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仕事のために獲得しつつあるコミュニケーション能力関連

 コミュニケーション能力、もうほんと無く生きてきて、自分が発した言葉が他人にどう受け止められるかに過剰にビビり過ぎてしまって口数が少なくなったり、自分が他人とコミュニケーションをとったときの悲観的な想像をし過ぎてしまうために、人とあまり接さないようにしたりして生きてきたところがあります。

 こうなったのは、実際にはコミュニケーションの失敗がその前に沢山あって、それは必ずしも僕自身の問題ではない部分もあるとも思うのですが、結局自分がそうなってしまったということは事実で、それを何とかしようと思う人間は僕自身しかいないなあと思うので、なんとかどうにかそこから抜け出そうと色々考えているところがあります。

 

 前に、病院に行ったとき、めちゃくちゃ痛いところがあって、めちゃくちゃ痛いんですよって言ったけど、お医者さんは僕の様子からあんまり痛いと感じていないと想像したようで、色々検査をした結果、これで痛くないんですか??と聞き返されたことがあり、いや最初からめちゃくちゃ痛いと言っていますよと申し添えたというようなことがありました。僕の表情や振る舞いからは、そんなに痛がっているように思わなかったんでしょうね。僕は自分が抱えている痛みとかを、他の人に察することができないように押し殺す癖がついてしまっていたりします。

 その理由を思い出すと、やっぱり自分が痛いということを訴えても、むしろ怒られるというか、それを理由にして何かをやらないことを叱責された経験があるからかなと思うわけです。痛みを訴えてむしろ損をするならば、最初から察することができないように押し殺した方が得です。なので、それをずっとやってきたみたいなところがあるんじゃないかと思うわけです。

 

 なので、僕はコミュニケーション能力がむちゃくちゃダメな状態で育ってきたわけですよ。自分が考えていることができるだけ他人に分からないように振る舞い、人との接触を避けることで、他人の考えを想像したり、求められることを察して応えることなんかからも逃げてきました。周囲との情報伝達をわざとおかしくすることが、自分を守る方法だと思っていたわけです。でも、そのせいで得られなかったものも多々あると思います。

 でも、近年仕事をしていて、やっていることの半分以上はコミュニケーションになってきました。なぜ自分がそんなことに??と思ってしまいますが、生きていくためにはしなければなりません。

 

 仕事で発生するコミュニケーションとは、例えば、何かを作るときに、それが利用者にどのように求められているかを調べることです。利用者は自分が使いたいものの具体的なビジョンを持っていないことが多いですから、今何に困っていて、それがどうなるとどうよくなるのかを、色々な人に聞いて、彼らがまだ明確には持っていない答えを具体化する必要があります。

 コミュニケーションなしにこれをやろうとすると、参照できる人が僕自身しかいませんから、それは多くの場合とても独りよがりなものになってしまうと思います。若い頃はこれで失敗したこともあります。一生懸命作ったのに、誰も使ってくれないのです。僕の態度はつまり、必要だと自分が考えるものは入れたので、思うものと違っても我慢してこれを使えと利用者に押し付けたということになります。それは、僕自身に強い権力でもない限り、だいたい上手くいかないですよね。

 

 そして、そうやって決まった作るべきものの規模はだんだんと大きくなり、自分ひとりで作れることはなくなりました。集団での作業になります。だから、自分がそのリーダーになるとき、自分の考えていることをできるだけ正確に色んな人に伝える必要があります。これもコミュニケーションです。そのために文書を作りますし、対面で説明もします。それでも、違って伝わることはあって、ひょっとして僕の言うことが上手く伝わってないんじゃないか?と気が付くのもまたコミュニケーションです。

 あるいは、自分の考えが実際は間違いを含んでいることに気づくのもコミュニケーションではないかと思います。色んな人が関わってくれるということは、自分が考えて頭の中で整理したものに欠けているものや、想定していない前提なんかを他人の頭を使って補うことができるようになります。

 誰かのために、誰かと何かを作る作業では、大量のコミュニケーションが必要で、そのためのコミュニケーション能力を持たないといけないわけです。

 

 最初から正解を出せるとは限りません。でも、正解に向かう意志があるなら、色んな人の意見を聞いて、少しでもそこに近づくようにはできるわけです。ジョジョの5部ですよ。そのためのコミュニケーションの意志で、そのためのコミュニケーション能力です。

 そういうのを何とかやっています。なんとかやれるようになってきました。

 

 で、この辺がなんとかやれるようになってきた過程を思い返していたんですけど、それは他人と自分の間に発生するものに対して、どのように接するかが変化してきた過程のように思います。つまり、自分が他人に投げかけた言葉がどのように解釈されるか?という話と、相手が自分にどのような意図で言葉を投げかけてきているのか?という話です。

 

 僕が人間を見るときに注目しているポイントのひとつは、その人が自分の考えていることを他人にやらせようとするときに、どのような方法をとるのか?ということです。

 よくない現場では、それが叱責による恐怖になっていることがあります。つまり、「それをしなければ、アナタの精神に強い負荷をかけるぞ」というメッセージです。負荷をかけられたくない人は、そうなることを逃れるために逃げるように何かをしますが、僕の認識では、それはそもそも結構おかしな方法だと思うわけです。

 なぜなら、人の行動を促すのは、その行動に良い評価を与えることだと思っていて、その逆の悪い評価を与えることは、人の行動を抑止することに繋がると思っているからです。

 

 何かをやってほしいときに、その行動を褒めるのではなく、行動しないことを叱責するという方法は、行動をしないことを止めさせることはできるかもしれませんが、何をすれば良いとされるのかというメッセージ性が欠けています。

 「人の悪いところを叱り続ければ、良い人になる」という考えの信用できないことは、その発想の中には「良い」という概念が一度も出てきていないからです。悪いところを全てなくせば、それは本当に「良い」ということなのでしょうか?それはただ「悪くない」というだけなのではないでしょうか?

