漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画のランキングという概念についての雑感

 漫画に順番をつけて発表するみたいなものが世の中には色々あります。このような順番のことを、専門用語でランキングと言います。そのランキングの順位がよいものが注目を集めて世間で売れたりするらしいので、売れるのはよいですしよかったですね。ただ、最近はそういうのはもうあまり売り上げに影響がないみたいな話も聞いたりするので、難しい世界だなあと思います。

 

 さて、漫画をランキングするとはどういうことかというと、漫画を不平等に扱うということだと思います。世の中は平等だ!全てに価値がある!!なんてお題目が掲げられることもありますが、ところが悲しいことに世の中は基本的に不平等で、さらには、わざわざ偏りを作ることこそが人間の営み、みたいなところまであります。

 何かの漫画と別の何かの漫画を比較して、それより上とか下とか不平等な順番をつけていくということをわざわざするわけです。それが沢山の人の分だけ投票されて集まるとよくあるランキングになります。集まる人間の数が沢山になると、その順位には何かしら意味を見いだしやすくなるかもしれません。つまり、そういうことをしているんじゃないかと思うわけです。

 

 でも、そもそも考えてみると、そのような投票行動は、実は購買行動と似ているのではないでしょうか?購買行動でも、無数にある漫画の中から自分の好きなものだけを不平等に選んで買っているからです。一冊を買うということは一票を入れるということと同じと捉えることもできます。漫画を買っているからといってランキングに投票するとは限りませんが、投票する人の多くはさすがに漫画を買っていると思うので、じゃあ、人数の総数を考えるなら、投票をしてランキングを作るよりも、売り上げランキングを見た方がいいという話にはなる気がします。

 なぜなら、それがもっとも広く世間の声を反映した、投票によるランキング行為だと捉えることもできるからです。

 

 しかしながら、世の中には売り上げとは一致しないランキングも溢れていますね?それが意味するのは、売り上げはある種の偏った投票とランキングですが、その偏りはまだまだ生ぬるく、もっともっとよりもっと偏らせたいという欲求が存在するということではないでしょうか?

 

 300万人が好きで買っている漫画と、3000人が好きで買っている漫画があったとします。売上ランキングで言えばどちらが強いかは明らかです。でも、ひとりの人間の中での話になると違います。300万人が好きな漫画の方が3000人が好きな漫画よりもすごいということは個々人にとって別に確実ではありません。なぜなら、人間ひとりひとりの存在にも偏りがあるからです。

 自分の偏りに強く一致する漫画があるならば、それが世間一般では支持されていなくとも、自分の中では一番ということがあり得ます。この場合、売り上げによるランキングは何の参考にもなりません。

 

 でもそんな誰かひとりの中だけのランキングも、他の人にとってみれば同じわけです。僕が好きな漫画のランキングを作ったとしても、それが完全に正しいのは僕の中だけの話で、他の誰かにとっては全く意味のないものかもしれません。そこには何の保証もないわけですよ。

 

 つまり、世の中には人間の数だけランキングを作ることができます。そして、それぞれの人間の中から誰と誰を選んで重ね合わせるかによっても別のランキングを作ることができます。ランキングはそのような組み合わせ爆発した無限の可能性を内包していて、世の中で発表されているものは、実は、それがどの切り口であるかどうかという意味しか持たないのではないでしょうか?

