漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

個人的な逃げなかった話と逃げ続けている話

 中学生の一時期いじめを受けていた。

 内容は悪口と暴力と性的な嫌がらせで、きっかけは、僕がクラスのある女の子と仲が良かったことだったそうだ。どうやら、その女の子のことを好きな別の男の子がいて、いつからか、その男の子と同じ部活の人たちからの僕に対するいじめが始まった。いじめが始まってからは、そこには関係なかった人たちからもなんとなく避けられるようになった。

 

 僕は小学校のときは上手くやっていた方だったと思う。いじめがない学校だったわけではないけれど(というか色々あったと思うけど)、僕はその対象になることはなかったので特に気にすることもなかった。僕はみんなと仲が良いつもりだったし、自分は誰とでも仲良くできる人間だと思っていた。ただ、中学生になって、事情でみんなとは違う学校に通うことになったことで、「誰とでも仲良くできる」というのは、その時その場でたまたまそうであっただけ、ということを理解する。

 新しく通うことになった中学校には、その地域の人間関係が既に存在していたので、僕はできあがった関係性の中に急に割り込む形となった。それまでのように当たり前のこととして周囲の人たちと仲良くしようとしたけれど、小学生のときのようには上手くいかなかった。当たり前のようにそうしようとしたことが一部の人たちとの間に軋轢を生んでしまい、排除しようという動きになったんじゃないかと思う。それは感情として分からない話でもないし、そうだったことを特に恨んでもいない。それは、どこにでもよくある話だから、気に留めるほどに大したことでもないと思う。

 

 いじめが始まってから僕がやったことは、単純でしょうもない話だけれど、ひたすら「良いやつ」で居続けることだった。学校生活のあらゆる側面で、他の人たちに当たり前のように親切に行動しまくった。日本は良い国だと思うので(外国がどうかはよく知らないけど)、自分に親切にしてくる人に酷いことをし続けられる人はそうはいない。いたとしても、ごく一部の変わった人だけだと思う。僕は良いやつでい続けることでどうにか学校の中に居場所を確保し、居場所が確保できればいじめもそのうちなくなった。

 

 なんだか個別具体の話を隠していい感じに終わった話として書いてしまったけど、そこに至るまで殴り合いとか、口喧嘩みたいなものも実際は色々あった。廊下でズボンとパンツを無理矢理下げられたりしたときは、別のクラスの女の子たちに見られて笑われたりして、結構ショックを受けたと思う。

 でも、僕はそれをなんでもないことのように強がって「5000円払え!払ったら許してやる!」みたいなことを言い返した。なぜ、これをよく覚えているかというと、前段のショックはもうどうでもいいけれど、その後、担任の教師に「お前がやったことは恐喝だぞ!」と僕だけ怒られたことに当時すごくムカついたからだ。これは思い出すと今でもムカついている。

 

 色々あったけれど、僕は毎日学校に通っていたし、学校に行かないという選択肢はなかったと思う。それが何故かは思い出せないけれど、ただそういうものだと思っていただけかもしれない。いじめを回避するために不登校になることを「逃げる」と表現するのだとしたら、僕は逃げなかった人だ。でも、当時「逃げるという選択肢もあるんだよ」とアドバイスされていたら、僕は逃げただろうか?

 

 人間に対する個人的な雑感だけれど、目の前に解決不可能な困難があったとして、その前で解決しろと言い続けられると壊れてしまうんじゃないかと思う。解決しないといけないのに、解決はできないからだ。矛盾を抱えたままで過ごすのはとてつもないストレスだし、そのうち解決できないようなことを解決できないという責任をとらされるような状況になってしまったりする。それはとても辛い。

 そういうとき、正面から向かってもしょうがないから、一旦後退して、何らかの違う条件のもとで解決可能な問題に作り変えたり、別の問題に向かうことで先に進んだりすると思う。これは見方によっては「逃げ」だけれど、このような解決できない問題に正面から挑むことをやめることを単純に「逃げ」と呼ぶのは違和感が拭えない。ただ、その道ではなく別の道を歩くことにするだけだ。結局はなんらかの手段で先に進んでいるのだから、逃げたのではなく、ただの方向転換だ(しかし、使い分けが面倒なので、以下は逃げると表現する)。

