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「未来のミライ」を観て思った、世間の中心に向けて叫ばれるあれこれ関連

 アニメ映画の「未来のミライ」を公開してすぐぐらいに見たんですが、辛い映画でしたね。辛いというのは映画の内容の話ではなく、観ている自分の心の中に辛い感情がすごく出てきてしまったということです。

 

 未来のミライは、くんちゃんという小さい男の子が主人公で、妹のミライちゃんが産まれたところからお話が始まります。家族が増えたことで、変化する関係性に小さな男の子の気持ちはすぐにはついていけませんから、様々なトラブルが起こります。そして、ある不思議な力によって、くんちゃんは時間を超えた色んな旅をすることになるのです。旅先で得た経験から、くんちゃんは少し変わります。これはそういうお話だと思います。

 

 僕が思うに、これは親から見た子の物語でしょう。子供は気が付くと変化しています。もしかすると、自分が見ていないところで、様々な冒険をしてきたのかもしれません。そういう想像力のお話ではないかと思いました。そして、これは大人の目を経由したお話だと思った理由は、子供の目で見た場合には省略されがちなことが描かれていたからでもあります。

 それは、人間はどうにも不完全であるということです。

 

 僕が4歳ぐらいのとき、近所に住んでいたひとつ年上の兄ちゃんがとても大人に見えていました。自分にはできないことをできる、すごい人だと思っていたわけです。でも、実際に大人の目から見れば、5歳は5歳、どうしても5歳なりの姿がそこにはあります。また、子供の頃は大人は特別だと思っていた気がします。僕は何かあるとすぐ泣く子供だったのですが、大人は泣かないし、泣かないだけですごいことだなと思っていました。親や先生も、すごく正しさに満ち溢れていて、それにそぐわない自分は間違っているのだろうと思っていたんですよ。

 でも、いざ大人になって見れば、そうではないという事実も目に入ります。大人だって歳をとった子供であるという側面もあるわけですよ。あと、大人は泣かないとか言ってましたけど、僕は結局大人になってもよく泣きます。自分が泣かなかったのは、あまりに泣き過ぎる自分が嫌で、必死で感情を押し殺していた中学生から大学生の途中ぐらいまでです。

 階段を登ってここまで来たわけですよ。途中でワープしたわけじゃありません。だから、あの頃と今は地続きですし、自分は子供のころからずっと不完全で不安定な人間のままです。きっと多くの人がそうでしょう?今思えば、子供から見て大人が正しく見えたのは、その正しさを大人が規定していたからで、それにそぐわない自分が間違っていると思っていただけのように思います。正しさとして取り得る立場は必ずしもひとつではありませんし、違った正しさが同時に成り立つことだってあります。

 

 未来のミライの中には沢山の「まちがったこと」が描かれています。自分から親の関心を奪ったミライちゃんを、電車のおもちゃで叩いてしまうくんちゃんは明らかに間違っています。そして、それがくんちゃんが自分への親からの関心が薄れたことへの辛さの結果であることを理解せず、ただ叱りつけるお母さんも間違っているように思いました。くんちゃんのときには大して子育てに参加しなかったお父さんも間違っているでしょう。今回は家事を頑張っていることを、近所のママさんにアピールしてしまうところもきっとそんなに正しくないですし、そのことについて、イヤミを言ってしまったり、慣れない家事に取り組むお父さんにダメ出しばかりをしてしまうお母さんもあんまり正しくないように思いました。

 そもそもこの物語に登場する家だって子供が生活するのには適した家とも思えません。階段やガラスで怪我をする危険性が高そうですし、何か起こったときによくなかったと言われそうなポイントは山ほどあります。この家族は、たくさんの間違いに満ちています。間違っているから喧嘩もあり、間違っているから互いに傷ついたりもします。

 

 でも、それは特殊なことでしょうか?

 

 実際のところ、僕が育った家に比べればよほどまともです。僕が育った環境は、減点法で評価すれば、めちゃくちゃ点数が低くなると思いますが(育児放棄で衰弱して長期入院したりしたので)、別にそれだって運の悪さが重なった部分もあって、そんなに特殊なことじゃないと思っていますし、今思えばそんなに悪くない環境だったとも思います。だって、非の打ち所のない家庭なんて本当に存在するんでしょうか??