 

 権威のあるランキングがあったとして、それはつまり、まずその選者として誰を選んだかということに権威の裏付けがあるのではないかと思います。平等で同じ権利を持っているはずの世の中の全ての人の中から、どれだけ適切に偏らせた選者を不平等に選ぶかということです。そして、それらの不平等に選ばれた人たちが、さらに不平等に選んだ漫画によってランキングが決まります。

 選者の選出に不満があるなら、そもそもそのランキングは、そのような不満を抱える人にとっては無意味でしょう。そして、一方、別の誰かにとってはすごく意味があるのかもしれません。

 

 世の中にあるランキングは、参加者が多くなればなるほどに売り上げに近似していくと思います。ランキング上位は既に有名なものが選ばれる可能性が高く、何故ならば、選者の中にその漫画を知っている人の割合が大きくなるからです。人は知らないものには投票できません。知らないからです。

 だから、世界中で自分だけがよいと言っている漫画が一位に輝くのは、選者が自分自身しかいないときだけでしょう。そういうものだと思うんですよ。だから、それは別によいとか悪いとかではなくそういうものです。

 

 一方、偏りをもっとさらに偏らせる選び方もあります。それは例えば、複数の選者で結託して組織票をすることや、ひとりで何票も投票することです。これはつまり、自分たちの評価による一票に、他人の評価による一票よりも強い影響力を持たせたいという願望の話です。

 他人の感性を否定し、他人のランキングを否定し、自分たちの中にあるそれで塗りつぶすことによって、自分たちと同じ形をしたランキングが生まれます。

 

 でもそれって、結局は世界を狭くしているだけなのかもしれません。

 

 自分の内面が、自分の外にある何かを塗りつぶしたとき、そこには自分しかいないことになるからです。他人が自分とは違う感性を持つということが苦しいなら、それによって楽になるのかもしれませんが、逆に他の人たちにとっては息苦しくなるかもしれません。だから、そこは自分にとっては意味があっても、他人のとっては無意味の広がりでしかないかもしれないんですよね。

 そうなれば、そのランキング自体からそもそも外部に発信できる意味が減っていくということです。

 

 自分たちだけの偏りが色濃く反映されたランキングは、「あなた」にとっては重要なランキングかもしれません。でも、他人が「あなた」に強い興味がなければ、それはやっぱり他人にとっては無意味な情報の羅列に過ぎないと思うんですよ。それが続くのならば、きっと誰もそんなランキングは見なくなってしまうでしょう。何も得られるものがないからです。

 宇宙のずっとずっと遠くにあるアルファケンタウリの明日の天候に興味がありますか?普通はないと思います。なぜなら、それがどうであったところで自分には関係ないからです。自分が知らない誰かが興味を持っていることも、そうなってしまうかもしれません。どこの誰とも知らない誰かの中だけのランキングが、仮に世の中に出てきたところで、実際はきっとどうでもいい話なんですよ。

 

 まとめですが、ランキングという概念は、場所に無理矢理作られた偏りであって、その切り口は無数にあります。上手く切り口を選べば、無数の選択肢の前でまごまごするよりも、分かりやすく世の中を捉えることができて便利でしょう。

 でも、それは唯一無二の権威みたいなものではなくて、無数の中からたまたま選ばれた偏りのひとつでしかないと思うんですよね。だから、そんなものに囚われても仕方ないじゃないかというような感覚があります。

 

 なので、何かのランキングが発表されたとして、こんなランキングはおかしいと言う必要もないんじゃないかと思ったりしますし、そのランキングの切り口が自分に合わないと思うなら、自分の切り口を提示すればいいですし、そのランキングが多くの人に合わないものになるなら、人はその切り口を参考にしなくなっていくと思うので、そんな感じの諸行無常って感じがします。

 

 いや違うか、みんなそういうのにかこつけて、自分が好きな贔屓したい漫画が世の中でもっと受けてくれ!!って思っていたりするんですよね?きっとそうでしょ?僕は、それは、めちゃくちゃ分かりますね。この前もお友達と、どうすればこのよい漫画が世間でめちゃくちゃ受けてくれるのか?というのを一読者でしかないのに、延々話したりをしました。

 

 さて、最後にそのとき結論した、僕が好きな漫画が世の中にめちゃくちゃ知られて、めちゃくちゃ受ける方法についてのランキング第1位を発表します。

 

 「ジャスティンビーバーに期待」

 

 以上です。参考にならないでしょうね。