漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

誰かが「正解」を作っている世の中に生きている関連

 大森靖子の「君と映画」という曲の歌詞に、以下のようなものがあります。

映画もいいよね 漫画もいいよね ついついお金を使ってしまうでしょ
知らない誰かに 財布を握られる 握られる
テレビもいいけど なんか怖いよね これが現実か なんか怖いよね
私のリモコン握られる 握ってる見えないヒットラー

 この歌詞は僕の認識では、自分の行動が誰かのレコメンドに制御されることへの抵抗感を歌った内容だと思います。他人によるレコメンドが氾濫する情報化社会で自分の価値観を持って生きることを歌ったものだと。

 

 「面白い漫画を教えて」と言われることがあります。僕はこの言葉の意味を考えるんですけど、きっと重要なのは「面白い漫画を読みたい」ということではなく、「つまらない漫画を読みたくない」んだと思うんですよ。失敗する選択をしたくないんじゃないかな?ということを相手から感じることがあります。

 わざわざ時間をかけたりお金を払ったものを結果的につまらないと感じると嫌だから、最初から面白いと誰かに保証されたものを読みたいわけでしょう?失敗を恐れるあまりに、自分の感性ではなく、他人の感性の中で高く評価されたものを踏み外さないように生きるわけでしょう?つまり、自分より他人の感性の方が正しいと思っちゃっているわけですよ。自己肯定感の欠如ですよ。

 そして、そんな状況に対する嫌だなという気持ちを歌っているのが「君と映画」だと僕は思っていて、僕はそこに共感するところが大きいです(僕が共感したいと思うあまりに勝手にそれを見いだしている可能性もある)。

 

 失敗をしたくないがために、自分の行動として、誰かが決めてくれた「正解」の上を歩くことしかできなくなるということ。何か出来事があっても、それに対する周囲の初期の反応を見て、肯定するのが「正解」なのか、否定するのが「正解」なのかを判断し、その「正解」の側を選ぶということ。

 あるいは逆の側から、他人の行動を採点し、百点の行動だとか0点の行動だとか言って、点数が低ければ攻撃的になり、自分の考える百点以外の行動は認めないということ。そんな、その人の中で0点であることが、勝手に採点された側に何の関係があるのでしょうか?

 

 「正解」が探されているように思います。それは、それ以外を「間違い」として、その上を歩くことを認めない人が出てくるという形で広がっているように思います。恐怖ですよ。誰かの中で「正解」であるかどうかということが、自分の人生に何の関係があるというのでしょうか?

 

 インターネットで誰しもが発信できることが、多様な世の中を作るというのは幻想で、実際には、ものすごい勢いでその場での「正解」とされるものが決まっていき、それ以外が「間違い」とされていくのを目にします。

 

 僕は今現代の話をしていますが、それは僕が今現代に生きているからなだけで、昔からもそうだったような気もします。昔聞いた、「巨人ファン」の話で、なぜ数ある野球チームの中で巨人を応援するのかの理由が「勝つ」からだというものがありました。これは同じことなんじゃないかと思います。つまり、自分が応援してるものが「負ける」ということのストレスから逃げたいっていうことなんじゃないかと思います。だから、より勝ちそうなものを応援するんじゃないでしょうか?

 自分が応援しているものが勝って欲しいという願望が、その裏には負けるなら応援したくないというものがあるんじゃないかと思うんですよね。

 

 だから面白いとされる正解の映画や漫画を選び、勝つとされる正解のチームを応援し、正しいとされる正解の言説を口にしてしまうのではないでしょうか?でも、それって結局全部自分の外の話じゃないですか。自分の人生から、わざわざ自分を追い出す行為じゃないですか。そんなふうに、他人によって外堀を埋められた、正しくあるべき自分像という隙間を、死ぬまで頑張ってくぐり抜けていくのかって話ですよ。

 

 でもまあ、自分で選択するのって結構辛い話ですよね。だって、もしそれで失敗するとしたら辛いじゃないですか。正解が選べるときに、わざわざ失敗をする必要なんてないわけですよ。誰かが完璧な正解を教えてくれて、それをやってりゃいいなら楽なことはありません。

 誰かに正解を決めて貰えるのでなければ、自分で選ばなければなりません。そして、その自分で選んだことはもしかすると失敗かもしれません。そして、それを誰かのせいにすることもできません。だって自分で選んだのだから。

 

 あらゆることを自分だけで決めていくこともまた非現実的なのかもしれません。個人にはそれだけの時間も余裕もないと思うからです。

 

 それでも僕が思うことは一点で、その「誰かが正解として目の前に設定してきたもの」が、本当に自分にとっての正解と一致しているのか?という疑念を持つことです。失敗を恐れるあまりに、むしろわざわざ誰かに仕組まれた失敗を掴まされているのではないか?ということへの恐怖からです。他人をめちゃくちゃ疑っているからです。

 でもって、自分にとっての正解って何なのかな?って話なんですけど、これは僕は簡単に設定していて、得になると思ったことが正解です。損得で考えるのが一番分かりやすいと思ってそうしているんですよね。

 

 僕の得って他人の損かもしれません。そして、僕の損が他人の得かもしれません。だから、全員が得の正解になることってまれだと思うんですよね。だから、自分の得になることを「正解」に見せかけることで他人に受け入れさせようとする人が出てくるんじゃないかなと思っています。他人が損するだけのことを、でもこれが「正解」だよと騙すことによって、自分が得をしたい話じゃないですか。他人が作った「正解」に依存し過ぎると、そういう人に引っかかって損ばかりしてしまうかもしれません。

 

 それって損じゃないですか。だって損させられるんだから損ですよ。損なのは嫌なんですよね。だから僕は、他人に設定された「正解」を疑いまくります。その結果どうなるかというと、友達の少ない孤独な中年になるわけですよ。

 

 でも、孤独な中年は元気やでっ!!(おしまい)