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「金色のガッシュ」に見る、支配への抵抗関連

 金色のガッシュは、人間界に送り込まれた100人の魔物の子たちが、次の魔界の王となるために、最後の1人になるまで戦い合う漫画です。この戦いにはルールがあり、魔物の子たちにはそれぞれ、その才能を発揮するための呪文が書かれた本が存在します。魔物の子は、その呪文を人間に読んでもらうことで能力を発揮することができるのです。この戦いは、100人の魔物の子の戦いであり、その本の使い手として選ばれた100人の人間の戦いでもあります。彼らのうち99人(正確にはある経緯により+α)は、戦い、敗れ、パートナーとの別離を経験します。最後に勝ち残った1人もまた、王となるために別離を経験することになります。

 これは人と魔物の子の出会いの物語です。そして、人と魔物の子の別離の物語です。最後に別れがあるのであれば、その出会いは無意味でしょうか?違うのではないでしょうか?その出会ってから別れるまでには時間があったわけでしょう?

 

 人間の人生も、最後は死です。どうせ死ぬなら生きる意味などないでしょうか?そうではないからこそ、人は生きているのではないでしょうか?これはそんな意義ある過程の物語です。

 

 金色のガッシュに登場する構図の中で僕の心に一番響いたのは、「人が人を支配されることの辛さ」と「そこに抗う意志の発露の瞬間」です。次世代の王を決める戦いは、つまり、次の支配者を決める戦いです。勝者には他人を支配する権利があり、敗者はそれに従うしかなくなります。強ければ強いほどに人は誰かを支配することができ、弱ければ誰かに支配されて生きるしかなくなります。

 

 この物語には沢山の支配する者とされる者が登場します。

 戦いに向かない優しい性格の魔物の子は、その意志に反する凶暴な人格を無理矢理植え付けられました。心を操る能力のある魔物の子は、優しい人間の心を自分の好むように操作し、自分の思う通りに様々な非道な行為をさせるようになります。気高い心を持っていたはずの魔物の子は、強い痛みを与えられる恐怖から、より強い魔物の子に従属を強いられてしまいました。強い力を手に入れるために、特殊な細胞を受け入れた魔物の子は、その代わりにその支配者に逆らうと体が崩壊してしまうリスクを抱えました。ある人間は、自分のパートナーの魔物の子がより強い魔物の子に逆らわず、従うように言い聞かせます。その体には虐待の痕があり、かつて自分もまた強い力を持つ者に逆らおうとして敗北し、無意味であったことを心に刻まれた経験を抱えていることが示唆されます。

 

 この物語の中では、誰かに従属させられ、道具として機能のみを求められ、自分の生きたいように生きる道を塞がれることが何より悲しいこととして描かれます。そして、それに反逆する物語でもあるのです。

 

 王となる最後の勝者を除く他の全ての魔物の子たちは敗れて消えていきます。しかしながら、その敗北が悲しいことばかりとは限りません。彼らは支配から解き放たれ、一己の存在である自分を取り戻すことに成功していることもあるからです。何かに従属し、支配されて生きることしかないことが己という存在の死であるならば、彼らは自分として生きることを得ることができたわけです。それは悲しいことばかりではないでしょう。

 そして、そこにはパートナーとの関係性、人間と人間の関係性、魔物の子と魔物の子の関係性があるわけです。そこにとても胸を打たれるわけです。

 

 この物語のラスボスとして登場するクリア・ノートは力の権化です。クリアの人格そのものがその巨大な力に飲まれて消え失せ、ただ他人を支配し従属させること、その先には全てを消し去る虚無へと向かう巨大な力そのものと化してしまいます。

 この物語の中で存在する戦うべき相手は、個別の人格ではなく、他人を支配するという概念であるわけです。

 

 誰よりも弱い魔物の子であったキャンチョメは、強さそのものでは誰にも勝てず、自分の弱さを痛感させながらも強くおどけて生きてきました。しかし、物語の終盤、ついに手に入れた圧倒的な強い力に酔いしれてしまいます。今まで自分が屈辱的にされてきたように、圧倒的な強い力で他人を脅かすことができることに、飲まれてしまうのです。これはクリアとの相似形です。しかし、キャンチョメのパートナーのフォルゴレは、誰かを脅かし、恐れさせる先には何もないことをキャンチョメに説きます。自らもまたかつてそうであったことを悔い、誰かとともに生きることを選ぶことこそが生きる道であることを身を挺して示すわけです。

