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「HOTEL R.I.P.」と幸福の条件

 「HOTEL R.I.P.」はエレガンスイブで連載され、現在はチャンピオンタップで連載されている漫画で、この前第1巻が出ました。

 この物語は、生前に何らかの思いを残して理不尽に死んでしまった人たちが、この世とあの世の狭間に存在するホテル、レストインピースで成仏するまでの時間を過ごす物語です。このホテルに滞在している間に、自分自身で気持ちを解消できる人たちもいますが、どうしてもそれができずに長期滞在を続けてしまうような人たちもいます。

 ホテルとしては長期滞在者の増加は困ってしまいます。その中から現世の心残りに囚われたまま地縛霊になってしまう人たちが出るかもしれないからです。そこで、ホテルの支配人は、ある戦略をとることにしました。それが相部屋です。生前には面識のない2人の死者を同じ部屋に滞在させ、そのコミュニケーションの中での現世で抱えていた気持ちを解消させようとするのです。

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 これまで何回か書いたと思いますが、僕は「人間は別の人間に相対するときに、そのための新しい自分を作りだすものだ」という考えを持っているんですけど、そういう意味で言えば、この漫画はその考えと通じるところあるように思えて腑に落ちる感じがしました。1人でいては到達できなかったであろう、2人だからこそ到達できる場所への道筋を描いていると思うのです。

 独りで閉じこもっている状態は、自分と自分の付き合いしかありません。となれば、自分を相手に似たような自分を再生産するだけになってしまいがちです。そのような自分と自分だけの付き合いには、良さも悪さもあると思っています。それらは表裏一体でどちらかだけを選ぶことができません。

 どういうことかというと、独りでいると良くも悪くもその人の個性が強調されてしまうように思うのです。喩えるなら、同じ顔写真に目が大きくなるフィルタをかけ続けているようなものです。1回なら可愛くなり、2回でもまだ大丈夫かもしれません。でも5回も10回もかけてしまうと、きっと化け物のような顔になってしまうでしょう。それが自分だけと付き合うことだと思っていて、そこには極端な個性が生まれる可能性はありますが、その代わりにどうしても他の人との間の適切なバランスが崩れてしまいます。

 バランスが崩れてしまえば、社会の中で暮らすには軋轢を生むでしょう。それゆえに孤立してしまったり、同じ考えから抜け出せず、停滞してしまったりします。とはいえ、逆にあらゆる人に影響を受け過ぎ、上手くやるための無数の自分を作りだしてしまっても、ただあらゆる方向に平均的な、無個性な人間になってしまうだけかもしれません。そして、そうあり続けることは大変な努力がいることで、疲弊してしまうかもしれません。

 幸か不幸か、人の寿命は世の中のあらゆる人間との密な付き合いができるほどまでには長くないので、誰と付き合って人生を歩むかという選択肢があります。そして、それが実際に誰であるかによってその様相は多様に変化するのではないでしょうか?

 

 この物語に登場する人たちは、ある種の孤独を抱えていることが多いと思います。自分の中だけにある材料で物事に対応しようとしていたことで閉塞感のある状態に陥ってしまい、それゆえに、死してなお、その袋小路からなかなか出ることができません。彼ら彼女らに必要であったことは、他者とのつながりと、それによって新たに生まれる可能性なのだと思います。そしてそこには、自分の新しい側面が生まれるというある種の苦しみも伴います。場合によってはそれがむしろ悪い結果に繋がることだってあるかもしれません。

 ただ、それを乗り越え、その先に新たな自分を獲得できれば、今まで抜け出せなかった場所から抜け出す力を得ることだってできるでしょう。

 

 本作では、立場の違う様々な人々の交流を通じて、今までその人たちが個々に感じていた悩みや苦しみやわだかまりが解消されていく過程を追うことができます。そして、もしかしたら、それを読む読者とこの漫画自体もまたホテルの同じ一室にいるということかもしれません。本を読むことだって他者との交流です。それは本から自分への一方通行かもしれませんが、それによって人は変わったりするでしょう。

 実際のところ僕はこれまで色んな漫画を通して(漫画だけではないですけど)、自分の感覚や考えが変わることを体験しています。あるいは、自分が感じていることと同じ感覚を漫画の中に発見して涙が出るほど救われた気持ちになったりすることもあります。それらは全て他者との出会いによって生まれた新しい自分ではないかと思うのです。

 

 この漫画は、死者の物語で、その死自体は覆ることがありません。抗うことができない死が人に訪れ、そこに悠然とそびえ立ち続けるにもかかわらず、これは希望の物語だと感じます。

 

 「からくりサーカス」に登場する機械仕掛けの自動人形アルレッキーノは、人は死ぬからこそ美しいと評します。なぜなら、終わりがあるからこそ、世代を越えて連綿と伝えられるものが生まれ、遂には個人では到達できなかったであろう高みに到達するからです。しかし、その言葉に、人間である加藤鳴海こう答えます。

「死ぬから人間はきれいなんじゃねえ!死ぬほどの目にあっても…まだ自分が生きてるってコトを思い出して…にっこり笑えるから、人間はきれいなのさ」

 どんな不幸な状況にあったとしても、その先に自分の死を知っていたとしても、自分のその生を肯定できるからこそ、そこに人間の素晴らしさがあると鳴海は言います。

 幸福感とは、自分が今そうあるということをどこまで肯定的に捉えられるかということではないでしょうか?金さえあれば、家庭さえいれば、世間から認められさえすれば、そのように今の自分に足りないものばかりに目を向けてしまう状況があるとしたら、それはきっとそれ自体が不幸なんだと思うんですよ。しかしながら、人は、そこを抜け出し、勝ち取るために、他者と交わりながら新しい自分を獲得して生きるのかもしれません。

 仮にそれらの「幸福になるために満たされると良さそうな条件」がまるで達成されなかったとしても、過程のどこかで肯定できる自分になることができさえすれば、そこがきっと幸福な場所です。たとえ、そのとき肉体が死んでいたとしてもきっとそうでしょう?

 

 現世に思い残しがある死者はたぶん不幸です。しかし、不幸であった彼ら彼女らが不幸ではなくなる物語であるならば、そこが幸福な結末なのではないでしょうか?そこでは、肉体が生きているか死んでいるかはきっと些末な問題でしかないのだと思います。

 だからこれはきっと幸福な物語なのです。

 

 さて、まだまだ連載中でネットで読めるので、リンクを貼りますね。

tap.akitashoten.co.jp