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「デスストランディング」と僕のインターネット感の一致関連

 「シェンムー3」の発売までの間にやれるだけやろうかなと思って「デスストランディング」を買いました。事前に、オンライン要素がゲームフィールドに反映されることは知っていたので、人が多いうちにやった方がいいかなと思ったりしたからです。

 

 まだ序盤でいくつかの目的地に到達したぐらいなので、あんまり遊べてないんですが、基本的なチュートリアルは終わってサブクエストも出てきたので、そういうのもちょっとずつぼちぼち遊んだりしています。

 さて、この先ゲームがどうなるのかも全く分からないんですが、今感じているゲームのコンセプトから、僕自身のインターネット感との一致を感じたので、とりあえずその話を書きます。

 

 「デスストランディング」は物を運ぶゲームです。ある地点から別の地点に物を運ぶことを頼まれ、また、道中で拾った落とし物をまた別の誰かに届けたりもします。途中に厄介な敵も出てきますが、目的はあくまで物を届けること。敵は、それを奪ったり道を阻んだりするだけで、倒すことそのものが目的にはなりません(今のところは…)。

 物を運ぶときには、その安全にも気を遣わなければなりません。敵に奪われることの警戒もありますが、何より、転んで荷物を傷めたりしてはいけないのです。転ばないためには、適切に足場を選ばなければなりません。障害物が少なく、坂道の角度が緩やかで、歩きやすい道を選ばなければ、ちょっとした拍子に転びやすくなってしまいます。

 あるいは、荷造りに気を配らなければなりません。物をバランス悪く大量に持ち過ぎると転びやすくなるからです。でも、できればより沢山のものを一度に運びたいですよね?2往復するよりも1往復で運べた方が楽なはずです。そして、楽になりたいために大量の荷物を持ち過ぎ、より困難な道程にしてしまったことに気づいたりします。それに、もう引き返すこともしんどい場所まで来てから気づいてしまったりします。その結果、この配達を早く終わらせたいと、悲鳴を上げながらなんとか目的地に急ごうとしますが、それでも転ばないようにゆっくり慎重に急がなければならないのです。

 

 そんな面倒くさいゲームが楽しいのかな?という話はあると思います。楽しいです。でも、やっぱり面倒くさいです。その微妙なバランスに加わるのがオンライン要素です。

 

 困難な地形を踏破するためには、上手くショートカットできる道を作る必要があります。ハシゴをかけたり、ローブを降ろしたり、橋を作ったり、道を作ったりすることができます。そして、自分が作ったその効率的に歩くための要素は、ネットワークを通じて、他のプレイヤーにもシェアされるのです。

 

 デスストランディングにおける我々の道程は孤独なものです。目的地まで、たったひとりで孤独に歩かなければなりません。しかしながら、その道には、誰かが通った跡や、誰かが残してくれたルート、誰かが残してくれたアイテムがあるわけです。もちろん自分も何かを残すことができ、それが、誰かに使われたということだけが知らされます。

 孤独と書きましたが、これは孤独ではないのかもしれません。ただ周りに誰もいないだけです。周りに誰もいなくとも、それでも顔も知らない誰かと協力しながらゲームを進めることができます。

 

 主人公のサムは、他人との接触を避ける人間です。そんな彼が巻き込まれることになったのが、謎の大災害によって分断された地域を繋ぐことです。人と接触をしないでいながらも、人と人を繋ぐ任務を担うということ、これは矛盾しているでしょうか?

 僕が思うにそれには矛盾しない解があって、つまり、他人との接触には適切な距離感があるという話だと思うんですよ。

 

 これは僕がインターネットに対して常日頃感じていること共通するなと思いました。

 

 何度か書いていると思いますが、僕の日常では、人とあまり密な人間関係を構築していません。それは意図的に避けていることです。僕はできるだけ他人を嫌わないでいたいと思っています。それは他人を嫌っているときの自分の心の在り方に、自分でダメージを受けてしまうからです。

 その結果、至った考え方が「人に対してどれぐらいの距離感なら嫌いにならないで済むか」というものです。毎日顔を突き合わせていれば、すぐに喧嘩をしてしまうような相手も、年に2回、盆と正月に会うぐらいであれば仲良くやれるかもしれません。あるいは、直接会うのではなく、インターネット越しに見ているだけならば大丈夫かもしれません。そんな適切な距離をとることが重要なわけです。

 

