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批判は何も生まれない?関連

 インターネットに何かを書いたり、何かを作って公開をしたりすると、反応を得られることが増えてきた感じがします。

 

 僕はずっとポリシーとして、「趣味でやってることについては他人の反応を無視する」ということを心がけていて、それは、自衛のためでした。なぜなら、僕は自分の振る舞いが他人の目にどのように映っているかを過剰に気にしてしまう子供時代を過ごしてきたからです。他人の目に良く映ろうと思い過ぎるのがしんどくて嫌だったんですよね。頑張り続けることもできず、他人の目に映らないように行動したりして。

 ネットでも他人の反応を見始めてしまうと、それに応じて、自分側の出し方を色々変えようとしてしまいそうなのが怖いと思っていました。だって、それはそのうち、「他人に怒られない」とか、「他人に良く思われる」ことを基準にして自分の立ち振る舞いを決めることになると思ったからです。つまり、自分の行動を全て他人が決めることになります。なんで他人の思う通りに生きなければならないのでしょうか?

 その相手が、自分が大切に思っている人たちではなく、ネットで目にする知らない人たちであるとき、その意味はないなと思っていたんです。自分がしたいことをしたいようにする自由さの方がよほど大事だと思っていました。いましたというか、今も思っていますが。

 

 でも、ここのところ、なんらか話題にしてもらえるタイミングがいくつかあったので、エゴサとかをするように頑張ってみました。届いた感想も全部読みました。そしたら、さすがにもう中年になって若い頃ほど感覚が鋭敏でなくなってしまったのもあるのか、意外と平気だったんですよね。あれ?なんか平気になっているなと思ってびっくりしてしまいました。

 僕は褒められるのも貶されるのも見たくなかったんですよ。褒められたらより褒められるように振舞わなければならないとか、貶されるなら貶されないように振舞わなければならないとか、自分がどうしても思ってしまっていたからです。

 でも、今は「ああ、この人はこう思ったんだな…」と思って、それで終わりになりました。

 

 褒めるとか貶すとか、それは結局「その人が持つ価値観」と、「その人が比較対象として見ている何らか表現」との差分でしかないんじゃないのかなと今は思っています。

 作った人が、その人が自身で抱える価値観をガイドラインにして良しとなるものを作ったとき、それとは異なる価値観を抱えた人がそれを見ると、自分の価値観と「合致している」とか、「異なっている」ということに気づくはずです。

 甘い食べ物が好きな人が、甘い料理を作ったとき、辛い食べ物が好きな人がそれを食べると、これは辛くなくて甘すぎると思ってしまうでしょう?それだけのことだと思います。甘いものが好きなら、「甘くて良い」と思いますし、辛いものが好きなら、「これは辛くないので良くない」と思ってしまいます。仕方ないじゃないですか。自分が辛いものが好きなのを無視するわけにもいきません。

 

 もちろんそれだけの話だけではなく、人は何らかの作品に出会うことで価値観を変化させることがあります。それまで甘いものが好きではなかった人が、とても美味しい甘いものに出会ったときに、甘いものが好きになってしまうかもしれません。そのように個々人の価値観は流動的で、自分の人生のどのタイミングで何かの作品に出会うかで、その感想は変わってしまうかもしれません。

 

 ただ、それでも、結局その場その時に限定してみれば、何かの作品にであって思うことは、その場その時の自分の価値観と合っているかどうか?ということだと思います。つまり、自分の話なんですよ。その価値観が、世界の全てで共有されている唯一無二のものであることはありえないんですから。

 誰かが作った何かが、自分の感覚と合致しているとか異なっているとかを表明することが、褒めるとか貶すなんじゃないでしょうか?それはあるでしょうし、それを表明することも別に悪いことじゃないですよね。

 

 さて、僕が作ったものに対して、批判的な意見があったとします。僕はいつからか上記のように物事を解釈するようになったので、「ああ、この人は僕とは異なる感性を持つ人で、それを教えてくれているんだな」と思います。

 その上で、その人に褒めてもらいたければ、その人の感覚に合わせたものをその後作るでしょうし、特に褒めてもらいたくなければ今まで通り自分の感覚に即したものだけを作ると思います。これが趣味ではなく、商売なら、どれだけの人の感覚に即したものを作れるかも重要な要素となってくるかもしれません。なぜなら、より多くの人に受け入れられる価値観に即しているかどうかが、自分の報酬に跳ね返ってくるからです。

