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「からくりサーカス」から「月光条例」に繋がる地獄の機械関連

 からくりサーカスとはどんな漫画であったのかを一言で選べと言われたら、僕は「運命とは、地獄の機械である」という言葉を選びます。これは作中でジャン・コクトーの言葉として紹介されるものです。僕はこの言葉がジャン・コクトーによってどのような文脈で語られたかを知りません。なので、すごく見当はずれな理解をしているかもしれませんが、からくりサーカスを読んでいると、ああ、運命とは地獄の機械だなと思うわけです。

 

 機械というものは意図して設計され、様々な部品が絡み合い、動力を得て動作するものです。運命という機械を動作させるためには、様々な人々がその部品として組み合わされ、その部品は外部から導入された動力で動くでしょう。いや、動かされるでしょう。そこには選択の余地がありません。決められた役割に応じて決められた通りに動くのが機械の部品に求められることです。部品が壊れたなら、別の似たような部品がそこにまたおさまるだけです。部品となった人は壊れるまでそれを動かし続けなければいけない。そのために動かされつづけなければいけない。それは地獄、ではないでしょうか?

 

 僕が得たのはそのようなイメージです。

 

 からくりサーカスは「選択」の物語でしょう。物語の冒頭、悪い奴らに追われる少年、勝は、サーカスの宣伝の着ぐるみに「話かける」か「話かけない」かの選択を迫られます。ここで話しかけなければ、この後に起こる全てはなかったはずです。でも、話しかけてしまった。これはそういう物語です。選択にはそれを選んだ責任が付きまといます。選択したために起こってしまった悲劇は、選択した人自身に責任としてその代価を要求してくるでしょう。勝はそのあと、大きな喪失を経験します。それは自分が選んだからこそ起こったものであると思わされます。

 

 からくりサーカスには選択を迫られる場面が何度も出てきます。何かを「する」か「しない」か。しかし、そこに本当に選択の余地はあるのでしょうか?どちらかを選ばざるを得ないのであれば、選択肢が登場することは、登場しないことよりも残酷かもしれません。そこには勝のように責任が生まれるからです。人は責任によって身動きがとれなくなり、より一層機械の中に取り込まれてしまうものかもしれません。

 本作の主人公の一人である鳴海もまた、運命という地獄の機械に引きずり込まれ、歯車の一つとして身動きが取れなくなってしまいます。彼の体は、彼だけのものではなく、彼がそこまでくるためにその死を看取ってきた沢山の人々の意志によって動かされます。誰よりも自由意志のある人間であろうとした鳴海でさえ、数々の仲間の死を背負い、自分を失ってしまいました。

 

 自動人形の破壊者である「しろがね」もそんな地獄の機械の一つです。

 彼ら彼女らは、元々は一人の男の意志であったものを継ぐ者たちです。それはある種の呪いです。「自動人形を破壊せよ」との呪われた機械の部品と化した悲しい人々です。

 全ての元になった男、「白銀」は、自身の生み出した錬金術の最大の成果「生命の水」を使い、病に苦しむ人々を救う代償として、人々に「しろがね」という呪いをかけました。なんでも溶かす生命の水にその身を溶かし、飲んだ人々は皆、心の一部に彼の意志を宿すようになってしまったのです。これは地獄の機械ではないですか。

 

 ジョージ・ラローシュの話をしましょう。

 彼はピアノを練習する少年でした。そこでは、厳しい父により、自分がただ譜面を再生する機械であると指摘されます。ジョージにはしろがねになったことに抵抗が少なかったかもしれません。既に、過去の誰かが作った譜面を、再生する機械でしかないなどと言われてしまっていたからです。そしてジョージは、あやつり人形なしでも単独で戦える力を得るため、体の一部を機械に置き換えたしろがね-Oとなる決断もしてしまうのです。

 しかし、果たして彼に選ぶ権利はあったのでしょうか?彼はベルトコンベアに流されるように、機械となる運命に取り込まれてしまいます。そして多くの人がそうであるように、自らに求められた役割と、自分自身の意志を混同し、自分がそうであるということを受け入れ疑問を持つことができません。

 彼は敗北を機に、自身が超人間しろがね-Oの一員であるということも否定されます。彼は、しろがねと自動人形の最後の戦いにおいて戦力外通告され、伝令役としての役割しか与えられないのです。幸か不幸か、それによって最終決戦を生き延びたジョージは、その様子を「くだらねえ戦い」と言います。それは日本人の人形繰り、阿紫花の言葉を借りたものでしたが、この戦いは、病気にさせられた者たちが病気にさせた者たちに仕返しをしただけの、くだらない戦いだったと言うのです。自分たちを駆り立てた最後の戦いは、自分を支配した運命は、とてもくだらないものでした。

