漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「フリクリ」のフリクリ感とは何か??

 アニメのフリクリが好きなんですけど、何が好きかというとおそらく複合的なので、いまいちコレ!と言いにくいようなところがあります。なので、この文ではまずその中のひとつだけを抜き出して話をします。それは、主人公のナオ太くんが置かれている状況が好きというものです。

 

 陰気な小学生のナオ太くんは女子高生のマミ美や、突如現れ自分の家の家事手伝いに収まったハル子、同級生のニナモなど、沢山の人が「自分に好感を抱いているんじゃないか?」と思えるような境遇にいます。また、どうやら宇宙人らしいハル子にベースギターで頭を殴られたことによって、ナオ太くんの頭は外部とのチャネルを開く特異点となり、色んなものが頭から出てきます。そして、その頭から出てきたロボットと合体して大活躍もしてしまうのです。

 僕はフリクリの物語を思春期の少年の物語だと思っていて、そして、少年がもう少年ではいられなくなる瞬間までの過程を描いたものではないかと思っているのです。それが好きなわけなのです。

 

 では、思春期の少年とは何か?僕はそれをシュレディンガーの猫に似ているものだと思うんですよね。

 

 シュレディンガーの猫は、量子力学に関する思考実験です。仮に量子の状態によって毒ガスが出たり出なかったりする箱があったとして、そこに入っている猫がいるとします。量子の状態が「観測されるまで確定しない」という性質が本当に正しいのなら、それをまだ観測していない状態では、猫が生きているか死んでいるかもまた不定となってしまうのではないか?という話です。

 箱を開けてみるまでは生と死が重なった状態にあり、開けて観測したときに初めて確定してしまうという感覚は、現実的には違和感があります。しかし、このそもそもの思考実験の命題とは全く関係のないところで、似たものを感じることはあるような気がしています。

 

 それは人の心の問題です。

 

 僕個人の感覚では、結果をちゃんと確かめるまでの未確定な状態のままでいることを好むということがあるんですよね。例えばテストの自己採点とかをしなかったりしたんですよ。なぜなら、自己採点をしてしまったら、点数がだいたい確定してしまうからです。そして確定さえしなければ、無限の可能性を想像することができます。どれだけ失敗したテストであったとしても、その結果を確認するまでは、もしかしたら良い点数なのでは??という想像をすることができますし、少なくとも僕は、そのように猫の入った箱を開けずにとっておくような子供だったわけですよ。

 

 結果の話をすると、フリクリでは、マミ美にとってのナオ太くんは、いなくなったナオ太のお兄さんの代わりだったりします。ハル子にとっても長年追い続けている宇宙海賊アトムスクへの手がかりであったりします。ニナモは…よく分かりません。でも、彼女もナオ太くんに対して見せる顔が本当か嘘かもよく分からないわけです。

 箱を開けて見れば、彼女たちから自分への好意は、全部勘違いかもしません。相手に好意を抱かれているかもしれないというのは、ナオ太の頭の中にだけあった都合がよい想像かもしれません。

 

 フリクリは、箱を開ける物語なんじゃないかと思います。そして、開けてみたら猫が死んでいたとして、その先に足を進めることで大人に近づく物語だと思うわけです。

 

 皆が自分に好意を抱いていて、自分は人間関係の中心であるという認識が勘違いだと知ったこと。ロボットと合体して活躍していたと思いきや、活躍していたのはロボットだけで、自分はそのロボットが撃つ弾として使われていただけと分かったこと。自分が特別ではなく、なんでもないひとりだと知ってしまうこと。それは、多くの思春期の少年のとっての通過儀礼ではないかと思います。

 

 ナオ太くんは、自分は誰かの代わりではないし、自分は自分だから、自分を見て欲しいという一歩を踏み出しますが、結局のところ至るのは失恋です。いつまでも勘違いはしていられない。自分の足で前に進み、何かを求めなければいけない。それが大人になるということだ。そうかもしれません。でも、それでも、勘違いしていられた時期の特別さみたいなものもあるわけですよ。

 それは否定して捨て去るものではなくて、そのときはそういう時期で、それはそれで大切な時間であったということを思い出せる特別な思い出です。それが僕の中でのフリクリフリクリ感みたいなものではないかと思いました。

 

 箱は開いてしまうし、開いてしまった以上は、そこから歩みだすしかないけれど、その箱が開いていなかった時間はそれはそれで特別だっただろ?というものは、誰しもスネに傷のようにあったりするものなんじゃないでしょうか?

