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ミスターサタンと嘘つきの発信力関連

 ドラゴンボールミスターサタンについてですが、歳をとるにつれていい役回りだなと思うようになりました。なぜなら、ミスターサタンは、ドラゴンボールの作中において主人公の悟空たちとは異なる世界観から登場した特異な人物だからです。

 

 ミスターサタンの初登場は、人造人間セルの主催する格闘大会、セルゲームへの参加者としてです。セルは放送局をジャックすることで世界に向けてその恐ろしい力を見せつけました。軍隊も歯が立たないほどの強さです。そして、ミスターサタンはそんなセルと戦うために登場しました。人類最強の救世主としての期待を背負って。しかし、もちろんその強さは普通の人間を逸脱しないレベルであり、セルに勝てるはずはありません。しかしながら、レベルが離れすぎているがゆえに、ミスターサタンやそれを支持する人たちにはその事実すら分からないのです。

 

 それはつまり、これまでのお話の中で悟空たちがやってきた戦いが、それがどれだけ世界の存亡を賭けた戦いであったとしても、世間からするとほとんど知られていないことであったということを意味します。例えばナッパが都市をひとつ戯れに破壊してしまったことなども、戦闘民族サイヤ人が地球に襲来したということを知らない普通の人々からすれば、ある日突然、謎の大爆発で都市がひとつ消え、そして、その原因は何も分からないということであったということです。世間でその理不尽で悲惨な出来事がどのように受容されたかが気になるところではあります。

 作中の世間で比較的知られていることと言えば、かつて世界を恐怖に陥れたピッコロ大魔王を倒した謎の少年がいたということぐらいでしょう。それにしたって、その少年の名前が孫悟空であったということは知られていません。

 

 ミスターサタンは、そんな普通の世界と悟空たちの戦う特殊な世界の橋渡しをするような存在です。

 

 ミスターサタンは虚栄心が強く、臆病で、都合が悪いことはセコくごまかすような格好の悪い男です。しかしながら、根は善良で正義感も強く、だから憎めない存在でもあります。

 ミスターサタンは、悟空と悟飯の親子が成し遂げたセルを倒したという功績を、虚栄心とお調子者感から奪ってしまい、そのため、世界の救世主と崇められるようになってしまいました。それはよくないことかもしれません。なぜなら嘘だからです。でも、悟空たちは世界の救世主として崇められるというようなことに価値を感じていないので、大した問題視もされず、なんとなく世の中的にはそういうことになってしまいました。

 

 魔人ブウ編では、このあたりの要素がより色濃く出てくることになります。つまり、ミスターサタンが普通の世界と悟空たちの世界の橋渡しをする存在であるということが物語の中で強く意味を持ち始めます。そして、ミスターサタンの虚栄心が生み出したものが、なんと世界を救う最後の一押しになってしまうということに皮肉と痛快さがあるように思いました。

 

 これはある種の「長靴を履いた猫」のお話です。最初は嘘であったことが、いつの間にか本当のことになってしまい、その本当になってしまったことによって、最初のただの嘘が不問にされてしまいます。これは嘘を推奨するよくない寓話でしょうか?でも実際の世の中にもそういうことがよくあります。

 例えば僕が仕事で何かを作るために他人にお金を出してもらうとき、金主に「何を作るか」と「それがどのような利益をもたらすか」という説明をします。それは乱暴に言えば嘘の話です。どんなに自信のある企画でも、その時点ではある程度嘘なんですよ。なぜなら、その時、まだ作っていないものが既にできているものであるかのように語るからです。その先、作る上でその時点では想定できていない未知の問題もあるかもしれません。なので、ちゃんとできあがるかもわかりません。そして、それが本当に利益を生み出すかどうかだってわかりません。でも、まだ作っていないそれがまるで事実存在しているかのように語られますし、そんな嘘を、予算と納期の範囲で本当にしてみせることがある種の仕事というものです。これは悪いことでしょうか?

