漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

抽象化された物語を具体例で解釈してしまう関連

 物語では現実に存在する問題を固有名詞もそのまま具体的に描くものと、一旦抽象化したあと何か別のものに置き換えて描くものがあると思います。どちらがいいかという話ではありませんが、具体的なものでは、現実と密連携されているため、描写の間違いにセンシティブであったり、実際にその問題に関係している人たちの心情にも配慮する必要もあるかもしれません。

 

 例えば、ある具体的な病気を漫画で取り扱ったとして、医学的な間違いを描いてしまうと問題もあるでしょうし、実際にその病気にかかっている人がその漫画を読んだときにショックを受けるような描写があるなら、少なからず人を傷つけてしまう可能性を織り込んだ上で描くことになると思います。傷つける意図はないかもしれません。でも、傷ついてしまう人がいるかもしれないことには目を向けた方がいいと僕は思います。その上で、描くか描かないかという話だと思うからです。

 

 一方、その問題を一旦抽象化して描く物語では、現実との連携が疎になるので、その辺が緩やかになります。病気で言うなら、架空の病気であれば医学的な間違いの厳密性は軽減されますし、実際にその病気にかかっている人は存在しませんから、人を傷つけてしまう可能性も小さくなります。

 つまり例えば物語の舞台が架空の世界ならば、そのような現実との間に起こり得る摩擦を考慮する範囲が狭まるということで、人間の集団の内外で起こることや各人間の心情を描くことに集中するためには、むしろ、そのように現実とのリンクが疎の方がいいのかもしれません。

 

 ただ、具体的に描くことにメリットがないのか?と言えば、そうでもないと思っていて、具体的だからこそ今実際にあるその問題についての理解が生じるかもしれませんし、読者側も実際に自分に関係あるものであったとしたら、人一倍心に響くかもしれません。個別具体なそれはときに届き過ぎる槍のようなものであるからこそ、リスクとの両面があると思うわけです。誰かの胸に強く突き刺さる可能性が高いからこそ、その強さは毒にも薬にもなると思います。

 

 さて、抽象化されて置き換えられたものについては、読んでいる個々人が、その抽象化された枠組みと似たものを自分の経験から見つけ出し、関連付けて理解したりします。僕が思うに、物語を読むことで得られる理解は、それを作った者ではなく、それを読んだ者の中にあるので、その抽象化されたものが普遍的なものであればあるほど、個々人の中から当てはまる経験が見つけやすく、きっと心に響きやすいでしょう。

 おそらく、その抽象化された物語に感じ入る個々人には、それに対応する個別の具体的な経験があるはずです。しかし、それは人によって当然違っているとも思います。同じ赤を見て、リンゴの色だと思う人もいれば、血の色だと思う人も、共産圏やカップのきつねうどんを思い浮かべる人もいるでしょう。それぞれが異なる具体的なものを思い浮かべているのに、それを同じ抽象化された枠組みで表現することができることの良さがあって、同時に怖さもあるかもしれません。

 

 ここで憶えていた方がいいと思うのは、そこで思い浮かべた具体的なものは、あくまで自分自身がそれに関連付けて理解したというだけであって、元となる抽象的なものは、そればかりではない無数の具体的なものになぞらえることができるものだということです。

 

 チャンピオンで連載中の「BEASTARS」では、肉食獣と草食獣が同じ社会を営む世界が描かれています。肉食獣には本能的な草食獣を食べたいという欲求があることが前提となっており、そのために草食獣が喰い殺される食殺事件が起こっては社会的な問題にもなっています。

 この物語の舞台は今僕たちが生きている現実の世界ではないですが、描かれている状況や感情には、自分が覚えがあるものが含まれていると僕は理解していて、この物語もまた、抽象化されたものを置き換えて描写されているものだと言えるでしょう。

 

 しかしながら前述のように、これはあくまで「BEASTARSの世界で起こっている問題を、一旦抽象的に捉えれば、自分の具体的な経験とリンクさせて理解することができる」というだけのことです。だから、BEASTARSの世界で起こっていることは、そこから自分が連想した具体的なものだけに閉じた話ではないと思った方がいいのではないかと思うのです。

 

 例えば「肉食獣が草食獣に感じる食欲」は「男から女への性欲」に置き換えて理解することが可能かもしれません。例えば、「肉食獣と草食獣の非対称な関係性」は「人種による差別」に置き換えて理解することも可能かもしれません。

 でも、他のものに置き換えることもできるはずです。草食獣に対する食欲を抱えてしまった肉食獣の苦悩が、もし男から女への性欲にしか変換して理解できないものだとしたら、では、この苦悩は女性には理解ができないものなのでしょうか?きっとそんなことはないはずです。自分がどうしても抱えてしまう欲求が他人を傷つける種類のものであるという抽象的な苦悩は、男の性欲以外にも存在するものだと思うからです。

