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「我らコンタクティ」と人生における無限への想像力の話

 これは人生の話なんですが、友達と話をしていて、自分自身に対する未来への希望がないというか、今はそこそこ幸せに生きている皆さんが、いざ未来の話をすると、年老いて誰かに迷惑をかける前に、早めにぽっくりと死んでしまいたいねという話になったりしたことがあります。

 そのとき、男でも女でも一人で暮らしていても家族と暮らしていても、遠い未来の先に、今以上に輝かしい何かがあるというあまり想定をしておらず、ある種の諦念があるように思いました。僕の付き合いだけの話なので、一般化できるような話ではないかもしれませんが、これから年老いていく自分自身のその先に、今以上に明るい何かを見ている人はどれぐらいいるでしょうか?少なくとも自分は違うような気がしていて、それでいいのかな?と思うところがあります。

 

 ドラゴンボールベジータフリーザは永遠の命を求めますが、それってすごいことだなと思います。だって、永遠に生きたいと思うほどに今が充実していて、そしてそれが未来永劫続くのだろうと思っていなければ、そう思うことはできないと思うからです。そこそこ楽しく生きて、寿命が来たら来たで死んだらそれでいいや、いい人生だったと思うよ…というような僕のような人間には獲得できないかもしれない人生観です。

 

 さて、「我らコンタクティ」は幼馴染の男女の物語です。彼らは子供の頃に一緒にUFOのようなものを見たという体験の持ち主です。大人になって再会した彼らは、その宇宙人へのメッセージを送りたいという目的を共有しました。その変わった目的は「自分たちの好きな映画を、宇宙人に見せるために宇宙で上映する」という形に具現化されることになります。では、そのために何をすればいいのか?合理的に考えれば、それを宇宙に持っていく手段が必要です。直線でそこまで突っ切るならば、そのための手段が必要で、だから彼らは、自分たちだけの手で宇宙ロケットを打ち上げるという発想に至るのです。宇宙で映画を上映するために。

 

 町工場で働く無口な男が作った宇宙ロケットに、力を貸すのはただの事務員の女。これは荒唐無稽な話だと言えるかもしれません。宇宙ロケットというものに無知な僕には、これがどれほどリアリティのある話なのかも分かりません。でも、そんなことは僕にとって大した問題ではなく、このお話がめちゃくちゃ良く感じたんですよ。なぜならそこには無限に対する想像力があったように感じられたからです。

 それはつまり、僕が抱えているような閉塞感に対する打破の力なんじゃないかと思いました。

 

 最初に書いたように、自分の人生は割と先が見えています。厳密に言えば、先が見えていると思い込んでしまっているんじゃないかと思います。ただ実際は別にそうじゃないかもしれなくて、だって先のことなんて分からないじゃないですか。

 

 子供の頃はもっと無限なことを考えていたように思います。例えば、無限の宇宙の果てには何があるかとか、何十億年先の地球はどうなるだとか。科学技術の発展の先にある夢のような未来だとか、この先の人生にやってくる素晴らしい人との出会いだとか、無限の選択肢がある自分の生き方だとか。自分の人生の先にある空白の部分に無限の可能性を想定して、ワクワクしたり恐ろしくなったりしていたわけですよ。なるようにしかならず、落ち着くべきところに落ち着くと思っている現状からは、もしかするとそれが失われてしまっているのではないでしょうか?

 

 かつて無限にあったかのように見えた選択肢は、いつの間にか少なくなり、だからこそ目の前がクリアに見えるようになって安心して歩けるようになりました。しかしながら、だからこそ期待はできなくなってしまっています。まだ来てもいない数十年先のことを、確定的な未来のように想像して、勝手に落胆したりなんかしてるわけですよ。でも、それってただの想像じゃないですか。想像でしかないじゃないですか。つまり、「想像する」ということが、自分の人生にどれだけの影響力があるのか?っていう話じゃないですか。

 