 嘘が嘘のままになってしまうのが失敗したプロジェクトです。嘘が本当になってしまうのが成功したプロジェクトです。でも最初は同じレベルの嘘の話なんだと思うんですよ。結果が出たことが遡ってそれらの見方を変えてしまうというだけで。ただ、もちろん最初から騙す気まんまんの詐欺も存在し、それは確実に悪いですね。

 

 このように、世の中は意外と嘘で駆動していて、それがうっかり本当になってしまうことで大きく先に進んじゃったりします。ミスターサタンの嘘は人を騙す気まんまんの詐欺のような嘘ですが、それも最後に何故だか本当になってしまいます。それはたまたまとも言えますが、それでもその背後にはミスターサタンが積み上げてきたものがあるはずです。

 

 悟空たちの世界では、悪い敵をより強い力で撃退するということが当たり前です。それはそれで正しいことかもしれません。しかしそこには、少々の視野狭窄もあるでしょう。事実、ミスターサタン魔人ブウと友達になることに成功しました。誰もが力で撃退し、調伏しなければいけないと思っていた魔人ブウと、友達になることでもう人を殺さないという約束までさせてしまいます。

 これは悟空たちとは違う世界に生きてきた住人だったからこそ辿り着けた場所ではないでしょうか?ミスターサタンは弱いからこそ、強さで勝つ以外の選択肢に手をかけることができます。ただ、これも最初は嘘だったわけですよ。魔人ブウに嘘をついて取り入って、毒を食べさせ、爆弾で攻撃したりしたわけです。でも、そのどれも魔人ブウにダメージを与えることはできず、笑って流されてしまいます。でも、その交流の中で、魔人ブウミスターサタンは本当に仲良くなってしまい、これは結果的に役に立ってしまいました。正しくないことがうっかり役に立ってしまうのは面白い話です。

 その後、ミスターサタンが悪い人間に傷つけられてしまうことで、魔人ブウの中の憎悪が育ってしまうというのは皮肉な話ですが。

 

 世の正しさは、正しくあることを推奨しがちです。正しさを守り切れるなら、負けてもやむなしという価値観に至ったりしてしまうことだってあるでしょう?しかし、その考え方は、間違ったやり方で勝ってしまうということを許容してくれません。それは勝ったとしても悪いことということになります。

 でも、実際はあるじゃないですか、その間違ったやり方でも勝ってしまうということが。それについては、よい捉え方も悪い捉え方もあると思うんですけど、徹頭徹尾正しさに拘らなければいけないと思うことは、もしかして人の選択肢を狭めてしまうのではないでしょうか?

 そう、それは悟空たちが魔人ブウを力で倒すしかないと思ったようにです。

 

 ミスターサタンは、ことの善し悪しは別として、他人に自分の言葉が伝わる状況というのを作り、拡張し、維持してきました。これは悟空たちがあまりやってこなかったことです。やってる方が偉くて、やってない方が偉くないって話ではないんですよ。ただ、それをやっていなかった悟空たちに、やっていたミスターサタンがパズルのピースのようにがっちりハマってしまったことが面白いと思うわけです。

 魔人ブウを倒すために、地球人全体の力を借りる必要が生じたとき、悟空たちによる「地球を守るためにお前らが力を貸せ」という一方的な物言いは、むしろ反発を招いてしまいました。それも当然です。なぜなら、今まで伝えようとしてこなかったんですから。急には無理な話です。世の中でもよくあるじゃないですか。緊急時に必要なシステムが、緊急時以外に使われてこなかったことによって、いざ必要なときに使い方が分からないとか、上手く動かないとか、そういうことが。

 さらには悟空たちは正しいことをしているわけです。正しいことをしているとき、人は傲慢になってしまうことがあります。自分たちは正しいことをしているのだから、少々無礼な物言いをしても他の人は受け入れるべきだと。でも、正しさは無礼の免罪符ではないんですよ。

 そういう意味で、ミスターサタンは自分の言葉が伝わるように積み上げてきていたわけです。地域の防災無線が謎の音楽を定期的に流すように、それを日頃から使うことで動くことを確かめてきていたわけですよ。それは必要なときに安心して使えることを意味します。

 

 ミスターサタンの言葉によって、人々は悟空たちに力を貸す決断をし、その大きな力を得た元気玉魔人ブウを倒せるほどになりました。その栄誉はまたしても必死で戦った悟空たちではなくミスターサタンが得てしまいますが、今回は悟空もミスターサタンを本当に救世主かもしれないと表現しました。なぜなら、ミスターサタンの力によって、悟空たちだけでは成し遂げられなかったことを成し遂げられたからです。

