漫画皇国

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瞬間移動と仙豆と無、あるいは移動の物語であったドラゴンボールが移動を捨てるまでの話

 ドラゴンボールはその中で移動が果たす役割が変遷する物語ではないか?という話を考えたので、その話をします。

 

 初期のドラゴンボールにおいて、移動とは物語そのものでした。山奥にひとりで暮らしていた悟空をブルマが連れ出すところからこの物語は始まるからです。そして、7つ集めれば願いが叶う球、ドラゴンボールを探すため、世界中を旅することになります。

 1年経てば復活するドラゴンボールを集める旅は、何度も繰り返され、そのたびに悟空は世界各地を巡りました。

 

 そして、サイヤ人編になってからは移動はドラマを盛り上げるための舞台装置に変化します。具体的には悟空の移動と悟空以外の移動の軸を分けることで、悟空の不在によるピンチと、適切なタイミングでの到着による状況転換を演出するようになりました。サイヤ人との戦いでも、ナメック星での戦いでも、悟空は常に遅れてやってきます。界王様の星から地球へや、地球からナメック星への移動の時間がそのための制約となっています。ちなみに、これは映画の「神と神」において、とっくについているのに出るタイミングを見計らう悟空というギャグにもされました。

 悟空がいないことによる他の人たちの活躍とピンチ、悟空がやっと到着したことによる強い状況転換という黄金の勝ちパターンがここに生まれており、そのためには物語上の要請として、悟空の遅刻が必要とされることになっています。

 

 ところが、人造人間編になって、いきなりこの手段が根本から破壊されます。それは瞬間移動の登場によるものです。悟空が宇宙で身に着けてきたこの能力は、宇宙のどこからどこへでも目当ての相手がいる場所に一瞬で移動できるようにしてしまいました。これがあれば、界王様の星からでも一瞬で戻ってこれます。ナメック星へも一瞬で行けるかもしれません。今までの黄金パターンとなっていた展開について、いきなりそれを成り立たせるための前提を破壊するようなことをしていて、かなりアヴァンギャルドなやり方をぶっこんできたなと思いました。これすごくないですか?過去の成功に全く囚われていません。

 

 瞬間移動はこのように従来便利に使っていた制約を壊す存在ですが、その副作用としてわずか1コマで宇宙のどこにでも場面転換できるという強力な武器にもなります。人造人間編以降の物語では、悟空の瞬間移動があることによる高速の場面転換によるスピーディーな物語展開が特徴です。

 どれだけ距離が離れていたとしても、悟空はすぐにそこに行って帰ってくることができます。普通は存在するものを全くの無にしてしまうという発想、これはものすごく特異であるように思えます。

 

 鳥山明の漫画の特徴とは、もしかするとこのような省略の技法によるダイナミックな物語の緩急のつけ方にあるのかもしれません。本来長いプロセスが必要なはずのものを1手で埋めるというような手法を多用するからです。

 

 それは例えば移動時間を無にする瞬間移動であり、例えば怪我の回復時間を無にする仙豆です。あるいは、ナメック星到着時に悟空が持っていた能力「探らせてくれ」かもしれません。

 ナメック星に到着したばかりで、状況が飲み込めていない悟空にクリリンが説明しようとすると、悟空は喋らなくていいとクリリンの頭に手を乗せ、「探らせてくれ」と言ってのけます。それだけで悟空は全てを把握してしまいました。なぜ悟空にこんな能力が生まれたかの説明はありません。なんとなくできるような気がしたと言ってのけるだけです。そして、この能力、この後一切出てきません。

 これはめちゃくちゃパワフルな省略の技法です。クリリンが悟空に状況説明をするということは、必要なシーケンスですが、読者にとってみれば既に把握していることを説明することになるので無駄です。読者に対して提示する必要のないものを、辻褄合わせ上必要だからと描くということはある種の誠実さかもしれませんが、鳥山明の漫画ではそれはむしろ不誠実ということなのでしょう。読者に必要なものだけを高密度に提供することができればよく、そうでない部分は限りなく省略するということに美学があるように感じることができます。

 これはもしかするとドラゴンボールの連載が、他の漫画よりもページ数が短かったこととも関係しているかもしれません。そんなことをゆっくり描いているようなページがないからです。

 