 

 さて、フリクリの新作こと「オルタナ」と「プログレ」を観ました。

 

 前述の、箱を開けなかった特別な時間への憧憬と、その箱が開いてしまったことによる物語の終結のことを「フリクリ」と呼ぶなら、「オルタナ」は割と「フリクリ」で、「プログレ」はあまり「フリクリ」ではないと感じました。つまり、タイトル通りなわけです。「オルタナ」は最初の「フリクリ」の「オルタナティブ」としての対比的な物語であり、構造的には新しい要素はなく、同じ流れの中のもうひとつの可能性という感じの物語です。そして「プログレ」は、「フリクリ」の「プログレッシブ」としての、新しい可能性のお話であったと思います。

 なので、「プログレ」を経たおかげで、これからも「フリクリ」を冠する作品が続いていけるような感じになったのかな?というような感想です。というか、閉まっていたフリクリの物語を今回無理くり開けておいて、開けっぱなしにしていきおったわ!という印象で、でも、今回の興行が上手く行って、新しいのがどんどん生まれるなら、それはそれでまた観るかなあというような気持ちですね。

 

 この2作を観たのは、個人的にすごく良くて、それによって僕の中で「フリクリって何なのよ?」ということについての言葉が出てきたような気がしたからです。友達とも話したのですが、これはフリクリか?それともフリクリじゃないか?という話をするなら、じゃあそもそも「フリクリって何なのよ?」って疑問に自分なりの回答を持つ必要があります。

 自分はこれまで何をフリクリだと思っていて、それと比較して今回のものは何なのかというのは、当然人それぞれ少しずつ異なるものでしょう。それぞれの人の心の中にある「フリクリ」に照らし合わせて、この新しいお話が、フリクリなのかフリクリじゃないのか、もしくはフリクリを再定義するものなのかが感じられたのなら、それはそれでよかったというような感じがするんですよね。

 

 で、僕は前述の理由により「オルタナ」は「フリクリ」だなと思ったし、「プログレ」は「フリクリ」じゃないなと思いました。でも、これは別に「オルタナ」が面白くて「プログレ」がつまらないって話ではないんですよ。全く関係ないんですよ。面白い面白くないで言えば両方面白かったからです(ただ、次もう一回見るならまずは「プログレ」かなという感じです。一回では掴み切れなかった物がすごく多かったように思ったため)。

 

 そしてまた「フリクリ」というものを別の定義にして、「なんだかよく分からないものが自分の中を駆け抜けた体験」みたいに思うなら、「オルタナ」は「フリクリ」でなかったし、「プログレ」は「フリクリ」だったと思うこともできます。

 最初のフリクリも何回も何回も見たことで、ようやく自分の中で腑に落ちたところがあったわけですし、自分にとって「フリクリとは?」ということに答えを出したのは見てからどれだけ時間が経ったんだよという今なわけじゃないですか。よく分かんないけど面白かったし、よく分かんないけど好きだったわけですよ。

 

 何があったら「フリクリ」で、何がなかったら「フリクリ」じゃないのかみたいな話、他人としても全然合わなかったりするんですけど、とりあえず友達と色々な要素についてフリかクリかを話して重要な点として合意が得られたのは「おねショタ感」であって、マミ美に後ろから抱きすくめられた状態で河原にいる時間や、ハル子と一緒にベスパに乗ってまずいラーメン食べたりする時間がそれでしょ!!ってなったので、握手したところ、じゃあ、「オルタナ」も「プログレ」も「フリクリ」じゃないじゃんよ!!ってなりました。

 

 結局、フリクリ感っていったいなんなのよって感じなんですけど、その取り方によって、オルタナプログレフリクリであったと言えるし、フリクリでなかったとも言えるし、そもそもフリクリフリクリである必要性ってあるのだろうか??そんなのどうでもいいじゃん!!と思うようなところもあり、ともあれブルーレイは買うかと思った次第です。