 

 さて、これはよい話でしょうか?ミスターサタンがやってきたことはよいことでしょうか?僕が思うに、そうではないです。これがよく感じるのは、最終的によい結果に繋がったからであって、それがなければただのホラ吹き野郎の話じゃないですか。ただの名誉の簒奪者じゃないですか。これは悪いことですよ。でも、そんな悪いことが役に立ってしまう、世界を救ってしまうというところに個人的にある種の痛快なものを感じます。

 

 正しい考えのもとに、正しいやり方で、正しいことを積み上げてきても、それでも上手く行かないことが世の中には多々あります。そして、それをお世辞にも正しいとは言えない考えのもとに、正しくないやり方で、正しくないことを積み上げてきた結果が、そこになぜだかうっかり綺麗にハマりこんで上手くいってしまうなんてこともあり得るのが、世の中の多様さじゃないかと思います。

 世の中は多様で、それゆえにいい加減です。そして、そのいい加減な隙間にようやっと生きられる場所を確保できる人もいます。

 

 ミスターサタンというホラ吹きの積み上げてきた嘘が、たまたまの最高のタイミングで役に立ったということが、これまでの悟空たちが積み上げてきたことでハマりこんでしまった狭窄さから開放し、もっと自由でいい加減で大らかなものをドラゴンボールの物語にもたらしたように思いました。そこがなんだかいいなと思ったわけなんです。

 

 さて、なんでミスターサタンのことを考えていたかというと、「これからの漫画家は個人としての発信力も持つべき」というようなインターネットの話を見ていて、「漫画を描く」ということを極めるのは悟空の領域で、「個人としての発信力」というのはミスターサタンの領域だなと思ったからです。

 そして、そこで、作中に登場した悟空とミスターサタンポタラで合体した姿を思いだしました。作中では想像だけで終わりましたが、あれが実際に合体していたらどうなっていたんでしょうかね?どちらの能力も中途半端になってしまうのか、もしかすると両方を兼ね備えた存在が出来上がってしまうのか。

 

 合体して上手くいってもいいですが、人間は分業ができますから、そこを上手く連携できるといいのかもしれません。

 でも例えば、この場合の発信の担い手とはどんな人でしょうか?例えば、インターネットの人気者には、嘘情報ばかり流している人もいます。嘘はよくないことですが、そのような嘘がある種の面白さを持っているがゆえに、それを熱心に読んでいる人たちがたくさんいたりします。もし、その嘘ゆえの発信力が役に立ったとしたら、それを皆さんはどのように評価するでしょうか?

 つまり、嘘情報の継続発信によってたくさんのフォロワーを集め、強力な発信力を持ったインターネットの人がいたとして、もしそれが個人としての発信力は持たないがよい漫画を描いている人にスポットライトを当てたとき、それによって、その漫画がブレイクしてしまったとき、それを正しいと言っていいのか悪いと言っていいのか…それは判断が難しい話ですね。

 ある人は、役に立ったということを根拠に、その発信者を擁護するでしょうし、ある人は、普段の言動が嘘ばかりということを根拠に役に立っていたとしても非難するでしょう。でも、それが正しいゆえに人の目に触れず、間違っていたことによって人の目に触れるようになったとき、じゃあ、正しく人の目に触れない方がよかったと言っていいのでしょうか?僕にはここの捉え方に迷いがあります。

 

 ただ、現時点の僕がどうするだろうかというと、どちらかと言えば非難する側です。実際には具体的に非難はしなくても、よくないと心の中で思っているでしょうね。でも同時に、自分にその人たちを上回る発信力を持っていないということの無力さも感じてしまいます。この面白い漫画を色んな人に教えたいと思っても、僕が考える正しいやり方で発信してもそんなにたくさんの人に届いたりはしません。

 

 なので、僕は悟空ではないけれど、ミスターサタンにもなれないなと思います。別にどちらかになる必要なんてないわけですが、どちらにもなれないよなということを思ったりしたわけです。

 よいものが放っておいても見つけられて売れるなんていうのは、たまたま見つけられて売れたよいものしか見ていない人の感覚だと思います。僕がめちゃくちゃ好きで、めちゃくちゃよいと思っていても、大して注目されずになくなってしまったもののことを思ったりするわけです。