漫画皇国

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「からくりサーカス」のアニメでジョージ・ラローシュはピアノをまた弾いてねと言ってもらえるのか??

 「からくりサーカス」のアニメは全43巻をたった36話でやりきるという厳しい前提のもとに作られているアニメで、当然その全てをやりきることはできませんから、原作漫画の中から取捨選択をし、爆速で話が進められるという感じになっています。

 これは正直、原作ファンとしては辛いところもあるところはあって、なぜなら気づいてしまうからです。原作を知っているがゆえにその中から「何が省略されているか」ということにです。

 

 人間は期待をしてしまう生き物だと思うのです。そして、その期待が達されなかったときに、がっかりしてしまうのだと思うのです。それは、生理的なレベルの話なので、きっと仕方がないんですよ。だからそうなりそうなときには、期待をしないでおくことが重要です。

 

 しかしながら、そうは簡単にいかない事情もあります。

 僕が思うに、物語を読むのは2回目以降がより感動してしまったりするんですよ。なぜなら、自分からそれを受け止めに行けるからです。この次に何が起こるのか?それを既に知っているがゆえに、笑いたいときは笑う準備をし、泣きたいときは泣く準備をします。全力で。

 もしここで笑ってしまうと、次悲しくなるんじゃないだろうか?とか、ここで泣いてしまっても肩透かしになってしまうんじゃないだろうか?とか、先の展開への不明の不安から、自分の選択に迷いを残し、おっかなびっくりドキドキ見てしまう…そんな1回目も新鮮な感情で楽しいですが、先が分かっているからこそ思う存分に感情を解放する2回目以降があるわけです。それはそれでめちゃくちゃよくて、だから僕は同じ漫画を何回も何回も読みます。なぜなら、それがめちゃくちゃ気持ちいいからです。

 

 何かが省略されるかもしれないアニメではその2回目以降に作用する気持ちが逆に働く可能性があります。あの言葉や、あの表情や、あの行動が、次に来ると思い、「来るぞ来るぞ…」と思う存分味わう気まんまんでいると、省略されていて来なかったりするわけです。となると、おいおいおい!!この感情どないしたらええんや!!となってしまうじゃないですか。

 

 だから、それを期待はしてはいけないわけですよ。意識的に精神をその状態に持っていかなければなりません。まるで初めて漫画を読んだときのように、自分の中で記憶を切り離して、アニメに集中します。そうしなければ、あれがなかった、これがなかったという話をするしかないじゃないですか。で、それって個人的にはつまらない気持ちなんですよね。だからやりたくない。

 

 そんな気持ちを抱えながらアニメを見ているわけですが、でも、今のところアニメを見ていてよかったなという気持ちは十分あって、特に古川登志夫の演じるキャラがめちゃくちゃいいですね。これが聞けただけで、それだけでももう十分アニメを見てよかったなという気持ちがあります。自分が好きな場面が、映像となり、音や声がつくの、めちゃくちゃ嬉しいじゃないですか。

 そんな感じに楽しく見ているわけなんですよ。

 

 さて、からくりサーカスがアニメ化されると聞いたとき、これはどこかを省略するしかないよなあというのは分かったので、じゃあ、何が削られるのかな?と思うわけです。黒賀村での勝の修行編などは、本編の進行上は削られても仕方ないだろうなと思っていて、いや、でもいいエピソードあるんですよ。シルベストリとかね、最後に日常が崩壊するときの絶望感とかね、パンツとか、ビッグサクセスとか、アンラッキーとかあるわけですけど、でも、削られるならここかな?という感じもしました。そして、案の定、全部省略されていることを確認しました。

 

 でもね、省略されるかされないか、微妙なところにいる人がいるわけですよ。僕は彼のことがめちゃくちゃ好きで、その名前はジョージ・ラローシュと言います。

 

 彼は生命の水を飲んだ不死の超越者ことしろがねになっただけでなく、その身を機械で改造したしろがね-Oとして最初に登場した男です。彼はその身の一部を機械に置き換えたときに、心までそうしたように感情を排除した合理的な男で、それゆえにかつては自分も疾患していたゾナハ病患者の子供にも辛く当たります。彼にとってはその子供から憎き自動人形の情報を得ることこそが重要だからです。

