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統計多重化されている社会とその限界関連

 電気通信には統計多重化という考えがあり、これはざっくり言うと「通信のために据え付けられた伝送路を複数の通信者で共有することでなんだかいい感じになる」というようなことを言います。ざっくりし過ぎました。

 

 例えば同じ家にある100Mbpsの通信ができるパソコンAとパソコンBがあったとします。その両方がインターネットに繋がる100Mbpsの通信サービスに繋がっているのを考えてください。インターネットへの出入り口が100Mbpsなので、パソコンAとBは理想的に譲り合えたとしても50Mbpsずつしか同時に使うことができません。これではせっかく100Mbpsの通信が使えるパソコンなのに半分の力しか出すことができないじゃないですか。もったいない。

 しかし、実際はパソコンAとBは常に全力で通信をし続けているとは限りませんから、Aが通信していないときにはBは100Mbps使え、Bが通信していないときにはAが100Mbps使えます。そんなに極端でなくても、100Mbpsの通信の土管に小分けにされたデータの塊(ご存知!パケット)が上手い具合に詰め込まれることで、実質的にそれぞれに別々の100Mbpsの通信サービスを契約するのとさほど変わらない効率で通信することができたりします。これはパソコンAとBにそれぞれ専用の100Mbpsのサービス契約をする場合と比べて、契約数を2本から1本に減らすことができますからお得ですよね?こういうのを統計多重効果と呼んだりします。

 

 統計多重効果は、同じ通信サービスにぶら下がるパソコンの数が増えれば増えるほど効果的になります。つまり、その通信のピークを賄えるだけの通信の土管があれば、本当は存在しないそれぞれ専用の土管を用意しているのと実質的に同じということになるからです。通信設備は基本的にそのような思想で設計されています。それはいいことばかりではなく、弱点としては、設計時に想定した以上のデータを流そうとしてしまうと、土管の太さがボトルネックとなってしまい、通信が遅くなるということがあります。

 このように、それぞれの利用者に個別で専用の土管が用意されていないため、常に全力で通信できることは保証されておらず、仕方ないので今の土管に流せる範囲で出来るだけ頑張るよというのを、ベストエフォート通信(出来るだけ頑張るよ通信)と呼びます。スペック上出るはずの通信速度がでないとき、インターネットを経由して繋げようとしている場所までのどこかの土管に設計で想定している以上のデータが流れて詰まってしまっている可能性が高いわけですね。

 

 これは具体的に例示すると、格安SIMなどとも呼ばれるMVNO事業者のビジネスがこの作りになっています。通信回線を自前で構築するMNO事業者と異なり、その中から必要な太さの土管を借り受けているMVNO事業者は、ピーク性能さえ上手く設計し凌ぎ切れば、MNO事業者と直接契約しているのと変わらない速度でお客さんに通信サービスを提供することができます。しかし、実際はお昼休みや夜などの、通信が集中してしまう時間帯には、すごく遅くなったりしますね。それはそういう設計になっているからです。遅くなることは原理的に仕方がないことで、MNOと同じぐらいの性能を出せるだけの太さの土管をMVNO事業者が借りようとすると、その分お金も必要になりますから、格安を維持することが困難になります。

 

 さて、話は少し変わって、このような「全員にそれができるかのように謳われているにもかかわらず、実際には全員同時にはできないもの」は電気通信の話だけではなく他にもいろいろあることに気づきます。例えば「権利」の話です。ある権利がその場にいる誰にでも付与されると謳われているものの、実は全員が行使することができるものではないことも多いのではないでしょうか。

 例えば、好きなタイミングで仕事のお休みを取る権利は「ある」と言われていますが、同じ職場の全員が同じ平日に休むことは認められないことも多いと思います。なぜなら、全員が同時に休むとその日の仕事をする人が一人もいなくなるからです。それができるかどうかは職場の業態によりますが、例えばお店ならその日は閉めなければならなくなりますし、サポートの電話窓口なら、その日は契約の履行上繋がらなくてはならないものが繋がらなくなってしまったりします。公共インフラもそうでしょう。全員が休みをとっているから、停電の対応は明日以降になりますで許されればいいですがそうではありません。今日は皆がたまたま同時にお休みをとったので、電車が一日動きませんということも認められません。漫画雑誌もそうですね。全部の連載が同時に休載をすること、雑誌自体を成り立たせるのが難しくなります。このようにたとえ権利があったとしても、その行使には実際は制限があります。

 

 全員が全員同時に休みをとることができないのであるならば、「いつでも休みをとっていい」という話は「嘘」であるということです。ただし、その休みをとるタイミングが統計多重っぽく上手い具合に分散してくれれば、実質的には「いつでも休みをとっていい」ということに限りなく近くはできるはずです。世の中はそのように動いていることが多いのではないでしょうか?