 その後、終わったはずの戦いに再び身を投じたジョージは、その幕間にサーカスを手伝います。ジョージは、お世辞にも上手いとは言えないジジイの芸の手助けに、ピアノを弾いてあげるのです。そのとき、彼に初めての賞賛が舞い降りました。子供たちの拍手がジョージのピアノに向けられるのです。それだけではなく、ジョージは子供たちにせがまれました。「また、ピアノを弾いてね」と。この出来事が、歯車と化していたジョージの心にヒビを入れます。

 ジョージは合理的に生きてきた男でした。合理性とは、しばしば不自由のことを意味します。なぜならば、合理的に考えるならば、合理的な結論を選ばざるを得ないからです。譜面の通りにピアノを弾く機械になるのが合理的。病から逃れるためなら、しろがねになるのが合理的。しろがねとして戦い続けるなら、改造されてしろがね-Oになるのが合理的。しかしその合理性は、果たしてジョージを救ったでしょうか?

 Oという存在がいます。それは体を完全な機械に置き換えた、ついにはしろがねですらなくなった合理化の権化です。Oの男を前に、ジョージは煙草を吸って見せます。目の前のOにジョージはかつての自分自身を見ました。煙草を吸う合理的なメリットなんてありはしません。つまり彼は、そこから降りたのです。いや、外に踏み出たのかもしれません。

 先ほど、ジョージはついに自分の得たかったものを知りました。ついに自分の望む生き方を見つけました。自分のピアノへの子供たちの拍手が、それに気づかせてくれました。「私はピアノを弾いてねと言われたんだ」。その記憶をジョージはひたすらに反芻し続けます。合理に囚われ過ぎ、ついには自分の生き方をも見失ったOに対して、自分がもはやそうではなくなったことを誇らしげに語るのです。

 「こんな私にだぞ」、ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。ジョージは誰にも求められてこなかったわけです。ジョージは。人に見捨てられないために、それが合理的と目を背け、自分の選択だと自分自身を騙してきました。しがみついてきたその道の先にいるOでしょう。その姿はとても空虚でした。それは結局、誰かの意志を再生する部品の一つでしかないからです。

 ジョージはまた子供たちのためにピアノを弾いてやりたいと思います。ジョージはついにその身を捕らえる地獄の機械を破壊し、その外に出ることができました。しかし、戦いの中で力を使い果たしたジョージに待つのは死です。でも、それは悲しいばかりの死でしょうか?誰かの作った運命にもてあそばれて生きてきた今までは、本当に生だったのか?ジョージはその肉体的な死を前にして、ついに生きることができたのではないでしょうか?だから、ジョージ・ラローシュは本作を象徴するような男ですよ。彼は運命という地獄の機械に打ち勝つことができたからです。

 

 ドットーレという自動人形の話をしましょう。

 フランシーヌという人形を笑わせるためだけに生まれたドットーレは、その目的のために、人間に対しての様々な悪行をやってきました。最初にやったのはジャグリングの芸です。年に一度の祭を楽しみにしてきた田舎の村の子供たちが、自分に向かって走ってきたのを、ドットーレは優しく出迎えます。その腕は子供たちの頭や手足をこともなげに切り落とし、まるでボールやピンのようにジャグリングしてフランシーヌ人形に見せるのです。どうです?おもしろいでしょう?笑えるでしょう?

 ドットーレたち自動人形は、決して許されない悪行を繰り返してきました。人を笑わせないと苦しむ病気、ゾナハ病をばらまき、人の血液を吸って生きる、忌まわしき人形たちです。しかしそれは全てフランシーヌ人形のためです。彼女を笑わせるためなら、自動人形たちはなんでもやってのけます。フランシーヌ人形は、彼らの存在価値そのものなのです。

 遠い昔、自分の子を、ジャグリングの道具にされた女がいました。彼女はゾナハ病のせいで死ぬこともできない苦しみの中、自動人形を憎み続けます。その気持ちは、しろがねになることでさらに増幅され、自動人形の破壊のため、彼女はたくさんのものを犠牲にしてきました。その女の名は、ルシールと言います。彼女の最後の武器は、フランシーヌ人形そっくりの人形です。その人形をあやつることで、ルシールはドッドーレたちを行動不能にしました。

 目の前の人形はフランシーヌ人形ではない。頭ではわかっていてもドットーレたちは動くことができません。なぜなら、フランシーヌ人形とは彼らの存在意義そのものなのだから。同じ形をしたものを、無視することなんてできはしません。

