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お話が進むと怖さが減りがちなホラーのジレンマ関連

 ホラーの難しいところなんじゃないかと思うんですけど、物語が始まってすぐのあたりが一番怖く、お話が進むにつれてそれほど怖くなくなってしまうケースがあるんじゃないかと思います。

 

 例えば「双亡亭壊すべし」は、双亡亭という不思議な建物の中で巻き起こる、恐ろしい現象から話が始まります。それはそれはとても怖い描写で盛りだくさんなのです。

 しかし、お話が進むにつれて、その現象の背後にあるものが何なのか?それの正体と弱点が徐々に明らかになっていくことでその捉え方も変わっていきます。あれらの恐ろしい現象が実は何だったのかが判明していくこと、つまり、その不可解が可解に変わる過程はとても面白く、そしてその結果、今までどう戦えばいいか分からなかった者たちとの適切な戦い方も分かるようになっていきます。お話としては依然として面白いと思うんですよ。ただ、それによって、僕が感じる恐怖という点においてはだんだんと薄れているように感じました。

 恐怖というものが、未知や理解不能と強い関わりがあるのならば、もしかすると、それが既知や理解可能となってしまうと薄れてしまうものなのかもしれません。

 

 他の例で言えば、「進撃の巨人」でも、連載初期に巨人に対して存在した恐怖感は現在ではかなり薄れていると思います。それはきっと巨人側が理解可能な領域に足を踏み入れてしまったからでしょう。巨人たちがどういう事情で何を考えて襲ってきたのかを理解してしまえば、それまでそこにあった恐怖は薄れてしまうと思います。

 初期の巨人はとにかく不可解でした。例えば巨人は人を襲って食いますが、生きるために食べるわけではなく、全て吐き戻してしまったりします。生きていくために人を食う必要がある存在ならば、それはそれで怖いですがまだ理解できます。しかし、そうでないなら意味が不明です。意味が不明なものには対処のしようがなく、それゆえに恐ろしさは倍増してしまうでしょう。

 ここにも不可解からか可解への転換があるわけです。謎が明らかになることの面白さの代償に、それまでそこにあった恐怖は薄れてしまうのではないかと思います。

 

 このように、お話が進むことで恐怖の対象との向き合い方が分かりさえすれば恐怖は減退し、その適切な対処の仕方が分かればさらに恐怖は減退し、打ち勝てる方法が分かればきっともう恐怖はなくなります。

 

 また、恐怖の根源のひとつには、「抗いようがない」ということもあるのではないでしょうか?例えば、山の上からママチャリで降りるときは、バイクで降りるときよりも強い恐怖が生じます。なぜなら、ママチャリのブレーキの性能は低いので、下りの勢いによってはすぐにコントロールできない速度になってしまう可能性があるからです。バイクの場合は、ブレーキの性能が高く、エンジンブレーキもあるので、自転車ならば恐ろしいと感じる速度であっても平然としていられます。人は自分にコントロールできないものと向き合うときに、強い恐怖を感じてしまうのではないかと思います。

 

 この意味において、ゲームの「バイオハザード」はとてもいい塩梅だったと思っていて、ゾンビに溢れた洋館から始まり、理由も分からないまま襲い来るそれらから逃げ、生き延びなければならないという恐怖がまずあります。入手できる武器も、セーブできる回数も制限があるため、目の前にいるゾンビを全て倒して進むことができません。倒し尽くすことができない未知の敵と対峙すること、その恐怖があったと思います。

 この場合も、ゲームが進むにつれて、ゾンビ化が起こった原因が明らかになり、より強い武器も入手できるようになります。それにより、相対的にゾンビへの恐怖は段々と薄れていきます。一度通った場所ではゾンビの配置もある程度分かるようになるため、想定して避けることもできるようになります(それを逆手に取られてびっくりすることもありますが)。進めるほどに恐怖が薄れてしまうのです。しかし、そのようにゾンビの恐怖が薄れ始めたときに、より強い生物兵器たちが登場することで、今度は別の種類の恐怖が生まれます。

 それは例えばハンターと呼ばれる生物兵器のような、油断すると一撃でやられてしまうような強敵です。未知に対する恐怖が薄れた段階で、敵の強さに対する恐怖にシフトしていくのが面白く、ラスボスのタイラントはこんなやつを倒せるのか??と逃げ回りながら、戦うはめになり、最終的にはあれがあれして勝てるわけですが、リメイク版ではさらにそれも逆手にとったびっくり展開があって、びっくりしました(遊んでご確認ください)。

