしょう。

 人の人生をある種の価値観を式として利用して理解しようとすることは、そこに存在しなかったいくらかのものを生み出し、そこに存在していたいくらかのものを無視するということです。しかしながら、それによって、本当は理解できないほどの巨大な情報を持つ人間の人生を理解できるものに落とし込むことができます。

 

 光圀伝は「義」という概念を線として、徳川光圀の人生を理解することができる物語だと思いました。

 

 この物語の中でとにかく心に響いたのは、読耕斎(林羅山の子)と光圀の会話でした。同じ母から生まれた兄を差し置いて、水戸徳川の後継ぎに選ばれてしまった光圀は、それが「義」に反する「不義」であると悩み苦しみます。しかしながら、自分よりもはるかに知識があり弁が立つ読耕斎との討論の中で、彼は自身の人生を「義」に戻すことができる光を見るのです。

 それは、史記に記されている伯夷と叔斉の行動に自身の境遇を重ね、史上の人間の行動を解釈することで、自分にとっての最も良い選択に至れる可能性を見ることができたということでした。

 

 これも「線」の話でしょう。歴史書に記されている離散的な「点」と「点」をどのように選び、どのような「線」として理解し結ぶかによって、その記載の持つ意味は変わり得ます。もしかすると、そこに絶対的な正しい解釈は存在しないのかもしれません。ただ、光圀は、伯夷と叔斉について読耕斎の知恵を借りた「不義」を「義」に変える解釈を得ることで、自分自身の人生に光を見いだすことができたのです。

 

 徳川光圀は、後に大日本史を編纂した人物でもあります。大日本史は、紀伝体で書かれた歴史書です。紀伝体とは、事実の年代的な羅列(編年体)ではなく、人や国を切り口に、情報をひとまとまりにして記載する様式です。

 この物語の中で過去の人の生き方の解釈から自身の生き方を見いだした男が、同じように過去の人の生き方を記載した歴史書を作ることが描かれ、読者である僕もまた、その生き方の中から自分の人生にとって必要なものを見いだします。

 

 これは「義」の物語です。そして、その裏側には「史」がある物語でもあるのだと思います。徳川光圀という実在した点を、「光圀伝」という線をもってして、読者に届ける存在だと思うわけです。そこには本当の歴史には存在しなかった点が含まれるかもしれません。線に必要がなかった点は出てこなかったかもしれません。この物語は、実在した徳川光圀の人生とは全く異なるものかもしれません。

 でも、それを読む僕自身にとっては、この物語における光圀にとっての伯夷と叔斉のように機能し得るわけです。

 

 この物語は、「不義」の男が「義」の人生を追い求める物語です。ただし、その「義」はあくまで光圀にとっての「義」であって、別の視点から見れば異なるのかもしれません。つまり、「義」もまた「線」なのではないかと思います。「不義」として解釈される「線」を、「義」として引き直したところで、それはやはり無数の可能性の中のただ一本の線でしかなく、別の視点から見れば、別の線をいくらでも引くことができるものかもしれません。

 

 この物語の中では別の「義」も描かれます。ネタバレ配慮で、それがどこの何かは書きませんが、そこもまたすごく良く思ったところでした。

 

 人がなぜ歴史物語を読むのかというと、それがいかに過去の史実に基づいたものを描いたものであったとしても、今の自分にとって意味があるからなのではないでしょうか?都合よく解釈して読んでいるだけなのかもしれません。ただ、歴史は、これまで生きてきた人間の営みの連なりです。

 そこには今の人間が悩むような全てが既に存在し、記録されているのかもしれません。いや、それはただ今の人間が、過去の点の間に勝手に線を引いて見いだしているだけなのかもしれませんが。この文章のように。

人に同人誌を渡しに行くときのお気持ちレポ

 この前のコミティアには1年ぶりにサークル参加をしなかったので、ゆっくり会場を回ることができました。色々本を買えたし、人とも話せたので楽しかったです。サークル参加しているときは基本的に1人での参加なので、あんまり自席を空けるわけにはいかず慌ただしくしか回れないのです。

 

 当日家を出る前に、今回サークル参加する知人が僕の同人誌欲しかった(前回僕がサークル参加したときには来れなかった)って言ってくれてたなと思って、会場で渡そうと思って在庫を出してたんですけど、せっかくだからもう何冊か持って行って現地で会った誰かにあげれたらあげようと思いました(闇コミティア開催)。

 それで、実際現地で好きなサークルの本を買いに行ったときに、「これ僕が作った本なんですけど、もしよかったら…」と渡すやつをやったんですけど、でもやっぱり渡せる人と渡せない人がいるなと思いました。