 つまり、世の中の制度や契約条件は、どれだけ同時にその権利を使っても成り立つように設計しているかという話があって、とりわけ同じ条件での運用年数が長くなると、仮に当初は十分余裕がある形で設計していたとしても、状況の変化によってそれを超過しまくってしまうこともあります。それにより、ついには権利を保証する制度自体が成り立たなくなってしまうケースもあるのです。

 

 そのようなときに発生してしまいがちなのが、権利の行使のさりげない制限でしょう。権利はあるが、その行使に負い目を持たせることで、できるだけ行使しないように仕向けるという人間的な状況が発生します。これは、僕が以前いた仕事場でのひとつの事例ですが、独身者が家族持ちに比べて超過勤務状態が常態化するということがあり、なぜかというと、家族を持っている人が家族の行事や病気などで休む頻度が高く、その穴埋めを自分以外の事情にあまり左右されない独身者がしていたからです。家族を持っている人にせよ、独身者にせよ、好きな事情で休んでいいはずですが、家族の病気や一生一度の行事などと比べて、自分の都合というのもはそれほど重大だろうか?と考え、素直に休まなくていいですよと答える感じの人の好い人が多かったので、その労働時間に目に見えて差がついており(なお裁量労働なので給料は変わらず)、バランス的には良くない状態になっていました。

 これは家族持ちの人が悪いのかと言えば、そうでないでしょう。当然の権利だからです。そして、独身者側もそれでも休むとか、代わりに働くのが嫌だと言えばよかった話なのかもしれませんが、そこでごたつくよりも、自分が我慢した方が楽だと思ってしまうわけですよ。なぜそう思うというと、まさしく僕がそれをしていた側だからです。それにより、ある年は夏休みもゼロになり、正月もリモート待機し、年休は20日付与された中の3日だけなんとか使いました。それを他の休みをとりたい人に対して「僕がやっておくので大丈夫ですよ」と良い人面して、自主的な判断でやっていたわけですね。これは正しいことでしょうか?たぶん正しくはないですよね。

 でも、自分以外の人に理不尽があってはいけないという正しい考えから、自分が正しくない行動をしてしまっていたというわけなんですよ。そういうことがあるわけじゃないですか。

 

 これはそもそも論としては、その仕事場に十分な人数が足りていないという話になります。ピークの設計が間違っていたということですね。であるために、制度を十分に成り立たせるための土壌が整っていないわけです。ならば、それを解決するのはマネジメントの仕事です。労働者の中だけの上手い辻褄合わせでごまかすこと自体がおかしなことだというのが筋でしょう。

 しかしながら、人をすぐに増やせるかというと、まあ増やせないじゃないですか。採用や訓練が全く必要なく、明日からすぐにというわけにもいかないからです。また、自分が今関わっているビジネスが、裏方の人数が倍になってもその人件費を賄える規模感であるかということについては、まあ分かるわけじゃないですか。固定的な人件費が倍になっては、採算性が低下し、仕事自体が崩壊してしまうかもしれません。なら、顧客数を増やしたり、客単価を上げて収入を増やすべきですが、顧客の数を増やせば労働量も増えますし、単価を上げれば、他所にお客さんをとられて余計に採算性が崩れるかもしれません。

 結局のところ、その場で誰かが我慢してギリギリ辻褄を合わせることが、最もリスクが少なく感じてしまうという辛さがあり、それでもなんとかしようと色んな仕事を自動化したり業務整理をすることで、なんとかしのぎましたが、まあそこを抜けるまでは辛かったですよね。

 どうですか?世の中にはこういうことがよくありませんか?