 

 僕が逃げずに済んだのは、僕が持っていた人間の強さなどではなく、ただ目の前の問題が、道を変えなくても解決できそうな程度の大きさだったというだけだろう。方向転換をすることの方がよほど面倒だという価値判断だったということだ。つまり運が良かった。

 人生のそこかしこで困難にはぶつかってきたけれど、だいたい方向転換をせずに、なんらかの方法で目の前にある壁を乗り越えたり、くぐったり、部分的に壊したりしながらやってこれた。それはとても幸運なことで、どこかで決して解決できないほど大きな困難にぶつかっていたら、そこで道が途切れていたかもしれない。

 

 僕は逃げなかったけれど、もしかすると逃げた方がよかったのかもしれない。逃げた方がいいのか、逃げない方がいいのか、それは時と場合による、としか僕の中に答えはない。ただ、逃げない方が色々な効率はよいと思う。踏み均された道の方が歩きやすいからだ。ただし、その踏み均された道の上で解決不可能な問題に遭遇しないで済むかどうかは運の問題だ。遭遇してしまったら、当たって砕けるか、道を変えるしかない。

 

 当時のいじめの中心人物であった男の子とは、のちのちその事実がなかったものであるかのように接するようになった。2年生の修学旅行では同じグループになったし、その頃の一時期は何故か気に入られているような雰囲気になって、晩ご飯を2人でテーブルを囲んで食べたりした。その子だって別に悪いだけの奴じゃないということが、話をしていれば分かってくる。あまり他人のプライバシーについては書かない方がいいと思うけれど、彼は父親があまり家に帰ってこない父子家庭で、妹のために晩ご飯を毎日作っているというような話を聞いた。彼には彼の良いところがあって、彼なりにしんどい状況の中で生きているんだなと思ったりした。

 いじめに加担していた別の男の子との場合は、当時「お前が学校のみんなに嫌われてるんだよ!」なんて言われたりもしていたけれど、いつからか学校から2人で帰ったりもするようになって、どういう流れだったかは忘れたけど、「将来、自分に子供ができたら、お前みたいに育ってほしい」なんてことも言われた。そのとき、僕も単純なので、彼も別に悪いやつじゃないなと思った。

 存在自体が全て悪のような人がいなくても、いじめのような悲しいことは起こるし、なんとなくの空気がそうさせるので、起こった事実の責任を誰もとらない。僕のいじめが終わったあとも別の人がいじめられているのも見たし、不登校になった子も同じ学年に2人ぐらいいたと思う。いじめの対象は生徒だけではなく、先生でもそうで、授業が崩壊していて、国語の先生が授業中に泣きだしたりしたこともあった。

 別に誰かに明確な悪気がなくてもそうなる。正しいことや楽しいことをやっているつもりでも、簡単に悲しいことは起こりうる。僕が受けたいじめも、彼らなりの正しさがあったから起こしたことだろう。それは、僕にとってはただ厄介なことでしかなかったけれど。

 

 中学生というのは、僕が初めて人間関係の困難さに接した時期で、自分なりの処世術を編み出した時期でもあると思う。自分に対してともすれば悪意を持っている人とも、なんとなく上手くやっていくような成功体験もあったし、それでも、どうしても仲良くなれない人もいた。

 ただ、この辺りから仲の良い人間関係を維持することがどんどんしんどく感じるようになっていき、ひとりで過ごす時間も増えた。もともとひとりで過ごすのは苦ではなかったけれど、より没入するようになったように思う。意識して他人と上手くやるには、その人のことを沢山考えなくてはいけない。そうしていると自分の中が色んな他人でいっぱいになってしまい、行き過ぎるとあらゆる価値判断から自分の意志が消えていってしまう。それはつまり、自分の行動を自分で決められなくなってしまうということだ。