 彼は自分は優れた存在であって、優れているからこそ価値があると思いあがった男ですが、その思い上がりは人間味を人間味のスープに入れて煮込んだような男、鳴海によって否定されてしまいます。

 襲い来る自動人形に無残にも負けてしまったジョージは、その身を悪魔と化し、圧倒的な暴力によって人形破壊者、それそのものの権化となった鳴海の姿を目にします。自分には価値がある、なぜなら強いのだからという考えは、自分が弱き者であることを自覚したときに脆くも崩れ去ってしまいます。

 

 人間とは何か?人形とは何か?人形に敵対するために超越者となったジョージは、人形と戦うために、人間よりも人形に近い存在となり、そうしてまで強くあろうとしたのに、結果は敗北なわけですよ。ジョージは、他のしろがね-Oたちからも戦力外通告されてしまうわけです。悲しいですね。悲しいでしょう?そう思いませんか??

 

 そしてアニメでは、そんなジョージの最初の登場時の役割がギィに取って代わられてしまいます。これを見たときには、ショックがありましたね。ジョージがいなかったことになるのか??と思ったからです。でも、すぐに気を持ち直したのは、ネットで見た声優情報の中にジョージの声の情報があったからですね。よかった、いる、重要な役割はギィにとられてしまったけれど、彼は存在しているんだ!!と希望が持てました。

 

 ジョージはあんまりいいところがないです。自信満々で登場したのに、いいところないんですよ。でもね、彼はひょっとすると、このからくりサーカスという物語そのものを体現しているかのような存在じゃないかと思ったりもするんですよ。

 それは誰かに操られる人形と、自分の意志で生きる人間の狭間で思い悩む男だからです。

 

 子供の頃、ピアノを練習していたジョージは厳しい指導の中で自信を奪われました。お前は譜面を再生するだけの機械でしかないと言われてしまうからです。譜面が運命であるならば、彼の人生もまた、それに翻弄されるしかないか弱い男ですよ。彼はそんな機械であり、機械でありながら精一杯の虚勢と、張りぼての自信とともに生きますが、そんなものは脆くも崩れてしまうわけです。

 

 彼は阿紫花という男に出会います。彼は人形繰りの暗殺者でありながら、幸運にも得た仕事で大金を手にした男です。しかしながら、そんな刺激のない毎日は彼を退屈させました。ジョージは阿紫花の前に現れ、自動人形との戦いへの参加を促します。阿紫花は目に光を戻し、その姿はジョージにも刺激を与えます。

 それは、ただひたすらに合理的であろうとしたジョージが、道の外にある非合理に足を踏み出すための意味ある刺激でした。

 

 自動人形たちが迫りくる中、子供たちは怯えました。自分たちにゾナハ病をもたらした自動人形たちが、再びやってくるのですから。それを紛らわせようと下手くそなサーカスを演じようとしたのが法安というジジイで、その姿を見て、ジョージは気まぐれにピアノの伴奏を買って出ます。

 かつては自分が怯えさせた子供たちの前で、下手くそな綱渡りが終わり、ピアノを弾く手を止めたジョージにもたらされたのは喝采でした。かつて機械でしかないと罵られたジョージのピアノは、子供たちにはとても魅力的に感じられたのです。

 

 「ピアノをまた弾いてね」

 

 子供たちからはこんな言葉がでました。それはジョージが今まで何をしても手に入れることができなかった、自分が喝采の中で求められるという体験です。

 ジョージは変わります。変わろうとする意志を持ちます。自動人形とともにやってきた、もはやしろがねですらなくなったOの男を前にして、ジョージは立ちふさがります。Oの男の装備はジョージの上位互換で、正面から戦っても勝ち目はありません。しかし、そんな勝てないはずの相手の前にジョージは立ち、非合理な行動をとるのです。ジョージは、阿紫花からもらった煙草を吸い、合理的に生きることを止めたことを宣言するのです。

 

 合理的とは何でしょうか?それはひょっとして誰かが決めた物差しに従って生きていただけじゃないのでしょうか?いや、それは生きていたとも言えないかもしれません。生きているフリだった、そうは言えないでしょうか?煙草を吸うことに合理的なメリットはありません。ならやらない方がいい。合理的な意見です。でも、その合理は、自分の人生から煙草を吸うという選択肢を奪ってしまいます。

 

 もしかして、その合理性というものは誰かが書いた譜面でしかないのではないでしょうか?

