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「世界は寒い」と塵芥のような自分関連

 この前「世界は寒い」の2巻(完結)が出たんですけど、昨日のコミティアでその補完本も出て、それも読んだので感想を書きます。

 

 世界は寒いは、フードコートでバイトする6人の女子高生が、客の忘れ物の拳銃をうっかり手に入れてしまうというお話です。彼女たちは弾丸をひとつずつ持ち、それを使って自分が殺したい相手を考えることになります。「殺したい奴が居ない人間なんか居ねえだろ?」、それは言葉の上のことでしかなかったかもしれません。拳銃さえ手にいれなければ。だって殺したいと思ったとしても実際殺してなんかいないじゃないですか。

 ジョジョ5部のプロシュートの兄貴も、ギャングは「ぶっ殺すと心の中で思ったなら、そのとき既に行動は終わっている」べきだと言いますし、多くの場合、行動は言葉よりもずっと正直なんですよ。やりたい理由があっても、それ以上にやりたくない理由があるからやらないわけでしょう?

 殺したいけれど、実際に殺すほどじゃない、もっと言うなら、実際には「殺したい」わけじゃなくて、「その人が自分の人生の範囲からいなくなってくれればいい」というだけのことかもしれません。

 

 でも、拳銃を手にした瞬間、その乖離は少し埋まってしまいます。自分の「殺す」という言葉を「表現できる手段」を手に入れてしまうからです。「RED -living on the edge-」という漫画では、部族を白人に皆殺しにされたインディアンのレッドが、ある男から巨大な拳銃を手渡されます。今までいかなる怒りを抱えていても、その巨大すぎる感情を表現する手段を持ち合わせなかったレッドが、ヘイトソング(憎しみの歌)と名付けられた拳銃を手にすることで十全に表現できるようになってしまいます。歌を初めて覚えた小鳥のように、レッドは何度も何度も拳銃を撃ち続けてしまうのです。ついにはその大きな反動で自分の腕が折れてしまうまで。その様子は、ついに訪れた解放感と同時に、哀れにも見えました。

 

 銃は暴力であると同時に、平等の象徴という意見があります。それはどんなに体格の立派な強い男であっても、銃さえあれば子供にも殺されてしまう可能性があるからです。肉体や立場の格差を一手で埋められる存在が銃だと言われれば、確かにそうなのかもしれません。

 でも、それを使うことを選んでしまうことそれ自体が幸福なことだとはとても思えないわけですが。

 

 さて、彼女たちは拳銃を手に入れたことで、自分の人生に向き合うことになります。手渡された一発の弾丸を誰に使うべきかを考えなければならないからです。今まで抱えていたぼんやりとしていたかもしれない悩みを、誰かのひとりの存在を対象に結実させて、それを殺すことで解消できるという権利をうっかり手に入れてしまいました。

 それによって、今まではどれだけ憎んだとしても行動にまでは至らなかった感情が、今ではその気になれば容易に表現できるようにもなってしまいました。

 

 そこには6人の6人なりの人生があり、それぞれを何らか自分を束縛する対象、あるいはしっぺ返しを食らわせたい対象が存在します。

 

 世界から見ればひとりひとりの人間の人生はきっとちっぽけなものでしょう。人間という単位で見ても70億人の中におけるひとりひとりの人生は、70億分の1に希釈されてしまいます。広い宇宙から見ればもっとそうでしょう。吹けば飛ぶような塵芥(以下、ちりあくたと読んで下さい)です。だから、当人にとっては人生を変えるほどの大きな悩みは、少し視野を広げるだけでも、ちっぽけでしょうもない悩みと理解されてしまったりするんですよ。

 それは実際しょうもないのかもしれません。しかしながら、世界からみればちっぽけな塵芥のようなものだとしても、塵芥自身にとってはやっぱり重大なものであったりするでしょう?ならば、広い視野を持ち抱えた世界の視点は、その塵芥からの視点と比べて本当に正しいのでしょうか?

 僕にはその疑問があります。自分自身もまた同じ塵芥のひとつでしかないのですから。

 

 この考えには僕個人の私怨的な根っこがあって、自分がすごく悩んでいることについて、関係ない人から世界レベルとは言わずとももっと広い話と比較されて、だからそんな悩みには価値がないし気にするべきではないという感じのことを言われたことが昔ありました。それが、すごく嫌だったんですよね。

 当人からすれば、僕の悩みを軽くしてあげようという親切心的な意図があったのかもしれませんが、それがいかに他の人にしょうもなく見えても、自分にとっては天地がひっくり返るほどのことであったことは確信的であって、その感じ方がおかしい、比較対象は君の外に広がっている世界と言われても、はいそうですね!気にしません!と素直に思えたりはしないわけじゃないですか。はあ?世界でございますか??その世界って誰なんだよ!!と。

 でも、だからどうすればいいのかは全然分からないわけですよ。中年になっても!全然!!

 

 漫画の話に戻ります。

 

 彼女たちは、同じバイトをしているという以外にはあまり共通点がなく、置かれた環境も様々で、抱えた悩みもそれぞれです。だから、誰かの悩みには自分とは違う前提があり、理解はできたとしても共感はしにくいんじゃないかと思います。共有する秘密で繋がっても、そこには相互無理解ゆえの軋轢も存在します。

 でも、置かれた異常な環境の中で、彼女たち人と人との間にあった壁がなんらか融解していくわけです。それが一部であろうとも、確実に。それは、自分のことだけで手一杯だった子供が、自分の外側にある世界を知り始めるということかもしれません。自分以外の環境や立場や感情があるということを知り、彼女たちの世界は6人ぶんだけ広がったように見えました。

 

 最後の話で、古賀ちゃんが細野様に代わって自転車を漕ぐところ、めちゃくちゃ好きなんですよね。人間は同じスペックの代替可能な部品なんじゃないんですよ。ひとりひとりに個性があって、それぞれが抱えたものも得手不得手もあります。それがそれぞれ補い合うようになって、彼女たち6人で作り上げた少し広がった世界は、きっとたったひとりであったときよりも強いものでしょう?

 それはきっと彼女たちがもう拳銃を必要としなくなったってことなんじゃないかと思うんですよね。

 

 だって、その手にはもう、殺す以外にも手段があるってことじゃないですか。

 

 世界は広くて、一生かかってもその一部しか理解できないかもしれません。僕も自分が歩いてきた轍ぐらいしか分かっていません。そこをひとつなぎに接続しても、感じるのは寒さだけかもしれませんよ。だって世界からすれば、自分なんてどうでもいい塵芥なんですから。世界に人格があるなら、きっと自分個人には興味がないでしょう。

 でも、自分を世界と対立させ、それを破壊するようなことを望むこともまた、虚しいような気もしていて、我々はきっとそんな中でも人生を世界と接続してやっていくしかないんじゃないかなと僕は中年になって思いましたが、若者は?若者はどうなんでしょうかね?いまどきの。

 

 彼女たちの未来に閉塞感がないものが広がっていればいいなとすごく思っていて、それは閉塞的な状況と無縁であることではなく、そんな状況があったとしても人は笑えるようになるってことなんじゃないかと思うんですよね。

 「未来は明るい」、それは彼女たちがまだ若いからじゃなくて、中年になっても、老人になっても、そう思えないと世界はずっと寒いままなんじゃないかなと思いました。

 

 幸あれ!

 

 そういえば、彼女たちのバイト先、ヨーカドーのポッポのような雰囲気だなと思うんですが、ヨーカドーのポッポ、最近は結構閉店しているところがあって寂しいですね。以前の仕事場の近くにあったときには、お好み焼きと黄金焼きをよく食べていました。