 

 そのときのお気持ちをちょっと書こうと思います。

 

 同人誌って、なんか生っぽいじゃないですか。自分で作って自分だけがオッケーを出しているものなので、自分からしか出てない出汁だと思います。一方で、人と人との関係って基本的にはそんなに生と生ではなくて、やっぱり相手との関係性をベースに反応とかを見て良い感じに調整するものだと思うんですけど、それが考慮されてない剥き身の自分を自分から出た出汁だけで煮込んだようなものである同人誌を、人に渡すって結構すごいパンチを相手に打ってると思うし、渡す僕の側からすれば最悪読まずに捨ててくれても大丈夫って感じなんですけど、貰う方はそういう怨念のこもったようなものを貰ったあとで気軽に捨てるのもはばかられるかもだし、受け取らないのもはばかられると思うので、そういうことを想像して気後れすると、この人になら渡せる!と思える人は限られるなと思いました。

 

 渡せた人たちは、インターネットで多少やりとりをしたことがある、知らないわけじゃない感じの人たちです。それでも迷惑ではないだろうか…?という気持ちはあったし、完全に初対面の、こちらが一方的に知っているだけの人に対して渡すハードルは今の自分には超えられないなと思いました。

 たぶん、ラブレターを渡すような気持もこんな感じじゃないですかね?それも自分自身のことしか書いてない一方的なラブレターを(そんなの絶対書かないし、渡しませんが…)。

 

 同人誌がおもしろいと思うのは「自分とはこのような人間です」ということを簡潔に示す存在でもあるなと思うことです。ある人がどのような人であるかを知るときには、直接話せばわかるでしょうか?それについては僕は結構疑っていて、なぜなら、人と人とが対峙するときには前述のように相手の反応を見ての加減があるからです。

 ネットではめちゃくちゃでも会ったら良い人だったという話もありますが、それはどちらかが本当ではなく両方本当だと思っていて、他人に接さないときに出てくる自分と、他人と接するときに出てくる自分が存在するんだと思うんですよね。結局それらを重ね合わせた総体が自分なんだと思っています。

 だから会ったら良い人であったことは、ネットでイカレたことを言っていることとは別個の事象ですし、その人が人と直接接するときには、どのような加減をしているのかというだけの話ではないかと思います。

 

 同人誌は、人と話したときには分からない、その人の奥にある、自分と自分だけの対話から出てきたものが出てきやすい存在であることも多いんじゃないかなと思います。同人誌というか、なんらかの作品は皆少なからずそうなのかもしれません。そういうことを思っているので、僕はなんか、その人が作っている何らかの作品を見ることで、その人に対する興味を持つことが多いです。

 だからといって、別にその人と仲良くなりたいかはまた別個の問題で、僕自身抱えられる密な人間関係の量が人よりも少ないので、そこは結構ややっこしい話なんですけど、ともあれ、その人が作る作品はこの先もずっとすごく手に入れたいとか、そういうことはすごく思うわけです。作品が好きなだけであれば、相手側にもあまり迷惑がかからないですしね。

 

 個人的な経験として、何かを作っている人とは比較的繋がりを持ちやすいのはそういうことが関係していると思います。何かを作ることは自己開示の側面があると思うんですよ。

 

 何考えているんだか分からない人っていうのはミステリアスで興味は惹かれますけど、怖いところもありますよね?相手に何を思われているかを気にしすぎてしまうために、自分の頭の中にしかいないその人の亡霊を作り上げてしまって、とんちんかんなことを思ったり行動をしてしまったりするからです。

 その人がどういう人で、どういうことを思って生きているかが開示されていれば、そういう意味で安心できます。人と接する上で自分のリソースを想像に使い過ぎなくて済みますから、やりとりもしやすいです。

 

 なので僕自身も、ネットに色々出すようにしてから、知らない人から声をかけられることが増えました。それはやっぱり、「なんだか分からない人」ではなく「こういう人」であるということが分かりやすいからだと思います。とはいえ、開示した自己が他人にとってめちゃくちゃ受け入れがたいものであって、余計に人を遠ざけてしまう可能性も全然あるわけですが。分かりやすくはなることには良い側面も悪い側面もあります。

 

 でもまあ、そういうことを考え始めると、同人誌を人に渡しているのって「僕はこういう人間ですよ」って頼まれてもいないのに自己紹介をし始めている人みたいで、マジかよ、そんなことをしているのかよ!?って気持ちになってしまいますね。ヤバ人間だなと思いましたが、一方でこういうことを書くと、僕が他の人に同人誌を貰ったときにも、相手をヤバ人間だと思っていると解釈されてしまうのでは??と思い、いやそんなことはないですよ、マジで。もっと適切に自分自身だけを自省することができて、他の人たちは対象外ですよ~って言うことができる方法さえあれば…と思っています。僕に都合がいいように皆思ってくれ。