 

 僕がこの映画を観て感じたことは、自分は「他人の間違いに対しては沢山気づいてしまうんだな」ということです。自分や自分の家族がそんなに正しくない感じに生きてきたことにも関わらず。そして、他人が間違ったままで生きていることについて、もっといいやり方があるだろうよとおせっかいに思ってしまったり、その状況を見続けていると落ち着かない気持ちになりました。

 つまり、自分自身はそんなに正しく生きてもいないのに、なんだかそういう「他人の間違いにばかり気づいてしまう」ということに気づいてしまうというようなことがあったわけです。もっといいやり方を自分は知っているのに、なんでこの人たちは、それをしないんだ?というようなのは、例えば、自分が得意なゲームを子供がやっているときに、あまり上手く遊べていないのを見て、口出ししてしまったり、しまいに取り上げて代わりにやってしまうようなこととも似てるのかもしれません。そして、そんなとき、取り上げて代わりにやってみたものの、自分だって上手くできなかったりすることだってあるわけですよ。外から見ているときには、あんなに正しいやり方が分かっていると思っていたのに。

 

 人は、だいたいのことについては拙いものだと思っていて、それは人が何かに習熟するには相応の経験が必要だからだと思います。そして、時間は無限にはありませんから、できるところとできないところがあります。

 僕がとりわけその点に自覚的なのは、僕自身がとにかく不器用なので、他の人たちがすぐにできることをひとりで残ってずっと練習していたというような経験が多々あるからかもしれません。上手くできないということが、それを指導する人たちから見てどれほどの失望を招くのか、そしてその失望を隠しもせずにあからさまにしたりする人だって別に珍しくありません。

 小中高、そして大学と、面白いぐらいに先生に「お前のような人間は社会ではやっていけない」と言われてきたので、そういうものだなという認識があります。それでも別に今調子よく生きているわけですからね。彼らの期待する成長速度よりも、ゆっくりだっただけで。

 

 でも、上手く行かないものじゃないかという気持ちとか、上手く行かない中でもやっていくのが人生じゃんすかという気持ちとは裏腹に、未来のミライを見ていて、うわあ辛いなあという気持ちになったので、なんか辛い映画だなと思ったわけですよ。そんな中でも人は育つし、その辛い状態が継続した時間ですら、あとから振り返ればかけがえのないものであったりもするんだと思います。

 そういうことを、自分の親や、親の親や、そのまた親の親まで繰り返して、なんとかおっかなびっくりやってきているということを、あの家で巻き起こる出来事が浮き彫りにしているように感じました。

 

 そういえば、あの場所が時間的な特異点となり、複数の時空の出来事が交錯するという意味で、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」のcrosswhenのような感じだなと思いました(読んだのかなり前なのでちょっと間違った印象の可能性もありますが…)。

 crosswhenはいつでもなくどこでもないような場所で、あらゆる時空を超越した概念的な中心なわけですが、その物語の中では、crosswhenから漏れ出したものがあらゆる時空の様々なものに影響を与えます。ある日、とんでもない大量殺人を引き起こしたウィリアム・スタログもその影響を受けた一人です。ウィリアム・スタログはその死刑が確定する法定で「俺はみんなを愛している」と叫びました。

 そして、未来のミライの場合はその逆で、様々な時空で起きた出来事がその中心の特異点となってしまったくんちゃんに影響を与えてしまうわけです。これはメタな見方をすれば、この映画を観た人々の感じた様々も、それに該当し、その認識はくんちゃんにも届きうるという話かもしれません。

 

 実際、子育てに限らず、世間に向かって発信されてしまう様々にはそのような傾向があるんじゃないかと思います。ネットを通じて広がる、何かの中心になってしまった人に対しては、直接は面識もない人々からの、様々なご指導ご鞭撻が発生するわけじゃないですか。でも結局、誰しもそこそこ間違っていると思っているので、その中心にたまたま選ばれたか選ばれなかったかぐらいの違いしかないんじゃないかと思うんですよね。

 その中心にあるものが、自分の持っている価値基準と異なるという話ばかりをしてしまうということについて、色々思い当たることがあり、お話の本筋とは異なるかもしれませんが、観終わったあと、そういう印象が残りました。