 そんな中では僕自身がいじめの加害者にもなってしまうかもしれない。いや、明確に自覚していないだけで、きっと様々ないじめに僕自身が荷担していたこともあっただろう。それは正しかったことや、面白かったことや、他人に合わせるためにやっていたことのような形式で記憶されているけれど、視点を変えれば誰かにとってのいじめだったりするのだと思う。

 

 いや、ちょっと日和ったことを書いてしまった。自覚があるケースもある。僕は間違いなくいじめる側にも荷担していたことがあると思うし、前述の授業崩壊なんかも僕がそこに出席していた以上、関係はしている。なんで日和ったことを書いたかというと、いじめる側にいたとか書くとそこをどこかの誰かに責められるかな?とか思ったので、「自覚がなかった」とか言って自分に全く非がないように装い、適当にごまかそうとしていただけだ。よくないことだ。

 僕はいじめられたし、いじめを見過ごしたし、いじめたのだ。そこには自覚的でなければいけない。でなければ、非がないような顔をして、同じようなことに何度も荷担し続けてしまうと思う。

 

 さて、困難があっても、どうにか方向転換をせずに今までやってきたものの、僕が何かから逃げずにきたのか?と言えば、めちゃくちゃ逃げていることがある。僕はずっと密な人間関係から逃げている。

 中学生のときのいじめの経験は、自分のものごとの捉え方に少なからず影響を与えたと思っていて、僕は過剰に他人と上手くやろうと思ったりする。しかしながら、だからといって実際に上手くやれるとは限らなくて、それがどんどん自分自身を疲弊させてしまう。なので、ひとりになるとすごくホッとする。本を読んでいるときや、ゲームに没頭しているときもそうだ。自分の人生に他人が入り込む余地がないときがとても落ち着く。これをしたら目の前の他人にどう思われるだろうか?と沢山思ってしまうことがしんどいので、その状況から逃げて逃げて逃げまくっている。

 今まで生きてきた中で、この人にこう思われたらどうしようと、びくびくしないで済む人たちと出会うことには成功していて、その人たちのことを友達だと思っている。それはごく限られた人たちで、そんな僕の友達関係は数年に一人ぐらいのペースでしか広がっていない。ただ、インターネットを見ると、自分と同じような感性を持っている人が目に入ることも増えて、その人たちとも別に仲良くはできてないのだけれど、見ていると安心するような気持ちがある。

 

 人間関係においては逃げっぱなしでちっとも立ち向かっていないわけです。このまま老いていったとき、孤独な老人になるのでは?というようなアドバイスを貰うこともあり、そうなりそうな雰囲気もすごくしているけれど、じゃあだからといって、人との繋がりを求めて、どこかの輪に入っていこうとするかと言えば全然する気がないわけで、「逃げてばかりでいいんですか!?」と聞かれたら、ダメかもしれない…と思うけれど、やっぱり今のところは逃げっぱなしになっているのであった。

 逃げっぱなしの状態でいるときに考えてしまうのは、「本当に立ち向かわなくてもいいんですか?」ということで、そこでもし立ち向かって乗り越えられれば、今このように「立ち向かうべきではないのか??」というような迷いを時折考えなくても済むので、精神がすっきりする可能性がある。でも、もしかしたら正面からぶつかったことでぶっ壊れてしまうかもしれないじゃないですか。そこが曖昧なので、今のままが楽だということで、逃げたまま、楽なままで日々過ごしている。

 

 困難に遭遇したときに「逃げるべき」とか「立ち向かうべき」とかは一律には決まらないと思う。時と場合によるし、どうも逃げっぱなしでいると悪いことになりそうだと思っても、なかなか動けないものじゃないですか。一方、立ち向かってみても、場合によってはただただダメージだけを受けてぶっ倒れてしまったりもしますよ。そういうことをぐだぐだ言い訳つけながら、日々生きています。

 なんにせよ大切なのは、自分がどのような状態でいられれば調子よいかということだと思う。僕はこの先、寿命まで調子よく生きていきたいと思うので、そのために時と場合によって逃げたり立ち向かったりを使い分けていくつもりです。

 そんな感じで生きていきましょう、と思っています。