 

 とにかく行動をするときには色んなことを思うわけですよ。この文も自己開示なので、良くも悪くもこういうことばかりを考えて生きているんだなと思ってくださいね。頼む。

「ディザインズ」における美しくおぞましい生命讃歌関連

 五十嵐大介の「ディザインズ」の最終巻が発売されました。

 ディザインズは「HA(ヒューマナイズドアニマル)」という人間のような見た目を持つ動物が生み出され、それが軍事利用されたりされなかったりする漫画です。この漫画の前日譚として「ウムヴェルト」という読み切りがあり、そこに共通して登場するのは蛙のHAの少女です。

 

 ウムヴェルトは「環世界」と訳される言葉で、ある生物が自身の置かれて環境を何の感覚器を使ってどのように認識しているかを意味する言葉です。

 人間なら、光を目で感じ、空気の振動を音で感じ、物質の組成を味覚や嗅覚で感じ、そして、物体との接触を触覚で感じます。生物に搭載されている感覚器の種類や性能は様々で、例えば蝙蝠は超音波で物体の存在を感じますし、蛇は熱で他の生物の存在を感じます。犬は嗅覚を使って、残留物の情報から、そこに何かがあった時間の感覚までを複数重ね合わせて感じられるそうです。それらは、人間の持っている感覚になぞらえて理解することもできるかもしれません。でも、そのなぞらえはどのような形でも完全ではないでしょう。

 環世界が異なる生物は、同じ世界に生きていながらも感じているものが異なるわけです。その差は同じ感覚器を持たない者の間では決して完全には共有できないものかもしれません。

 

 HAは人間化された動物です。決して、人間に動物の能力を付与したわけではありません。彼らは遺伝子的には動物そのものなのです。つまり、彼らは人間のような見た目を獲得していたとしても別の生物なのです。だから、彼らの感じるものは、同じ環境にいる人間とは異なるはずです。

 同じ世界に生きていても、異なる視点を持つ彼らの存在は、今の世界に対しての異なる見方を提供してくれるかもしれません。ディザインズは、そんな物語だと思います。

 

 僕は物語には大きく2種類あると思っていて、それは「収束するもの」と「発散するもの」です。収束するものは、物語の中で登場する人間的課題や事件などの全てに何らかの答えが示され、始まりと終わりを体験することができるものです。ふりまかれた伏線は最後に全て回収され、ひとつの単独で完成されたものとしての美しさを感じることができます。

 一方で、発散する物語はそうではありません。読むことで頭の中に新しい課題や理解や考えを植え付けられるものの、その物語の中でひとつの明確な答えが与えられるわけではないものだからです。発散する物語は、最後まで読み終わってようやく始まりです。物語を読む中で、新たな考えを獲得し広がった読者の脳内は、読後にただそのままに残されます。

 ディザインズはそういった発散する物語ではないかと思います。

 

 ディザインズを読んだことで少し変質した自分の考え方とともに、この先やっていく感じになるからです。

 

 この物語は、あらゆる生物にとっての生命讃歌です。世界には絶対的な正誤がなく、ただ環境への適応があるだけです。生物の在り方は、遺伝子と環境のジャムセッションのようなものかもしれません。作中でも、遺伝子は「楽譜」になぞらえられます。楽譜は音楽を記述したものですが、決して音楽そのものではありません。HAを生み出したオクダは、その楽譜をもとに自由に音楽を奏でることで、まるで人間のような姿の動物たちを生み出していきます。彼は同時に、他の生物の感覚器を移植し、自分自身をも改造していきます。そうすることによって、異なる環世界へと越境することを望んでいるのです。

 オクダは世界で最もイカレた人間かもしれませんが、同時に、世界に存在する生物の全ての在り方を同時に愛しているとも言えます。生物の持つ形質が、それがどれほどよくある形から乖離していたとしても、「そう在ること」を決して否定しないからです。

 

 オクダは「病」を愛し「病」と友達になろうとします。ある種の病は、生物の形質や感覚器の性能を変えてしまいます。それは、異常だと捉えることができるかもしれません。というか実際、その病になることによって、現在の環境では不都合があるからこそ、それを病とネガティブに呼んでいるのでしょう。しかしながら、別の環境に行けば、それらの形質はむしろ有利に働くかもしれません。最初は突然変異であったものが、変わりゆく環境への適応できる形質であったことで、その後、その種族における支配的な形質へとなっていくなんてことも、生物の進化の中ではままあることです。