 

 自身が愚かであることも奪われ、誰かが決めた正しいことに寄り添わされて生きるということが、誰かに操られた人形でしかなかったのだとしたら、優れた人間であるために人形に近づいてしまったジョージはまさにそれです。でも、ジョージは人間でしょう?自らの意志を持ち、自分の行き先を自分で決めることができる人間じゃないですか。

 運命という地獄の機械に逆らい、たとえそれが愚かだとしても自分の進むべき道を切り開く人間の姿が、そこにはあるんじゃないでしょうか?

 

 「ピアノをまた弾いてね、と言われたんだ」

 

 ジョージはその言葉を何度も何度も反芻します。これまで自分がどれだけ望んでも手に入れられなかった言葉が、少しの気まぐれで脇道に逸れた場所で、まるで事故のように手に入ってしまったのです。それならば、これまでの合理的であることから一歩も踏み外せずに生きてしまっていた人生は何だったのでしょうか?ジョージは、ジョージの人生は、今この場からやっと始まったのではないでしょうか?

 

 「こんな私にだぞ!!」

 

 ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。自分の価値を低く見積もってきたわけですよ。人間を超越したしろがねだと、しろがねをも超越したしろがね-Oだと、自分の外にあった価値を提供してくれる何かにすがって生きてきたのは全てそれを覆い隠すための虚勢だったわけですよ。自分は誰にも求められず、それゆえに、自分の外にある何かにすがって生きるしかなかった弱くて悲しい男の人生が、生まれて初めてやりたいことを見つけることができたかのように、輝き始めるわけですよ。

 

 最古のしろがねであるルシールは言いました。人生はスケッチブックのようだと。やっと描きたいものが決まった時には、それを取り上げられてしまうのだと。ジョージ・ラローシュの人生もまた同じです。彼の人生は、今まさに始まったところで、終焉を迎えます。

 結局死ぬのならば、生きることに意味はなかったのか?いや違うでしょう?鳴海の師匠、梁剣峰は爆薬による自爆を選択しながら、笑って死にました。

 

 「私は本物の人生を生きた」のだと。

 

 死は誰にでも訪れます。しろがねの人生は、それを考えれば長いぐらいです。でも、他人の人生を長く生きながらえるより、短く終わるとしても自分の人生を生きる方がいい。そんな不合理な選択をすることもできるわけですよ。自分の人生なら。ジョージ・ラローシュもやっと自分の人生に辿り着けたわけじゃないですか。

 

 だから、これは悲しい話であると同時に、幸福な話でもあります。

 

 で!!!明日あたりは時系列的に言えば、この話がアニメになるかどうかというところなわけですが、最初に書いたように期待はしてはいけないわけですよ。期待しちゃうとなかったときにがっかりしちゃいますからね。がっかりはしたくないんですよね。なぜならがっかりするからです。だからがっかりはしたくないので、気持ちを無に保ちます。

 

 果たしてアニメのジョージ・ラローシュは自分の人生を掴むことができるのか??できなくてもいいです。だって僕は知っています。原作漫画を読んでいますからね。だからどっちでもいい!どっちでもいいが、ジョージ・ラローシュにはこのような人生があったということを、皆も認識してくれ!!認識してくれよな!!という強い気持ちがあることを、ここに書き残しておくことにします。

 

【2019/3/28 22:55追記】

 ジョージ・ラローシュの最期!!全部やってくれたぞ!!!!やったー!!!!!よかった!!!!!!!!!最高!!!!!!!!!

 次はパンタローネの「歌も…歌えるんだ…」を楽しみにします!!!!!!