 我らコンタクティでは、最後宇宙ロケットを打ち上げます。かつて宇宙人に遭遇した男の子は、ロケットを作って周りの反対を無視してそれを打ち上げるわけですよ。かつて宇宙人に遭遇した女の子は、それに協力し、そしてその許可が取れない中での決行は、犯罪でしかないわけですよ。

 かつての男の子は、自分で作った宇宙ロケットの状態を把握する数字を見て、その成功を理解します。かつての女の子は、その実況を聞いて、自分たちのロケットが今まさに宇宙で映画を上映開始したということを理解するわけですよ。その光景を、我ら読者だけは実際に映像として理解することができます。読者は作者が描いてくれさえすれば、たとえ宇宙の果てだろうともそこに視点を持てるからです。でも、当の彼らには目視ではその様子を見ることができない。だって映画の上映機は宇宙にあって、彼らは地上にいるのだから。彼らは画面に表示された数字から、それを想像することしかできやしないわけです。僕らが映像として理解した光景を、彼らは頭の中で想像しただけなわけです。そしてそれで十分じゃないですか。

 

 まともに考えれば、打ち上がった映画上映機が永遠に稼働しながら宇宙の果てまで行けるわけなんてないわけですよ。それがどれだけ単独で稼働し続けられるように作られたとしてもです。きっとどこかのタイミングで何かの影響で壊れたりしてしまうじゃないですか。でも、想像の中では無限でしょう?そもそも、自分たちの好きな映画が、いつかあの宇宙人に届くかなんて何の保証もない。その宇宙人だっていないかもしれないわけですよ。あの光が宇宙人だったなんて分からないし、そんなものそもそもいなかったかもしれないわけじゃないですか。

 

 だとすれば、ここにあるのはつまり全て想像力の話です。自分たちが飛ばしたロケットの先に、いつか宇宙人まで映画が届くかもしれないという無限の果ての想像力を彼らは得たということじゃないかと思ったわけです。

 自分の人生の未来に、何かがあると思うことも、何かがないと思うことも、すべて今想像しただけのことです。そんなことに一喜一憂して、自分のこの先の人生に価値があるとかないとか言っているわけじゃないですか。人間が未来に生きるためには無限への想像力が、生きていく上で強い力を発揮したりするわけですよ。存在していないそのようなものに、めちゃくちゃな価値があるわけですよ。

 

 もしかすると自分が死んだ後もずっと宇宙の果てまで進み続けるような映画上映機が存在しているということ、それを想像するということが、一見何の関係もない自分の人生の在り方に強く関係しているということもあるんじゃないかと思うわけです。そしてそれがいつの間にか自分の人生から抜け落ちてしまっているのではないのかと思ったりするわけなんですよ。

 

 僕が我らコンタクティの物語に惹かれたのは、そういうところじゃないかと思っていて、いつの間にか自分の中から抜け落ちていた何かしら無限的なものに対する想像力がそこにあったからなんじゃないかと思います。世の中にある閉塞感のようなものも、根っこは同じような気がしていて、本来どう埋めても大丈夫なはずの未知の未来の領域を、勝手に手元にある陰鬱になるようなものだけで埋めちゃっているような気がするんですよね。

 でも、それがもしかすると安心するためにわざわざそうしているんじゃないかという疑惑があって、それをどうにか楽観とそれを現実にするための行動で上書きしていくことが、自分の何十年先の未来のことを思っても、ワクワクした気持ちを持ち続けるためには必要なんじゃないかと思ったりしました。

 

 あれ、何の話だったか…。

 

 とにかく良いお話でしたよ。良いお話なだけでなく、絵もめちゃくちゃに良いですからね。最後のシーンは本当に胸いっぱいになりながら読みました。これはとてもカッコいいお話だったので、あの後、彼らがどうなったのかは語られませんでしたが、僕はそれは閉じたものではなく、広がったものであるかのように思っていて、なぜなら僕はこの漫画を読み終わったあと、とても清々しい気持ちになったからです。

 僕もそんな感じに生きていくぞ!!というようなことを思いました。