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「ウサギ目社畜科」がめちゃ好き関連と僕の笑いの理論

 直近で、最近は何の漫画が好きですか?って聞かれたときに答えたのが「ウサギ目社畜科」です。今一番楽しみに連載を読んでいるギャグマンガです。

 

 ウサギ目社畜科は、月で労働していたウサギのふわみが、戦力外通告を受けたことで地球に落とされ、サラリーマンの主人公の家に飛び込んできたので、そこで働くことになった漫画です。

 ふわみは、月での無賃金の重労働を常識として感じており、地球にやってきても働かないことに不安を感じてしまいます。ふわみは、主人公を社長と呼び、月給1円の報酬で労働をすることになりますが、それすら非常に高収入と感じて日々生きているのです。そしてふわみの下には、同じく月から落ちてきて、ぶっ刺さった、もふこもやってきました。

 

 この漫画のどこが面白いかというと、とにかくふわみともふこの様子です。地球の働きたくない人類とは真逆の「ろうどうのよろこび」をビンビンに感じているふわみともふこは、彼女たちなりの常識で考えて沢山の労働をしますが、それらは、月の異常な常識に根付いているためにほとんどが的外れです。それに主人公は毎回のように怒ります。

 でも、ふわみともふこが一生懸命考えた結果なんですよね。面白いことをしようとしているわけではなく、その常識と常識のすれ違いが面白い話です。つまり、これは孫ですよ。孫を見るおじいちゃんの心境ではないかと思います。もしくは、インターネットで知り合いの子育てトラブルエピソードを読んでいる僕の気持ちともシンクロします。

 

 ただ、ふわみともふこが、人間の子供と違うのは、人間ではなく月からやってきたウサギであることです。その抱える常識だけでなく、生物としての生態も人間の常識ではない動きをします。つまり、僕はそれを知りません。だから、何が起こるかわかりません。とんでもない、めちゃくちゃな動きをしてしまい、それが異常なのに、ウサギ側からすると常識ですよいう雰囲気なのがたまらなくおかしいのです。

 

 笑いってどうやったら起きるのかなって僕は常日頃から思っています。なぜなら、僕は「自分が好きな人が自分の発言で笑ってくれる」ということがめちゃくちゃ嬉しいので、どうにかして、自分が好きな人たちを笑わせられないかな?ということばかり考えているからです。

 その試みは上手く行ったり行かなかったりしますが、僕の経験からの認識では、笑いは「不可解と可解の往復運動」の中で起きます。つまり、「分からなかったものが分かるようになった瞬間」と「分かっているつもりだったものが分からなくなる瞬間」が面白いわけです。

 

 なので、一見常識っぽいことを言ってそうで、話している内容をよくよく聞いてみると異常なことを言ってたりするのは面白いのでは??と思っていて、異常な内容を書くときには、できるだけ常識的で抑制的な文体で書くようにしてみたり、逆に、真面目な話を書いているときに、急に口調が変わった書き方をしてみたりします。

 その関連で言うと、「です・ます調」で書いている文章に、いきなり「だ・である調」の文章とか、さらにくだけた口語調の文章を混ぜたら面白いんじゃないのかな?と思ってそういうことも試しています。

 例えば、めちゃくちゃくだけた文体で書いていたのに、いきなり敬語になると笑える、みたいな感じがしていて、文の書き方では文体を統一するのが常識でしょ?みたいな感じかもしれませんけど、まぜこぜにした方が全然面白いんじゃないかと思うんですよね。

 

 あと、まったく無意味な言葉の繰り返しもしたりします。トートロジーとかも多用します。例えば「このパンはめちゃくちゃ美味いですよ!なぜなら、このパンは美味いので」みたいな文を僕って書きがちじゃないですか。

 これも、そういう理屈なんですけど、後段で理由が示されるかと思いきや、まったく示されないのが面白いんじゃないかなと思っていて、でもとはいえ、最初から「またいつもの無意味文章だろ?」と思われていたら、そうはならないですし、万人にウケるのは難しい。

 

 笑いがおもろうて、そして難しいのは、分かっているものがやってくるとそれはそれで面白いんですよね。「なんでも2回言ったらおもろい理論」です。これも、「不可解と可解」で説明はできて、つまりは「可解」を増やす理屈なんだと思っています。

 沢山の人を目の前にするとき、そのそれぞれの人が何を知っていて、何を知らないかを事前に全て理解することができません。なので、会話の中で最初に登場したものを、あとでもう一回言うと、それは知っているものとして処理できますから、「可解」を植え付けることができるんですね。そうすれば「不可解」に移動したときや、「不可解」から戻ってきたときに面白くなっちゃうわけです。

 プロの芸人さんとかはそういうコントロールがめちゃくちゃ上手いので、めちゃくちゃすごいなあと思って尊敬しています。

 

 いつもの仲間たちが話し相手であれば、それぞれの人が何を知っていて何を知らないかが分かるので、それに合わせて適度に不可解を混ぜていけばいいですけど、知らない人が相手だと、そもそも何を言えば相手にとって不可解か可解か分かりませんからね。だから、笑ってもらうのがめちゃくちゃ難しいわけですよ。

 

 往来で、いきなり大声で無意味なことを叫ぶ人がいたとします。これは笑いでしょうか?異常者ですよね?でも、相手のことを知っていて、常識で捉えていれば、いきなり異常な叫びをすることが笑いに感じられるかもしれません。でも、相手が知らない人でそもそも異常なのでは?と疑っていれば、その異常さを補強するだけなので、怖くなってしまいます。

 そのために、お笑いはコンビ芸の人も多くて、常識を担うツッコミの方の人が不可解にツッコミをして、可解に戻したりをしているわけですが。

 

 なんかそういうことを常々思っていると、「ウサギ目社畜科」のお話は、そういう僕が感じている面白理論に満ちているなと思っていて、人間の常識で捉えようとするとウサギだし、けなげなウサギたちを理解しようとうっかりしちゃうものの、あ、こいつら異常者やんけと引き戻される瞬間があって、分かるものと分からないものの狭間で、ぐわんぐわん揺らされるのがめっちゃおもろいんですよね。

 

 テレビ番組で言うと「あらびき団」のような…、僕は「あらびき団」がめちゃくちゃ好きなんですけど、あれはツッコミの番組だと思っていて、ライト東野とレフト藤井がツッコミ役として存在していることによって(あとはスタッフの悪意ある編集によって)、単体で見せられるとどうしたらいいのか分からない不可解なものだとしても、しっかり可解の方に引き寄せられて、行ったり来たりできるのが面白いです。

 常識人がいるからこそ、異常な存在が引き立ち、異常な存在があるからこそ、常識人の役割があります。そして、ふわみともふこがめちゃくちゃ可愛いので、うっかりそっちを理解したくなっちゃうところが、ポイントな気もするんですけど、でも、理解できないんですよ。だって人間じゃなくウサギなので。

 

 というようなことを書いてみましたが、僕が何を面白いと思っていて、どのような理屈で喋ったりしているかを書いてしまうと、今後僕が喋ったりするあらゆる不可解なことが、最初から可解になってしまってつまんなくなってしまうかもしれませんね。しかしながら、そこには隙があり、これが理解する対象なんだろと皆さんが思ったときに、それとは別の理屈を突き付けると笑えるわけでしょ?

 

 まあ、そんな感じに分かったり分からなかったりしてくださいよ。