 だから、他人の感覚に即して物を作ることも別に悪いことじゃないですよ。僕も仕事では、他人に頼まれたものを、他人に喜んでもらえるように作っています。ただ、世の中には全ての人間で共有されている価値観はないということで、人間の数だけある価値観の中で、どれに合わせたものを作るかは、作る側に選択権があると僕は思っているんですよ。

 

 「世の中には批判ばかりが溢れていて、そのために作る側が萎縮してしまうのは良くないから、もっと褒めるようにしよう」というような意見を目にします。一方、「世の中にはぼんやりと褒めるような意見ばかりで、もっと適切に批判がなければ良くならない」という意見も同時に目にします。

 そのそれぞれは、それぞれの発言者の主観において正しい認識なんだと思います。ただ、目の前に自分の価値観に合致した作品があるなら、それに対する批判を不快と捉えてしまうかもしれませんし、目の前に自分の価値観と異なった作品があるなら、それに対する賞賛を不快と捉えてしまうかもしれません。

 つまり、同じ話をしているわけです。今目の前にあるものが、自分の価値観と合致していて欲しいという願いの話です。そして、それが他の価値観に邪魔されず続いてほしいということでしょう。

 

 だから、「批判があったっていいじゃないか」と僕は思っています。その矛先が僕に対して向けられるものでもです。なぜなら、それは発言者のある種の悲鳴のようなものだと思っていて、その作品が自分の方を向いてくれていないということが不快だったり、悲しいんじゃないかなと思うからです。だから、もっと自分の価値観に合致したものを作って欲しい!と主張してしまうのではないでしょうか?

 そして、その願いを聞いて、そのようにするかどうかは作る側の判断です。聞いてもいいし、聞かなくてもいいでしょう。

 これは褒める場合でもそうです。あなたの作るこれが良かったからこのようなものを今後も作って欲しいという願いが届けられたとき、そのように作り続けるかどうかは作る側の判断です。もし、それを裏切るようなものを次に作れば、それまでの賞賛は、一転批判に変わるかもしれません。

 だから、きっと賞賛も批判も実は同じことだと思っています。価値観の話です。そして、繰り返しますが、世の中には共有される唯一絶対の価値観があるわけではありません。だから、その違いが、生じることは自然で、それが表明されることも悪いことではないと思っています。

 

 だから、批判ばかりでは何も生まれないわけではないということはないでしょう。その批判をしている人たちが、そういう価値観で生きているんだなという理解が生まれるからです。

 しかしながら、その批判は、そして賞賛も同様に、立場の表明でしかなく、それをしたところで、対象の作品やら人やらが、その批判や賞賛に合わせて行動しなければならない理由は基本的にないと思うんですよ。自分が出資して作って貰っているとかなら別ですが。

 僕が嫌だなと思っていることは、自分がその価値観の合致や相違を表明しているのに、相手にそれに合わせてもらえないとき、どれだけ主張しても相手がそうならないことが怒りに変化してしまうことです。怒りによって相手に精神的な重圧を与えることで、そこから逃れる動きを利用して自分の思い通りに相手を動かそうとすることは、相手の自由意志の否定であって、とても、暴力的な話だなと思うからです。それはやっぱり嫌ですね。

 

 ともあれ以上の理由から、何かを作っている人は、その作品に対する批判賞賛に対して、その批判賞賛は話者個人の価値観の表明であると認識して、間違っても世界の全てだと誤認しない方がいいんじゃないかと思っています。そして、そこで表明してもらった個々人の価値観に、自分が合わせたいかどうかを考えるという一拍を置くと楽な気持ちになるんじゃないかと思っています。

 また、批判も賞賛も価値観に多様性があり、そこに違いがある以上、自然に生まれてくるものなので、その表明は妨げられるものではないだろうなと思います。

 

 何かを賞賛ばかりしている人は、世間に溢れているものが自分の価値観と合致していて楽しいんだろうなと思い、何かを批判してばかりいる人は、世間に溢れているものが自分の価値観と相違していてしんどいんだろうなと思います。

 そういうものだなと思うことで、自分が作っているものに対する反応も、なんか他人事のように思えるというか、実際他人事なんだろうなと思って、それが自分がいつの間にか他人の反応が平気になってしまっていた理由なのではないかと思いました。