漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

言葉は今のことしか語れない感じがする話

 人間には記憶があるので、それを使えば昔の話を書くことはできます。しかし、その昔の話は、今から振り返った昔の話でしかないのではないかと思います。つまり、それらの過去の記憶は、今何らかの理由で振り返る必要があるからという都合によって、ピックアップされてくるものであることも多いのではないでしょうか。つまり、純粋な過去ではなく、今から見て、何らかの意味で都合がよい過去を都合がよく切り出しているだけなのではないかということです。

 

 だから、今、この時点から振り返る過去は、何らかの意味で嘘です。嘘という言葉が強すぎるなら、不正確でもいいかもしれません。あるいは、そこに当時には存在しなかった別の意図が混じりこんでいる可能性もありますね。

 

 例えば、「昔のオタクは○○だった」という過去の話が出てくるのは、「今のオタクが××である」という話をしているときだったりするでしょう?昔の記憶を引っ張り出すにはそれが必要なタイミングとしての今があり、そして、その過去の記憶をわざわざ引っ張り出すための意図があるでしょう。

 つまり、「今のオタクが××」であるということを批判するために、過去を取り出すのかもしれませんし、今も昔もあまり変わりないということが言いたいのかもしれません。何にせよ、その過去の切り出し方は、今している話の文脈に依存し、純粋な過去の情報から比較すると、大いにねじ曲がっている可能性があります。

 

 そして、場合によっては何らかの主張を否定や正当化するために、過去が何度も不正確に切り出されすぎ、ついには事実に成り代わって認識されてしまうこともあります。世の中はそんなものかもしれません。でも、それ嘘じゃん、とも思います。

 

 ムーミンスナフキンが「大切な思い出は他人に話してはいけない」というようなことを言っていました。僕の記憶を正確になぞるなら、エアマスターの時田がスナフキンがそんな感じのことを言っていたと言っていました。

 これは近年よく分かる気がします。思い出を話すとき、そこにはその時の意図が重なってしまうために、純粋な記憶に何らかの色がつけられてしまうように思うからです。人に話せば話すほど、自分の中の大切な思い出の形が、もともとの姿から歪に変容して、いつしか、全然違うものに変わってしまうかもしれません。大切だから、話してはいけません。大切だから、思い出すのも控えた方がいいのかもしれません。大切なものを大切な形に保っておくために。

 

 このスナフキンの話も、今の話に都合がよいように記憶の中から引っ張り出したので、本当の本当は、こんなこと言ってないかもしれないんですよ。

 

 記憶を思い出すことは、感覚的には夢から覚めたときと同じように感じます。さっきまで覚えていたはずの夢が、掴んだと思った指の間から、するりと抜けて消え去ってしまう感覚です。そして、それを夢日記として残しておこうとするとき、いくらかの加工が入ります。文章にするときに、そのまま記述するには、夢というものはあまりにも支離滅裂だからです。

 夢の中であったことの中から、筋が通って認識できる部分を抜き出し、つなぎ合わせることで、面白い夢をみたということを他人に伝えることができるようになります。でも、それは自分が実際に見た夢の中の、多様な要素の中から少しの領域を切り出しているにすぎません。夢そのものは整然とした文章には書けませんし、だからこそ、覚えておくことも難しいのかもしれないのかなと思います。

 

 僕自身の実感ですが、記憶はどんどん変わっていきます。僕の場合、沢山の記憶が緩やかで穏やかなものに変わっていきます。色々辛いこともあったような気がしますが、喉元を過ぎたそれは、なんとなくぼんやりと、良かった記憶のようになっています。それは調子がよいときに思い出しているからかもしれません。

 嫌な記憶も沢山あります。失敗の記憶は無数に覚えています。2歳や3歳ぐらいの記憶から、失敗談だけはやけに覚えていて(何度も反芻してしまうからでしょう)忘れることができません。うわっ辛いなあと思いますけど、自分の失敗体験を面白い話として引用しまくったおかげで、樽に入って保存されているお酒のように、だんだんと味にとげがなくなって、よくなってきたような気もしています。

 そもそもそれらの失敗の記憶、もはや正確じゃないんですよ。だって、絵として覚えている光景に、自分自身の第三者視点の姿があったりするからです。それはきっと、思い出したときに付与されたものでしょう。もはや、大筋が合っているだけの偽記憶かもしれません。

 

 小さい頃、同じ団地に住んでいた友達のお父さんの出張お迎えに、自分も行きたい!!と主張して、その家のお父さんに「この子は誰?」と怪訝そうな顔をされてしまった思い出も、お菓子をおばあちゃんの買い物かごにこっそり入れたと思ったら、全然別人のかごで、「おばちゃん、そんなのいらんよ」って言われて、恥ずかしくなって走って逃げた思い出も、失敗したなあと何度も何度も思い出しては上書きしているので、もしかするとパーツが徐々に入れ替えられたテセウスの船のように、純粋な記憶の部分はもう残っていないのかもしれません。

