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「聖闘士星矢」の瞬の性別変更とかポリコレとか多様性とか関連

 Netflix様のマネーで、聖闘士星矢がCGアニメ化されるぞ!!との報せを聞き、聖闘士星矢大好きっ子としては、やったぜ!!という気持ちでいますが、情報を読んでいると、アンドロメダの聖闘士である瞬が、性別を女性に変更されるのだそうです。まだ初報なので、他にも色々あるかもしれません。

 僕はメディアや想定客層が変わるときに、原作から何かしら変更点があること自体にはさほど抵抗がなく、今回のことも、特に抵抗はなく見るのは見ると思います。

 

 今回の件については、ネットで見た脚本家(?)の人の書いていることを読む限り、「戦うのが男だけでいいのか?」という話による変更だという認識です。原作が描かれた30年前はそれでよかったのかもしれないが、現代においてもそれはそのままでいいのか?という話です。

 ちょうど最近も、プリキュアで「男の子だってプリキュアになれる」というお話が話題になっていて(僕は見ていないので、正確ではないかもしれません)、そういう世間の風潮なんだなと思っています。

 

 僕は、このような考えに関しては肯定的で、それは、「自分は立場や属性によって、何らかの役割に合わせた振る舞いをするしかない」ということに対する抵抗感を持っているからです。「○○だからと言って、××でなければいけないということはないんだよ」というのは、個人的にとても助かる発想で、僕は大いに利用しています。

 そもそも「○○だから××でなければならない」ということは、そういう役割を担わせる世相があり、それらはフィクションの中にも反映され、それらに取り巻かれて育つことで、なんとなくそれが当たり前だと思ってしまうことだと思っています。

 当たり前なんだから、そうするだろうし、そうしないことはおかしいとか思ってしまうことは、よいことでしょうか?

 

 20年前とかに笑っていた漫画の内容を、現代に読み直してみて、これは今となっては笑えないなと思えるものがいくつかあったりします。それらは、かつてはそれは笑っていいものという箱に入っていたんですけど、今はそうでもないというか、これを笑うことで、その属性を持つ誰かが傷つく可能性があるのでは?と少しでも思ってしまえば、態度にもその影響が出ます。表に出すことに躊躇してしまいます。

 一方、昔にそれを笑って見ていた自分は間違っていたのか?ということもあるわけです。でも、面白いのは面白かったんだよなというのは、やっぱりあるんですよ。それで、今の感覚に照らせば、それはよくないことだったのかもしれないけれど、でも、やっぱり当時は面白かったんだよなという気持ちもあります。

 良い悪いで言うと、悪いのかもしれません。でも、そうなんですよ。自分には悪い部分があります。

 

 ポリティカリーコレクトネスとか、ダイバーシティとか、そういうのは「豊かな文化」なんだろうなという気持ちがあります。なぜなら、世の中はそれをせず、最大公約数だけに向いていた方が効率がよいからです。「効率を犠牲にしてでも選べる」という豊かさがあると思うわけです。

 入力データのフォーマットが揃っていれば、プログラムで処理するのは比較的簡単です。でも、そのデータがバラバラのフォーマットで送られてきた場合はどうでしょうか?条件分岐や例外処理をその変換のために無数に作らなければなりません。百万人に適用される処理と同じだけ手間がかかるものを、百人のためだけに作らなければならないかもしれないということです。それによって増加し複雑化した処理は、その隙間に不具合も生み出しやすくなるかもしれません。

 

 だから、合わせてくれよ!と思うわけじゃないですか。あなたの抱えるものが、最大公約数から外れていたとして、そのための処理を作る手間が効率が悪いから、それぞれの人が頑張って最大公約数的なものにフォーマットを合わせてくれよ!と思っちゃうわけじゃないですか。でも、人間ひとりひとりの存在はそもそも何かしら多様なものです。だから、それを同じに合わせるためには、その差を埋めるための労力が常に求められるわけです。

 社会の側が省力したいために個人の側に努力を求めるということは、つまり、多様性を許容せずポリティカリーにインコレクトなことだと思います。だから、そこから抜け出るという発想ができるようになるのは、社会の側が豊かになったということなんじゃないかと思うんですよね。社会が豊かになり、複雑になることを許容すれば、個人が楽になるということです。

