漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

○○が好きな自分が好き関連

 インターネットをぼんやり見ていると、「あなたは○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけでしょう?」みたいな言葉が、誰かを批判するために用いられているのを目にすることがあります。

 しかしながら、僕はこの言い回しにひっかかるところがあります。「何かを好きな自分が好きであることがよくない」ということにいまひとつ得心がいかないのです。なぜなら、僕は漫画が好きで、なおかつ、漫画が好きな自分もすごく好きだと思う側の人間だからです。これは本当に悪いことなのでしょうか?

 

 おそらく上記の批判は、「○○が好きなのではなく」という前置きが重要で、自己愛でしかないものを、ジャンル愛であるかのように見せかける行為が不誠実であるという主旨なのでしょう。ただし、実際には自己愛とジャンル愛は排他な概念ではないので、映画も好きだし、○○を好きな自分も好きというのはあると思うのです。

 この言い回しは、「○○が好きな自分が好き」ということ自体が、あたかも「本当は○○なんて好きでもないくせに」という考えと相補な感じの意味合いを匂わせているので、どうもよくないように感じてしまいます。

 

 ここからは、「○○が好きな自分が好き」ということについて、僕がどのように捉えているかという散漫な話をします。

 僕の考えでは、人間という概念は基本的にその人ひとりだけで成立するものではなく、その人がどこで何に接しているかによって違った様相を呈するものです。つまり人間とはある種の現象であり、それはある人間とその外部との相互作用の中で生まれる多義性をもったものではないでしょうか?

 僕自身の体感で言えば、今そのとき誰と話しているかによって自分の性格が変わることを感じます。それは微妙な変化からあからさまな変化までありますが、誰かに接しているときには、その人に応対するときだけの専用人格があると捉えているのです。

 例えば、他人を付き従えようとする暴力的な人の前では、従順に振る舞ったりします。場合によっては、逆に強い反発心を示したりするかもしれません。また、好きな人相手には優しくなるかもしれませんし、嫌いな相手にはそっけなくなるかもしれません。

 ひとりで電車に乗っているときには無表情でスマホなんかをいじっていたりしますが、それは果たして自分の本性でしょうか?例えば、友達が先に電車を降りたあとですぐに表情が消えたところで、その無表情こそが本来の人格なのに、他人の目の前では表情豊かに接していて嘘つきだ、とはならないわけじゃないですか。

 感情を表に出すのは、そうする必要があるとか、そうしたいとか、あるいは自然にそうなってしまうとか、何らかの理由で状況に応じた現象として人格や態度が生まれるものだと思っていて、どれが本当の自分かというと、きっと全部が本当でしょう。

 接するものの数だけ自分があり、その総体こそが自分なのだと思います。

 

 つまり、漫画を読んでいるときには、漫画を読んでいるときの自分になるわけです。ゲームを遊んでいるときは、ゲームを遊んでいるときの自分になるわけです。僕は漫画を読んでいるときの自分や、ゲームを遊んでいるときの自分が好きなので、時間があれば漫画を読んだり、ゲームを遊んだりしようとします。

 自分の存在が、自分の外にある何かにもよって規定されるのであれば、どのような状況に足場を置き、何と接するかを決断することによって、自分自身の在り方に干渉することが可能です。

 僕は漫画を読んでいるときの自分の在り方がとても好きなので、できるだけそうありたいと思います。漫画が好きだし、漫画が好きな自分が好きなのです。

 

 そもそも、好きとか嫌いとかいう気持ちは自分の意志で任意に制御するのが難しい領域じゃないですか。例えばピーマンが嫌いだったとして、好きになるぞ!と強く思ったとしても、実際に好きになれるものでもないじゃないですか。逆に嫌いになろうと思っても容易には嫌いになれないこともあって、その辺は自分の意志ではあまりどうにもならないことが多いと感じています。

 何かが好きとか嫌いとかは、変えることが難しい自分の特性であることが多く、それを無視してあるべき姿を考えてもしんどくなることが多いと感じているのです。

 嫌いな食べ物を、何らかの理由で好き好きと言わざるを得ないことで、結果的に嫌いな食べ物を食べさせられ続けるのは嫌でしょう?そこは無視しないほうがよいと思うわけです。そして、そんなどうしようもない自分の好き嫌いと付き合っていくしかないと思っているんですよ。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いです。

 

 余談ですが、人間の好き嫌いと人間関係は、完全に一致しないものだと僕は感じていて、僕の個人的な感覚だと「その人は好きだけれど、その人と一緒にいるときの自分の状態が好きじゃない」ということがあります。

 劣等感や嫉妬心なんかが想像しやすいかもしれません。その人は一切悪くないのに、その人と自分を比べて辛くなってしまったりします。あるいは尽くしてしまうというようなものもあるかもしれません。その人のために何かをしてあげたいと思うあまりに、客観的に見れば損ばかりしてしまうことがあります。でもその場にいるとそうしたいんですよ。

 会えば金を貸してくれというろくでもない友人がいたとして、でもその人が好きで貸してあげたくなっちゃうと貸してしまいます。ただ、それを繰り返したせいで自分の貯金がどんどん減っていったとしたら辛くなるでしょう。そういうとき、その人は好きだけれど、自分はその人と一緒にいるべきではないなと思ったりもします。