 ルシールはドットーレに挑発的に囁きます。「フランシーヌ人形など自分には関係ないと思ってごらん」と。それが唯一、彼が動くために必要な方法だからです。ルシールはドットーレをさらに挑発し続けます。そしてついに、ドットーレは動きました。目の前のしろがねを殺すため。フランシーヌなど自分には関係ないと宣言して、動けない体を無理矢理動かしたのです。

 自分を縛る不自由な法から抜け出たドットーレに与えられたのは、死でした。なぜなら、フランシーヌ人形は彼の存在価値そのものなのだから。そのために彼は作られた存在なのだから。それを否定しては、生きていくことができはしないのだから。ルシールは、ドットーレに自由を与え、それによって復讐を遂げたのです。

 

 ジョージ・ラローシュとドットーレは、お互いに課せられた機械の部品という運命から外に出ることができた存在です。そして彼らに訪れたのは死でした。前者は自分を取り戻した満足の中の死であり、後者は自分を見失った絶望の中の死です。しかし、彼らにともに死が訪れたのは果たしてたまたまでしょうか?

 運命というものがそれまでに残酷で、恐ろしい力を持つからだったりはしないでしょうか?

 

 からくりサーカスは「選択」の物語だと書きました。しかし「選ぶ」「選ばない」に影には、「選べない」があるのではないでしょうか?物語に登場した人々の多くは、選ぶことができない運命に翻弄された者たちです。ゾナハ病の患者はしろがねになるしかなく、しろがねは自動人形を壊すしかなく、自動人形はフランシーヌ人形を笑わせるしかなく、フランシーヌ人形は造物主に笑顔を見せるしかありませんでした。全てはそのために、起こった出来事です。

 全ての発端となった造物主、白金の選択が、他の沢山の人から選択肢を奪い、世界中を巻き込む悲劇に発展したのです。

 

 なら、彼に訪れた選択とは何だったのか?フランシーヌ人形のモデルとなった女性、フランシーヌを求めることを「選んだ」ということです。そしてそれは、フランシーヌに選ばれなかったという悲しみから生まれた行動です。彼女は兄の白銀を選び、自分を選んでくれなかったのです。

 

 からくりサーカスの物語は、白金の自分がその道を選んだことが間違いだったという言葉によって終幕が始まります。フランシーヌが白銀を選んだとき、自分が選ばれなかったという悲しみから、強引にフランシーヌを奪い取ったという選択が全て間違っていたという結論に至ります。

 白金が、流されるままに我慢をすることなく、自分の望む未来を強引にでも選ぼうとしたことが間違いだったなら、これもまた地獄の機械なのではないでしょうか?自由を勝ち取ったジョージ・ラローシュやドッドーレに死が訪れたように、彼には「我慢する」か「悲劇を起こす」しかなかったのですから。

 

 運命に定められた人生を歩まざることを得ないことは悲劇です。しかし、それを抜け出すことが、さらなる悲劇を生み出すのであれば、そこはきっと地獄です。だから、からくりサーカスは、運命という地獄の機械の物語だと思うわけです。

 

 この地獄の機械に翻弄される人々という構造は、次の長期連載である「月光条例」で繰り返されます。ここに登場するおとぎばなしはしばしば悲劇です。おとぎばなしの筋を運命とするならば、その登場人物たちにとって地獄の機械と言えるかもしれません。物語を狂わせる青き月の光は、物語の登場人物に月打(ムーンストラック)という暴力的な自由を与え、その本来の筋を破壊します。月光条例の青き月の光は、地獄の機械を破壊する力であるのです。

 それを抜け出た登場人物たちは、ジョージ・ラローシュではないでしょうか?ドットーレではないでしょうか?白金ではないのでしょうか?

 その月打は、月光条例の執行によって正されることになりますが、物語の登場人物たちはその一瞬見ることができたように、誰しも地獄の機械に抗い続けているということではないかと思いました。

 

 これは言うなれば物語という地獄の機械と、登場人物たちの全面戦争です。そして、多くの物語は、そのせめぎあいの中で生まれているのではないかと僕は思います。浦沢直樹の「ビリーバット」もそれを描いた漫画ではないかと僕は思いました。

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 物語の筋を破壊してしまうほどの強力な意志を感じ取れる登場人物と、そんな強力な登場人物を使役するほどの強い物語のせめぎあいが、漫画の持つある種の強い力の正体なのではないかと僕は感じています。

 

 そのすさまじい戦いを、ある意味、地獄の機械側の勝利でねじ伏せたからくりサーカスが、その次に月光条例に辿り着くのは必然であったのかもしれません。