 

 僕が思うに、色んなところで認められていることになっているはずの権利が、実際のところは規定以外の部分で行使を制限されていることが多々あります。生活保護の申請に行ったときに、なんとかして給付しない方向に話を進めようとする職員とかもそのたぐいです。お金が無限に湧いて出るものでない以上、想定している以上の人数が利用すると成り立たなくなってしまうのでしょう。それは根本的には窓口に立っている人間の悪辣さから来ているのではなく、設計上の不備であり、どうにかして帳尻を合わせるために、本来のルールでは使えるはずのものを使えなくしてしまうということです。

 少人数で回しているバイトで休みがとれないとか、辞めるときには別の誰かを紹介しろと言われたりとかもよくないことですが、そうでないと回らないという追い詰められ方があるんじゃないかと思います。必要な人数を下回った状態で回さなければならなくなったとき、何かしら立場が弱い人や責任をとらされる立場の人ばかりがその役目を背負わされてしまい、集中した応力で心を壊してしまうことだってあります。

 これはマネジメントが悪いって話は、実際そうなんですけど、人事権も仕事のやるやらないの裁量権も限定的なタイプの弱い中間管理職には、あまり選択肢がないこともしばしばです。部下の権利を横暴な言い方や精神論、道徳などを説きながら制限するか、部下の権利を保証するために、そのための全ての業務を自分で肩代わりするぐらいしかできません。悪い人になるか良い人になって自身の過重労働で心をすり減らすかしかないのは悲しい立場です。実際中間管理職の人が過重労働で体を壊す事例も複数目にしました。
 じゃあそもそもどうすればいいのか?ということは常々思っているわけなんですよ。簡単に言うとスケジュールに余裕があって単価が高い仕事以外はやらないことにするって話なんですけど、それが簡単にできりゃ苦労しねえ…。

 

 世の中の制度は統計多重化を想定して設定されていることが多いはずです。ピークさえ賄えれば、本当はないものでさせ、実質あると思い込んでやっていけるので効率がよい話です。そして、想定しているピーク以上に大きな土管を作ることがピークが変動する場合のリスクを減らすやり方ですが、これを世間では何と呼ぶかご存知でしょうか?「無駄」です。過疎地に四車線の道路を作るようなものです。もしどこかの未来にそこを大量の車が走る事態になったとき、一車線の道路しかなければ渋滞してしまいます。そして、道路幅を拡張する工事は一朝一夕ではできません。ならば予め車線を増やしておく必要がありますが、じゃあ、今現在一日何台も車が通らない道に四車線必要ですか?という話で、それを人は無駄な投資と呼ぶでしょう。実際お金の無駄です。さらには作って終わりではなく、維持管理もしなければならないのですから。

 世の中の無駄を省き、効率的な社会を作ろうとする偏向が、その実、許容できるピークを限界ギリギリまで低く保つ力となり、なおかつ、ピークをそれ以上に上昇させないために、本当は必要な権利さえ、主張できないようにする社会的な圧力が生まれたりしているような気がします。そして、それについては、自分自身が権利を主張しようとするタイミングになるまで気づけなかったりするんですよ。普段はなんとなくあるんだろうなと思って生きていて、そしてそれはある種の幸福の在り方じゃないですか。

 銀行通帳に一億円の文字が見えたとき、それが存在するものだと信じて、いざとなったら引き出して使えばいいと思いながら、特段引き出す機会もなく一生を終えることができたとき、その一億円が本当に存在したものなのか、通帳の数字にだけ存在して、実は金庫に一円もなかったのかは同じ結果になります。ないものをあると信じたままで生きられる幸福感みたいなのもあるわけですよ。

 

 でも逆説的に、それが本当はないんだと気づいてしまうことによる不安もあります。引き出さなくてはならなくなった人がまずそれに気が付き、そして、そのことから雪崩を打ったように誰もが皆一度に引き出そうとすれば、銀行自体が破綻してしまうかもしれません。人間はないものをあるかのように信じることで上手く生きていたりもするんじゃないかなと思います。それは、神さまの力で来世の幸福を信じて生きるのと似たようなものかもしれません。

 