 

 僕がやっている方法は、まずは何が「良い」かを共有することです。でも、その「良い」というのは、本当に良いかどうかは分かりません。良いというのは絶対不変の概念としてあるわけではなく、「誰にとってどのように良いのか?」という文脈があるからです。ある人にとって良いものは、別の人にとっては良くないかもしれません。だから、最初に何を良いとするかを共有する段階で、それを見定めることをします。そして、一度決めたら、それは基本的に変えるべきではありません。

 なぜなら、何かの判断に迷ったとき、その「良い」ことに対して、利するものであるかどうかを判断するモノサシとして使うためです。そのモノサシさえ確固として存在していれば、最終的に落ち着くべき価値観が一致するので、別々に動いている人の意志を統一しやすくなりますし、話し合いになったときにも、落としどころが見つかりやすくなります。

 これが完璧な方法とはまだ思いませんが、良いと悪いを適切にフィードバックすることで、集団で何かを作る際のコミュニケーションを円滑にして、成果物の品質や、構成員のモチベーション維持をしていこうとしています。上手くいっているかは分かんないですよ。もっといい方法がるかもしれません。でも、少なくとも迷走はしていないので、ましな方法です。

 

 僕は人格的に色々欠けているので、それを補うために方法論を頼っています。人間力で対応しようとすると、めちゃくちゃになってしまうと想像して怯えてしまうからです。

 それで、色んな方法を考えては実際に試して、上手く行く方法を模索していて、今後もアップデートしていこうと思うんですけど、今の実感として思うのは、良いものを作るために必要なことは、「良いものを作るために行動すること」で、迷走するときには、その逆だという実感があります。つまり、「何も行動せずに悪いところだけを指摘し続ければいい」ということです。何が良いかも示されない中で、とにかく今が間違いだと指摘され続けると、その仕事の担当者の考える範囲は無限に広がりますし、そして、誰も手伝ってくれないので、その広がったものを全て個人が抱え込まなくてはいけなくなります。

 

 僕が思うに、人は自分で解決できない問題の前から逃げることを許されないと、そのうち狂ってしまうんですよ。だから、そんな感じの現場がまだ回っているとするならば、まだ担当者が狂っていないというだけで、いずれはヤバくなるタイミングがくる可能性が高いと思います。

 

 何が良いと思うかを考えて、それを実際に行動して実現していくことです。悪いところを指摘したりするのは、その過程で副次的に存在することはあっても、それしかない現場は、人間の精神を沢山すりつぶしていくようなものにしかならないんじゃないかと思います。

 これはもちろん、僕自身がそんな現場に長時間いて、自分の精神をすり減らしていたから思うことで、自分が管理できる権限を持ちえた今になっては、それを繰り返してはならないなと思っているというだけなのですが。

 

 他人に対して、無理めな目標を与えて、何か上手く行かないことがあれば、「なぜできないんだ?」「できるようにしろ」「上手く行かないのはお前が仕事を舐めているからじゃないのか?」をグルグル言い方を変えて繰り返し、10個の課題を抱えて相談に行くと、帰りには15個の課題を抱えることになるみたいな中で、仕事をする現場は結構あると思っています。僕自身の経験から具体的に言うと、学生の頃の研究室はそんな感じで、同期が何人も中退してしまいましたが…。

 

 でもなんか、そういうのが世間一般では楽で便利で良い方法だと思われているんじゃないか?とビビッてしまうことがあります。自分たちが何を良いと思い、それを実現するために動いているかということではなく、「あいつらは間違っている」とか「あいつらはアホばかりだ」という声だけを人にぶつけているだけの光景をネットでよく目にするからです。自分たちの正しさを示さず、自分たちと違う側の悪辣さを糾弾することの先に何かがあるのでしょうか?今僕が書いていることもそれに抵触するので、多少落ち込んでもいるわけですが…。

 他人の悪いところを指摘し続けるというのは、人を壊すための方法ですよ。自分が嫌悪しているはずの、そういうことをして、人の精神をすり潰すことでしか何かを実現することができない人に、それに与するのであれば、なってしまうじゃないですか。

 

 だから、なんというか、自分は自分が良いと思うことは何かを考えて、そして、それを自分で実現するように、やっていくしかないと思うんですよね。そういうことをするしかないと思っています。

 僕が良いと思っているその方法を、周囲の人たちも同じように思ってくれるようになるように行動していくこともまたコミュニケーション能力なんじゃないかと思っていたりするのです。