 

 漫画の話もそうです。好きだった漫画の話を、読み返しもせずに何度も何度もし続けていると、いざ、読み返してみたときに、全然記憶と違っていて、じゃあ、僕が喋っていたのは何だったのか??という気分になったりすることもあります。それは、きっと漫画そのものの感想だけではなくて、そう言えば話として面白いだろうと思ったこととか、それにかぶせて何か言いたいことがあったとかの、不純物が混じったものだったのでしょう。確認すれば分かるわけです。自分の記憶に色々なものが混じってしまっていることに。

 

 これが漫画だと読めば訂正もできますが、自分の人生の記憶ならかなり難しい。

 

 学生時代、日記を書いていたので、それをたまに読み返します。最近では、Twitterで自分の書いたことを検索して読んだりすることもあります。これだってその時々で正確なことを自分が書いているかは分かりませんが、少なくとも後年思い出して書いたことよりは、そのときどきの今がちゃんと記載されているんじゃないかと思います。

 漫画の感想を書いているのもそうですね。そのときの自分が、その漫画を読んで何を思ったのかを書き残していれば、漫画のことも分かりますし、そのときにそれを書いた自分のことも分かります。それは結構面白くて、だから自分が面白がるために書いていたりもするんですよ。

 

 結局のところ、人は今のことしか語れないのかもしれません。自分自身ですらそうですから、他人が語っていることが本当に正確な過去なのかどうかを判別することはとても難しい。別に正確であろうがなかろうが、問題がないことが多いのだから、世の中はそんな感じに回っているのでしょう。

 

 自分の成功体験の話をしているときと、その前後で失敗体験の話をしているとき、同じエピソードを引用したとしても、その語られ方は全然違うかもしれません。意図が異なるからです。過去は、常に今のために便利な道具として使われるのみです。純粋な過去を知りたいなら、そのときに書かれたものを読み直すしかありません。だから、過去の偉人の人の伝記なんてちっとも信用できないですよ。数ある過去の情報から、ピックアップしたものを繋ぎ合わせて、その間をなめらかにすれば、そういう認識ができるって話でしかないと思うからです。そういう解釈を選び取っただけであって、過去そのものであるかどうかは疑わしい。そして、疑わしいけれど、別にそれで困るわけでもありません。

 

 個人的に避けているのは、自分自身の今までの生き方を物語のように解釈することです。偉人の伝記がそうであるように、上手い具合に記憶や記録をピックアップして繋ぎ合わせれば、なんらかの意味のある解釈が生まれるかもしれません。それはさながら夜空に無数にある星と星を結んで、星座を作るようなものです。その星座はペガサスや、ヘラクレスのような姿をしているかもしれませんが、その星座に選ばれなかった無数の星も残っています。そして、自分自身とは、その星の全てでしょう。どんな形にしたってそこに選ばれないものが残るわけですよ。

 

 有名人の話なら別にいいですが、自分自身の場合、選んだ星座としての物語は、自分の未来を縛ってしまう可能性があります。今この場この時の最善ではなく、自分自身という存在の解釈を逸脱しない範囲に選択肢が狭められてしまうからです。それをすれば、過去と現在と未来を、同じ解釈で理解することはできるかもしれませんが、そこで選ばざるを得ない未来がドブだったときに、みすみす選択肢を捨ててしまい、自分の首を絞めているだけになるかもしれません。

 

 結局のところ、人には今しかなく、今についてしか語れないんじゃないかと思ったりするわけです。なので、今も、今の気分について書いています。竹原ピストルも「LIVING(HIGHWAY61「Living」をモチーフにして)」という歌で歌っていました。

 

ベイビー 歌いたいことが一つだけあるんだ
いや本来 歌うべきことは一つだけのはずなんだ
それは“今”だ 

 

 目の前にあったかと思えば、すぐに消え去ってしまう今を残しておく方法は、言葉にしておくことです。言葉は今を保存することができる方法のひとつで、映像に映らず、音声にも残らないような、頭の中のことでも、言葉に出しておきさえすれば保存しておいてくれます。今のこと以外、世の中は全て曖昧なのでは??と思うことも自分の記憶力が低下してきた中年の脳では思うこともあって、かつての自分が書いていた、かつての今の情報を読み直して、足場を固めているみたいなところもたぶんあるんですよ。

 

 わかんないですけど。

 

 ともかく今がそういう気分なんで、それを記録しておくことにします。