 つまり、病は、今は病かもしれませんが、異なる環境に適応するための準備でもあるかもしれません。それは生物の持つ可能性でもあるはずです。病の根源となる遺伝子を根絶し、多様性の無くなった生物ならば、あるときの環境変化で一気に絶滅してしまうかもしれないからです。

 

 生物の種はそのようにできていて、一定の割合で現在の環境には適合できない個体が生まれたりもします。しかしながら、それは異常で根絶すべきものとは限らないということです。いや、確かに生きる上で不利にしかならないように思える「病」もあるような気もします。でも、それはもしかすると、今ここではない、いつかのどこかでなら上手く生きるための武器になるかもしれないのです。そこで想定する環境が無限の多様性を持っていたら、あるいは、もしかしたら、いつかの、どこかに。

 生物の中に一定割合で枠から外れた個体が存在してしまうこと、それは生物という存在が流れとして強くあるために太古の昔から続けてきた営みです。そうであるからこそ、生物は長い時間を変化に適応しながら生きることができたわけなのではないでしょうか?

 だから、あらゆる病を含めて、全てを是とすること全てを讃えること、オクダの脳内はそんな多幸感で包まれているように思えました。それはとても素晴らしく、なおかつおぞましくも思えることでした。なぜならば、それは今の環境には上手く適合できない存在が生まれてしまうことを許容する考えで、そこには少なからずの個体レベルの苦が存在し、それをも織り込んだ上で全体を讃える行為でもあるように思えたからです。

 

 ディザインズの物語を読む中で自分の中に再確認した感覚は、「今ここの環境を、世界の全てとは思わないこと」です。自分の抱えるある種の肉体的精神的な異常さも「誤り」ではなく、ただ、今ここではなく他の環境に先に適応してしまっただけなのではないかと思えたことです。準備ができたのだから、その適応できる環境に自ら移動したっていいはずです。

 この物語は生物の話ですが、人間社会の話に置き換えて理解することもできます。人間社会における苦は、「自分を取り巻く社会のルール」と「自分の中に存在するルール」が乖離するところで起きることが多いです。今ここに適応できないことは病と認識されるかもしれませんが、それはその環境では病とされても、別の環境ならそうではないかもしれません。

 

 ただし、これはポジティブな希望だけを意味するとは限りません。例えばとてつもない暴力の才能がある人は、現代社会では犯罪者になりやすいと思われるかもしれませんが、無法の世の中であれば賞賛されるということだったりもするからです。ここが合わないならば、暴力が支配する無法の世の中に身を移せばいいという話になるでしょうか?世の中がいつかどこかでそうなっている可能性はありますけど、そんな世の中に適応する才能を持って生まれることが、果たして本当に良いことなのかどうかを考え出すと難しい顔をしてしまいます。

 食べても太らない体質は、食うに困らない世の中を生きるにはポジティブな性質かもしれませんが、もし食料が潤沢に供給されない世の中ならば食べても太れないのは命の危険に繋がるかもしれません。なら太りやすい体質の人は、食料が潤沢ではない世の中であれば幸せなのでしょうか?

 

 人間は生まれる時代や場所を選ぶことができません。環境はある程度は変えられるかもしれませんが、どうしようもないことだってあるでしょう。自分が生まれもった性質が、生まれてきた場所に適合するかどうかは運の問題かもしれません。

 ただ、その自分の抱える性質がいかに、今いる場所に適合できないものであったとしても、それは別のどこかに適応するための可能性であると認識することはできます。自分は「悪い性質」を抱えているのではなく、それそのものは「多様性」で、たまたま今いる世の中に適合できなくて運が悪かったと思うしかありません。あるいは、もし世の中が激変したときの保険のようなものと捉えることもできるのではないでしょうか?

 

 生物が種として強くあるには、自分のような外れた存在もまたひとつの可能性なのだろうと思うことができます。今の環境に適合できなくても、だがそれでいい、みんなちがって、みんないい。その中の一個人の人生がたまたま運悪く苦しみに満ちていたとしても、それでもその全てを肯定することが種としての強さの裏付けとなる、美しくおぞましい生命讃歌であるのかもしれません。

 これは僕がディザインズを読みながら感じたことです。これもある種の環世界と解釈できるかもしれません。皆さんが読んだならまた別のことを思うかもしれません。環世界は人の数だけあり、だがそれでいい、みんなちがってみんないい。