漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

インターネットで悲しくなっちゃう話

 「助けて」っていう言葉が言えずに生きてきたようなところがある。どんなに困っても、他人を頼ることが下手くそで、下手くそだから、それをすることを避けて自分ひとりでなんとかしてこようとしてきた。だからいつまでたっても他人を頼ることが上達しないし、ずっと下手くそのままで改善しないから泥沼だ。

 それでも「助けて」って言ったことは過去に数回ある。それは本当に色んなことがダメになりそうになったギリギリのときで、だいたい金に困ってるみたいな話だったんだけど、もうダメかもしれないと思ってようやく発せたその言葉は、結局他人からの拒絶しか生み出さなかったので、絶望的な気分がより絶望的になっただけだった。これは自分が本当にギリギリにならなければそうできなかったというタイミングも悪いし言い方もダメな下手くそな話だけれど、それは当時の僕に、助けを求めることの方がむしろ辛いものだという気持ちを植え付けることになった。助けてもらえないばかりか、尊厳まで傷つけられたからだ。

 

 実はこれは少し嘘で、助けてくれようとした人が2人だけいた。ひとりは高校生のときに街で知り合った兄ちゃんで、最初の出会いは僕がカツアゲにあうという最悪なものだったんだけど、財布にわずかな小銭しか入っていない僕に同情して、ファミレスでご飯を食べさせてくれた。僕が金に困っていたとき、何の躊躇もなく貸してくれるって言ったのは結局この人だけだった。

 もうひとりは僕以上に金に困っていた人で、金は貸せないけど(ないから)、それでも何かできることはないかと言って一緒にいてくれた。別に何の役にも立たなかったけど、人間は金を貸してくれと言われると態度が変わることが多いので、彼ら2人だけはそれでも変わらなかったというか、僕が困っていること自体に寄り添ってくれた人たちだから、だから、彼らに何かあったときは僕は絶対に手を貸そうと心に決めたということがあった。

 

 これは随分と昔の話で、今の僕はもうまるで金に困っていないので、生きることが全然平気で、なんて楽な人生なんだろうと思いながら日々生きているような状況です。でも、詰んでた可能性のあるポイントはこれまでにいくつもあって、それらをたまたま運よく切り抜けてこれたからの今だと思う。人生がもう一度やり直せるボタンがあったとして、絶対に押さない。次もこんな風に上手くいくとは全く思えないからだ。

 

 ごく一部の例外を除いて、「結局誰も助けてなんてくれないんだ」という気持ちは自分の胸にずっとある。

 

 以前、借金を抱えた知人に金を貸したときも、そういうことがムカつくみたいなのが原動力だったと思う。別に僕は優しいわけではなく、その原動力は怒りでしかなかった。つまり「借金を抱えた人は自業自得だし、金を貸しても損をするだけだ」と決めつけていた他の人たちに対するめちゃくちゃな怒りがあったから、その勢いだけで結構な額を貸した。

 僕の知ってる人間の情報だけど、ある程度以上の借金を抱えてしまうと、もうどうしようもなくなる。元本が減らず、無限に利息だけを返すことになり、その状況は人間の精神をゴリゴリと削り込んでいく。ある程度以上の過負荷を精神に抱えた人は判断力がなくなることが多い。目の前のそれをどうにかするのに精一杯で、長期的な目線で何をどうすればいいかを考える余裕がなくなってしまうからだ。なぜそうなると思うかというと、僕がそうだったからで、だから、まずはそこを抜け出さなければいけない。自分だけで抜け出すことができないからそうなるので、誰かがその人を助けなければいけないという気持ちがある。

 

 でも、普通は助けないでしょう。だって損をする可能性の方が高いから。色んな人が色んな賢い理由で、何故自分はその人を助けないかを教えてくれる。言ってることは間違っちゃいないし、処世術としては正しいことだろうと思うけれど、でも、それでもそれにひどくムカついてしまった。彼らは僕がまた困ったときには同じようなことを言って僕を見捨てるのだろうなと思ったからだ。思っただけだ。勝手に想像して、想像に対して勝手に怒ったので、僕が面倒くさい人間という話だ。

 でも、そう感じてしまったからこそ、「自分は違うぞ」という気持ちだけで色々やってしまった。ただ、よくよく考えてみれば自分だってそんなに違ってはいない。全員が全員を助けることはできないし、ただ自分は違うって思いたかっただけで、そう思いたかったのは、自分だって同じかもしれないと実は思うからだろう。かもじゃない。きっと同じなんだと思う。ただ、それに少しは抵抗したかっただけの話だ。

 

 インターネットを見ていると、時折悲しくなる。インターネットで沢山目にする賢い人たちが、何か困っている人に対して、なぜ自分はその人を助ける必要がないかを賢く説明してくれるからだ。その賢さはその困っている人が少しでも困らなくなるような方向に発揮することはできないんだろうか?