 これ以外にも、ナメック星のドラゴンボールでは複数の人間を一度に生き返らせることができないという制約が、「パワーアップさせておいた」の一言で解消されてしまったりもしました。今必要なことがあり、それが何らかの理由で手間暇をかけなければ解消できないという状況があったとき、鳥山明の漫画では、それを一手で無に変えてしまうという手段を堂々ととってきます。

 

 これ、ほんとなかなかできないことだと思うんですよ。不要なものは描かないということを、ここまで徹底することは。ハンターハンターでも制約と誓約というバランス調整機構があるじゃないですか。大きな力を使うにはそれなりのリスクを背負う必要があります。でも、ドラゴンボールではそこが無になることがあるんですよね。描くべきことでありさえすればゼロから無限が生まれ、描く必要がなければ無限がゼロに納まります。

 

 かくして、移動を使って物語をコントロールしていたドラゴンボールは、その移動を完全な無に置き換えてしまいました。それによって、鳥山明の作劇では、様々な制約が取り払われ、将棋に喩えれば、あらゆる局面であらゆる駒がいきなり王手をかけられるようなダイナミックさが生まれたように思います。

 どこかの誰かに辿り着くという、本来は物語的に重要な手順にも思えるものを完全に取り払うことができるのですから。そして、これは同時に異常です。

 

 だって考えてみてくださいよ。ジョジョ3部で承太郎たちが瞬間移動が使えれば、ディオの元に辿りつくのも1コマです。こんな状況では描けない種類の物語も沢山生まれてしまいます。

 

 このように考えてみると、人造人間編における悟空の心臓病や、魔人ブウ編における既に死んでいるということは、いつでもどこでも登場できる悟空というチートキャラに対する追加の制約として与えられたものであるという視点が出てきます。

 

 ドラゴンボールにおける悟空という存在の特性は「どんな状況でもなんとかしてくれる」ところにあるんじゃないかと思っていて、だからこそ、悟空はどこにでも存在してほしい反面、存在されるとなんとかされてしまうという厄介さがあります。ドラゴンボール魔人ブウ編で終わったのは、その意味で悟空が強い概念になり過ぎてしまったので、これ以上のことはできないということになったんじゃないかと思うんですよね。戦闘力という意味ではなく、概念としてです。

 いつでもどこでも現れて、なんでもなんとかしてしまうのであれば、もう十分でしょう。もう十分ですよ。存在しているだけでいい。悟空に追加で与えられた制約も、ついには全て解消してしまいました。

 以下、関連文です。

mgkkk.hatenablog.com 

 移動から始まったドラゴンボールの物語は、移動を無にすることで終わりに向かいました。

 

 また、この辺を対比するなら、「うしおととら」や「ダイの大冒険」です。「金色のガッシュ」などもそうかもしれません。これらの漫画には終盤、日本中や世界中の人々、あるいは今まで戦ってきた魔物の子供たちと心をひとつにするシーンが出てきます。それにより、うしおととらの旅が無駄ではなかったこと、ダイたち旅が無駄ではなかったこと、ガッシュの戦いが無駄ではなかったことが描かれます。その過程で人と人との繋がりが生まれ、勝因に結び付くからです。

 僕はこのような展開がめちゃくちゃ好きですが、一方、ドラゴンボールではそれはあくまで限定的なものでしかなかったという異様にドライなことが描かれるんですよね。悟空が旅の中で出会った悟空を知る人々が貸してくれた力(移動が生み出した力)は、魔人ブウを倒すには全然足りません。その最後の決め手になるのは悟空ではなく、ミスターサタンの呼びかけです。

 

 やって来てくれさえすればなんでもなんとかしてくれる異常な概念と化した悟空に、まだ決定的に欠けていたものがありました。そして、それを持っていたミスターサタンによって戦いが締まったのは、お話として異端でもあり、だからこそ綺麗な終わり方でもあると思いました。

 以下、関連文です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 とはいえ、今もやっているドラゴンボール超のシリーズでは、悟空でも絶対に勝てない上位存在を出してくることで、ここのバランスについて再調整が行われつつ、さらなる物語展開が出てきてよいですね。

 この前公開された映画の「ドラゴンボール超 ブロリー」めっちゃよかったですよ。みんなも見よう!!