 バイオハザードシリーズはナンバリングが進むごとに、十分な弾薬や武器が手に入り敵を倒せるゲームにシフトしていったように思います。そしてそれゆえ、最初持っていた未知への恐怖は薄れていったようにも思います。しかしながら、7では原点回帰で未知への恐怖を描くゲームになったと聞いており、そのため、怖くてまだプレイできていません(怖がりなので)。でも、完全版みたいなのがそろそろ出るらしいので、そろそろ遊ぼうと思っています。

 

 このように、ホラーにおける未知への恐怖というものは、その解明がお話の中に組み込まれている場合、それを怖いまま維持することが難しいものではないでしょうか?

 ただし、その対策は既に色々あって、例えば「後遺症ラジオ」があります。後遺症ラジオは、過去にあったある出来事がきっかけで現在にまで連なって巻き起こる恐怖を短いページで描いていく物語ですが、物語の時系列がバラバラで描かれるということで、読者の理解をあえて妨げるような語られ方がされています。

 物語を頭からバラバラに読んでいくと、あるシーンが違う時系列の別のシーンと繋がっているいうことには気づくのですが、頭の中だけでは綺麗に並べ直すことができず、分かるようで分からないという状況が継続していきます。また、ある出来事と別の出来事の間に、まだ描かれていない別の出来事もあるかもしれないので、新しい話を読むことで、また時系列を組み直して認識しなければいけないかもしれません。

 ここでは、確かに未知だったものが既知として描かれているのにも関わらず、それが上手く理解できないということが恐怖を途切れされないために作用しているのではないかと僕は感じています。

 

 また他には、小説であり映画化もされた「リング」などもあります。同じビデオを見た人たちが死ぬという現象の原因が、貞子という女性にあることが分かり、その出自について、お話が進むにつれて解明されていきます。しかし、遂に理解したと思っても、そこで惨劇が終わらないという、理解したつもりが、実は理解していなかったという恐怖があり、未知の恐怖の二段構えになっていました。

 

 多くのホラーが、ヒットして続編が作られるたびに、その恐怖の種類が、未知への恐怖から、パニックやスプラッタの方面にシフトしていきがちではないかと思います。場合によっては、それをベースにしたギャグになってしまうことすらあります。シリーズものという時点で既知のものになってしまうからです。難しい話です。ただ、このようなジレンマについては、色んな人によって色んな対策が考えられているので、そういう作品に接すると、そういう方法があるのか!と驚き、そしてビビりながら見ている感じです。

 

 さて、こんな感じに書いてきましたが、そもそもこのようなジレンマに当てはまらないホラーもあります。例えば、ホラーは別に理由が解明されずに、恐ろしいシーンが出ただけで終わっても平気です。ミステリの物語でトリックが明らかにならなければ、読者は不満を抱くでしょうが、ホラーの場合はそうでもありません。その理由が分からなくても、とにかくゾッとするような描写があればお話が成立するという独特の文法があり、そこが面白いところではないかと思っています。

 また、逆に理解を深める恐怖が増大するような物語構造もありえます。一見何の変哲もない描写がされているのに、それが実は変哲があるものであることが最後の最後で分かるとき、それは逆に理解することで最大の恐怖が訪れることになります。

 ホラーには様々な物語の在り方があるので、上記は一概に言えることではありません。

 

 そして、「双亡亭壊すべし」も「進撃の巨人」も、恐怖が薄れてきたと書きましたが、ここから再びまだまだ怖くなる可能性だっていくらでもありますからね。

 

 そういえば、僕はめちゃくちゃ怖がりなので、夜のお墓とかを歩いているとめちゃくちゃ怖くなったりします。別に幽霊が存在することは全く信じていないんですが、それでも怖いんだからしょうがないって感じです。以前、女の友達が、夜道が怖いからと電話をかけてきたのを受けて話していたとき、「そうやね、幽霊とか怖いからね…」などと言ったら、「幽霊が怖いわけないでしょ!」って馬鹿にされたんですが、「え…僕は幽霊がめっちゃ怖いが…」と思ったことがありました。

 そんな感じに怖いわけですが、怖すぎると怖すぎるせいで漫画も読めないしゲームもできないので困ります。でも、それでもなんか怖いやつが好きだったりもして、怖いのを読んだり遊んだりしたいれど、怖いからしたくないというよく分からない感情の反復横跳びをよくしている感じですが、これもまた別のジレンマですね。