 ただ、それができるよと思える人は、今既に豊かな人で、自分はまだまだ豊かではないと思う人は、それを許容できないかもしれません。大変だからです。そして、人が豊かであるかどうかは運の要素が強いので、だから豊かでない人が悪いというわけではないと思うんですよ。でも、豊かでありたいよねというような気持はあるわけです。

 

 だって、自分がどんな属性を抱えていたとしても、そのままで気楽に生きたいじゃないですか。

 

 さて、瞬の性別が女性に変わるという話にやっと戻りますが、これはこのような考え方に合っているでしょうか?「このような考え方」とはつまり、「人間ひとりひとりの在り方が、その属性によって最初から規定される必要はない」という考え方です。

 この意味で、アンドロメダ瞬が選ばれたことには引っかかりがあります。瞬は、一見女性と見間違られるような容姿の男です。そして、戦うことを好ましく思っておらず、その感覚は当時の常識に照らして、男でありながら女性的であると言っていいかもしれません(一方、その戦いを好まないメンタルとは裏腹にめちゃくちゃ強い)。肉体の性別は男性でありながら、(当時として)女性的な感覚を持つということ、これは既に多様性なんじゃないかと思うんですよね。「男だからといって、男らしくある必要がない」ということだからです。

 だからこそ、男だけが戦うのは多様ではないということを理由にして瞬を女に変えてしまうのは、既にあった多様性をひとつなくしてしまうことでもあると思っていて、そこに両方はとることができないという引っかかりを感じてしまいます。別に、キグナス氷河やフェニックス一輝を女性にしたっていいわけじゃなないですか。ドラゴン紫龍は、すぐに裸になるので、扱いづらいかもしれませんが。それだって、男は上半身裸になっていいけど、女がなってはめんどくさいのかよ?というような話もあると思います(まあ、実際めんどくさいでしょうが)。

 

 「The Mark of Watzel」という漫画があります。これは難病を患う女の子が、イメージの中で病魔と戦うサイモントン療法に挑戦するという話なのですが、これは多様性の話でもあったと思うんですよ。なぜならば、女性が女性的であるということもまた多様であることを描いているからです。

 女の子は憧れのテレビのヒーロー、ワッツェルに成り代わり、病魔と戦うイメージを育てますが、これらは全て敗北に終わります。それは、彼女が心から戦うことを望んではいないからです。彼女はワッツェルに守ってほしかった。つまり、彼女はお姫様になりたい少女だったのです。

 病魔と戦うイメージを持つという目的のために、彼女は自分の特性とは異なる、ヒーローとなって戦うという役割を背負うことになりました。でも、本当の道は他にもあって、女の子だから(いわゆる)女の子の望むようなことをしたって別にいいんだということを描いていて、それを「どちらかに限定して強いること」こそが、間違いであったということが分かります。

 そういう意味で言えば、「女だって戦っていいはず」ということが、「戦いの中に女がいなければならない」となってしまうのは、場合によってはむしろ窮屈と言えるかもしれません。それが多様性を認めることでもあるとは思いますが、逆に多様性を減じてもいるようにも思うからです。

 

 この辺は、塩梅だと思うんですよ。だから、どこに線を引くかということもまた一意に決まるわけでもないと思います。僕の感覚が正しいわけでもなく、誰の感覚が正しいわけでもなく。

 

 最初に書いたように、僕は別に変更がダメとも思ってはいませんし、そもそも「聖闘士星矢」はアニメから原作への変更点だけでも無数にあって、それを全然許容して生きてきているので、この漫画にはそれぐらいの懐の深さはあるだろうなと思っています。

 僕は「オーロラサンダーアタック」も「氷結リング」も「師の師と言えば師も同然」も、全然許容していますし(全部氷河の話だな…)、「ドクラテス」も「鋼鉄聖闘士」も「アスガルド編」も全然許容しているというか好きですからね。あと、何年か前に3DCGで劇場公開された「レジェンドオブサンクチュアリ」もめちゃくちゃ楽しんで、劇場と配信レンタルで3回は見ているので、それは別にいいんですよ。

 

 なので結局のところ問題なく見ますけど、説明と内容がイマイチかみ合ってないように思ったので、そこが気になるなと思ったので、これはそういう文です。

 とにかく、2019年の夏を待ちます。