漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画を読み返して以前と違うことを思う関連、あと痛みが怖いという話

 ここ数日、「Dr.コトー診療所」を読み返しています。で、17巻にこのようなセリフがあります。

 

「痛み」は、人間のすべての気力を失わせる。楽しむ、喜ぶ、働く、生きる… …

その気力すべてを奪って、人の一生を「痛み」に耐えるだけのものに変えてしまう。

 

 これは鳴海という医師の言葉で、ある患者の手首を切断する手術をするかどうかの話の中で登場する言葉です。手や足を切断するということ、それは生きるために必要であったとしてもショッキングなことです。コトーは、その手術の技術によって、普通なら切断するような状態でも温存することができるかもしれません、 しかしながら、完全に元どおりにすることは困難で、ただ残しただけで上手く動かない体は、むしろ人の生活に不便を生じさせてしまうかもしれません。

 自身も右足の切断を経験し、義足の使用して生活している鳴海は、むしろ切断の方がいいと主張し、それはコトーの判断と対立してしまいます。

 

 連載時にこのくだりを読んだ時、コトーが正しく鳴海が間違っているというような印象で読んでいたように思います。この先の展開でも、鳴海の方が正しいというふうにはなりません。自分が抱える幻肢痛の痛みを、再建可能かもしれない他人の四肢を切断する判断をすることで誤魔化そうとするような鳴海の姿が描かれ、そして、その幻肢痛の原因自体は、切断するという事実とは関係ないことで取り除かれます。

 

 しかしながら、終わりのない痛みが続くことと、それによって気が狂うような気持ちになってしまうことについては、今読むと分かるような気持ちになりました。それは、自分がそれを経験したからです。

 歳をとってきたことから、たまに病気をやることがあり、それによってすごく痛いことになったりしました。そのときは、何日もの間、痛みが断続的に来ることで、眠ることもままならず、ひたすら呻いているような状態で、たった数日で、生きる希望が失われたりした気分になりました。

 生活する上で、何も困ったことはなかったわけです。あらゆることが順調で、将来の不安も特にないぼんやりとした毎日でしたが、それでも終わらない強い痛みが少しの間続いただけで、全てがおしまいのような気分になります。健康ですよ。健康がすごく大事です。

 

 鳴海は悪い医師だったし(その後改心しますが)、彼は嘘を並べ立ててとんでもないことを巻き起こしてしまったりもしますが、それでも、彼が「痛み」について語ったことは、何も間違っていないし、僕自身の経験と照らしても、真実だなというような気持ちになったりしました。

 彼は彼なりに苦しんでいたということが、自分の経験が合わさることで、分かるような気持ちになったということです。

 

 物語は、人が物語を描くということで終わるのではなく、それを別の誰かが読むことでようやく完成するものなんじゃないかと思っていて、どんなに素晴らしい物語があったとしても、それは100人が100人素晴らしいと感じるものではなく、読む側にそれを解釈する素養がなければ届かないものだなというふうに思います。もしかすると、世の中には100人のうちの1人しか上手く理解できないものもあるかもしれません。でも、それが99人が分からなかったとしても、1人が分かるなら、それはその1人にとっては掛け替えのないものだったりすると思うんですよね。

 年齢を重ねることで、経験が増え、解釈できるものも増えたように思っていて、だから、大人になってから読んだ方が面白い漫画なんていうのもすごくたくさんあるわけです。歳をとると目が肥えてきて、面白がれるものの範囲が減る、というような話も聞くんですが、別にそうとは限らないというか、昔は面白さがよく分からなかったものについても、今は分かると思うことがよくあります。

 

 なんかまたややこしいことを書き始めてしまいましたが、そういうことではなくて、「痛み」マジやべえよ…という気持ちがあり、ちょっと痛いだけで、あらゆる人生の調子よさが徹底的に破壊されてしまうみたいな気持ちがあり、そんだけ痛いときに何か言われたら、僕はめちゃくちゃ嫌な人間になってしまうだろうなという想像があります。

 極限状態になったときに人間の本質が出てくるみたいな話もありますけど、ほんとそうか?と思っていて、めちゃくちゃ痛いときに、何か言われて、めちゃくちゃ痛いがゆえに余裕がある対応をできなかったときに、それがお前の本質だ!!とか言われたらめちゃくちゃ嫌じゃないですか?もうほんと嫌なんですよね。痛いの。

 

 だから、鳴海先生、僕はめっちゃ言ってること分かりますよと思いました。痛くない感じに生活していきたいと希望しています。