 肉食獣と草食獣の関係性についても同様です。力が弱いために暴力に怯えながら暮らす生まれながらの弱者の苦悩や、力が強いがゆえにその行使を厳しく監視されてしまう生まれながらの強者の苦脳、その他にも色々な要素をその中に認めることができ、それらを現実の社会にある色々な具体的なものになぞらえて捉えることができるはずです。

 

 だから、この物語で描かれているこの描写は、実は現実に存在する○○を描いているのだという理解は、その読者一人の中の理解では真実かもしれませんが、その真実は実は人の数だけあるかもしれません。自分の中だけに閉じていれば間違いのない話を、その外にも適用しようとしてしまうということは、実はもともとの描写の持っていた豊かな枝葉について、一本を残して全てを切り落としてしまう行為かもしれないと思うわけです。

 

 ジェイムズ・ティプトリー・Jrの「接続された女」という小説があります。これは広告が禁止された未来のお話で、そこでは誰もの注目を集める魅力的な人間が、さりげなく商品を宣伝するという行為が横行しています。しかし、誰もの注目を集める魅力的な人たちに、こっそり広告を依頼するよりも効率的な方法を思いついた人たちがいました。それは、そんな魅力的な人間を意図的に創造することです。

 魅力的な容姿を伴ったボディに、別の女の精神だけが接続されることになります。その接続された女は、魅力的な振る舞いを演じることを求められます。

 広告塔となることを目的として、誰の目にも魅力的に映るように作られた彼女は、見事その意図通りに大衆の注目を集めることに成功します。さらには、ある大金持ちの御曹司に見初められることになるのですが、彼は彼女を理解しようとするあまりに、接続された女の真実の姿を見ることとなり…、というお話です。

 

 このあらすじを読んで、例えばCGの容姿で人間が活動する様子の動画を作っている「バーチャルユーチューバー」を思い出さなかったでしょうか?接続された女は1970年代に書かれた小説です。となれば、この小説は予言的ではないかと思わなかったでしょうか?

 

 この「接続された女」を、ジェイムズ・ティプトリー・Jrの母であるメアリー・ブラッドリーの著作「I Passed for White」と関連付けて評する文章を以前読んだことがあります(今調べたら「狭間の視線 ─メアリ・ヘイスティングス・ブラッドリー&ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア母娘に見るpassingの政治学小谷真理)」でした)。

 僕はこの「I Passed for White」を読んだことはありませんが、白人と黒人の混血である女性が主人公で、その見た目が白人にしか見えないことから問題が生じるお話だそうです。黒人差別が今よりもずっと色濃い時代に、見た目だけならば白人として取り扱われる女性が、その出自が周囲にバレないように奔走したり、自分の子に黒人の特徴が出ないかを危惧したり、そして、夫である白人男性が、黒人男性に向ける差別的な視線に気づいて傷ついたりする内容だというのです。

 これは確かに「接続された女」と似ている部分があります。魅力的な容姿と演じられた人格を備えた広告塔の裏には、醜い容姿と真実の人格を持った接続された女が隠れているからです。

 だとすれば、「接続された女」は予言的な物語ではなく、当時既に存在していた感覚を描いたものかもしれません。

 

 他人に求められるためには、その他人の物差しに見合う魅力的な容姿や人格を獲得しなければならないということ。しかしながら、その表にあるものは本当の自分自身ではなく、作り上げ演じた結果保っているものであって、その裏側には実はそうではないものが広がっており、その露見に対する恐怖があるということ。

 このような抽象的な枠組みについて、当時は混血児という具体になぞらえて理解したかもしれませんし、現代ではバーチャルユーチューバーという具体になぞらえて理解するのかもしれません。そしてもしかすると、何十年か先の未来には、別の理解も存在するかもしれないでしょう。

 

 だとすれば、「接続された女」が描いていたものは現代の予言ではなく、人間が抱える普遍的な課題への示唆と考えることもできます。その普遍的課題が一旦抽象的に捉えられたあと、「未来の物語」という形に置き換えて描かれたことが、当時と現代の生きる時代の異なる読者に対して、それぞれ異なる具体を対象にした理解を得られるという結果になったと考えることもできるのです。

 

 抽象的な物語にはその柔軟性があって、誰もが異なるものを思い浮かべながら、同じような気持ちになることができる余地があります。だから、その物語の持つ良さを社会で享受するためには、自分自身がある物語を具体的な何かになぞらえて理解したとして、それが唯一の解釈方法だとは思わない方がいいのではないかと思っているという話です(抽象的に書きました)。

 この文章は、せっかく様々な人が自分なりに解釈できる余地を残して抽象的に描かれている物語を、この物語は実はこの問題を描いていると解釈する方が正しい!と言っている人の文章を読んで、わざわざ狭く解釈することを他人にまで求めてやがるし、くそムカつくなあと思って書かれました(具体的に書きました)。