 人間関係にも色々あるわけです。毎日会えば喧嘩をしそうだけれど、年間2回会うぐらいなら仲良くできる人もいます。逆に毎日会う状況でなければ、継続できない仲の良さというものもあると思います。人間関係には、人自体の好き嫌いだけではなく、そのときの自分の状態や、許容できる会う頻度、関係を維持するために必要な会う頻度など、色んな要素が関わってくるように感じています。

 僕は人を嫌いになることはあまりないですが(そもそも嫌いになるほど他人に深入りしないので)、このような意味で他人と接しているときの自分が好きではないことが多いので、ひとりで行動する頻度が高いです。

 

 さて、「○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけでしょう?」という言い回しに立ち戻りますが、僕は個人的にこの言い回しがしっくりこないだけで、そもそも言わんとしていることは分かるような気がします。つまりそれは、○○自体の話をしているように見えてそうではなく、実際は○○に関連するコミュニティの話をしているので気に食わない、ということではないでしょうか?

 具体的に言えば、「自分は○○が好きだ」と主張することの言外に、「自分はあいつらよりも○○が好きだ」などのような別の意味が読み取れるということです。それはつまり個人が○○に対して単純に感じている話をしているわけではないということなんですよ。その人がそういうことを言う目的は、その人が意識している○○に関するコミュニティの中で、自分こそが優越であるぞという主張したいのではないか?と読み取れるということです。

 そのように「○○が好き」と主張することで言いたいのが、「俺はお前らよりスゴイぞ」という話であったり、「優れた俺には価値があるだろう?」という話であったりするならば、ダシにされた○○は実は本質的にあまり関係ない話ですよね?ということを指摘したなるのは分かります。そして、そのために「○○が好きな自分が好きなだけでしょ?」という言葉が選択されているのではないでしょうか?

 

 こういうことは実際よくあり、自分が嫌いな人が褒めている作品を貶してやろうと思ったり、逆に自分が嫌いな人たちが貶している作品をむしろ褒めてやろうとしたりする事象が観測される場合があります。どちらも、作品そのものの話ではなくなっていて、実際は話者が意識しているコミュニティの中の立場や力関係を有利にするための話だと思います。古参ファンvs新参ファンの諍いみたいなのも、同じ部類かもしれません。

 それはそのコミュニティに属している人でなければ、どうでもいい話です。「地球の裏側のなんとかという村で、一番偉いのは俺だ!」という話を聞いても、特に興味ひかれることはなく、知らんがなと思うでしょう?それが地球の裏側のなんとかという村ではなく、なにかの作品のファンコミュニティなんかに置きかえられるだけです。その中にいる人にとっては重要な話題でしょうが、そうでない人にとってみればどうでもいい話です。

 

 作品の感想などにそのような人間関係的なアピール要素が盛り込まれてしまうことはよくあると思っていて、そういうものをうっかり読んでしまったとき、やられたーと思ってしまいます。だって、それは作品の感想などに見せかけて、文意は作品の感想ではないのですから。

 もう少し具体的に言えば、その人がある漫画を読んで何を感じたかという話ではなく、その漫画のファンコミュニティの中で、自分はこういう立ち位置であり、お前らよりもすごいぞ!と説明をしている文章であるということです。

 そして、僕はそういうコミュニティに属していないので、そういう文章をうっかり読んでしまったあと、自分には関係ない話を読んでしまったなあと感じてしまいます。

 

 インターネットの普及にともなって、何かを好きであったり嫌いであったりする人同士がお互いを観測しやすくなり、すぐにコミュニティが形成されたりします(ここでいうコミュニティとは、必ずしもお仲間で同好の士という意味ではなく、互いを観測し、その優劣の立ち位置が気になるぐらいの間柄という意味です)。そのため、作品の話をしているように見せて、実際はそのコミュニティ内の話が紛れ込んでいることも多くはないでしょうか?

 だからこそ、自分だけが好きなものの話よりも、みんなが注目しているものが話題に選ばれがちです。興味がなくてもいっちょかみしたいみたいな文章はだいたいそれのように思います。

 

 このように、「○○が好きなのではなく、○○が好きな自分が好きなだけでしょう?」とは、たぶん相手の言葉から、そういったコミュニティ内の人間関係に関する主張を読み取ったことに対する、拒否感的な反応なんじゃないでしょうか?(その読み取りが正しいかどうかは別として)つまり、「あなたがしている話は作品自体の話ではなく、あなたが意識しているコミュニティの中の力関係の話なので、作品の話がしたい私たちには関係ないですよね?」という確認です。

 そういう意味であるならば、僕も分かる気がします(本当にそういう意味かどうかはわからない)。

 

 そんでもって、漫画やゲームや映画を語ることに何らか別の意味を見出すようなコミュニティに僕は属してないので(ネットに一方的に書くか、ごく少数の友達と話すだけなので)、個人的にはやっぱりそれらは、地球の裏側の村で起こっているような話で、僕にはあまり関係のない話だなと思ったりするのでした。