 これは、人がもっとずっと豊かになり、土管自体をより太くすること以外には、根本的な解決はできない話なのかもしれません。

 

 さて、最近ネットで目にした権利の行使の理不尽な制限を求めるものといえば著作権の話があります。日本の著作権法では、作者には著作者人格権として同一性保持権に関する規定があり、著作物について勝手な改変をされることを差し止める権利があります。つまり例えば、漫画のコマを勝手に抜き出して絵に修正を加えたり、セリフを改変したりする行為は(インターネットではよく目にするものの)、著作者の権利の侵害行為であり、申し立てがあれば差し止められるものです。

 ただし、商用利用されるなどでない限り、SNSなどで日常的に行われるそれが実際に訴えられたという事例はあまり耳にしません。ただ、それを差し止めるための権利は本当はちゃんとあるわけですよ。

 

 これに関してどうぞ好きに台詞改変して遊んでくださいと寛容な態度をとる作者もいて、それ自体も権利の範疇です。それを認めるか認めないかを判断する権利があるわけです。ただし、ネットのコメントなどを見ていると、そのような寛容な態度をとる作者を引き合いにして、それをしない作者を心が狭いというように表現するものを目にします。漫画なんかはある種の人気商売ですから、お客さんに嫌われるのは得策ではありません。そんな中でお客さん側の一部が言うわけですよね。「自分たちに嫌われたくなければ、お前は権利を行使してはならない」という主旨のことをです。そんなことを言ってしまうことこそが心が狭い話なんじゃないかと思います。

 僕自身、漫画のコラージュなどで好きなものも沢山あり(「幕末トランスフォーム」「ナンノブマイビジネス(夜に影を探すようなもの)」など)、それが面白いということも分かりますし、それを自由に楽しめなくなることが面倒くさい事態だなと思う気持ちもあります。でも、作者側がそれを嫌だなという権利もあると思うので、そうなったら、あちらの権利を尊重するのが筋だろいうという気持ちも僕にはあります。

 

 権利を認めるという話は自分に全く関係ないところであれば、全て認めてしかるべきだと簡単に言えますが、その他人が権利を主張することが自分にとって損になるとき、つまり他人の権利と自分の自由が衝突するときにどういう態度をとるかという話があると思います。

 そういうとき、概ねなんらか適当な理屈をつけて相手の権利の行使をできるだけしないようにするようなことを言ってしまったりしませんか?僕はそういうことを気にしているわけですよ。なぜ気にしているかというと、僕が他人にうっかりそういうことを言ってしまう可能性が十分あるからです。

 このように誰かの利が誰かの害になるというような矛盾してしまう権利同士は、そもそも統計多重することも難しくなります。立場上弱い側の権利の行使がただただ制限されて終わることもしばしばです。

 

 人間はそのような沢山の制約がある中でなんとかやっていて、技術や社会制度、規範意識の進歩により、昔に比べれば土管は太くなってきてはいるんじゃないかなと僕は思っています。しかしながら、それがあくまでまだまだ全員に同時に行使できるものではないということに気づいてしまっているきらいもあって、気づいてしまっているからこそ、自分がいざその権利を行使したいときには既にリソースが尽きてしまっているんじゃないか?という恐怖も付きまとってしまいます。

 そして、だからこそ、他人の権利行使を遮るようなローカルルールの押し付け合いもやってしまったりするじゃないですか。それだってある程度は仕方なくですよ。でも、そのあたりが、まだまだ豊かさが十分じゃないんだなと思います。

 

 気分のままに書いてたら、統計多重の話は最終的に全然関係なくなってしまったような気がしますが、本当は全員分ないものを、なんとなくあるような気になることで表面上は上手く回っているということが社会にはよくあると思います。でも、それを信じられているうちは上手く回っても、信じることができなくなった瞬間に、銀行の取り付け騒ぎのように瓦解してしまう気もします。

 ギリギリでやってることも多いんだよなあという気持ちがあって、それでもなんでか上手く行ってたり、上手く行かないところでは何かしら悲しいことが起こったりしつつ、根本的には、豊かさの土管を太くしていかにゃあならないよなあというような気持ちが生じたので、今日はその気持ちが生じたということを書き記しておくことにします。