 インターネットを見ていると、時折悲しくなる。インターネットで沢山目にする賢い人たちが、何か困っている人を守るために、寄り添うのではなく、その困っている人を助けることをしない人たちを攻撃的に責め立てているのを目にしたりするからだ。例えば、今書いているこの文だってその範疇だ。助けたかったんじゃないんだろうか?守りたかったんじゃないんだろうか?その困っている人に寄り添い手助けをすればいいだけの話が、なぜかそうならない誰かを責め立てることになったり、その人たちを何故助けなくていいかを説明する話にばかりなってしまう。賢さが人を助けるために機能しない。

 じゃあ、困っている人たちは置いてきぼりじゃないかと思う。誰が何のためにそれをしているのか、ただ不思議になる。

 

 自分に誠実にいようとするならば、そういうときは黙っていればいい。黙って、その人たちが少しでも助かるように何らか行動するしかない。でも、そうばかりにできていないじゃないかと思う。他人に対してそう思うし、自分に対してそう思う。

 

 何か大きなことが起こると、その大きなことで困った人が沢山出る。なら、まずはともかく助ければいいんだと思う。けれど、その時困っていない人が助けることをするでなく、その大きなことの責任者探しをまず初めてしまったりする。僕はそれは勘違いしているんだと思っていて、大きな出来事によって起こる大きな悲しみには、大きな理由や大きな責任の所在が常にあると思い込んでいる人がいるんじゃないかと思う。だから、その所在を探して、起きてしまった出来事と、その原因に選ばれてしまったものを釣り合わせて、納得したような気持ちになる。でも別にそんなことはないよ。人間の理解の範疇にある大きな原因や責任の所在なんて存在しなくても、大きな出来事は起こる。竜巻の責任の所在を、蝶の羽ばたきに求めても仕方がないじゃないか。

 まず責任を求めて納得しようとするのは、別にその件で困ってない人たちがとりあえず納得したような気持ちになれるだけで、そもそも起こった出来事で困っている人たちにとっては何の関係もないじゃないかと思う。だからそんなのとりあえずはどうでもいいじゃないか。

 

 京極夏彦の「絡新婦の理」だったかで、起きてしまった事件に怒り出すおっさんがいて、それに対して探偵の榎木津礼二郎が、「怒っている人は、特に何もすることがないから怒っている」というような感じのことを言う。つまり、それに対して何かすべきことがあるならば、まずそれをすべきだし、それをしないということは何もできないのだろうということだ。ただ、何もすることがなくても目の前に大きな問題があれば気になるし、でも、それに対して何もできないからただ怒り出してしまう。

 このことについては割とよく思い出す。仕事でもそうだ。何かが上手く進んでいないときに怒り出す人は、それを上手く進めるための具体的な手段を何一つ持っていないんだなと理解する。それは無力だということだろう。そして暇だということだろう。何かの問題を解決するためにすべきことは、それを解決するための行動を起こすことだと思う。怒り出すのしかないのは、つまりは自分には何もできないと言っているということで、それはある種の悲鳴のようなものだと思う。それはきっと別に悪いことでもない。人が立場や能力によって、何かに対して無力となってしまうことは悲しくはあっても悪いとは言えないし、ただ、これは悲鳴だなと思うだけだ。その人には、それを解決するために何もすることができないんだなと思い、悲しくなる。

 

 人と人との話し合いには、目的が必要だ。議論をするにしても、それぞれがどういう結論に至りたいかがまず最初に設定されていなければ、ただ時間を浪費する結果になるだろ。結論なんて条件によっていくらでも変わるし、その条件をころころ変えれば、無数の立場をとって、無限に議論を続けることができるようになる。収束しない議論はだいたいそうだろう。

 例えば、派手な色の服を着るか、地味な色の服を着るかを議論したとして、至りたい結論が決まっていなければどっちでもいい話だ。でも、人ごみの中ですぐ見つかってほしいというような条件が決まっているならば、派手な方がいいとなるし、目立たずに集団の中に埋没していてほしいというならば地味な方がいいとなるだろう。だから、最初にその目的を共有しなければいけない。それを全員が全員同じもので統一することはできないかもしれないけれど、それでも、自分はどうしたいのかを確固と持っていなければ、そこから始まる話はほとんど無駄だろう。

 

 僕はそれを、あらゆることの目的を、「人を助ける」というところに持ってきたいんだと思う。それは、自分が一番助けて欲しかったときに、沢山の人が賢しらな理由をつけて僕を切り捨てたじゃないかという記憶と密接に繋がっているところがある。誰も別に不幸になる必要はないし、100人いたら、100人が幸福に生きられるのが一番じゃないかと思う。

 だからその目的を「自分は何もしない」だとか「誰かを責め立てる」というところに持って来るのはきっとよくないことだと思うのだ。散々議論をした結果、「何もしない」という結論に至るなら、じゃあ最初から何もしなければいい。議論をした時間だけ無意味じゃないかと思う。「誰かを責め立てる」でもどうでもいい。だってそれは誰かを助けることとあまり関係ないじゃないか。

 

 何かの行動を起こすとき、その行動の結果が、自分の抱える目的に少しでも近づくものかどうかを考える。そうでなければ、その行動には意味がないし、ひょっとしたら自分が抱えている目的だと思っているものは表面上だけの嘘っぱちで、本当に抱えている目的をごまかしているだけかもしれないとも思う。だいたいの場合は、行動は言葉よりもずっと正直だ。だから行動で示せないものならば、それはたぶん嘘なんだと思う。

 

 僕が今インターネットに書いている文章は、ただの言葉で、だから意味がない。これ自体には全く意味がなく、これを書いた上で体現していくことに初めて意味が生まれるのだと思う。だから、今のところこの言葉はまだ無意味だし、だから、インターネットをしていて悲しくなる。