 僕は、他人に対して接触することによる悪い影響を避けるための念のために過大な何かを想像してしまいがちで、それに勝手にビビッて他人と近い距離では上手くやっていけないと思ってしまうので、インターネット越しに人を見ているぐらいが基本的にはちょうどよく感じています。

 ただ、インターネット越しだとしても、特に直接的なやりとりを頻繁に誰かとするわけでもなく、SNSで何となく繋がっている人たちの中にいて、それぞれが独り言として同じ話題の話をしているぐらいの雰囲気がとても心地よく感じます。あるいは、今このブログを書いているように、思ったことを虚空に向かって投げているぐらいが。

 

 このへんの感覚の話は、半年ぐらい前に同人誌の漫画にも物語として描いたんですが、僕はインターネットが「価値観の違う人たちを一足飛びで繋げてしまう」ことが、世の中に沢山の揉め事を増やしているんじゃないかなと思っています。

 何を良いと思って、何を悪いと思うかの価値観は、人それぞれ微妙に違っていて、それが真逆の人たちもいます。その差がある人々がたったひとつのリンクで繋がってしまうとすれば、人はその状態に傷ついてしまうんじゃないでしょうか?つまり、自分自身の大切な価値観が、相手にはないがしろにされていると感じてしまいやすくなるからです。

 世の中の価値観がひとつに統一されていない以上、その悲しい出来事は常に起こり得ることです。なぜ自分以外の人たちが、自分と同じ価値観を持ってくれないのか?という悲しみは、世界に自分ひとりしかいなくならなければ完全には消えないのではないでしょうか?

 

 人がそれで傷ついてしまうことは悪くないと思います。しかたないことですよ。だって、自分の中の価値観は大切でしょう?でも、他人にだって同じく大切な価値観があるわけです。それを相手に曲げさせることを認めることは、全ての人間が平等であるという前提に立てば、自分の価値観も相手に合わせて曲げなければならないということです。

 ただおそらく、多くの人は、全ての人間を平等だなんて思っていないので、自分の価値観を相手に受け入れさせつつ、他人の価値観は受け入れないということを正しいと思ってしまうのではないでしょうか?これも別に悪くはないと思います。自分を真に客観視できる人は、自分という人間は何十億分の一の価値しかないということを受け入れてしまうからです。自分に特別な価値がないと思うことは、それはそれで辛いことでしょう?そんなに辛くならなくていいんじゃないかなと思うんですよね。

 

 異なる価値観を持つ人たちが、お互いに傷つけずにやっていくコツは、あまり接触をしないように距離をとることだと思っています。上手くやっていけないから距離をとるのではなく、上手くやっていくために距離をとるということです。しかしながら、距離をとってしまえば傷つけあうことはなくなるかもしれませんが、協力し合うこともなくなってしまうのかもしれません。人がたくさんいるのに、それぞれが価値観の切れ目で分断されていることも非効率的なことのようにも思います。

 だから、互いに適切な距離をとりつつも、共通的に必要な目的に関しては協力をすることができればいいのになという気持ちがあり、それがデスストランディングのゲーム設計と一致するような気持ちがあって、それがとても良く感じました。僕がゲームと、自分が抱えているのと同じ価値観と繋がれたと感じたからです。

 

 インターネットによって急激に狭くなった世の中は、世の中から多様性を奪っているのではないか?という疑惑を僕は抱えています。

 価値観と価値観がぶつかることは争いも生み出しますが、一方で歩み寄りのきっかけともなるからです。歩み寄りは良いことかもしれません。しかしながらその歩み寄りの裏側には、双方が何らかの我慢をすることで成り立っているという側面もあるのではないでしょうか?多様な価値観を持っていた人たちがたくさん集まれば集まるほどに、最終的に場に出せるものは、その誰もが納得できるとても狭いものになってしまうのではないかと思っています。

 だから、全員が同じ価値観を共有する場にいるのではなく、それぞれの人がそれぞれ近しい価値観の人で集まりつつ、その集団同士が必要に応じて点で連携できるようになれればいいんじゃないかと思うんですよね。大前提としては、その集団と集団の間を人が自分の意志で移動できるものとして。

 だって、インターネットで異なる価値観の人と繋がることで生まれる苦しみもあれば、インターネットでようやく同じ価値観の人と繋がることができた喜びもあるわけじゃないですか。

 

 デスストランディングに見る他人との距離感は、インターネット以前には遠く見えなかった人たち、そして、インターネット後には近すぎて見えすぎてしまう人たちと、改めて適切な距離感を模索する様子があるように思えます。

 僕はひとまずそれがなんかいいなと思ったりしました。