 キャンチョメにはそれがすぐに理解できます。なぜなら、それはフォルゴレとキャンチョメが今までともに過ごしてきた時間そのものだからです。

 

 クリア・ノートにはキャンチョメにとってのフォルゴレのような存在がいませんでした。彼のパートナーは天才的ではあれど、まだ無垢な赤子です。それゆえ、彼は純粋な力そのものと化していってしまうのです。

 

 この物語の主人公ガッシュは、凶暴な人格を無理矢理植え付けられ、力に無理矢理支配された少女コルルの姿を見て、この戦いを勝ち抜き、王になる道を目指すことを誓います。それは、もうこんな力に支配される悲しい戦いを生み出さない優しい王になるためです。

 ガッシュの戦いは、誰かを支配するための戦いではありません。誰かとともに生きるための戦いです。だからこそ、ガッシュの本はともに戦った魔物の子たちの力が流れ込んで金色に輝き、クリア・ノートに対抗するための大きな力となるわけです。

 その中にはコルルの力もあります。いつか目覚めるはずだった人を守る、優しい力を携えて。

 

 魔物の子ゾフィスに心を支配されていた少女ココは、それでも自分には意志があることを示し続けて戦いました。痛みの恐怖に怯えていた魔物の子チェリッシュは、自分のために戦う魔物の子テッドの姿に、自分自身の気高い意識を取り戻し、気の遠くなる強烈な痛みにやせがまんをして耐えながらも逆らうことを選択します。

 自分に命令する魔物の子ゼオンに逆らえば逆らうほどに自分の体が崩壊していく魔物の子ロデュウは、パートナーのチータに、それがどれだけの苦痛が伴っても自分の生きたいように生きることを説きます。チータは、顔にある傷の負い目から、他人の目を気にしてふさぎ込んで生きてきた少女です。ロデュウはチータになぜ、他人の目ばかりを気にして自分の生きたいように生きないのか?人の顔の傷を笑うような奴らために、自分の方を曲げる生き方に何の意味があるのか?と、他人に逆らおうとしたせいで崩壊しボロボロになった姿で、それでもその意志を説くわけです。

 

 空間を操る特異な能力を認められ、クリアの手下として行動していた孤独な魔物の子ゴームは、自分に初めて優しくしてくれたキャンチョメのため、クリアに逆らおうとします。パートナーのミールは前述のように大反対するわけです。大きな力を持つ悪いやつに逆らったってどうしようもないと。自分たちのような弱い人間はそれに従って生きるしかないのだと。自分のような大人は、お前のような子供とは違って、それを分かって受け入れているんだと。逆らうような奴はただの馬鹿なんだと、その身に刻まれた傷を背に悲鳴のように叫ぶわけです。

 ミールとゴームが再びガッシュたちのもとに現れたとき、それは戦って敗北した姿でした。彼女と彼は、それでも戦い抗ったわけです。たとえ敗北することが分かっていたとしても。そこには他人に支配されることが我慢ならない気持ちがきっとあったわけでしょう?

 

 この世の中は結構仕方がないです。理不尽だと思うことがあっても、結局のところ自分ひとりの力ではどうしようもないことも多いです。人はあまり他の人間を平等な存在だと思っていません。隙あらば、自分の思った通りに動かそうと、力や理屈を使ってきます。自分だってそうしているかもしれません。

 自分らしく生きるということは、まあ、今この瞬間から自分らしく生きればいい話ですけど、結局のところ、他人に押し着せられる「このように生きろ」ということへの無限の抵抗が必要な生き方です。あるいは、無人島でひとりで生きるかですが、それも現実的ではないですよね。

 なにより、誰しもが自分らしく生きるということは理想かもしれませんが、それでも、世の中は誰かが誰かを従属させることで効率よく回っている側面も少なからずあるわけです。

 

 だから、「誰かに支配されず、自分の思う通りに生きる」ということは、どこまで行っても達成することができない理想的な概念でしかないのかもしれません。少なくとも僕は社会の中でで生きるために、いくつかの不本意な生き方もしてきました。それでも、その「他人に支配されない自分らしさ」に対する憧れは強くあって、それがこの漫画を読む中で思い出させられるからこそ、こんなにも胸にくるのではないかと思ったりします。

 

 「金色のガッシュ」は支配されることへの抵抗の物語だと思います。そして、その物語は支配者である王となることで、支配に抵抗するものが支配者側に立つとき何をなすべきか?それらは全てそこに至る過程にこそ存在していたのではないかと思うわけです。