漫画皇国

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制限がないことは表現の多様性を育むのか?関連

 世の中は不自由だなと思うところがあって、自由な表現というものはどこにあるんだろうな?と思ったりします。とりわけ、経済活動としての側面を求められる本については、不自由な要素が多いように思えていて、なぜならば、売れなければ続けることができないので、その中の表現については「それを発表することによって読者を獲得し続けることができなければいけない」という要求が大前提として存在してしまうからです。

 

 「読者に求められているものを提供しなければならない」ということは自由でしょうか?これはもっと小規模な同人活動や、Webで無料公開する小説などからも排除が難しい課題です。「より多くの人に読んでもらう」ということが前提になったとき、その舵取りの主体は読者側に委ねられてしまうことも多いと思われるからです。

 そこから完全に抜け出すには、「誰にも読まれなくてもいい!」というところに芯を持ってこなければなりません。でも、誰にも読まれなくていいなら、そもそも表現とは何か?ということでもありますよね。

 

 ただ、読者が何を求めているか?ということを正確に掴めるなら、その時点で偉業を達成しているように思います。そんなの、勝利条件をひとつを満たせているような状態じゃないですか。普通はそれが分からないから色々試してしまったりするんじゃないかと思います。ただ、これにある程度合わせられる方法もあって、それはつまり、既に売れているものを模倣するというものです。

 流行りのスタイルに便乗するとか、あるいは、流行りの本のスピンオフとして公開するなんて方法もあります。これが多く目に入るというのは、つまり、結構追い詰められてるってことなんじゃないかと思うんですよ。色んな方法を試すことよりも、少しでも確度の高い方法を選ばざるを得ないからです。それは失敗する余裕がないってことだと思うわけなんですよ。

 

 雑誌をより売ろうとすると、エロに特化した連載の割合が増えるという現象を何度か観測したことがあります。その過渡期に好きだった連載が次々に終わっていったり、人気があって連載が継続した作品が、他のエロ連載の中に埋もれて余計に異才を放ったりしていました(具体的に言うと一時期のアクションにおける「軍鶏」など)。

 

 ここに僕が見て取ったのは、何の制限もない状態で、その人が考える一番売れる確度の高い方法を選ぼうとすると、実は参加者皆が同じような結論に至ってしまうということもあるんじゃないかということです。スポーツのルールなんかもそうで、それをやったら有利になるという強い方法が現れると、それを制限するルールが追加されることもあります。

 エロを描けることは自由かもしれませんが、そのためにエロ以外の連載が減ってしまうという経験を踏まえると、エロばかりを載せざるを得ないという逆説的な不自由さもあるんじゃないかと思ってしまうんですよね。

 自由であるがゆえに、皆が最も効率のよい同じ方法に辿りついてしまうことは自然界にもあって、異なる進化の過程を経た別の動物が、同じような形質を獲得する収斂進化なんかもその範疇かもしれません。スマホだって、結局皆同じような形になってしまいました。

 

 不自由であることが多様性を育むかというと、別にそんなことは言えないかもしれません。ただ一方、多様性を育むために自由であろうとしたことが、結果的に見た目上同じようなものばかりを生み出してしまうというジレンマもあるように思っていて、なんだか難しいなと思ったりすることもあるという話です。

 

 ここからちょっと話が変わるんですが、エロい描写のある漫画は僕も好きで読みますが、分野としては特殊な領域のように思います。そのひとつがタグ付けだと思っています。

 ダウンロードサイトなんかを見れば、エロ描写の特徴がタグ付けされて整理されていたりなんかして、読者が好きな対応のタグを渡って別の作品を読んだりもするようです。でも、これって面白い現象で、好きな属性がタグ付けされていれば、作者については何も知らなくても読むきっかけになったりするっぽいんですよね。

 こういうのは、無料で読めるネット小説のサイトなんかでも当たり前になっているように思います。誰が書いているかだけでなく、何を書いているかを手掛かりにして読むきっかけになっているのは面白い話です。

 

 このような現象は、例えば初音ミクなんかでも感じたことがあって、音楽のジャンルではなく、ボーカロイド初音ミクを使っているということを接点として、本来なら全然違う色んなジャンルの音楽を聴く切っ掛けになったりもするわけじゃないですか。

 

 それを言うと、多くの漫画では内容の属性よりも「作者の名前」が依然としてタグとして強い力を持っているように思います。かつては「連載雑誌の名前」も大きな力を持っていたように思いますが、最近ではジャンプを除いては衰退傾向にも思えます。なぜなら、単行本を買っていても、それが何の雑誌で連載されているかを把握していないという人が結構いるのを見るからです。これって、今まで接点のなかった新しい漫画に辿り着くための経路がどんどん貧弱になっているとも思えるわけなんですよね。

 

 一方で、属性による多様なタグ付けありきの中で勢力を伸ばしているように思える「エロ」とか「異世界転生」とかが強いことにはそういう背景があるんじゃないでしょうか?強いタグに紐づけられることで、それまで無名の作者だったとしても、読者が到達してくれる可能性が上がるからです。

 SNSで流行っている「○○が××する話」みたいなタイトルでの漫画の公開も、タグ付けをすることで、前提を共有されていない人の目にも届くようにするというような意味があるんじゃないかと僕は思っています。

 

 そして、また話が戻ってきますが、強いタグを背景に持つか持たないかで、読まれる力が大きく変わるなら、結局のところ自由に見える選択肢の中でも、より強いタグを選ばざるを得ないという不自由さもあるんじゃないですかね?そういうことを思うと、やっぱり難しいなあと思うわけなんですよ。

 自由が存在することで、見えている勝ちパターンを選べてしまうことから、皆がそれを選ぼうとしてしまうということは、逆に多様性を減じ、同質化を促進してしまう恐れもあると思います。そういうことを思うと、あれ、多様性のための自由なんじゃなかったっけ?というような疑問が生まれてしまうんですよね。

 眼前には、似たジャンルの作品や、既に売れている漫画のスピンオフが多く目に入ってしまったりもするわけじゃないですか。

 

 漫画を商売として続けたいなら読まれなければいけないし、多くの漫画は、人の目に触れて面白いとか面白くないとか言われる前に書店の店頭から消えてしまったりもします。

 それが悲しいなと思うことがあって、だから、タグでもなんでもいいので、より多くの人の目に触れる道筋が必要なんじゃないかと思いますし、そしてそれが何でも描いて良いはずの自由の中に、一面的には同じような漫画ばっかりに見えてしまったりもする根源があるような気がしていたりするのです。

 それが良いことなのかは僕にはまだ整理がついていません。